教皇フランシスコ、高齢者と若者の集いで 2024年4月27日 バチカン・パウロ6世ホール (Vatican Media)
(2027.7.28 バチカン放送)
カトリック教会の「第4回祖父母と高齢者のための世界祈願日」が28日、世界中で記念された(日本の教会は9月15日)。教皇フランシスコは同日の正午の祈りで、今年の祈願日のテーマ「老いの日にも、見放さないでください」(詩編71章9節参照)を紹介され、「『高齢者を見放す』という、悲しむべき現実を、決して当たり前のことにしてはなりません」と強調された。
教皇は、特にこの夏の日々は「多くのお年寄りたちにとって、孤独は耐えがたい重荷になりがちです」と指摘。
この日記念された「祖父母と高齢者のための世界祈願日」は、「『私を見放さないでください』というお年寄りたちの声に耳を傾け、その声に対して『私はあなたを見放すことはありません』と答えるように、私たちに求めています」と語られた。
そして、「孫と祖父母、若者とお年寄りとの絆を強めるように」と信者たちに勧められた教皇は、「『高齢者たちの孤独』に『ノー』と言いましょう!」とアピール。「私たちの未来は、祖父母と孫たちが共に生きることをいかに学ぶかにかかっています… お年寄りたちを忘れてはなりません」と強調された。
(編集「カトリック・あい」)
(2024.7.28 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは28日の年間第17主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれた「パンと魚の奇跡」を語る福音を振り返られ、主が日々、私たちに与えてくださる恵みの奇跡を味わい、感謝するよう、全ての信者に呼びかけられた。
説教で教皇は、この「パンと魚の奇跡」の場面で、イエスが最後の晩餐でなさった3つの行為、すなわち「捧げる」「感謝する」「分かち合う」がされていることを指摘され、「これらがすべて聖体の儀式で行われる行為であること」を思い起こされた。
まず「捧げ物」について、教皇は、「このポイントは、私たちが自分の持っている何か良いものを差し出すよう求められていることを認識し、それが、必要とされているものよりも少なすぎるとしても、『はい』と答えることです」と指摘。「ミサで司祭が祭壇でパンとワインを捧げ、それぞれが自分自身、自分の命を捧げるときに、このことが強調されるのです」と語られた。
そして、「何千人もの群衆の前で5つのパンと2匹の魚を捧げるのと同じように、人類が必要としていることの膨大さを考えると、私たちのできることは小さな行為に思えるかもしれません。しかし、神はそれを大きな奇跡の材料になさる。つまり、主が世界を救うために私たちの間に、自らを現される、ということです」と説かれた。
次に「感謝」について、教皇は、「神が私たちを祝福してくださったことを喜ばなければなりませ」とされ、「私たちは謙虚に、そして喜びをもって、主に言うべきです―『私が持っているのは、あなたの賜物だけです。あなたに感謝するために、あなたがくださったものに、あなたの息子イエスと共に、私ができる限りのものを付け加えながら、あなたにお返しすることしかできません。それが、私のかすかな愛です』と」と語られた。
さらに、これが「祝福」の瞬間であり、私たちが神の素晴らしさを讃える瞬間であると認識し、「神が私たちの脆弱な努力の『2枚の銅貨』を聖別し、倍増させてくださるのです」と述べられた。
最後に、「分かち合う」ことについて、教皇は、ミサで私たちが共に祭壇に近づき、キリストの体と血をいただくとき、「賜物の果実が、主によって、すべての人の食物に変えられる」ことを思い起こされ、これは「素晴らしい瞬間」であり、「愛のあらゆる行為を恵みの賜物として生きること、与える者にとっても受け取る者にとっても、兄弟姉妹として共に成長し、慈愛においてさらに結ばれる機会として生きること」を私たちに教えてくれる、と語られた。
教皇は、以上のことを念頭に置かれながら、信者たちに、いくつかの質問を自分に投げかけるように求められた。
「自分は神の恵みによって、兄弟姉妹に与える特別な何かを持っている、と本当に信じているだろうか?それとも、自分は匿名の、『大勢の中の一人』だと感じているだろうか?」「神が絶えず愛を現す賜物に対して、自分は神に感謝しているだろうか?」。そして、「自分は、他者と分かち合うことを、出会いと相互の豊かさの瞬間として生きているだろうか?」と。
