・「突然の枢機卿指名、驚きと困惑の日曜日」-菊地大司教の日記

2024年10月 7日 (月)

1728227587550日本の教会の皆様へ

 シノドスの第二会期の第一週目が終わり、土曜の午後と日曜は休みとなりました。そこでこの日曜日、午前10時から、ローマに在住のカトリック日本人会のミサを司式させていただくことに。

 朝9時過ぎに、シスター弘田と一緒に、迎えに来てくださった大阪教区の豊田神父様とザベリオ会のロペス神父様とタクシーで、ミサが行われている神言会の本部へ向かいました。西村さんは、今週も議長代理の務めがあり、その準備の打ち合わせがあるため、一緒に来ることがかないませんでした。

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 今回は、ローマに在住している司祭が増え、写真のように、大勢の司祭と一緒にミサを捧げることができました。ミサ後には茶話会があり、しばらくしてシスター弘田とロペス神父様とタクシーで帰ることに。シスター弘田の宿舎はサンピエトロの目の前ですので、そこに向かい一緒におりました。

 サンピエトロ広場の回廊の横を歩いていると、「菊地大司教さん、おめでとう」と英語で声をかけられました。いつもシノドスホール前の門のあたりにいて、司教さんたちの肖像写真を何枚も持っていて、本人を捕まえてはサインを求め、コレクションしている、という青年です。「さっき、教皇の正午の祈りの時に枢機卿の発表があり、『東京の菊地』と言っていた」と彼が言うのです。

 そんな話は何も聞いていないので、またまたこの人は何を冗談を言っているのだと思い、正午の祈りからの帰途についている大群衆の中を宿舎へと向かいました。

 宿舎のロビーに入るとボゴタのルエダ枢機卿様に声をかけられました。「枢機卿の任命、おめでとう」。半信半疑でいるとルエダ枢機卿さんがスマホを取り出して、バチカンニュースの映像録画を見せてくれ、一緒に聞いていたら、確かに私の名前を教皇様が呼ばれています。ちょうどそこに、FABC(アジア司教協議会連盟)の次期会長であるインドのゴアのフィリッポ・ネリ枢機卿様が現れ、お祝いしてくださいます。どうも本当に枢機卿に任命されたようです。

 驚きました。心の底からこれだけ驚いたのは久しぶりなほど、驚きました。そして困惑しました。枢機卿は単なる名誉職ではなく、教皇様の顧問として果たすべき役割が多々あることを考えると、自分の足りなさばかりが浮かんできます。そもそも私のイタリア語は初歩の初歩で、やっと日常会話が理解できる程度です。教皇様とのコミュニケーションには、少なくとも英語の通訳が必要です。

 2日前の金曜日にシノドスの会場に入ると、ちょうど教皇様の周りに誰もいなかったので、挨拶に行きました。教皇様は私の名前を記憶しておられたにもかかわらず、私のIDカードを手に取って、しげしげと眺めておられました。何度もお会いしているのに、何を見ているのだろうといぶかしく思いました。そこにいた西村桃子さんが写真を撮ってくれると、教皇様は彼女を指して、「彼女は日本人なのにマテ茶を飲む変な人だよ」と大笑いされていました。枢機卿の話なんて、かけらもありません。だから、今日の急な発表は、本当に驚きました。

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 12月8日に親任のための枢機卿会が行われるそうです。それまでどんな準備が必要なのか、見当もつきません。せっかくいまローマにいるのに、正式な通知は何もないですから、すべてニュースで聞いているだけです。

 一緒に神言会の会員がもう一人枢機卿に任命されました。セルビアのベオグラードのネメット大司教さんです。以前から存じ上げている兄弟会員です。神言会は来年、創立150年をお祝いします。この150年の歴史の中で、これまで枢機卿は、1967年に帰天された北京の大司教であったトマス田(ティエン)枢機卿様お一人だけでした。今回、二人目と三人目の枢機卿が誕生したことは、神言会にとっての名誉になったかと思います。

 また同時に、この任命は私個人の名誉ではなくて、日本の教会にとって、また特に東京教区にとって大きな名誉です。加えて、現在その総裁を務めさせていただいている国際カリタスにとっても名誉であると思います。

 さらには、今回、アジア司教協議会連盟(FABC)の次期副会長となるフィリピンのパブロ・ダビド司教様も枢機卿任命を受けたことで、FABCにとっても大きな意味を持つ名誉ある任命となったかと思います。

 たくさんの皆様からお祝いのメッセージやメールをいただきました。心から感謝申し上げます。繰り返しですが、自分の身に余る役目を仰せつかったと思います。自分の足りなさに身が縮む思いをしています。どうかこれからも皆様のお祈りで支えてくださるように、心からお願い申し上げます。

 感謝のうちに。 2024年10月7日  菊地功

(編集「カトリック・あい」)

2024年10月7日

・10月のシノドス総会第2会期は、歩むべき道を見極めるための具体的な作業の場に―菊地大司教・年間第25主日

2024年9月21日 (土)週刊大司教第184回:年間第25主日B

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    9月も終わりに近づきました。来週末には、世界代表司教会議(シノドス)第16回定期総会の第二会期に参加するために、ローマに出かけます。9月30日と10月1日に黙想会が行われ、その後、10月2日からシノドスの第二会期が始まります。

 東京教区のYoutubeチャンネルで土曜の夕方6時に配信している「週刊大司教」ですが、来週9月28日の夜はシノドス前の特別版を配信します。その後、10月5日から10月末までは、通常の「週刊大司教」はお休みとさせていただきます。ただし昨年同様、シノドスの現場からのレポートをお送りすることができればと思います。

 会期前の二日間の黙想会の終わり、10月1日の午後6時(日本時間2日午前1時)、聖ペトロ大聖堂で、教皇様司式で回心の儀が行われます。ともに歩む教会は常に回心を続ける教会でもあると教皇様は呼びかけ、そのためにも教会は、自らの罪を掲げ、その痛みと時に恥を身に受けることによって、復活のように再び立ち上がることを赦される、と言われます。

 回心の儀では、虐待の罪、戦争の罪、世界中での移民を無視した罪の三つの体験者が分かち合いを行い、その後に怠りも含めて教会が関わった次のような罪が告白されます。

 平和に反する罪、被造物や先住民族や移住者に対する罪、虐待の罪、女性、家族、青年に対する罪、教義を石を投げるために利用した罪、貧困への罪、シノドス性に反し、耳を傾けず、交わりを拒否し、皆が参加することを拒んだ罪。

 シノドス期間中はバチカンのyoutubeサイトなどで、映像配信もあると思いますので、映像を通じて是非ご一緒いただければと思います。

 また度々繰り返していることですが、第二会期で”シノドスの道”が終わるのではなくて、シノドス(共働)的な教会となるための道は、今回の2期にわたるシノドス総会を通じて明確になるのですから、終わってからこそが教会全体の取り組みの始まりです。改めて司教協議会の会長としてのメッセージにも目を通していただければ幸いです。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第184回、年間第25主日のメッセージです。

【年間第25主日B 2024年9月22日】

 マルコ福音は、誰が一番偉いのかと弟子たちが議論していた話を記します。誰が一番偉いのか、というよりも、自分が一番になりたい、皆の上に立ちたい、というのは、人間社会につきものの、避けて通ることのできない欲望の一つです。

 その弟子たちに対して、イエスは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」と教えます。これは弟子たちに対する回答というよりも、この世に対する警告の言葉でもあります。この世界が価値があると定めるはかりではなく、神は、皆に使えるものとなるところに価値を見いだされる。神が良しとされる価値観は、弟子たちが囚われているような、この世の価値観とは全く異なっているのだ、ということを悟らせようとする言葉です。

 受難と死へと至るイエスの生涯そのものが、人間の常識をはるかに超えた人生です。その人生にこそ、自らが創造された人類への愛と慈しみが具現化しています。神の常識は、人間が最も忌み嫌う、苦しみと死の自己犠牲の道にこそ、神の栄光と愛と慈しみがあるとするのです。信仰の道は、私たちの常識をはるかに超えたところにあります。

 その意味で、教皇が今、教会全体に根付かせようとしている”シノドスの道”も、私たちの常識を遙かに超えた神の価値観の道のりです。10月には、今回の世界代表司教会議(シノドス)総会の第二会期が始まります。ローマでの会議は、それぞれの国を代表してレポートを発表する場ではなく、歩むべき道を見極めるための具体的な作業をする場となっています。

 今回のシノドスは、シノドス(共働)性そのものを取り上げ、シノドス(共働)的な教会が宣教する教会であるためにどのような道を歩むべきかを一緒に識別するためのプロセスです。ですから、多くの人が期待しているような、具体的な事柄は何も決まらないかもしれません。またこの10月の会議ですべてが終了するものでもありません。いま進められているプロセスは、終わりに向かっているのではなく、始まりに過ぎません。教会はこれから常に、シノドス的な教会であるために努力を続けていきます。なぜなら、神の民である教会は、その本性からしてシノドス的であり、ともに歩み続ける存在だからであります

 教会に民主主義を持ち込むのではないか、とか、新しい政治的イデオロギーではないか、とか、この会期が終わるまでに日本では何もしないのか、とか、いろいろな意見が飛び交っているのは事実です。しかしそういったことではなくて、聖母マリアと主イエスとの歩み、主イエスと弟子たちとの歩み、そういった教会誕生の原点にある姿を、確実に具体化して生きていこうとするのが、今の”シノドスの道”の目的です。これからも長い目で見ながら、その具体化に努めて行きたいと思います。

 聖霊の導きを識別し続けながらともに歩むこの”シノドスの道”は、簡単な道ではありません。時間と手間のかかることでもあり、まずもって忍耐を必要とします。同時にそこで見出される神の計画の道は、常に安楽の道であるとも限りません。なぜならば、神の救いの計画の中心には常に十字架の苦しみが存在しているからです。

 ”シノドスの道”を共に歩むことで、私たちは様々な困難に直面することでしょう。様々な意見の対立に翻弄されるでしょう。常識の壁が立ちはだかることでしょう。決断の及ぼす影響を考え、たじろいでしまうかも知れません。その時にこそ、苦しみと自己犠牲の道にこそ、神は価値を見出されることを思い起こしましょう。

