Mourners hold a vigil for victims of an attack on an IDP camp in Goma, DRC (ANSA )
(2024.8.21 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは21日、水曜恒例の一般謁見で、ウクライナ、ミャンマー、コンゴ民主共和国、南スーダン、聖地などで続く紛争と政情不安を改めて思い起こされ、これらの国・地域での速やかな平和回復を祈られた。
教皇は、一般謁見の参加者たちに、まず、ロシアの一方的な侵略によるウクライナの人々の大きな苦しみに注意を向けられ、「苦境に立たされたこの国を忘れないように」と求められた。
さらに、ミャンマー、南スーダン、コンゴ民主共和国の北キヴ州など戦乱の紛争の中にある、世界の多くの国々を忘れないように求められ、聖地での紛争に苦しみ続けている人々のためにも祈るよう促された。
教皇は「戦争と分裂に特徴づけられた私たちの世界は、これまで以上に聖霊の賜物を必要としています」とされ、信者たちに日々の生活の中で平和に生きることを実践するよう勧められ、「まず家庭や職場から、愛と平和と善良さを日々の生活の中に取り入れてください」と願われた。
そして、現在多くのポーランド人がヤスナ・グラの聖母への巡礼を行っていることを思い起され、聖母マリアが「切望される平和の賜物を世界に与えてくださるように」と祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2024.8.18 Vatican News )
教皇フランシスコは、デール・レシネラ氏の新著「死刑囚のキリスト教徒:死刑囚への私の献身」に序文を寄せられた。レシネラ氏は72歳の元ウォール街の弁護士で、妻スーザンとともに、1998年以来、フロリダの複数の刑務所で一般信徒のカウンセラー( lay chaplain)として信徒牧師として死刑囚の精神面でのケアをしてきた。この本は、バチカン出版局(LEV)から8月27日に出版される予定。教皇による序文は以下の通り。
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福音とは、人生を変える生きた人との出会いです。イエスは、私たちの計画、私たちの願望、私たちの見方を一変させる力をお持ちです。イエスを知ることは、私たちの存在を意味のあるものにすることです。なぜなら、主は私たちに決して色あせることのない喜びを与えてくれるから。それはまさに神の喜びなのです。
デール・レシネラ氏とは謁見中に知り合い、長きにわたりロッセルバトーレ・ロマーノ紙に書かれた記事や、この感動的な本を通じて彼のことをより深く知るようになりましたが、彼の語る物語は私が言ったことを裏付けています。そして、将来に別の目標を持っていた人が、キリスト教徒として、夫として、そして父親として、死刑判決を受けた人々のカウンセラーになったのかを理解できるのです。
彼の(死刑囚カウンセラーとしての)仕事は極めて困難で、危険で、骨の折れる仕事です。それは、あらゆる側面で悪に関わっているからです。被害者に対して犯された取り返しのつかない悪、死刑判決を受けた人が確実に死ぬ運命にあることを知りながら経験している悪、死刑制度を通じて社会に植え付けられた悪。私が繰り返し強調してきたように、死刑は罪のない人々を襲う暴力に対する解決策には決してなりません。死刑は正義をもたらすどころか、復讐心を煽り、市民社会の組織にとって危険な毒となります。
国家は、もはや生きる価値がなく処分されるべき人間であるかのように、囚人たちを処刑するために物的、人的を投入するのではなく、彼らが心から生き方を変える機会を与えることに重点を置くべきです。フョードル・ドストエフスキーは小説『白痴』の中で、死刑判決を受けた男性について語り、死刑の論理的かつ道徳的不可能性について、次のように簡潔にまとめています。
「それは人間の魂を侵害するものであり、それ以上のものではない!『汝殺すなかれ』と書いてあるのに、彼が人を殺したために、他の人が彼を殺すのだ。いや、それは存在すべきではないものだ」。