教皇は最後に、聖母マリアに対して、私たちが信仰をもっていつも聖体祭儀に参加し、神の恵みの「奇跡」を認識し、日々、「味わう」ことができるように、助けを願われて、説教を締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
教皇フランシスコ 2024年7月21日のお告げの祈り (ANSA)
(2024.7.21 バチカン放送)
教皇フランシスコは21日、年間第16主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日の福音朗読、マルコ福音書の、イエスが、宣教から戻った弟子たちに、人里離れた所へ行ってしばらく休むようにと命ずる一方で、ご自分のもとにやって来る群衆の、飼い主のいない羊のようなその有様を深く憐れむ場面(6章30-34節)を取り上げられた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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今日の典礼の福音は、宣教から戻った使徒たちがイエスのもとに集い、自分たちが行ったことを報告する様子を語っています。
そこでは、報告を聴かれたイエスが彼らに「あなたがただけで、寂しい所へ行き、しばらく休むがよい」と言われましたが、人々は彼らの動きに気づいてしまった。彼らが舟から上がった時、イエスは大勢の群衆を目にし、飼い主のいない羊のようなその有様を深く憐れみ、彼らに教え始め(34節参照)られます。
ここには、イエスの弟子たちに「休息」を取るように、との招きの一方で、イエスの群衆に対する「憐れみ」があります。休息と憐れみ、これらは二つの相入れない事柄のように見えますが、実は互いに関係しています。これについて考えてみましょう。
イエスは弟子たちの疲れを心配されました。おそらく私たちの生活や使徒職にありがちな危険を感じておられるのかもしれません。
たとえば、宣教や仕事を進める上での熱心、託された役割や課題が、私たちを”活動主義”の犠牲者にしてしまうことがあります。やるべきことや、その結果で、頭をいっぱいにしてしまいます。すると、心が乱れ、本質を見失い、エネルギーを消耗し、心身の疲労に陥ることになるます。これは忙しさに囚われがちな私たちの生活や社会、また教会や司牧奉仕に対する、警告です。私たちは”すべきことの独裁”に注意せねばなりません。
同時に、イエスが勧める「休息」は、「この世からの逃避」や、「心地よい世界に引きこもること」ではありません。イエスは「休息」を弟子たちに勧めながら、迷える群衆を前にして「憐れみ」を覚えられるのです。こうして、私たちは福音から、「休息」と「憐れみ」という二つの現実が結びついていることを知ります。「休息」することを学ぶなら、「憐れみ」を持つことができるのです。
私たちの心が、「何かをしなければならない」という不安で憔悴しないなら、立ち止まって沈黙の祈りのうちに神の恵みを受け取ることができるなら、私たちは、他の人々に憐れみ深い眼差しを持ち、彼らが必要としていることを認識することができるのです。
自分に問いかけましょう。「私は一日の中で、立ち止まることができているだろうか?」「また主と共にいる時間を持つことができているだろうか?」「いつも何かすべきことに追われているだろうか?」「毎日の騒がしさや活動の中で、内的な『砂漠』をわずかでも見つけることができているだろうか?」
聖なるおとめマリアよ、私たちが日常的なあらゆる活動の中にあっても「聖霊のうちに休む」ことを知り、他者に対して快く応じ、憐れみを持つことができるように、お助けください。
(編集「カトリック・あい」)
(2024.7.14 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは14日、年間第15主日の正午の祈りに先立つ説教で、「必要な物だけを持ってキリストに近づくように」と信者たちに呼びかけられ、「神の喜びと愛を十分に体験するには、私たち荷を重くし旅の邪魔になるだけの物を手放す必要があります」と説かれた。
説教で教皇はこの日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所(6章7~13節「12人の弟子の派遣」)を取り上げられた。ここで、イエスは、弟子たちを福音宣教に派遣するにあたって、杖一本のほかは何も持たず、履物ははき、下着は一枚だけにするよう告げておられる。
教皇の説教の要旨は次のとおり(バチカン放送)