(編集「カトリック・あい」=以前からご本人にもご注意申し上げているのですが、いまだに教皇が21年秋に始められた「シノドスの道(英語でsinodality way あるいはsinodality pass=バチカンでもいまだに表記が定まっていませんが)」と、その中間集約の世界レベルの具体的な場とも言うべき「世界代表司教会議第16回通常総会」が、同じ「シノドス」という言葉で混同して使われており、信者の間で理解に障害をもたらす原因の一つとなっているようです。「カトリック・あい」では、バチカン発表の文章、教皇のお話なども含めて、言葉の書き分けを当初から行っており、上記の菊地大司教の文章も、誤字の修正も含めて、表記の統一を図っています)

2024年9月21日

・「高齢者も、誰もを見捨てない神の愛を実践するのは、私たちの務め」菊地大司教、年間第24主日

2024年9月14日 (土) 週刊大司教第183回:年間第24主日B

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    教皇様のアジア歴訪は無事に終わりました。私も、9月12日にシンガポールで行われた教皇ミサに参加するように招かれたので、シンガポールまで出かけて参りました。教皇様は三日間シンガポールに滞在されましたが、私は二日目の午前中の、国立大学における政府関係者や外交官を招いての、大統領と教皇様の演説(写真右)と、午後から夕方にかけて国立競技場に5万人を集めて捧げられた教皇ミサにご一緒させていただきました。アジア各地から39名ほどの枢機卿や司教が集まりました(写真左)。

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 教皇様は2週間近い長旅の最終盤であるにもかかわらずお元気でしたが、立ち上がって数歩歩かれる以外は車椅子のですので、他のミサと同様に、教皇ミサの途中、感謝の典礼から先は、シンガポールのウィリアム・ゴ枢機卿様が祭壇に立たれ、共同司式者として、マレーシアのジュリアン大司教様(クアラルンプール)とセバスチャン枢機卿様(ペナン)が両サイドにつかれました。シンガポール大司教区は国に一つだけの教区ですので、ブルネイと共に、マレーシアの司教協議会の一員となっています。

 教皇様はこの後、10月のシノドスの前、9月の末に、ルクセンブルグやベルギーを訪問されることになっています。教皇様の健康のためにお祈りください。

 本日の土曜日、イエズス会では新しい司祭が誕生しました。午後2時からイグナチオ教会で行われたパウロ山内豊新司祭の叙階式を、司式させていただきました。彼と同級のコンゴ出身のイエズス会員は、8月の初め頃にコンゴのルブンバシで、ルクセンブルグのオロリッシュ枢機卿によって叙階されていると伺いました。おめでとうございます。

 以下、14日午後6時配信、週刊大司教第183回、年間第24主日のメッセージ原稿です。

【年間第24主日B 2024年9月15日】

 マルコ福音は、イエスが求める信仰における自己決断の話を記します。

 イエスは弟子たちに、「人々は、私のことを何者だと言っているか」と尋ねます。それに対して弟子たちは、先生が多くの人から褒め称えられている現実に誇らしい思いもあったのでしょう。口々に、方々で耳にしてきたイエスについての評価を語ります。「洗礼者ヨハネだ。エリヤだ。預言者の一人だ」。

 考えてみれば、それらの評価は、伝聞、つまり「うわさ話」にすぎません。それに対してイエスは、「それでは、あなた方は私を何者だというのか」と弟子たちの自分の判断を求めます。自己決断を迫ります。

 信仰を生きている私たちは、常に、主によって自らの回答を迫られています。私たち一人ひとりは、一体何と答えるのでしょう。私にとって、主イエスとは何者なのでしょうか。誰かがそう言っているイエスではなくて、私が知っているイエスは何者なのでしょう。

 私たちは、命を与えられた神から愛されている存在です。守られている存在です。その神の慈しみを、愛を、具体的に私たちに示されるのは、共にいてくださる主イエスであります。主こそ私たちの救い主、メシアだと、ペトロと一緒に答えるのだとすれば、その応えに見合った生き方をしなくてはなりません。私たちには、主が生きたように、語ったように、生きていく務めがあります。それは信仰を具体的に行動に表すことであり、すべての命が誰一人として見捨てられることなく、常に神に愛される存在であることを、具体的に示すことであります。

 教会は7月の第四日曜日を、祖父母と高齢者のための世界祈願日と定めていますが、日本の教会では、敬老の日が国民の休日として定められている9月にこの祈願日を移行することについて聖座に申請し許可を得ています。今年は15日が祖父母と高齢者のための世界祈願日となります。

 少子高齢化が多くの国で激しく進み、伝統的な家庭のあり方が崩壊する中で、かつては知恵に満ちた長老として社会の中に重要な立場にあった高齢者が、周辺部に追いやられ、忘れ去られていく状況が出現しました。高齢者にはそれまでに豊かに蓄えた知識を持って、次の世代につなぐ大切な努めがあることを教皇は強調し、若い世代と高齢の世代の交わりを勧めておられます。

 この祈願日にあたり、教皇はメッセージを発表されています。今年のテーマは、詩編71の言葉から、「老いの日にも私を捨て去らないでください」とされています。

 メッセージの中で教皇は、「神は決してご自分の子らを見捨てません。齢(よわい)を重ね力が衰えようとも、髪が白くなって社会での役割が少なくなろうとも、活動の生産性が下がって無駄として見られかねないとしても、そうなのです」と述べ、社会に広がりつつある「高齢者が若者から未来を奪う」という考え方が、人間の尊厳の立場から誤っていることを指摘されます。

 その上で教皇は、ルツ記の話を引用しながら、「高齢者に寄り添うこと、彼らの、家庭、社会、教会でのかけがえのない役割を認めることで、私たち自身も多くの賜物、多くの恵み、多くの祝福を受ける」と指摘されます。誰も見捨てることのない神の愛を、実践するのは、私たちの務めです。

2024年9月14日

・「私たちは、命を生かされている喜びに満ちあふれているだろうか」菊地大司教、年間第23日主日に

2024年9月 7日 (土) 週刊大司教第182回:年間第23主日B

  9月になり、少しづつ秋の気配も感じるようになりましたが、まだまだ暑い毎日が続きそうです。

   教皇様はインドネシアに始まり、パプアニューギニア、東ティモール、シンガポールを歴訪中です。教皇様の健康のためにお祈りください。わたしも司教協議会の会長として呼ばれたので、12日のシンガポールでのミサに参加させていただく予定です。

    世界代表司教会議(シノドス)総会の第2会期がまもなく始まります。第2会期のための討議要項の日本語翻訳ができあがりましたので、中央協議会のホームページで公開されています。また昨日開催された臨時の司教総会で司教様方に報告ができたので、第2会期に備えた様々な準備の記事や呼びかけなどの記事をシノドス特別チームで作成して、中央協議会の特設サイトに掲載いたしました。どうぞご覧ください。

 冒頭に、私からの呼びかけがあり、さらにそのほかの記事へのリンクも張ってあります。そのほかの記事としては、まず5月に行われた小教区で働く司祭の会合について参加した高山徹神父様の報告、8月に行われたアジアのシノドス参加者の会合について参加した西村桃子さんの報告。そして8月末に行われたアジア、アフリカ、ラテンアメリカの司教協議会連盟の会合の報告を私が記しました。

 討議要項(第二会期のための公式な手引き書)はかなり長い文書ですので、その要約も特別チームで作成し、さらにそこから読み取れる今後期待される展開について、チームの小西神父様(フランシスコ会)に記事を書いていただきました。ご覧いただけましたら幸いです。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第182回、年間第23主日のメッセージ原稿です

【年間第23主日B 2024年9月08日】

 マルコ福音書に記された「エッファタ」の物語が、「すべての命を守るための月間」を過ごしている今、朗読されることは、意義深いものがあります。なぜなら、「ラウダート・シ」で教皇フランシスコが呼びかけていることを理解するためには、現実に対して閉ざされている私たちの心の耳と目が開かれる必要があるからです。

 現実の世界におけるしがらみは、私たちの思考を制約し、聞こえるはずの叫びに耳を塞がせ、見えるはずの世界から目を背けさせてしまいます。教皇フランシスコは、そういったしがらみによる縛りをすべてうち捨て、いのちが育まれるこの共通の家をどうしたら神が望まれるように育み護ることが出来るのか、目を開き、耳を開くようにと呼びかけます

 マルコ福音には、イエスが「エッファタ」の言葉を持って、耳の聞こえない人の耳を開き、口がきけるようにされた、と記されています。さまざまな困難を抱えて命を生きている人に、希望と喜びを生み出した奇跡です。この物語は、具体的に困難の中で生きている多くの方への神の慈しみの希望のメッセージであると同時に、すべての人にとっても必要な、閉ざされた心の目と耳の解放の物語でもあります。

 私たちは、命を生かされている喜びに、満ちあふれているでしょうか。そもそも私たちの命は、希望のうちに生かされているでしょうか。喜びに満たされ、希望に満ちあふれるためには、すべての恐れを払拭する神の言葉に聞き入らなくてはなりません。

 「恐れるな」と呼びかける神の声に、心の耳で聞き入っているでしょうか。私たちは、神の言葉を心に刻むために、心の耳を、主イエスによって開いていただかなくてはなりません。「エッファタ」という言葉は、私たちすべてが必要とする神の慈しみの力に満ちた言葉であります。私たち一人ひとりの命が豊かに生かされるために、神の言葉を心にいただきたい。だからこそ、私たち一人ひとりには今日、主ご自身の「エッファタ」という力ある言葉が必要です。

 先頃日本の司教団が発表した総合的エコロジーのメッセージ「見よ、それはきわめてよかった」において、私司教団は、「観る、識別する、行動する」という「三段階を通じて、環境やエコロジーについての理解を深めるよう」勧めています。

 第一のステップの「観る」について司教団は、「単なる事実の把握にとどまらず、神の思いに包まれながら、心を動かされつつ気づく」ことだとして、それは「出会う」ことでもあると指摘します。その上で、司教団は、「私たちはたくさんの思い込みや先入観、自己中心的な願望を持って生きています。また問題の状況・原因は複雑なもので、私たちの認識にはいつも限界があります。そのような限界を認めつつ、聖霊を通して豊かに働いてくださる主に信頼して、観る歩みを進めましょう」と呼びかけています。