(2025年の)聖年においては、「カトリック教会のカテキズム」が述べているように、「人間の不可侵性と尊厳に対する攻撃であるため、容認できない」 ( 2267項)死刑制度の廃止を、すべての信者が共同で呼びかけることを約束すべきです。
この著作は、著者の妻スーザンの多大な貢献を忘れずに、自身が生活し働いている米国の教会と社会にとって、大きな贈り物です。特に死刑囚が収容されている刑務所のような非人道的な場所での一般信徒のカウンセラーとしての彼の献身は、神の無限の慈悲に対する生きた情熱的証言です。慈しみの特別聖年が教えてくれたように、私たちは、「自分の罪、過ち、または行動が私たちを永久に主から遠ざける可能性がある」と決して考えてはいけません。主の心は、すでに私たちのために十字架につけられています。そして神は、私たちを許すことしかできません。
確かに、この無限の神の慈悲は、イエスの時代に神の子が罪人や売春婦と食事をしたときに多くの人々を驚かせたように、スキャンダラスなものにもなり得ます。デール兄弟はまた、死刑囚に対する精神的な献身のために批判、抗議、拒絶に直面しています。しかし、イエスが死刑を宣告された泥棒を抱きしめたというのは本当ではないでしょうか。
デイル・ラシネラは、刑務所、特に彼が「死の家」と呼ぶ刑務所の敷居をまたぐたびに、神の愛は無限で計り知れないものであることを真に理解し、その人生で証言してきました。そして、私たちの最も凶悪な罪でさえ、神の目に私たちのアイデンティティを傷つけることはありません。私たちは神の子供であり、神に愛され、神に気遣われ、神に大切にされているのです。
したがって、私はデイル・ラシネラに心からの感謝を捧げたいと思います。なぜなら、死刑囚のカウンセラーとしての彼の仕事は、イエスの福音の最も深い現実、つまり神の慈悲、過ちを犯した人々を含むすべての人に対する神の無条件で揺るぎない愛に執着し、情熱的に固執しているからです。そして、十字架上のキリストのような愛情深い視線から、彼らが人生、そして死に新たな意味を見いだすように。
(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)
*「カトリック・あい」注
教皇フランシスコが2018年に改定される前の「カトリック教会のカテキズム」2267項の冒頭には「教会の伝統的な教えによれば、違反者の身元が責任が完全に確認された場合、それが不当な侵犯者から効果的に人命を守ることが可能な唯一の道であるならば、死刑を科すことも排除されていません」と、厳しい条件を付けて死刑を容認することが明記されていた。またヨハネ・パウロ二世は1995年の回勅「命の福音」で、「絶対的に必要な場合を除いて」死刑を科すべきでない、という表現をしている。
それを、一挙に死刑の無条件全面廃止を全世界に求める内容に改めた理由を、改定2267項では、「今日、人間の尊厳は重大な罪を犯した後にも失われない、という意識が、ますます高まっています。また、刑法上の処罰の意味について、国家側の新しい理解も広まってきました。さらには、市民を守るという義務を保証すると同時に、犯罪人から自ら罪を償う可能性を完全に取り上げない、より効果的な拘置の制度が整備されてきました」と説明している。
だが、果たして、その説明のように、現実の世界の国々で「より効果的な拘置の制度が整備され」、殺人者を更生する、あるいは殺人を未然に防ぐ体制が本当に整えられた、と言えるのだろうか。現に、日本などでは、「どうせ殺しても、未成年なら死刑になることはないし、すぐに社会に出られる」、あるいは、「最近の裁判では、一人殺して死刑になることはなくなっている」との認識が、殺人に対する抑制力がきかない一因になっている、との見方があるし、残虐な殺人を犯したが、少年法の適用を受けて数年で社会に戻り、凶悪犯罪を重ねる例もある。死刑が廃止された国や州では、裁判以前に警察が凶悪犯を容易に射殺するケースもある。
