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・「枢機卿となって、私自身が先頭に立ち、『主の道を真っすぐにせよ』と叫ぶ覚悟を持たねば」菊地大司教、待降節第2主日に
2024年12月 7日 (土)週刊大司教第188回:待降節第二主日C
待降節第二主日です。
この数日間、私は、12月7日夕刻に開催される枢機卿会に出席するため、ローマに滞在し、準備をしております。枢機卿としてこれからどのような形で普遍教会に寄与することができるのか分かりませんが、これまで通り、まず第一の務めである東京教区の教区大司教としての役割を忠実に果たしていきたいと思います。同時に教皇様が求める役割があるのであれば、それにも常に忠実でありたいと思います。
この12月16日で、2017年に東京の大司教に着座してから七年となります。七年と言えば十分な時間と言えますが、しかし残念なことにそのうちのおおよそ半分ほど、特に2020年の春頃から三年程度の期間は、コロナ感染症への対応のために、通常の取り組みがほとんどできずに過ごしました。ですので、着座から7年が経過したと言っても、実質的には半分程度しか務めを果たしていません。時宜を逸したことも多々あります。残念です。
とりわけ2019年11月に教皇様が訪日され、大きなインパクトを残されたその直後から、教会活動がほぼストップしてしまったのは、本当に無念でした。教皇様の言葉を受けて考えられた様々な企画は、そのためにすべて消え失せてしまいました。教皇様が外国訪問をされた後には必ず行われる、答礼のローマ巡礼すら実施することができませんでした。
今般、訪日5周年を記念して、12月11日の夕方には麹町教会で司教団の主催で訪日記念ミサを捧げ、上智大学構内で様々な催しを行いますが、ちょうどシノドスも終わり、現在、最終文書を翻訳するために正式な英語訳が出るのを待っているところですが、正式英語版が公表され次第、日本語訳に取り組み。この訪日5周年と併せて、年明け2月の司教総会での議論を経て、全国的な取り組みを進めていきたいと考えています。
以下、本日午後6時配信、週刊大司教第188回、待降節第二主日のメッセージです。
【待降節第二主日C 2024年12月8日】
12月7日、私はバチカンの聖ペトロ大聖堂において、教皇様より枢機卿の称号をいただきます。枢機卿とは単なる名誉職ではなく、教皇様の顧問団の一人として、教会全体において役割を果たしていくことが求められる立場です。その求められている役割を果たすには、自分が十分ではないことをよく自覚し、恐れの中で震えております。私が求められている務めを忠実に果たすことができるように、これからも皆様のお祈りによる支えをお願い申し上げます。
洗礼者ヨハネの出現を伝えるルカ福音は、イザヤ書を引用しながら、ヨハネが救い主の先駆者であることを教えています。洗礼者ヨハネは「荒れ野」で、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声だと記されていますが、その響き渡る声によって、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と福音は記します。
私たち教会も、現代社会という「荒れ野」に生きています。命を奪う暴力がはびこり、戦争が続き、利己的な価値観が支配する「命の荒れ野」に生きています。その現代の「命の荒れ野」のただ中にあって、教会は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と呼びかける声であり続けたい、と思います。
枢機卿がいただく正装の色は深紅です。それは福音のために殉教すら厭わない、という決意を象徴しています。ですから私自身が教会の先頭に立って、現代社会に向かい、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ覚悟を持たなくてはなりません。同時にそれは教会全体の務め、すなわちキリストに従う皆さんと共にある教会の務めです。
この「命の荒れ野」のただ中に立つ教会と歩みを共にしてくださるのは聖母マリアです。12月8日は無原罪の聖母の祭日ですが、今年は待降節第二主日と重なるために、翌日に変更となっています。聖母マリアは、傷ついた私たちを神の愛で包み込み、共に歩み、共に「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声になってくださいます。
共に歩んでくださる聖母の取り次ぎに信頼しながら、これからも共に、荒れ野に響きわたる先駆者の声であり続けましょう。
・「共に旅路を歩み、希望を言葉と行いで証しし続ける『希望の巡礼者』」―待降節第1主日の菊地大司教メッセージ
2024年11月30日 (土) 週刊大司教第187回:待降節第一主日C
典礼の暦では新しい一年が始まり、今年の12月1日は待降節第一主日です。
2025年1月1日に統合される千葉寺教会と西千葉教会は、典礼暦が新しくなる今日から、一緒に典礼に与ることになり、新しい出発への感謝ミサが捧げられます。