 私たちの閉ざされた目と耳を開こうと、主は今日も「エファッタ」と呼びかけておられます。

(編集「カトリック・あい」)

2024年9月7日

・「神から与えられた使命を忠実に果たす『神の掟を守る者』であろうとしているか」菊地大司教、被造物を守る世界祈願日に

2024年8月31日 (土)週刊大司教第181回:年間第22主日

Img_20240703_143306730 あっという間に8月は終わり、9月が始まります。

 この数日の、台風に伴う大雨の影響で、被害を被られた皆さまに、心からお見舞い申し上げます。

 今年の9月1日は、被造物を大切にする世界祈願日です。この日から10月4日までを、日本の教会は「すべてのいのちを守るための月間」と定めています。司教協議会の「ラウダート・シ」デスク(責任司教は成井司教様)では、呼びかけのメッセージを発表しています。また教皇様も、世界祈願日にあたって、「被造物とともにあって、希望し行動しよう」というタイトルのメッセージを発表されています。

 さらに日本の司教団では、司教団のメッセージとして、「見よ、それはきわめてよかった」を発表しており、書籍でも頒布していますが、中身が重要ですのでテキストを公開しています。是非ご一読ください。

 日本カトリック司教協議会(教会法上の一定地域の司教たちの集まりの名称)には、様々な委員会やデスクなどがあり、事務局であるカトリック中央協議会(日本の法律に基づいた宗教法人の名称)を通じて、それぞれのテーマの担当が様々なメッセージを発表しています。

 そういったメッセージの中でも「司教団メッセージ」と呼ばれるものは、現役の司教全員が賛成した一つの地域の司教団の総意を表すメッセージとして、一番重要な意味を持つメッセージとお考えください。ですから、「司教団メッセージ」は、それほど頻繁に出されることはありません。

 また司教団も、数年でガラリとメンバーが替わります。例えば2015年のアドリミナに出かけた日本の司教団と、今回2024年のアドリミナに出かけた司教団のメンバーは、10名が入れ替わっています。ですので、前回の司教団メッセージである「いのちへのまなざし、増補新版」と今回の「見よ、それはきわめてよかった」では、司教団のメンバーが替わり、そのトーンなどに違いが出ているのを感じ取っていただければと思います。

 なお「ラウダート・シ」デスクが主催して、東京教会管区では、同メッセージ発表に伴う出版記念シンポジウムを、9月7日に、東京四谷のニコラ・バレ修道院を会場に、午前10時半から昼過ぎまで開催いたします。当日は管区内の司教のうち、私や成井司教を含め数名も参加します。詳細は、こちらの東京教区ホームページをご覧ください。(東京教会管区:札幌、仙台、新潟、さいたま、横浜、東京の各教区で構成)

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第181回、年間第22主日のメッセージ原稿です。

【年間第22主日B 2024年9月1日】

 9月1日は、被造物を大切にする世界祈願日であり、日本の教会は、本日から10月4日、アシジの聖フランシスコの祝日までを、「すべての命を守るための月間」と定めています。

 教皇様は今年の祈願日にあたりメッセージを発表され、そのタイトルを「被造物とともにあって、希望し行動しよう」とされています。

 教皇様はメッセージで、「キリスト者の生き方とは、栄光のうちに主が再臨されるのを待ち望みつつ、愛のわざに励む、希望に満ちあふれた信仰生活です。・・・信仰は贈り物、私たちの内なる聖霊の実なのです。けれども同時に、自由意志で、イエスの愛の命令への従順をもって果たすべき務めでもあります。これこそが、私たちが証しすべき恵みの希望です」と記します。

 その上で教皇様は、「イエスが栄光のうちに到来するのを希望をもって辛抱強く待ち望んでいる信者の共同体を、聖霊は目覚めさせておき、たえず教え、ライフスタイルの転換を促し、人間が引き起こす環境悪化を阻止して、変革の可能性の何よりのあかしとなる社会批評を表明するよう招くのです」と呼びかけておられます。

 司教団の優先的取り組みとして、司教協議会には「ラウダート・シ・デスク」が設けられており、その責任者である成井司教様は、「月間」の呼びかけで、「イエスのセンス・オブ・ワンダー、驚きに満ちた眼差しは、私たちが総合的な(インテグラル)エコロジー、すなわち神と、他者と、自然と、そして自分自身と調和して生きる道筋を示しています。今年のすべての命を守るための月間の間、イエスの驚きに満ちたまなざしで自分を取り巻く命の繋がりに目を向けてみませんか」と呼びかけておられます。司教団が先般発表したメッセージ、「見よ、それはきわめてよかった――総合的な(インテグラル)エコロジーへの招き」を、是非ご一読ください。

 マルコ福音は、ファリサイ派と律法学者が、定められた清めを行わないままで食事をするイエスの弟子の姿を指摘し、掟を守らない事実を批判する様が描かれています。それに対してイエスは、ファリサイ派や律法学者たちを「偽善者」と呼び、掟を守ることの本質は人間の言い伝えを表面的に守ることではなく、神が求める生き方を選択するところにあると指摘されます。

 さまざまな掟や法が定められた背後にある理由は、人を規則で縛り付けて自由を奪うためではなく、神の望まれる生き方に近づくための道しるべであること思い起こし、人間の言い伝えではなく、神の望みに従って道を歩むことが、掟や法の「完成」であります。すなわち、使徒ヤコブが記しているように、その掟や法を定められた神のことばを、馬耳東風のごとく聞き流すのではなく、「御言葉を行う人」になることこそが、求められています。

 神がその慈しみの御心を持って愛のうちに創造された全被造界は、私たちに守り耕すようにと委ねられたものであって、好き勝手に浪費するために与えられてはいません。私たちは神から与えられた使命を忠実に果たす、本当の意味での神の掟を守る者でありたい、と思います。

2024年8月31日

・「私たちにとって必要なのは、イエスとの具体的な出会い」菊地大司教の年間第21主日

2024年8月24日 (土) 週刊大司教第180回:年間第21主日B

 8月の最後の日曜日となりました。年間第21主日です。

 今週は、世界代表司教会議(シノドス)総会の関連で、アジアと南米とアフリカの、それぞれの地域司教協議会連合体の責任者を集めて、シノドス第2会期の準備の会合が、オロリッシュ枢機卿様の教区、ルクセンブルグで開催されます。

 主催者によると、南の司教協議会連合の意見を集約するため、とのことで、私もアジア司教協議会連盟(FABC)の事務局長として参加してきます。アジアからは、FABCの現在の会長であるミャンマーのボ枢機卿、来年から会長に就任されるインドのフェラオ枢機卿様、次期副会長のフィリピンのダビド司教様、さらに副事務局長のラルース神父様が参加し、さらに講師として、ボンベイのグラシアス枢機卿様も来られると伺っています。これについては、また記します。

 シノドスはまもなく第2会期ですが、すでに何度も繰り返しているように、第2会期で何かを決めて、それで今回のシノドス(の道)が終わるのではありません。

 従来のシノドスは、特定の課題について世界各国の様々な意見を集約し、それに基づいてローマの会議で議論して、教皇様への提言を作成するというプロセスでした。今回は全く異なります。何度も繰り返していますが、今回のシノドスは特定のテーマについて何かを決めることではなくて、霊における会話などを通じて教会共同体が共に霊的な識別をして、聖霊の導きを見極めるようになることを目指しています。

 そのために、特に第2会期の準備では、草の根の共同体がそれぞれ何かを提言して、それを国などの単位でまとめ上げて、さらにローマで集約するという手段は採用されていません。それよりも、これから先に向かって、長期的な視点から、霊における会話を通じた共同識別を根付かせるために、何がその壁になっているかを見いだし、その壁を乗り越えるにはどうしたらよいのかの道を見いだすことを、まさに霊における会話を通じて話し合い識別するのが、この10月の第2会期です。

 ローマに自分たちの意見が届いていない、反映していないとご心配されている方の声が聞かれますが、それはこの第2会期の課題ではありませんのでご安心ください。そうではなくて、これから10月の会期が終わっても、「将来に向かって、このシノドス的な霊的識別の方法を、いかにして根付かせていくのかを具体的に実践していく」のが今の課題です。教会の方向性の変革は、まだ始まったばかりです。今年の10月で終わりではありません。

 したがって、先般シノドス特別チームが作成したハンドブックは、第2会期に間に合わせるために作成したのではなくて、将来を見越して、これから長期的に実践していくための手引きです。来年も再来年も長期的に使っていた抱くものです。この数か月に慌てて実践するためではなくて、これから先何年にもわたって息長く実践することで、霊における会話による霊的識別を定着させるためのハンドブックです。

 すでに東京教区においても、いくつもの小教区から追加で注文をいただいています。東京教区の宣教司牧評議会でも、毎回実践して、だんだんと当たり前の識別方法として定着させようとしています。来年以降の教区宣教司牧評議会では、5年目になる東京教区の宣教司牧方針の中間見直しを、霊における会話を通じて深めていくことを考えています。

 ハンドブックは中央協議会のシノドス特設ページからPDFでダウンロードもしていただけます。どんどん利用して、多くの方に実践していただきたいと思います。司教協議会のシノドス特別チームでは、必要であれば、教区単位などの研修会のお手伝いをしたり、そのための講師を斡旋することも可能ですので、必要の際には、中央協議会までご相談ください。

 また4月末に行われた、教区司祭のためのシノドスの集まりには、日本から大阪高松教区の高山徹神父様が参加してくださいました。高山神父様もシノドス特別チームのメンバーですが、各地の司祭の研修会などで、その貴重な体験をお話しくださいますので、お声かけください。

 以下、本日午後6時配信、年間第21主日のメッセージ原稿です。

 福音書は、弟子たちに対して自己決断を迫るイエスの姿が描かれています。人々がイエスを預言者だとかメシアだとか褒め称えていた話を伝えたとき、イエスが弟子たちに、「それではあなた方はわたしを何者だというのか」と問いかけた話が福音の他の箇所にありますが、今日もまたイエスは弟子たちに自ら判断するようにと迫ることで、私たちの信仰が、誰かに言われて信じるものではなくて、自らの判断と決断に基づいた信仰であることを明示しています。