こうした背景に、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ攻撃のように、国家による非力な他国民の大量虐殺が頻発するという現実がある。こうした現状に対する真剣な対処が進められないままで、一方的に、世界一律に国家による殺人者の死刑の無条件廃止を叫ぶことには、異論もある。教皇フランシスコは以前には、こうした異論を一部聞き入れる発言もあったが、今は死刑全面廃止論者になったようにも思われる。
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教皇フランシスコ 2024年8月11日のお告げの祈り (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2024.8.11 バチカン放送)
教皇フランシスコは11日、年間第19主日の正午の祈りに先立って、この日のミサで読まれた福音(ヨハネ福音書6章41~51節)、イエスが「私は天から降ってきた」と言われたのに対して、人々が「これはヨセフの息子のイエスではないか」とつぶやき合う場面を取り上げて説教をなさった。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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今日の典礼の福音は、「私は天から降ってきた」とイエスがはっきりとおっしゃったことへの、ユダヤ人たちの反応を語っています。
彼らは「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『私は天から降って来た』などと言うのか」とつぶやき合いました。
彼らの言葉に、よく耳を傾けてみましょう。彼らは、「イエスが天から降って来られるはずがない」と確信していました。なぜなら、イエスは大工の息子であり、彼の母や兄弟たちも、他の多くの人のように、普通の人として知られていたからです。どうして神がこれほど普通の形で現れることができるだろうか…。彼らは、自分たちの信仰の中に、イエスの質素な生い立ちをめぐる先入観にとらわれてしまった。それゆえに、イエスから何も学ぶことができなかったのです。彼らは、凝り固まった考えを持ち、「自分たちの安定」という”埃をかぶった棚”に置けないもの、保存できないものを、心に受け入れる余裕がありませんでした。
彼らは掟を守り、喜捨をし、断食や祈りの時間を尊重する人たちでした。キリストは、すでに多くの奇跡を行なっていた(ヨハネ福音書2章1-11節、4章43-54節、5章1-9節、 6章1-25節参照)のに、どうして、ご自分がメシアであることを、彼らに認めさせることができなかったでしょう。それは、彼らの宗教的実践は、主の言葉に耳を傾けはしたものの、自分が考えていることを確認することにあったからです。
そのことは、彼らがイエスに説明さえ求めないことで分かります。彼らは、イエスの言葉を聞いてつぶやき始め、それは、自分たちの確信を互いに確認し合い、誰も侵入できない砦に閉じこもるかのようでした。それで、彼らは信じることができなかったのです。
彼らのこうした態度に注意を向けましょう。それは、しばしば同じことが私たちの信仰生活や祈りの中で起きかねないからです。たとえば、主の言葉に耳を傾け、主の真意を受け取ろうとする代わりに、自分の考えや確信、判断を確認するだけのことがあります。このような神との向き合い方では、神と本当に出会うことができず、善のもとに成長し、御旨を果たし、閉じた困難な状態を克服し、その光と恵みの賜物に自分を開くことができません。真の信仰と祈りは、精神と心を開くものであり、閉じるものではありません。
自分に問いかけてみましょう。「信仰生活で、私は本当に自分を沈黙させ、神の言葉に耳を傾けることができるだろうか?」「自分の決まり切った考えを超え、神の助けをもって恐れに打ち勝ち、み言葉を受け入れることができるだろうか?」。
マリアよ、信仰のもとに主の声に耳を傾け、勇気をもってその御旨を果たせるように、私たちをお助けください。
(編集「カトリック・あい」)
Pope Francis prayed at the Peace Memorial Park in Hiroshima on November 24, 2019 (AFP or licensors)