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今日の福音は、イエスがご自分の弟子たちを宣教に遣わされた時のことを語っています。イエスは弟子たちを二人ずつ組にして遣わされ、そして、必要な物以外は持っていかないように命じられました。
一緒に派遣され、必要な物だけを身に付けた、この弟子たちの姿を考えてみましょう。
福音は一人では告げるものではなく、共同体として共に告げるものです。そうするためには、節制が大切です。それは、物の使用における簡素さ、財・能力・才能の分かち合い、贅沢を慎むことなどであす。なぜそうすべきなのでしょう。それは自由であるため、皆が尊厳ある生活をし、活発に宣教に貢献できるように、必要なものを持てるようにするためです。
さらに、先入観や頑なさを捨て、考えや感情において節度を保つことが必要です。これらは無用に重い鞄のように、歩みを困難にし、妨げます。これに対し、検討や傾聴は、証しをより効果的なものもします。
家族や共同体の中で、たとえそれがわずかでも、神の助けによって、私たちが必要において満たされ、前に進み、皆が調和し、あるものを分かち合い、各自が何かを断念し、互いに支え合うなら、そこで何が起きるかを考えてみましょう( 使徒言行録4章32-35節)。言葉で表す以前に、すでに一つの福音宣教となります。なぜなら、それは日常の生活を通して、イエスのメッセージの素晴らしさを具現化しているからです。
そのように暮らす家族や共同体は、実際、自分たちの周りに愛にあふれた環境を生み出します。そこでは、信仰と福音に心を開くことが容易になります。そして、そこからは、よりよい形で、またより安心して再出発することができるのです。
これに対し、それぞれが自分勝手に振る舞い、物質的なことだけにこだわり、相手の話に耳を傾けず、自己中心主義と妬みが勝るなら、雰囲気は重苦しく、生活は難しくなり、出会いは喜びではなく、不安と悲しみと失望の機会に変わってしまうでしょう。
キリスト教的生活にとって、交わりと節度は重要な価値があります。あらゆるレベルで宣教的な教会のために不可欠な価値です。
では、ここで自分に問いかけてみましょう。「私は、福音を伝え、主との出会いから来る喜びと光を生活の場にもたらす味わいを感じているだろうか」「そうするために、開いた精神と寛大な心をもって、他の人々と考えや能力を分かち合いながら、彼らと共に歩む努力をしているだろうか」「節度ある生活スタイルを育み、兄弟たちの必要に配慮しているだろうか」。
使徒の女王、マリアよ、私たちが交わりと節度ある生活を通して、真のイエスの弟子、宣教者となれるようお助けください。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
人工知能利用の倫理問題をめぐる宗教指導者らの会合の参加者たち 2024年7月10日 広島
(2024.7.10 バチカン放送)
人工知能(AI)利用の倫理問題に関する世界の宗教指導者たちの会合が9,10の両日、広島で開かれ、教皇フランシスコがメッセージをおくられた。
「平和のための AI 倫理:ローマからの呼びかけにコミットする世界の宗教」 (AI Ethics for Peace: World Religions commit to the Rome Call)と題されたこの会合は、教皇庁立生命アカデミー、世界宗教者平和会議・日本委員会、アブダビ平和フォーラム、イスラエル諸宗教関係首席ラビ委員会が共催し、13 カ国から 150人以上の参加者を得て開かれた。
教皇は、メッセージで、「人工知能」と「平和」を、「絶対的な重要性を持つ2つのテーマ」として結びつけられた。
そして、先月イタリア南部プーリアで開かれた主要7カ国首脳会議(G7)で「人工知能」をテーマになさった演説を引用しつつ、「機械は、新しい方法によって、アルゴリズム的な選択を生み出せるのだということを、常に頭に入れておくことが必要です」と改めて強調。
「機械がよく定義された基準、あるいは統計的な推論に基づき、いくつかの可能性の中から技術的な選択をするのに対し、人間は、選ぶだけでなく、心を通して決断する力を持っています」と指摘され、「自立した選択ができるかのように見える機械の驚くべき力を前に、決定は常に人間の側に残るべきことを明確にしなくてはなりません」と訴えられた。
さらに、「仮に、人々から自分と自身の人生についての決定力を取り上げ、機械による選択に頼るなら、人類の未来に希望はありません」と警告され、「AIのプログラムの選択プロセス上に、人間による重要なコントロールの余地を保証し、それを保護する必要があります」と言明。この催しを称賛する中で、「機械使用のこの新たな時代に、人間の尊厳を守るため、私たちが一致して積極的な取り組みを求めていることを、世界に示して欲しい」と願われた。