 自らを命のパンとして示され、ご自分こそが、すなわちその血と肉こそが、永遠の命の糧であることを宣言された主を、多くの人々は理解することが出来ません。世の常識と全くかけ離れたところにイエスが存在しているからです。多くの人が離れていく中で、イエスは弟子たちに決断を迫ります。「あなた方も離れていきたいか」。

 ペトロの言葉に、弟子たちの決断が記されています。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」。

 ペトロの答えの特徴は何でしょうか。それは、ペトロ自身が体験し、納得した事実に基づいている自己決断の言葉であります。ペトロはイエスと出会い、イエスと旅路を共にする中で、イエスこそが永遠の命の言葉であると確信しました。誰かにそう教えられたのでもなく、どこかで学んできたことでもない。自分自身の「イエス体験」に基づいて、ペトロは自己決断をしています。

 私たちにとって必要なのは、この自己決断に至るための、「イエス体験」、つまりイエスとの具体的な出会いです。

 教皇様は、来年の聖年の開催を告知する大勅書「希望はあざむかない」に、「すべての人にとって聖年が、救いの門である主イエスとの、生き生きとした個人的な出会いの時となりますように」と記し、その上で、「教会は、主イエスをわたしたちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持って」いると指摘されます。

 教皇様は、キリスト者の人生は希望と忍耐によって彩られているけれど、希望は人生の旅路の中でわたしたちをイエスとの出会いへと導いてくれる伴侶であると指摘されています。

 私たちには、「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人」との出会いの中で、「二人または三人が私の名によって集まるところ」において、そしてご聖体の秘跡において、主と直接に出会う機会が与えられています。さらに教皇様が今回の聖年を前に示されるように、主における希望を抱き、その希望を多くの人にもたらすことを通じて、私たちは主との出会いへと導かれます。

 主との具体的な出会いを通じて、私たちは信仰における確信を深め、自らの決断のうちに、ペトロと共に、「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と、力強く答えるものでありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2024年8月24日

・「自分の利益のみを考え、他者を顧みないところに、真の平和は存在しない」聖母被昇天の祝日に菊地大司教

2024年8月15日 (木)聖母被昇天@東京カテドラル

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    聖母被昇天の祝日の15 日、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、午後6時からミサが捧げられ、私が司式しました。

 ガーナ訪問からは、昨晩帰国しました。8名の方々と一緒の訪問団となり、皆無事に帰国致しました。お祈りいただいた皆さまに感謝致します。今回訪問した、わたしがかつて主任司祭であったオソンソン村の出身で、現在目黒教会助任のマーティン神父が同行してくれたおかげで、いろいろと現地での手配が進み、同行してくださった方々には、5時間かかるミサとか、いろいろと体験していただいたと思います。これについては稿をあらためて記します。

 以下、本日午後6時の東京カテドラル聖マリア大聖堂でのミサの説教原稿です。

聖母被昇天 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2023年8月15日

 聖母被昇天を祝うこの日、日本では太平洋戦争が終戦となった日を記憶に留め、多くの人が平和を求めて祈っています。神の望まれる世界の実現を求めている私たちは、命の創造主である御父の御心を思いながら、具体的にこの地において、神の平和が実現するように祈り、語り、また行動していきましょう。平和の元后である聖母マリアの取り次ぎに信頼しながら、祈りを深めたいと思います。

 あらためて繰り返すまでもなく、私たちの信仰は、いのちは神からの賜物であって、それがゆえに命を守り、また命が十全に生きることができるように努めることは、私たちの使命であります。また神は、ご自身の似姿として命を創造されました。完全であり完璧である神の似姿として、命には尊厳がその始まりから与えられています。ですから命の始まりから終わりまで、人間の尊厳が保たれるように努めることも、私たちに与えられた大切な使命です。

 実際の世界は残念ながらその事実を認めていません。私たち人類は、その時々に様々な理由をこじつけては、賜物である命に対する暴力を肯定してきました。そういった命に対する暴力を肯定する様々な理由は自然に発生するものではなく、人間の都合で生み出されたものです。すなわち、命に対する暴力は、自然に発生するものではなく、私たち自身が生み出したものであります。

 今、私たちが生きている世界の現実は、 無防備な市民を巻き込んで、命を暴力的に奪い去る出来事で彩られています。命に対する暴力は世界各地で頻発し、加えて国家を巻き込んだ紛争が一度始まってしまうと、その終わりを見通すことができません。

 ウクライナやガザでの現実を見るとき、また長年のパートナー教会であるミャンマーの現状を見るとき、神が愛される、一人ひとりの人間の尊厳は、暴力の前にないがしろにされています。平和を求めて声を上げるミャンマーのカトリック教会は、暴力的な攻撃を受けています。この数週間の間にバングラデシュでも、政治的な混乱が続き、多くの人が命を奪われました。

 毎年8月6日から15日までの10日間、日本の教会は平和旬間を定めて、平和について祈り、語り、行動する決意を新たにしています。もちろん平和について考え祈ることは、8月だけの課題ではありません。なぜなら平和とは、単に「戦争がない」ことだけを意味してはいないからです。

 ヨハネ23世の回勅「地上の平和」は次のように始まります。

 「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

 果たして私たちが生きている今の世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。

 そう考えるとき、「平和とは、単に戦争がないことではない」と気がつきます。様々な方法で、賜物であるいのちが暴力的に奪われている状況を、神が望んでいるとは到底思えません。今の世界に神の平和は実現していません。

2024_08_10_002 今年の平和旬間に寄せて、ミャンマーのヤンゴン教区大司教であるボ枢機卿様から、ビデオメッセージをいただきました。そのメッセージの中で枢機卿様は、現在のミャンマーの状況を詳しく述べられ、平和を求めて声を上げる教会が暴力にさらされていることを訴えられています。その上で枢機卿様は、「『正義』とは『報復』を意味するのではなく、『互いを認めること』と『悔い改め』を意味します」と強調されています。

 今必要なことは、対立し憎しみを増やすような暴力に暴力を持って対抗することではなく、共に歩み寄り、互いの声に耳を傾けあうことです。

 平和の元后である聖母マリアは、天使のお告げを受け、「お言葉通りにこの身になりますように」と、全身全霊をささげて神の計画の実現のために生きることを宣言されました。

 教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢は、福音に記されているこの聖母マリアの讃歌に明らかに示されています。

 エリザベトを訪問したときに高らかに歌い上げたこの讃歌には、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます」と、神の計画実現とはいかなる状態なのかが明示されています。

 そこでは、この世界の常識が全く覆され、教皇フランシスコがしばしば指摘される、社会の中心ではなく、周辺部に追いやられた人にこそ、神の目が注がれ、慈しみが向けられていることが記されています。

 聖母マリアがその身をもって引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な「救い主の母となる」という役割であるにもかかわらず、その選びを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを、讃歌の中で高らかに歌っています。

 また「身分の低い、この主の仕え女にも、目を留めてくださった」と歌うことで、聖母は、神が何をもって人間の価値を判断しているのかを明示します。それは人間の常識が価値があるとみなす量りで量るのではなく、神ご自身の量りで判断される価値です。

 すなわち、すべての命はご自身がその似姿として創造されたものとして大切なのだ、という、神の命に対する価値観が、そこに明示されています。私たち人間が価値がないと見なすところに、神はご自分が大切にされる価値を見いだされます。

 エリザベトは、「神の祝福は、神の言葉が実現すると信じるものに与えられる」と宣言します。私たちにとって、神のことばが実現することこそが、神の秩序の確立、すなわち神の平和の実現であります。真の平和は、弱い存在を排除するところにはありません。自分の利益のみを考えて、他者を顧みないところには、真の平和は存在しません。「自分の利益のために、他者の命を犠牲にしよう」などと考える、利己的な心の思いのうちに、神の平和は実現しません。

 命に対する暴力がはびこる世界の現実を目の当たりし、十字架上のイエスのもとに悲しみのうちにたたずまれたあの日のように、聖母は今日も私たちが生きる道筋を示そうとたたずまれています。栄光のうちに天に上げられた平和の元后、聖母マリアの御心をおもい、その取り次ぎに信頼しながら、全被造界が神の望まれる状態となるよう、神の平和の実現のために、共に歩んで参りましょう。

 (編集「カトリック・あい」)

2024年8月17日

・「すべての命の尊厳を守るための道は」-菊地大司教、東京教区平和メッセージ

2024年8月10日 (土)2024年平和旬間:東京教区平和メッセージ

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   2024年のカトリック平和旬間にあたり、平和メッセージを記します。8月10日午後5時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われる平和旬間のミサに合わせて、わたしの説教として準備致しましたが、同日は、アフリカのガーナで司祭叙階式の司式を依頼されましたので、不在となります。同日のカテドラルにおける平和を願うミサの司式は、小池神父様にお願いしています。

( 平和を願うミサ  東京カテドラル聖マリア大聖堂   2024年8月10日)

     毎年の夏、社会でもまた教会でも、平和について語り、ともに祈る機会が多く与えられます。平和の季節としての夏の始まりは、6月23日の沖縄での戦争終結の日です。そこからはじまり、8月6日と9日の広島・長崎の原爆忌、そして終戦記念日である8月15日までの間、私たちは過去の歴史を振り返り、平和を求めて祈り、行動します。

   今年の4月、日本の司教団はアドリミナの聖座訪問でローマに出かけ、司教一同で教皇様にお会いしました。日本の教会の様々な出来事について教皇様に報告する中で、沖縄、那覇教区のウェイン司教様は、外国の軍隊がほぼ恒久的に他の国の中に軍事基地を設置し、駐留を続けることの倫理性を、教皇様に尋ね、問題提起されました。もちろんそれは沖縄の現実そのものであります。

    教皇様はこれに対して、外国の軍隊の駐留の倫理性については考えたことはなかったが、重要な課題として是非これから研究してみたいと答えておられました。あの悲惨な戦争の現実から79年が経過しても、今なお、平和のための武力での防衛は維持強化され、結果として平和は実現していません。