(2024.8.11 Vatican News Devin Watkins)
教皇フランシスコは11日の正午の祈りに続いて、広島、長崎の原爆投下による犠牲者をはじめ、今も戦争で引き裂かれている国・地域における犠牲者たちのために祈るよう、呼びかけられた。
教皇はこの祈りで、第二次世界大戦の終結直前に、日本の広島と長崎に原爆が投下された記念日を6日と9日に迎えたことを思い起こされ、さらに、今も続く、ウクライナ、バレスチナ・イスラエル、スーダン、そしてミャンマーなどすべての戦争の犠牲者のために祈るように、またこれらの国・地域の速やかな和平の実現を「力を込めて」祈るように求められた。
また9日にブラジル・サンパウロ州で起きた旅客機墜落で亡くなられた61人のためにも祈られた。
(編集「カトリック・あい」)
(2024.8.9 Vatican News Isabella Piro)
教皇フランシスコは イエズス会中国管区のペドロ・チア広報部長とのインタビューで、中国は「偉大な民族」であり「その遺産を無駄にしてはならない」と強調。同国への訪問を希望していることを改めて表明された。
*特に聖母マリアの佘山聖堂への訪問を希望
教皇は中国、特にキリスト教徒の助け主である聖母マリアに捧げられた松江区の佘山聖堂への訪問を希望され、「現地の司教たちや信仰深い神の民に会いたい。彼らは信仰深い民です… 多くのことを経験し、信仰を守り続けてきました」と語られた。
*忍耐強く待つ人々に希望のメッセージを送る
また、中国の若いカトリック教徒について、「希望の達人であり、忍耐強く待つ人々に対して希望のメッセージを送ることは、私にはエールの交換のようにも思われますが、とても素晴らしいことです」と指摘。そして、 中国の人々は「偉大な人々」であり、「自分たちの遺産を無駄にしてはなりません… 自分たちの遺産を、忍耐強く、引き継がなければならない」と強調された。
*批判と抵抗は、建設的でなくても、常に役に立つ
就任から10年を超える教皇職について尋ねられた教皇は、「バチカンの高官や全ての人々と力を合わせ、耳を傾け、協議しながら、務めを果たしてきました」と述べ、様々な批判を受けてきたことに対しては「批判は、たとえ建設的でなくても、常に役に立ちます… 常に有益であり、自分の行動を振り返るきっかけとなります」とされた。
そして、「抵抗の背後にさえ、時には良い批判があることがあります。時には、痛みもありますが、耐えることが求められます。例えば、今起きている、教会に対する『小さなグループ』からの抵抗に遭った時などがそうです。それでも、困難や絶望の瞬間は、常に主の慰めによって解決されるのです」と語られた。繰り返した。
*戦争とその他の課題
また、これまでの教皇職で直面した多くの課題の中で、特に、「新型コロナの世界的大感染」と、今も続く「ウクライナ、ミャンマー、中東での戦争」を挙げられ、 「私は常に対話を通じて問題を解決しようと努めています… それがうまくいかないときは、忍耐とユーモアのセンスを持って、聖トマス・モアの教えに従います」と語られた。
*イエズス会士として危機は人間として当然。克服の方法は
さらに、イエズス会士としての活動でいくつかの「危機」を経験したことを思い起され、「これらは(人間として)当たり前のことです。そうでなければ、私は人間ではない」とされたうえで、「危機は2つの方法で克服できます。それは”迷路”を乗り越えて”頂上”から脱出することですが、決して一人で抜け出すのではなく、助けや付き添いを得て抜け出すこと。なぜなら、助けを受けることがとても重要だからです… そのために私は、主に『赦しの恵みをくださいますように、私に忍耐してくださいますように』と願っています」と述べられた。
*イエズス会の四つの使徒的優先事項
教皇はまた、2019年にイエズス会の今後10年間に優先すべきこととして概説された四つの「普遍的な使徒的優先事項」について触れられた。その四つは、霊操と識別、貧しい人々や疎外された人々と共に歩むこと、希望の未来を創る若者への伴走、”私たちの共通の家”-地球ーへの配慮だ。教皇は、これらは切り離すことのできない、四つの統合された原則です。伴走、識別、宣教活動がイエズス会の礎なのです」と強調された。