また、教皇は、世界を揺るがす紛争が相次いでいる中で、「戦争への憎しみに加えて、このテクノロジーについて耳にすることが多くなっていることからも、参加者らが人工知能と平和について話し合うために広島に集っているという事実」に象徴的な意味を見出され、「武力紛争の悲劇が繰り返される中で、いわゆる『自律型致死兵器』の開発と使用の再考が急務であり、使用禁止するためには、より幅広く、効果のある人的な制御を取り入れる必要があること、そして、いかなる機械も人間の命を奪う選択は決してできないことを、皆が兄弟として一致して、世界に思い出させることが重要です」と念を押された。
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「ローマからの呼びかけ」とは、教皇庁のイニシチアブにより、2020年2月28日、ローマにおいて開かれた会議「RenAIssance 人間中心の人工知能のために」の成果として、人間を尊重する人工知能の推進のための基本原則をまとめた文書「AI倫理のためのローマからの呼びかけ(Rome Call for AI Ethics)」を指す。この文書には、最初に、教皇庁立生命アカデミー、マイクロソフト、IBM、国連食糧農業機関、イタリア政府・技術革新・デジタル化省の代表が署名を行った。
今回の会合では、2日目の10日、日本やアジアの諸宗教の指導者らが新たに「AI 倫理のためのローマからの呼びかけ」に署名を加えた。
(編集「カトリック・あい」)
(2024.7.7 Vatican News Devin Watkins)
教皇フランシスコは7日、イタリアのトリエステで開かれたカトリック教会の第50回社会週間の最終日の行事に参加され、講話の中で、全国から集まった約1000人の聖職者や信徒たちに対して、参加と政治的な慈善活動を通じて民主主義の危機を正すように呼びかけられた。
講話で教皇はまず、イタリアでのカトリック教会の社会週間が、第二次世界大戦後のイタリアの政治、社会の民主的プロセスを活性化させたことを振り返られ、この行事が、カトリック教会の社会教説に基づいており、社会現象に対する福音的なビジョンを提示することを目指している、と指摘。「現在、民主主義の危機がさまざまな現実や国家に広がっている中で、社会変革に対する責任ある姿勢を示すことが、世界中のあらゆる場所で活動しているキリスト教徒に求められているのです」と強調された。
教皇は、現在、世界中を襲っている民主主義の危機を「傷ついた心」に例えられ、「腐敗と社会的排除の動きが蔓延し、権力が自己中心的になり、構成員に奉仕できなくなる状態」が起きつつある、と警告。「『民主主義』という言葉が、単に国民の投票と一致するのではなく、すべての人が意見を表明し、参加できる条件を作り出さねばなりません」と語られ、さらに、民主的な(政治、社会活動への)参加は、「イデオロギー的、ポピュリスト的な誘惑に対して、市民が批判的な感覚を抱くように、若いうちから教え込む必要があります」と付け加えられた。
また、すべてのキリスト教徒に対し、「個人の尊厳を守りつつ、宗教と社会の実りある対話を促進する」よう呼びかけられ、「連帯と補完性の原則は、参加を促し、無関心を克服するため、民主主義の絆を築くのに役立ちます。無関心は民主主義の”癌”です」と指摘された。
さらに、「周囲を見渡せば、家族やコミュニティでの生活に、そして、経済、技術、政治、社会の分野にさえも、聖霊の働きの多くの兆候が見られます」とされ、「友愛は、社会の関係を繁栄させ、集団に願望の精神を生み出します… ”癒された心”を持つ民主主義は、未来への夢を育み、個人やコミュニティの働きに関与し、呼びかけ続けるのです」と語られた。
そして、「カトリック教徒は、民主主義の弊害に対する即効薬以上のものを目指さねばならず、決して、”限界的な、あるいは私的な信仰”に後退してはなりません… 耳を傾けてもらうことを要求するのではなく、何よりも、公の議論の中で、正義と平和のための提案をする勇気を持つことが必要」とされ、「キリスト教徒の政治への関与は、『政治的な愛』、あるいは『政治的な慈善』の側面を持つ必要があり、それによって政治は責任を果たし、二極化を乗り越えることができるのです」と強調。
最後に教皇は、「市民の情熱が欠けている世界に、このような愛を広めるための訓練をしましょう… 神の民として、より良く共に歩むことを学び、私たちが属する社会で、参加の”パン種”になりましょう」と呼びかけられた。