    今年の6月23日、沖縄慰霊の日にあたり、ウェイン司教様は、教区に向けた平和メッセージを発表されました。そこにこう記されています。

 「平和・共生・協調の理念は、すべての人の共通の普遍的な願いであるはずなのに、同じ理念を目指しながらも、一方は他者の存在を必要とする立場から『対話』を選びますが、他方では同じ平和を理由にして、自己防衛のためにと『武力』を選択しています」

  ウェイン司教様は、まったく同じ「平和・共生・協調」という理想を掲げながらも、人間はその立場によって、「対話」と「武力の行使」という全く異なる道を選択するのだということを指摘されています。「自分達の安心・安全」だけを中心に平和を考える利己的な姿勢に立つ場合、武力の行使を放棄して対話を選択するのではなく、平和を守るために必要だという理由で、暴力の行使を容認してしまう。それこそは、すなわち、平和を守るために平和を打ち壊すような状況を生み出しているのだと、メッセージの中で指摘されています。

   仮に一人ひとりの命を守ることが最優先であると考えるのなら、武力の行使こそは、なんとしてでも避けるべきですが、実際にはそのような考えは非現実的だと批判されることもしばしばあります。もちろん国際関係の現実を見るならば、国家間の関係が単純には割り切れないものであることは当然です。しかしながら、近年の日本の周囲の情勢を念頭に、防衛のための武力を強化することは平和維持に不可欠だという機運が醸成されている状況は、神の与えられた賜物であるいのちを守るという教会の立場からは、平和を求める本来の道ではありえないことを、常に念頭に置かなくては成りません。

 今、私たちが生きている世界の現実は、 無防備な市民を巻き込んで、命を暴力的に奪い去る出来事で彩られています。いのちに対する暴力は世界各地で頻発し、加えて国家を巻き込んだ紛争が一度始まってしまうと、その終わりを見通すことができません。ロシアによるウクライナへの攻撃で始まった戦争は、2年半が経過しても終わりへの道が見えません。パレスチナとイスラエルの対立は泥沼化し、ガザでは三万七千人を超える人たちのいのちが奪われています。アジアにおけるわたしたちの隣人の状況を見ても、ミャンマーではクーデター後の混乱はまだ続いており、すでに3年を超えて、平和の道筋は見えていません。平和を求めて声を上げるミャンマーのカトリック教会は、暴力的な攻撃を受けています。この数週間の間にバングラデシュでも、混乱が続き、多くの人が命を落としました。

 ヨハネ23世の回勅「地上の平和」は次のように始まります。「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

 果たして私たちが生きているいまの世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。

 そう考えるとき、平和とは単に戦争がないことではないと気がつきます。様々な方法で、賜物であるいのちが暴力的に奪われている状況を、神が望んでいるとは到底思えません。いまの世界に神の平和は実現していません。

 神がご自分の似姿として創造された命には、神の愛が注ぎ込まれています。神は命を賜物として私たちに与えられました。ですから私たちには、命の尊厳を守り抜く責務があります。

 賜物である命に対する暴力を行使し、神の秩序の実現を阻害しているいう視点から現実を見るとき、そこには戦争を越えてさらに多くの現実が見えてきます。

 環境破壊と地球温暖化によって、長年住み慣れた地を追われる人たち。戦争や紛争の結果として故郷を離れざるを得ない難民や国内避難民。命の尊厳をないがしろにする状況の中で生きざるを得ない人たち。思想や信仰や生活のあり方の違いによって社会から排除され、存在を無視されている人たち。様々な口実で暴力的に奪われていく人間の命。ここで指摘することが適わないほど、さらに多くのいのちへの暴力行為があります。

 それらすべては、平和の課題です。一人の命がその尊厳を奪われようとしている現実は、すべからく平和の課題です。神の賜物であるいのちは、その始まりから終わりまで、徹底的にその尊厳を守られ、希望を持って生きられなくてはなりません。

 教皇様は、2017年に、それまであった難民移住移動者評議会や開発援助評議会、正義と平和評議会など、社会の諸課題に取り組む部署を統合し、「人間開発」という名称で一つの部署にされました。この「人間開発」という名称の前には、「インテグラル」と言う言葉がつけられています。日本語では「インテグラル」を「総合的」と訳しています。「総合的人間開発」を担当する部門です。

 教皇様が「ラウダート・シ」を2015年に発表されたとき、第四章にこう書いておられます。

 「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸課題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することのできる展望を求めています(137)」

 現代社会にあってすべての出来事は複雑に関係しており、社会で起こる現実の出来事は複雑さを極め、命の危機はシングルイシューでは解決することができなくなっています。どうしてもインテグラル・総合的な視点が不可欠です。いま私たちの平和の活動には、インテグラルな視点が不可欠です。簡単に善悪と決めつけ、すべてが分かったような気になっているのがいまの社会なのかもしれません。しかし、人間が生み出す現実は、当たり前ですが、そんなに単純ではありません。

 平和について考えるいま、世界の様々な現実を目の前にして、総合的・インテグラルな視点を持ち続けながら、すべての命の尊厳を守るための道を見いだしていきたいと思います。

2024年8月11日

・「無関心は命を奪う」ー6日からの平和旬間を前に、菊地大司教

2024年8月 3日 (土) 週刊大司教第178回:年間第18主日B

   あっという間に8月になりました。8月は特に、6日と9日の広島と長崎の原爆忌に始まり、15日の終戦記念日までの10日間を平和旬間と定められており、平和について語り、平和について祈り、平和について行動する時となっています。東京教区における平和旬間の行事は、こちらの教区ホームページのリンクにある内容で予定されています

 改めて、ですが、本日のメッセージでも触れている司教協議会の会長としての平和旬間の談話はこちらです。そこでも触れていますが、平和は、総合的な視点からみて、この世界における私たちの命の始まりから終わりまで、すべからくその尊厳が守られることによってのみ、確立されます。

 ですから平和を求める動きは、戦争だけではなく、命に関わるすべての出来事を考察の対象としなくてはならず、一年を通じた課題です。8月はその中でも、過去の歴史の経緯から、特に戦争など命に対する暴力に注目しながら、平和を語り祈る時としたいと思います。

 夏休み期間でもあることから、教会学校などの行事もあることでしょう。どうか安全に留意しながら、心と体が豊かに成長する時を過ごされますように、皆さまの安全と霊的成長のためにお祈り致します。

 私は、目黒教会の助任であるマーティン神父を同行者として、ガーナで8月10日に行われる神言会の司祭叙階式を司式するために、まもなくガーナへ1週間、出かけて参ります。日本から数名の方々がご一緒くださることになり、心強く思います。新しい交わりが開かれることを期待しての旅です。

 マーティン神父様自身が、私がガーナで働いていた時の担当小教区の出身者ですが、今回叙階される新司祭の中にも、その同じ村の出身者がおります。その関係で、かつて主任司祭を務めていた私が、叙階式に呼ばれることになりました。通信環境がどうか分かりませんが、随時、現地から報告ができればと願っています。なお次の土曜日、8月10日の週刊大司教はお休みです。次回は8月17日の予定です。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第178回、年間第18主日メッセージ原稿です。

【年間第18主日B 2024年8月4日】

 「私が命のパンである」と宣言される主イエスの言葉を、ヨハネ福音は記しています。集まっている人々は、この世の生命を長らえるための食物を求めているのですが、イエスは永遠の命を与えるパン、すなわちご自身のことを語っておられます。

 私たちはこの世界で生きていますから、「今、どう生きるのか」に関心を寄せてしまいます。しかし、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」とペトロの第二の手紙の三章に記されているとおり、永遠に至る神の救いの計画から見れば、人間の人生における、例えば百年は、一瞬にすぎません。私たち人類は、ほんの短い先すらも見通すことができず、今を生きることに心を囚われて、数々の過ちを積み重ねています。

 その最たるものは、様々な理由をつけて始められる戦争や武力紛争です。確かにその時点の世界における力関係では、戦争だけが選択肢に見えることでしょう。しかし戦争を始めることは、命を危機にさらすことに他なりません。

 神の救いの計画の中では、賜物として神が創造し与えてくださったこの命を、すべからく守り抜くことこそが最も大切であるはずです。にもかかわらず、私たちは短期的な人間の視点から様々な理由を持ち出しては、護るべき命を暴力にさらし続けています。

 ご聖体をいただく私たちは、ご聖体のうちに現存される主との一致のうちに、主が教えてくださる道を歩むように務めることで、自分自身の救いのためだけではなく、人類全体の救い、すなわち「神の救い」の計画に与り、その計画の実現のために働く者となります。視点を自分のうちだけに留め、短期的な思惑に振り回されることなく、ご聖体に現存される主イエスに生かされて、常に新たにされ、神の視点で世界を見るものでありたいと思います。

 8月は、平和について思いを巡らし、平和を祈る時であります。広島、長崎における原爆忌から終戦の日までの10日間を、日本の教会は平和旬間と定めています。

 平和旬間にあたり、司教協議会の会長談話を発表しています。今年はテーマを、教皇様が繰り返される言葉に触発されて、「無関心は命を奪います」といたしました。

 教皇聖ヨハネ23世の「地上の平和」の冒頭には、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることも」ないと記されています。

 したがって、神の定めた秩序の実現を妨げる出来事は、そのすべてが平和の実現を阻んでいると教会は考えます。もちろんその筆頭には、神からの賜物である命を暴力的に奪う戦争や紛争があるのは間違いがありません。

 しかし同時に、神の定めた秩序の実現を阻む状況とは、武力の行使だけにとどまらず、ありとあらゆる命への暴力がそこには含まれています。神の秩序の実現を妨げ、人間の尊厳をないがしろにする現実は、神の平和の実現を阻害するものです。あらためて平和の実現を、祈りたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2024年8月3日

・「希望を生む触媒は、共に歩むことで生まれる交わり」-菊地大司教の年間第17主日メッセージ

2024年7月27日 (土)週刊大司教第177回:年間第17主日B

   2024_07_07_rca_00627月も最後の日曜日となりました。全国的に暑い毎日が続いております。大雨で土砂災害や洪水の被害に遭っている地域も多くあります。被害を受けられた多くの皆さまに、心からお見舞い申し上げます。