*聖職者主義と世俗主義
教会の将来に目を向けられた教皇は、「一部の人々は、教会はますます”小さく”なり、聖職者主義と霊的世俗主義の疫病に陥ることのないように、注意する必要があることを。私に思い起こさせてくれます。故アンリ・ド・リュバック枢機卿は『(聖職者主義と霊的世俗主義の疫病は)教会を苦しめる最もひどい悪であり、放蕩な教皇の時代よりもさらにひどい』と語っておられます」と述べた。
インタビューの最後に、教皇は、「ペトロの座を継承する者が誰であろうと、祈ることの重要性に変わりはありません。主は、祈りの中で語られるからです」と強調された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Aftermath of Israeli strikes in Deir Al-Balah in the central Gaza Strip (REUTER
(2024.8.7 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコは7日の水曜恒例の一般謁見で、中東での紛争の即時停止を当事者たちに強く訴えるとともに、ウクライナ、ミャンマー、スーダンでの速やかな平和の実現を祈り、パキスタンとアフガニスタンでの民族差別を終わらせるためにさらなる努力と祈りを呼びかけられた。
教皇はまず、「平和への真摯な探求が争いを鎮め、愛が憎しみに打ち勝ち、復讐が赦しによって無力化されることを祈ります」と語られた。
そして、紛争拡大が強く懸念される中東情勢を「大きな懸念をもって、引き続き注視しています」と述べ、ガザをはじめとしたあらゆる面での即時停戦を繰り返し訴えるとともに、「ガザの人道状況は非常に深刻で、持続不可能です」と強調された。
*ウクライナ、ミャンマー、スーダンの平和実現のために
また、多くの”殉教者”を出し続けている「ウクライナ、ミャンマー、スーダンの戦争で人心を荒廃させられている人々」のために祈るように、信者たちに求められた。
2014年のロシアによるクリミアの違法併合、それに続くドンバス紛争、そして2022年のウクライナへの全面侵攻以来、ウクライナでは数十万人が殺害または負傷させられ、数百万人の民間人が避難を余儀なくされている。
ミャンマーでは、2021年2月に国軍が民主的に選出された政府をクーデターによって打倒した後、内戦が続いており、少なくとも5万人が死亡し、約230万人が避難を余儀なくされている。
またスーダンでは、2023年4月から軍事勢力間の争いが続いており、少なくとも1万3000人から1万5000人が死亡、33,000人以上が負傷している。国内避難民は約770万人、さらに200万人以上が国外に避難している。
教皇は「戦争で試練を受けているこれらの国の人々が、速やかに平和を得ることができますように」と祈られた。
*パキスタンとアフガニスタンでの民族差別撤廃を訴え
さらに、教皇は、「パキスタンとアフガニスタンの地域での民族差別、特に女性に対する差別がなくなるように」と祈りと共に、現地の政治指導者など関係者たちの努力を求められた。教皇はこの日の一般謁見の前に、イタリアのアフガニスタン人コミュニティを代表する小規模なグループと会見されている。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Pope Francis smiles at pilgrims at the weekly General Audience (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2024.8.7 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコは7日、夏季休暇を終えられ、水曜恒例の一般謁見を再開された。
そして、「聖霊について」の連続講話も再開され、「聖霊による御言葉の受肉」をテーマに、イエスが「聖霊によって聖母マリアから受肉し、人間となった」という私たちの信条の確認から始められた。