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今年で創設50周年を迎えるイタリアの「カトリック社会週間」は、教会の社会教説の考察と再評価を促進するために、2年ごとに開催都市を変えて行われている。2024年度のテーマは、「民主主義の中心へ。歴史と未来の間に参与する」。50回目となる今回の社会週間の開会式には、セルジョ・マッタレッラ伊大統領が訪れた。教皇はこの講話の後、キリスト教諸教会の代表、アカデミック界関係者、移民、および障害者のグループとの出会いをもち、トリエステ訪問を締めくくる行事として「イタリア統一広場」でミサを捧げ、正午の祈りをされた後、ローマに戻られる。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Women mourn the loss of their family members after Israeli bombardment in al-Maghazi, Gaza (AFP or licensors)
(2024.6.30 Vatican News Francesca Merlo)
教皇フランシスコは30日の正午の祈りで、ウクライナ、パレスチナ、イスラエル、ミャンマー、そして「戦争のために多くの苦しみがある他の多くの場所」の平和を祈り続けることの重要性を強調された。
聖ペトロ広場に集まった信者たち全員に、「イエスの聖心が、戦争を望む人々の心に触れ、対話と平和への取り組みへ回心させてくださるように願うこと」を求められた。
正午の祈りの後、信者たちに挨拶された教皇は、聖ペトロと聖パウロの祝日の29日にローマ教会の最初の殉教者とも呼ばれるこの二人をミサ典礼で記念したことを思い起こされ、 「私たちも、初期の数世紀よりも一層、厳しい殉教の時代に生きているのです」とされた。
そして、世界のさまざまな場所で「私たちの兄弟姉妹の多くが、その信仰ゆえに差別や迫害を受け、それによって教会が育まれているのです」とされ、さらに、「他の人々は”white-glove”殉教に直面しています」として、「キリストへの愛の証言に励まされ、こうした人々を支えましょう」と呼びかけられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Pope Francis during his Sunday Angelus (Vatican Media)
(2024.6.30 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコは30日、年間第13日の正午の祈りに先立つ説教で、この日読まれた福音の「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」(マルコ5章21~43節)を取り上げ、「神は誰も差別しません。なぜなら、神はすべての人を愛しているからです」と語られた。
教皇は、この福音の2つの「絡み合った」奇跡、つまり12年間も出血の止まらなかった女性がイエスの衣に触れて治癒したこと、そしてイエスがヤイロの娘の手を取って、「タリタ、クム(少女よ、さあ、起きなさい)」と言われて、死から蘇らせたことに基づいて考察された。
まず、当時のユダヤで不浄とみなされた人々が関係する2つの物語における「身体的な接触」の重要性を指摘され、「身体的な治癒以前から、イエスは、神が『一方に清浄なもの、他方に不浄なもの』を分ける、という宗教的誤解に挑戦しているのです」と強調された。
そして信者たちに、このイメージを心に刻むよう呼びかけ、「神はあなたの手を取って持ち上げ、あなたの痛みに触れ、あなたを癒し、再び命を与えるためにあなたに触れる方です」と語られた。さらに「人生のあらゆる苦しみにもかかわらず、私たちが罪に直面しても、神は、私たちを遠ざけることはありません… むしろ、神は私たちに触れられるように、そして私たちに触れるために近づいてくださり、私たちを死から蘇らせてくださるのです」と説かれた。
説教の最後に教皇は、信者たちに「神の心に目を向ける」よう呼びかけられ、「誰も排除せず、誰もを『不純』として扱うことのない教会と社会が必要」とされ、そのようにすることは、それぞれの物語を持つすべての人が、レッテルや偏見なしに歓迎され、愛されるためなのです」と締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)