    中央協議会からは、この数日の間に、様々な出版物が出ました。まずは聖年の大勅書「希望は欺かない」です。これは高見大司教様が翻訳をしてくださいました。税込み220円の定価のついた小冊子としてあります。聖年に向けた準備として、是非手元に置いてください。またできる限り多くの肩に触れていただきたく、テキストをそのまま中央協のホームページに掲出してありますので、ご活用ください。

    なお同時に発表された聖年に伴う教皇庁内赦院の「教皇フランシスコにより発表された 2025年の通常聖年の間に与えられる免償に関する教令」は、翻訳を中央協議会のこちらのリンクから読んでいただくことができます。

   またすでに様々な方が触れてくださっていますが、久しぶりの司教団全員一致で発出した司教団メッセージとしての「見よ、それはきわめてよかった」も、出版されています。こちらも定価がついた小冊子ですが、特に内容を多くの方に読んでいただきたく、無料でテキストを中央協議会のサイトに掲出しております。どうぞご活用ください。

   教皇様の「ラウダート・シ」に触発されて、司教団は総合的エコロジーの視点を持つことの重要さを強調しており、メッセージの内容もさることながら、「ラウダート・シ・デスク」を司教協議会に設置し、成井司教様を責任者に、今後各地で啓発のためのプログラムを展開していくことになっています。

  東京教会管区でも、9月7日の午前中に、東京でシンポジウムを行いますが、これについては別途お知らせします。なおこちらのリンクは新潟教区のホームページですが、担当の成井司教様が、早速シンポジウムの案内を掲出されていますのでご覧ください。またデスクの責任司教である成井司教様と担当のアベイヤ司教様のお二人で、このメッセージについて解説したビデオが作成されています。こちらのリンクからYoutubeでご覧いただけます。是非。

  さらに、先日の司教総会で司教様方に報告された今年の平和旬間のための私が書いた司教協議会会長談話「無関心は命を奪います」も、すでに公開されています。こちらのリンクから是非一度ご覧いただければと思います。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第177回、年間第17主日メッセージ原稿です。

【年間第17主日B 2024年7月28日】

 ヨハネ福音は、「五つのパンと二匹の魚」の物語を記しています。

 一人の少年が捧げたのは、五つのパンと二匹の魚でしたが、そこに集まった五千人を超える人たちの空腹を満たした、という奇跡物語です。

 この物語は、少ない食べ物が多くの人を満たしたと言う奇跡の物語であると同時に、自分が持つ数少ないものを守るのではなく、他者のために惜しみなく分かち合ったときに生まれる「愛の絆の物語」でもあります。

  教皇フランシスコは2015年7月26日のお告げの祈りの際にこの福音の箇所に触れ、次のように述べておられます。

  「イエスは『買う』という論理の代わりに『与える』という別の論理を用いています」

 その上で教皇は、この物語が、ミサを通じて主の食卓にあずかり、主イエスご自身の現存である御聖体によって生かされることで教会共同体にもたらされる、共同体の交わりにおける霊的な一致の意味を改めて考えさせる、と指摘されます。

 教皇はそのことを、「ミサにあずかることは、イエスの論理、すなわち無償の論理、分かち合いの論理に分け入ることを意味します。また、私たちは皆、貧しいからこそ、何かを与えることができます。「交わる」ことは、自分自身や自分が持っているものを分かち合えるようにしてくださる恵みを、キリストから受けることを意味するのです」と記しておられます。

 さらに教皇は、私たち一人ひとりを「与える」ことへと招かれて、こう述べておられます。

 「私たちは確かに、一定の時間や何らかの才能、技能を持っています。『五つのパンと二匹の魚』を持っていない人などいるでしょうか。私たちは皆、それらを手にしています。もし、私たちが主の御手にそれらを委ねたいと望むなら、世界が少しでも愛、平和、正義、そしてとりわけ喜びに満たされるのに、それらは十分、役立つでしょう」

 世界は「希望」を必要としています。とりわけ、各地で頻発し、なおかつ解決の道が見いだせない武力による対立は、多くの命を危機に陥れ、絶望を生み出しています。世界は希望を必要としています。

 希望は、どこからか持ってこられるような類いのものではなく、心の中から生み出されるものです。心の中から希望を生み出すための触媒は、共同体における交わりです。互いに支え合い、共に歩むことによって生まれる交わりです。少ない中からも、互いに自らが持っているものを分かち合おうとする心こそは、交わりの共同体の中に希望を生み出す力となります。

2024年7月27日

・「福音宣教は、沈黙のうちの振り返りの祈りの時に支えられる必要」菊地大司教、年間第16主日メッセ―ジ

2024年7月20日 (土) 週刊大司教第176回:年間第16主日B

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  東京は梅雨が明け、本格的な夏となりました。

   臨時司教総会が7月16日午後から19日昼まで、潮見にある日本カトリック会館で開催され、全国15の教区から17名の現役司教と男女修道会の代表4名が集まりました。

   開会にあたって、着任されたばかりの新しい教皇大使モリーナ大司教様が潮見までおいでくださり、挨拶をしてくださいました。モリーナ大司教は、以前、参事官として日本で働いた経験もあるので、司教団の中にも、私を含めて大使を存じ上げているものもおりますし、また教会の中には、以前の参事官としての任期の時に交流があった共同体もある、と聞いています。大使ご本人も、改めて日本に着任されたことをお喜びで、「これから全国各地の教会をできる限り訪問したい」という意向を表明されています。

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 具体的な司教総会の決定などについては、別途、中央協議会のホームページなどをご覧ください。ただ一点付け加えるなら、今回の総会中に、会長選挙を行いました。現在の私の会長任期は来年6月に開催される定例司教総会までとなります。したがって次期会長の任期は2025年6月から3年間となります。

 選挙の結果、私が再選され、改めて来年の6月以降3年間、会長を続投することになりました。どうぞよろしくお願い致します。

 また同時に行われた選挙で、梅村司教様が副会長に、大塚司教様が事務局担当に再選され、常任司教委員会のメンバーも数名が入れ替わることになりました。これについても、別途お知らせ致します。

 また、8月の平和旬間に先立って、今年は会長談話を用意させていただきましたが、これについても司教団の承認をいただき、中央協議会のホームページなどに掲載されることになります。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第176回、年間第16主日メッセージ原稿です。

【年間第16主日B 2024年7月21日】

 マルコ福音は、先週の続きで、福音宣教に派遣された弟子たちが共同体に戻り、宣教活動における成果を報告すると、イエスは観想の祈りのうちに振り返るように招かれたと記します。

 シノドス(正解代表司教会議)通常総会・第一会期の最終文書は、信仰養成について触れた箇所で、次のように記しています。

  「イエスが弟子たちを養成した仕方は、私たちが従うべき模範です。イエスは単に教えを授けるだけでなく、弟子たちと生活をともにしました。自らの祈りによって、『祈ることを教えてください』という問いを彼らから引き出し、群衆に食事を与えることによって、困っている人を見捨てないことを教え、エルサレムへ歩むことによって、十字架への道を示しました(14項b)」

 今日の福音では、実際に宣教に出かけて戻ってきた弟子たちに、「しばらく休むが良い」と休息をとることを勧めた話になっていますが、これは単に身体的な休息だけではなく、霊的な休息、すなわち観想と祈りにおける振り返りの必要性を、弟子たちに教えられた話です。

 イエスご自身も、人々の間での様々な教えや具体的な行動の前、朝早くまだ暗いうちに、人里離れた所に出て行かれ、一人で祈られたことが、他の箇所に記されています。ご自分の使命を果たす力を、観想の祈りから得ておられた主イエスは、まさしくやってみせることで、弟子たちにその重要性を示しました。

 シノドス第一会期の最終文書は、シノドス的な教会共同体であるために必要な要素を記している箇所に、次のように記しています。

 「イエス・キリストを人生の中心に据えるには、ある程度、自己を空にすることが必要です… 各人が自分の限界と自分の視点の偏りを認識することを強いる、厳しい禁欲的な実践です。このため、教会共同体の境界を越えて語りかける神の霊の声に耳を傾ける可能性が開かれ、変化と回心の旅を始めることができるのです(16項c)」

 シノドス的な教会を求める旅路には、例えば霊における会話のように重要な道具が用意されています。霊における会話が強調されることで、それをその通りに行うこと自体が重要視されてしまうきらいがありますが、あくまでもそれは重要ではあるが、道具の一つに過ぎません。

 霊における会話のプロセスの中で大切なことは、やはり「沈黙」と「祈り」です。もちろん参加者がそれぞれの思いを語ることと耳を傾けることは重要ですが、沈黙のうちに共に祈ることを欠いていては、霊における会話は成り立ちません。沈黙の祈りは考え込む時ではなく、「自己を空にする時」であります。「自分の限界と自分の視点の偏りを認識する時」でもあります。

 私たち教会の福音宣教の活動は、必ずや沈黙のうちの振り返りの祈りの時に支えられていなくてはなりません。

(編集「カトリック・あい」)

2024年7月20日

・「私たちの教会がシノドス的な歩みをする共同体かどうか、真摯に振り返る必要」菊地大司教の年間第15主日メッセージ

2024年7月13日 (土) 週刊大司教第175回:年間第15主日B

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 七月も半ばに入り、暑い日が繰り返し不安定な天候が続いています。大雨の被害を受けられた方々に、お見舞い申し上げます。

 今年は、ちょうど20年前、新潟の司教に任命された直後のこの時期、新潟の三条市周辺で大雨による洪水被害がありました。被災地に、当時の主任であった佐藤神父様や、故川崎神父様と、自転車に乗って出かけて行ったことを思い起こしております。

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 一週間前の土曜日、晴天で暑い日でしたが、カトリック府中墓地において、三名の東京教区司祭の納骨式を執り行いました。府中墓地に入ると過ぎ左手に事務所や聖堂がありますが、その前にあるのが、東京教区司祭の共同納骨墓です。

 このたびの納骨式は、2024年2月13日に帰天されたパドアのアントニオ泉富士男神父、2024年4月11日に帰天された使徒ヨハネ澤田和夫神父、2024年5月20日に帰天された使徒ヨハネ小宇佐敬二神父の三名でした。この三人の司祭方は、小教区でも活躍されましたが、同時にそれぞれ独特な使徒活動において大きな功績を残されました。その中でも澤田神父様にあっては104才の長寿を全うされ、長年にわたり独自の霊性で多くの人に深い思い出を残されました。