教皇は、「これはキリスト教会全てに一致する信条です。すべてのキリスト教徒が同じ信条を共に公言しているからであり、それは、日々のお告げの祈りという伝統的なカトリックの信心業に反映されています」説かれた。
そして、「これは、聖母マリアと教会を比べ合わせる根拠にもなります。第二バチカン公会議でも取り上げられましたが、聖母マリアが処女懐胎し、キリストをお生みになったように、教会も『信仰をもって神の言葉を受け入れ、自ら母となる』ことでキリストを迎え入れます」とされ、「まず神の言葉を受け入れなければ、教会の『活動と説教』は不毛になってしまいます」と指摘された。
続けて教皇は、受胎告知を受けたマリアの「どうして、そのようなことが可能なのですか」という問いかけについて考察された。「教会も、同じ問いかけをしています。『この世の幸福だけを求めているように見える世界に、イエス・キリストとその救いを宣べ伝えることがどうして可能なのですか』と」。
そして、その答えとして、使徒言行録にある「あなたがたの上に聖霊が下ると、あなたがたは力を受ける」(1章8節)というイエスの使徒たちへの言葉は、「当時も今も変わらない。聖霊から力を受けなければ、教会は前に進むことができず、成長できず、説教もできません」と強調。
さらに、「教会について言われていることは、洗礼を受けたすべての人にも当てはまります」とされ、私たちが自分の力を超えた状況に陥ったとき、天使がマリアに語った「聖霊が降り、いと高き方の力があなたを覆う… 神にできないことは何一つない」(ルカ福音書1章35~37節)という言葉を思い起し、この励ましの言葉に力を得て、旅を再開するように」と説かれ、この天使の言葉を信じるなら、「私たちは奇跡を起こすでしょう。神にとっておできにならないことは、何一つありません」と締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2024.8.5 Vatican News Christopher Wells)
ローマの「聖マリア大聖堂」の献堂を記念する5日、教皇フランシスコは同大聖堂で夕べの祈りに参加され、戦争で荒廃している世界の平和を祈られた。
この大聖堂は、もともとは教皇リベリウス(在位352-366)によって建設された。伝承によれば、385年の8月4日から5日にかけての夜、「ジョヴァンニ」という名のローマの貴族と教皇リベリウスの夢に聖母が現れ、「しるしによって示す場所に教会を建てるように」と勧め、翌朝、真夏にもかかわらず、エスクィリーノの丘には雪が積もっていた。教皇は、積雪の形に沿って外郭を定め、同じ夢を見たジョヴァンニの協力を得て、西洋最古の聖母巡礼地となる教会を建てた。約100年後、教皇シスト3世(在位432-440)が聖堂を修復・再建し、8月5日をその献堂の日とした。この献堂の祭日が早くから祝われていたことは、5世紀の『ヒエロニムス殉教者暦』などの史料からも明らかになっている
教皇は説教で、奇跡的な降雪の「驚異」と「驚き」を強調し、その素晴らしさと無償性から「恵みの象徴」とされ、「恵みは当然ながら、自分で得ることはできず、買うこともできません。賜物として受け取るしかありません… ですから、ローマの真夏の降雪のように、まったく予測不可能です」と述べられた。
そして「このような受け止め方をすれば、大聖堂に関係する重要な『しるし』、つまり聖母マリアの聖画像、Salus Populi Romani すなわち『ローマの人々の救い』を理解することができます」と語られ、この聖母マリアと幼子の像が「宗教の領域に常に潜んでいるあらゆる神話的、魔術的、霊的装いが剥ぎ取られた、具体的な形での恵みを表現しています… つまり、すべての時代の前に選ばれ、降りたての雪のように汚れのないマリアと、その幼子にのみ、神性の豊かさのすべて宿っているのです」と強調された。
さらに、「これが、信者たちが神の聖母に祝福を求めに来る理由です。なぜなら、聖母は聖霊の働きによって常にイエス・キリストを通してのみ得られる恵みの仲介者だからです」と説かれた。