  以下、本日午後6時配信、週刊大司教第175回、年間第15主日のメッセージ原稿です。

【 年間第15主日B 2024年7月14日】

 マルコ福音は、イエスが十二人の弟子たちを呼び集め、二人ずつ組にして、福音宣教のために送り出したことを記しています。改めて強調するまでもなく、私たちの信仰は、共同体によって成り立っています。もちろん一人ひとりの個人的な回心と決断が不可欠であるとはいえ、私たちの信仰は常に共同体の中で育てられ、共同体を通じて具体的に実現していきます。

 教会とは礼拝の場所のことではなく、共同体です。

 今進められているシノドスの道のりは、まさしく、教会が共同体によって成り立っていることを私たちに思い起こさせ、その共同体における共同の識別が不可欠であることを自覚するように促しています。

 今日の福音に記されている、イエスが弟子たちを一人ずつではなく二人の組で派遣された事実は、宣教の業が個人プレーなのではなくて、共同体の業であることを明確にさせます。また、準備万端整えられたプログラムを実施するのではなく、日々の生活における他者との交わりにあって、支え合いと分かち合いを通じて福音が伝わっていくことが示されています。福音は共同体の交わりのうちに実現します。

 シノドスの(道の)歩みが求めている、互いに耳を傾けあい、互いに支え合い、互いに祈り合うことこそは、私たちの信仰が共同体の中で育てられ、共同体の中で実現し、共同体を通じて告げ知らされていくことの具体化の道です。

 教皇フランシスコは使徒的勧告「福音の喜び」に、「神は人々を個々としてではなく、民として呼び集めることをお選びになりました。一人で救われる人はいません(113項)」と記し、教会は共同体として救いの業に与っていることを強調されます。

 世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会の第一会期の総括文書には、「共同体」という言葉が80回以上使われ、シノドスの(道の)歩みが、まさしく共同体としての教会のあり方を問いかけていることを明確にしています。その第三部、「絆を紡ぎ、共同体を築く」には次のように記されています。

 「イエスが弟子たちを養成した仕方は、私たちが従うべき模範です。イエスは単に教えを授けるだけでなく、弟子たちと生活をともにしました… 福音書から、私たちは、養成とは単に自分の能力を強化するだけ、またはそれを中心にするだけではなく、敗北や失敗さえも実りあるものとする、御国の「論理」へ回心することだ、と学ぶのです」

 その上で総括文書は、「聖なる神の民は、養成の対象であるだけでなく、何よりもまず、養成にとって共同責任のある主体です… 一人ひとりが自分のカリスマと召命に従って、教会の宣教に能動的に参加できるようにすることなのです」と記しています。

 私たちは、弟子たちのように、主御自身によってこの世界に派遣されています。その派遣は、私たちが「自分のカリスマと召命にしたがって、教会の宣教に能動的に参加」することで実現します。そのためにも私たちは、信仰を育む私たちの信仰共同体が、シノドス(共働性)的な歩みをする共同体であるのかどうか、真摯に振り返ってみる必要があります。

(編集「カトリック・あい」)

2024年7月13日

・「今、教会に必要なのは、聖霊の導きに勇気を持って身を任すこと」菊地大司教、年間第14主日メッセージ

2024年7月 6日 (土)週刊大司教第174回:年間第14主日B

 年間第14主日です。

 7月の16日から19日まで、司教総会が開催されます。毎年、2月と7月の二回、ほぼ一週間の日程で全国の司教が集まり、様々な課題について司教の意見を交換する機会となります。現在その議題を最終調整しているところですが、今回は、一年先の2025年6月以降に任期が始まる司教協議会の会長などの役職や常任委員会の委員の選挙も行われます。なぜこんなに早く選挙をするのかと言えば、それは次に定時の総会をする予定が来年の2月であって、そこで選任していたのでは、委員会の担当者などの諸般の調整が6月に間に合わなくなるからです。

 ちなみに、「司教協議会」というのは教会の内部の組織としての名称で、各教区の教区長である司教は任命権者の教皇様に直結しており独立していますが、その地域や国に共通の課題に取り組んだり調整を図ったりするための、いわば一定の地域の「司教の協力互助組織」として司教協議会は存在しています。「普遍教会の内部の組織」であるので、名称は、「日本カトリック司教協議会」です。

 もう一つの「カトリック中央協議会」というのは、「日本における法律に基づいた法人組織」の名称です。日本の法律に基づいて日本にあるので、その名称には「日本」はついていません。なお日本の法律に基づく法人としては、日本にある15の教区はそれぞれが独立した宗教法人であり、また修道会もそのほとんどが、それぞれ独立した宗教法人となっています。また教会が関わる様々な事業体も、そのほとんどが日本の法律に基づいて学校法人や社会福祉法人などなどとして独立した法人組織になっています。

 ところでこの司教総会に合わせて、日本のシノドス特別チームは、シノドス(共働性)への取り組みの今後の道筋を明確にするためにハンドブックを作成しました。製本したハンドブックも各教区などにサンプルとして無料で配布しますが、主に中央協議会のホームページからダウンロードしてご利用いただけるように考えております。これは公表した段階で、またお知らせします。

 「『霊における会話』をしばしば耳にするが、実際にどこでそれをしているのか分からない」という質問も届いています。即座にどこでもそれを始めるとが可能ではないことも、心に留めてください。「霊における会話」ができれば、”シノドスの道”が完成する、ということではないのです。それは、共同で方向性を見極める(聖霊の導きの共同識別)ための強力なツールであることは間違いないのですが、それだけですべてが完成するわけでもありません。

 これまでもお話をする機会があれば繰り返していますが、今回のシノドスで教皇様が目指しているのは、まず何か新しいことを決めて始めることではありません。また教会の組織を改革することでもありません。教皇様が目指しているのは、「息の長いスパンで考えて、教会の体質を改善すること」です。教会がシノドス的な体質となるために、今後も時間をかけて、徐々に体質改善に取り組もうとされています。

 東京教区でも、様々なメディアで語りかけていますが、同時に宣教司牧評議会の皆さんや、司祭の集まりなどで、霊における会話の実践やシノドス的な歩みについて、これから何ヶ月もかけて、繰り返し繰り返し、取り組んでいきます。

 その息の長い、そして少しづつの取り組みを通じて、徐々にそれが教区全体に浸透していくようにしたい、と思います。そうでないと、一時的なイベントで終わってしまいます。最終的には、今年の10月の第二会期が終わり、その答申に基づいて、教皇様が来年に発表するであろうシノドス(世界代表司教会議)総会後の使徒的書簡が、これからの私たちの羅針盤になろうかと思います。ですので、焦ることなく、できることから徐々に、浸透させていく忍耐を持ってくださることを希望します。

 なお、今年10月のシノドス総会第二会期のための作業文書は、来週中にもバチカンの事務局から発表される見込みです。できる限り早急に、翻訳して公開できるように努めます。

 東京都では、7月7日が都知事選挙の投票日です。せっかく手にしている権利です。投票を通じて意思表示をする権利は無駄にしないようにいたしましょう。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第174回目、年間第14主日のメッセージ原稿です。

【年間第14主日B 2024年7月7日】

 「正常性バイアス」という言葉があります。災害などに直面しても、いつもの生活の延長上で物事を判断し、都合の悪い情報を無視することで、根拠のない「自分は大丈夫」「まだまだ大丈夫」などという思い込みが、災害時の被害を大きくすることだと、ネット上などにはその意味が書かれています。

 私たちは多くの場合、人生の中での大きな変化を嫌います。特に予測できない出来事に出会ったとき、判断能力をその出来事が超えてしまい、いつもの経験に基づいて判断しようとして、実像を把握することができません。

 「私は弱いときにこそ強いからです」と逆説的な言葉をコリントの教会への手紙に記すパウロは、人間の思い描く理想とは異なる、いわば逆説の中に、神の真理は存在していることを指摘しています。私たちの判断能力を遙かに超える神の働きを知ろうとするとき、人間の常識にとらわれていては、その実像を把握することはできない、とパウロは指摘します。

 いわば信仰における「正常性バイアス」を捨て去り、人間の力の限界を認めたときに初めて、「キリストの力が私のうちに宿」り、その本来の力を発揮するのだと、パウロは指摘します。

 マルコ福音に記されたイエスの物語は、この事実を明確に示します。目の前に神ご自身がいるにもかかわらず、人々の心の目は、人間の常識によって閉ざされ、神の働き直視することができません。判断する能力を遙かに超えることが起こっているために、都合の悪い情報から目を背け、自分の常識の枠内で判断しようとするのですから、神の子の言葉と行いを、故郷の人々は理解することができません。

 思い上がりのうちに生きている人間は、簡単に過去の常識の枠にがんじがらめにされ、自分たちが正しいと思い込んで選択した行動が、実際には神に逆らう結果を招いていることにさえ、気づきません。

 昨年10月にバチカンで開かれたシノドス(世界代表司教会議)総会の第一会期で、教皇様は幾たびも会場に足を運び、集まった私たちに「聖霊が主役です。あなた方が主役ではありません。あなた方が何をしたいのかを、聞きたいのではありません。聖霊が私たちに何を語りかけているのかを、聞きたいのです」と繰り返されました。

 教皇様は、使徒的勧告「福音の喜び」の中で、「宣教を中心とした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てねばなりません(33項)」と呼びかけられました。

 今、教会に必要なことは、前例にとらわれて自らの常識の枠にがんじがらめになることではなく、自らの弱さを認め、神の働きを識ることができるように、聖霊の導きに勇気を持って身を任すことです。

(編集「カトリック・あい」)

2024年7月6日

・「少女の命をよみがえらせたイエスに倣う」菊地大司教の年間第13主日

2024年6月29日 (土)週刊大司教第173回:年間第13主日B

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年間第13主日となりました。

 この日曜日、東京教区の築地教会では、150周年を感謝するミサが捧げられます。築地教会は1876年から1920年まで、東京大司教区の司教座聖堂とされていました。その歴史は、東京教区のホームページに詳しく記載されています。