また教皇は、5日の祝祭に参加した人々は、ローマと全世界のためにマリアの執り成しを願いながら、来年の聖年のためにローマに来る多くの巡礼者たちに先駆ける、一種の「先鋒」になっている、と指摘され、「巡礼者たちは特別な方法で、『真の平和』の賜物を求め、マリアに執り成しを求めます。そして、『真の平和』は、『悔い改め赦された心』、『キリストの十字架から来る平和』、そして『キリストが私たちの罪の赦しのために流された血から来る平和』によってのみ、もたらされるのです」と強調された。
最後に教皇は、聖母マリアに語りかけアレクサンドリアの聖キリルの言葉で説教を締めくくりられた―「神の聖母マリアよ、光の担い手、汚れのない器よ。母であり侍女である聖母マリアよ、おとめよ、あなたから生まれた神の御名のために。母よ、あなたが腕に抱いた神の御名のために… おとめよ、マリアよ、あなたは全世界で最も尊い存在です… 消えることのない灯火よ。あなたから正義の太陽が生まれたのです。神の聖母よ、私たちのためにお祈りください」。
(2024.8.4 Vatican News Michele Raviart )
中東での新たな戦乱の危機が迫る中で、教皇フランシスコは4日、年間第18日の正午の祈りで、聖地での平和を呼びかけ、暴力を非難するとともに、ベネズエラでの対話を促し、インドの洪水被害者のために祈り、新たに列福されたレバノン人のステファノ・ドゥアイを称えられた。
*中東での血なまぐさい紛争をこれ以上拡大するな
教皇は中東情勢と、紛争がガザとイスラエルから他の国々に広がる恐れが強まっていることを強く懸念され、「すでに特に暴力的で血なまぐさい紛争がこれ以上拡大しない」よう切望されている。
この日の正午の祈りに続いて、教皇は、すべての犠牲者、「特に罪のない子供たち」と「パレスチナ、イスラエル、レバノンの人々」のために祈りを捧げ、先週ロケット弾攻撃で、サッカー場で遊んでいた12人の子供と若者が死亡した聖地のドゥルーズ教徒のコミュニティに哀悼の意を表された。そして、紛争当事者たちに「ガザとすべての前線での戦闘がの即時停止と、人質解放のために、対話を再開する勇気」を求め、「爆撃、殺人、暴力は何の役にも立ちません」と強調された。
さらに、「標的を絞った攻撃、殺人は、決して解決にはならない。正義の道、平和の道を歩む助けにはならず、憎しみと復讐をさらに生み出すだけです。兄弟姉妹の皆さん、もうたくさんです!もうたくさんです!平和の神の言葉を押し殺してはならない。平和を聖地、中東、そして全世界の未来にしましょう!戦争は敗北です!」と強く訴えられた。
*ベネズエラで当事者全員が真実を求める必要
また教皇は、マドゥロ大統領の再選をめぐる争いから「危機的な状況に直面している」ベネズエラの情勢に懸念を表明され、「私はすべての当事者に、真実を求め、自制し、あらゆる種類の暴力を避け、対話を通じて紛争を解決し、党派的利益ではなく国民の真の利益に配慮するよう心から訴えます」と述べられた。
*インドにおける豪雨の被害者たちに祈りを捧げる
教皇は、インド、特に「豪雨に見舞われ、多数の土砂崩れを引き起こし、死者、多数の避難民、そして甚大な被害をもたらした」ケララ州の人々にも思いを寄せられ、「命をなくした人々と、このような壊滅的な災害の被害を受けたすべての人々」のために祈るよう、すべての人に呼びかけられた。
*ベイルート港爆発の被害者に対する正義と真実
先週金曜日にレバノンで行われたマロン派の故ステファノ・ドゥアイ総主教の列福式を思い起こされた教皇は、ドゥアイ総主教が1670年から1704年までマロン派教会の指導者だった時期は「迫害を特徴とする困難な時代」であり、そうした中で「信仰の教師であり勤勉な牧者でもあった彼は、常に人々の傍らにいて希望の証人でした」と称えたうえで、「今日でも、レバノンの人々は大きな苦しみを味わっています。特に、ベイルート港爆発の犠牲者の家族のことが、私の頭に浮かびます。正義と真実がただちに実現するように」と願われた。
また、4日は、聖ヨハネ・ビアンネを偲ぶ日であり、一部の国で教区司祭の祝日が祝われるが、教皇は「熱意と寛大さをもって、時には多くの苦しみの中でも、神と人々に身を捧げるすべての教区司祭」に親しみと感謝の意を表された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)