 それによれば、「横浜から派遣されたマラン神父とミドン神父(共にパリ外国宣教会)は1871年秋ごろ東京に入り、宣教を始め」、さらに「1872年には千代田区三番町にラテン学校(神学校)を開校し、70人余りの学生を収容」と初期の発展を続けました。そこで当時の宣教師たちは、「宣教の発展のために、借家の仮教会を出て、築地の居留地内に教会を建てる」ことを決意し、それが1874年11月22日、築地教会として聖堂が献堂されることになりました。東京大司教区は1891年に大司教区として独立しましたので、当初からこの築地教会が司教座指聖堂とされたのは自然の成り行きで会ったかと思います。

 現在の主任司祭は、コロンバン会のレオ神父様で、築地教会にコロンバン会の日本の本部が置かれています。

 日本カトリック小中高連盟が主催の、第33回全国カトリック学校校長・教頭合同研修会が、6月27日と28日に、名古屋で開催されました。日本にあるカトリック学校は、幼稚園から大学まで、それぞれ連盟組織を持っており、全体として日本カトリック学校連合会を構成しています。この連合会は一般財団法人で、司教団から顧問の司教が出ていますが、司教協議会からは独立した、学校主体の組織です。司教協議会には、カトリック学校教育委員会が設けられており、現在は前田枢機卿と酒井司教が担当しています。こちらは司教協議会の組織です。この二つが、両輪となって、カトリック学校教育を推進しています。司教協議会側はどちらかというと理念に関して、連合会側は具体的な学校運営を取り扱います。

 今回の研修会は、学校連合会の主催ですので、具体的な学校運営の問題などについて、意見交換する場で、今回の研修会のテーマは「現代のグローバルな課題にカトリック学校はどう答えることができるのか」とされていました。

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 初日には、私と、成井司教、長崎南山の西校長が講演しましたが、三名とも神言会会員です。というのも、今回の企画の中心には名古屋の南山中高の方々がおられ、南山は神言会が経営母体です。私は、シノドスのことから始まって、それが単に今年の10月で終わって何か結論が出るようなものではなくて、これからも先の息の長い教会の体質改善の取り組みであり、その「教会」には、教育機関も含まれていることなどをお話ししました。(なお右の写真は当日会場ですが、私と成井司教と、その後ろは名古屋の南山中高の赤尾校長です)

 成井司教は、カリタスジャパンの取り組みについて解説をされました。特に災害などが起こると、真っ先に募金協力してくださる一つが、学校です。西校長は、この界隈では有名な、笑って泣かせる話をする教育者です。

 全国から120名を超える校長・教頭が参加されました。28日は南山大学で研修会が継続され、11時から、松浦司教様司式で、閉会ミサが、南山大学キャンパスに隣接する神言神学院で捧げられます。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第173回、年間第13主日のメッセージ原稿です。

【年間第13主日B 2024年6月30日】

 マルコ福音は、会堂長ヤイロの幼い娘が病気で伏せっていたときに、その父親の願いに応えてイエスが出かけたときの出来事を記しています。

 すでになくなったと言われる少女が、イエスの一言によって命を取り戻したのですから、この奇跡物語は、病気などの予期せぬ状況によって希望を奪われ、人生の絶望の淵にある人たちが、イエスとの出会いによって生きる希望を取り戻した話であります。

 同時に、この物語でのイエスの言葉には、それ以上の意味が込められています。

 「タリタ、クム。少女よ、私はあなたに言う。起きなさい」

 病のために命を十全に生きるすべを奪われた少女に、イエスは命をよみがえらせることによって、自ら立ち上がり、自らの運命の手綱を握って、歩み始めるようにと力を与えます。

 この言葉は、単に命をよみがえらせた奇跡の言葉ではなく、人間の尊厳を奪われているすべての命に対して、その命を十全に生きる道を自ら切り開いていく力を与える言葉でもあります。

 そう考えるとき、今、世界の現実の中には、人間の尊厳を奪い去り、希望を奪い去り、絶望の淵へと追いやるようなありとあらゆる理由が存在しています。もちろん、戦争はその最たるものですが、同時に教会は、この「タリタクム」の言葉に促されて、様々な自由から強制的に尊厳を奪われる人身取引の課題にも心を砕いています。

 15年前に、女子修道会国際総長連盟が中心となり、世界の様々な人身取引の問題にカトリック教会として取り組むために設立されたネットワークは、その名をこの主イエスの言葉から取り、「タリタクム」と名乗っています。日本でもその活動は行われています。

 教皇様は今年の5月に行われた「タリタクム」の総会にメッセージを送り、その中で、「人身取引は組織的な悪であるからこそ、私たちも組織的に、また様々なレベルで取り組む必要がある」と述べ、その上で、「被害者の傍に立ち、彼らに耳を傾け、自分の足で立ち上がれるようにと手を貸し、一緒になって人身取引に対抗する行動をすることが大切だ」と強調されました。

 人身取引は、遠い世界の話ではなく、日本社会の現実の中でも発生しており、日本政府自身も「『人身取引』は日本でも発生しています。あなたの周りで被害を受けている人はいませんか?」と政府広報で啓発しているほど、世界の深刻な問題となっています。

 命を生きるようにと少女に手を差し伸べ、その尊厳を回復させた主イエスに倣い、私たちもこの世界の中で、人間の尊厳を奪われ絶望の淵に追いやられている多くの人が、自らの足で立ち上がることのできるように、心を配りたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2024年6月30日

・「主は絶望や苦しみの中にある私たちと、いつも共におられる」-菊地大司教の年間第12主日

2024年6月22日 (土)週刊大司教第172回:年間第12主日B

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 年間第12主日となりました。本日の日曜日は、聖ペトロ使徒座への献金の日でもあります。教皇様が様々に行う支援活動や福音宣教活動ですが、特に近年、支援援助省を独立させてからは、直接的な支援のために長官のクライェウスキ枢機卿を、例えばウクライナへ直接派遣したりして積極的に展開されています。かつてこのクライェウスキ枢機卿の部署の管轄は、教皇様の祝福の文書をリクエストがあった世界各地に送付する業務が主でした。いまでもその業務は続けられており、様々な機会に、教皇様からの祝福の文書を目にすることがあります。

 その部署に教皇様は、直接的な援助をさせることにして、枢機卿を責任者として、一つの役所として独立させました。そういった教皇様の活動を支えるのが、世界中で本日行われる、聖ペトロ使徒座への献金です。6月29日の聖ペトロ聖パウロの祭日の直前の日曜日に行われることになっていますので、今年は23日の日曜日です。教皇様の活動を支えるための献金をお願いいたします。

 なお東京教区では、同祭日の近くの月次司祭集会の日に、司祭が集いミサを捧げ、その年に叙階金祝銀祝を迎える司祭への祝福を友に祈ることになっています。今年は、24日の月曜日にこのミサが捧げられ、新しく着任されたエスカランテ教皇大使も参加される予定になっています。なお金銀祝を迎える司祭については、別途、教区のホームページなどでお知らせします。

 東京都では都知事選挙が始まりました。世界の各地に、この民主的で自由な選挙を手に入れるために闘わざるを得ない人たち、それがないために尊厳をないがしろにされている人たちが多くいることを考える時、日本では当たり前のように行われる選挙を、面白おかしく、あえて言えば愚弄するような行動があることは、残念と言うよりも、悲しいことです。とは言え、何らかの形で選挙の存在と意味を考える機会にもなっていると前向きに捉え、一人でも多くの人が忘れることなく権利を行使することを願っています。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第172回、年間第12主日のメッセージ原稿です。

【年間第12主日B 2024年6月23日】

 人生を生きていく中で、私たちはしばしば困難に直面し、自分でなんとか解決できることもあれば、誰かの助けがなければ立ち上がることすらできないほどの危機に直面することもあります。

 中でも、命の危機をもたらす暴力的な状況に置かれたとき、例えば戦争が続いているウクライナや、多くの人が命の危機に直面しているガザの現実などの中で、どれほどの命が、今この瞬間に、誰かの助けが必要だ、と感じていることでしょう。助けを必要としている人がこれだけ世界には存在しているのに、世界のリーダーたちはその危機的状況を解決するよりも、深刻化させるために知識と資金を費やしているようにしか見えません。

 「先生、私たちが溺れてもかまわないのですか」

 マルコ福音に記されているこの弟子たちの叫びは、今の時代を生きている私たちの叫びでもあります。命の危機に直面し、解決の糸口が見えないまま取り残されている私たちにとって、現実はまさしく、「荒波に翻弄される舟の中に取り残された弟子たち」の姿であります。

 世の終わりまで共にいてくださる、と約束された主は、恐れにとりつかれ、孤独のうちに命の危機に直面している一人ひとりに対して、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語りかけます。それは決して、「信仰が弱いからだめなのだ」などと批判する言葉ではありません。それはまさしく荒れ狂う湖に翻弄される舟の中に、弟子たちだけがいたのではなく、主御自身も共におられた事実を、改めて弟子たちに思い起こさせる言葉であります。「私はここに共にいる」と、慰めを与える慈しみの言葉であります。

 そして今日、命の危機に直面し、恐れに捕らわれる私たちに対して、主は改めて、「私はここに共ににいる」と、慰めの言葉を与えてくださいます。主は共におられます。

 2025年の聖年を告示する大勅書「希望は私たちを欺くことがありません(ローマの信徒への手紙5章5節)」を発表された教皇様は、私たちがこの世界にあって「希望の巡礼者」として生きることを呼びかけます。特に教皇様は、この聖年を主が与える「時のしるし」を読み取る機会としながら、私たちが「悪と暴力に打ち負かされてしまった」と思い込み、恐れに捕らわれる誘惑に勝つために、「今日の世界に存在する善」に目を向けることを忘れないように勧められます。この世界は、絶望だけが満ちあふれているのではなく、希望を生み出す善は存在していることを、教皇様は強調されます。

 その上で、「時のしるし」を良く読み取り、それを「希望のしるし」に変容するように、と私たちを招いておられます。

 私たちの一番の希望の源は、「命の与え主である主御自身が、いつまでも私たちと共にいてくださる」という確信です。「私たちは命の主から見捨てられることがない」という確信です。主は絶望や苦しみの中にある私たちと、いつも共におられます。

(編集「カトリック・あい」)

 

2024年6月22日