小教区の統合は簡単に決めることでもなく、簡単に実現すべきことでもありません。それぞれの小教区共同体には、その創設から現在に至る歴史があり、そこには多くの方が関わってこられ、共同体を生み出し育て上げるために尽力された事実が残っています。千葉県においては、特にコロンバン会の宣教師の皆さんと、協力された信徒の方々の多大な労苦と挑戦の結果として、現在の小教区教会が存在しています。
今回の統合にあたって、尽力された多くの方々の様々な形での捧げに、心から感謝したいと思います。またこれまで、特に千葉寺教会の維持管理発展のために貢献してくださった多くの方々のご苦労に、心から敬意を表し、感謝申し上げます。
小教区共同体は単なる組織体ではなくて、神の民の集まりとして生きた共同体です。キリストにおける共同体は「二人三人が、私の名の下に集まるとき、私はそこにいる」と約束された主の言葉に従い、二人のキリスト者がいるところから始まるからに他なりません。その意味で、小教区教会という拠点の建物にだけキリスト者の共同体は存在するわけではなく、様々なところに様々な形で共同体は存在しています。
このたび一つの拠点がなくなるという事実を踏まえ、小教区という包括する共同体に様々な理由から加わることのできない方々の存在に、心を向けたいと思います。新しい小教区の誕生が、忘れられるキリスト者を生み出すことのないように、心配りたいと思います。
以下、本日午後6時配信の週刊大司教第187回、待降節第一主日のメッセージです。
【待降節第一主日C 2024年12月1日】
教会の典礼の暦は、待降節から新たに始まります。典礼の暦のはじめは、降誕祭に向けた準備の時である待降節です。待降節はその名の通り、降誕を待つ時であり、特に信仰における「待つ」ということの意味を考えさせられる季節でもあります。この待降節の前半は、私たちの救いの完成の時、すなわち世の終わりに焦点が当てられ、後半は救い主の誕生を黙想するように、私たちを招きます。どちらの部分でも、その黙想を通じて、今をどのように生きるべきなのかを、信仰の視点から考える時となっています。
ルカ福音において、「放蕩や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」と弟子たちに語られる主イエスは、「いつも目を覚まして祈りなさい」と促します。すなわち、私たちの信仰生活の姿勢において「待つ」ことは、ただ欲望に身を任せて、だらけていることではなくて、何かに注意を向け続け、常に即応体制にあることを意味しています。
「目を覚まして祈りなさい」という言葉は、単に覚醒状態であり続けることを促しているのではなく、祈りのうちに「時のしるし」を読み取り、主が命じられた生き方を続ける努力を求める言葉です。時のしるしを読み解くことは、一人でできることではありません。先日も触れましたが、「現代世界憲章」によれば、それは教会共同体全体の使命であり、まさしく教会が現代社会に預言者として存在することを意味しています。
まさしくシノドスの道が、一人で孤独に歩む道ではなく、皆で支え合い耳を傾け合いながら、能動的に歩む道であり、さらにそれは祈りのうちに共同で聖霊の導きを識別することへと繋がります。私たちは、ただ座して何かが起こるのをじっと待っているのではなく、常に前進を続け、共に祈りのうちに識別を続けながら、行動的に主の時を待たなくてはなりません。
様々な困難な現実が展開し続ける世界の現実にあって、私たちはどのように行動するべきなのでしょう。「時のしるし」を読み取るために、まさしく、シノドス的な教会であり続けることが、不可欠です。「神に喜ばれる」生き方を見出すのは、ひとり個人の務めではなくて、教会共同体に与えられた使命でもあります。
私たちの歩みは、漠然とした旅路ではありません。教皇様は聖年の開始を告知する大勅書「希望は欺かない」に、こう記しておられます―「キリスト者の人生は、目的地である主キリストとの出会いを垣間見せてくれるかけがえのない伴侶、すなわち希望を養い強める絶好の機会をも必要とする旅路だということです(5)」
私たちが目指すのは、ひとり自分だけが品行方正に正しく生きることではなく、共に旅路を歩みながら、希望を高く掲げ、それを言葉と行いで証しし続ける「希望の巡礼者」の旅路を歩むことです。
・「福音に希望を抱き、伝えながら歩み続けたい」菊地大司教、「王であるキリストの主日」に
2024年11月23日 (土)週刊大司教第186回:王であるキリストの主日
典礼の暦における最後の主日は「王であるキリスト」の主日です。また週刊大司教のメッセージでも触れていますが、教皇様はこの日を世界青年の日と定めておられます。
教皇様の今年の世界青年の日のメッセージは、テーマを「主に望みをおく人は、歩いても疲れない」(イザヤ40・31参照)としており、日本語の翻訳はこちらの中央協議会のリンクでご覧いただけます。
以下、本日午後6時配信の週刊大司教第186回目のメッセージ原稿です。
(王であるキリストの主日B 2024年11月24日)
ヨハネ福音は、ピラトとイエスの問答を記しています。ピラトが象徴するのは、国家を支配するこの世の権威です。それに対してイエスは、神の国、すなわち神の支配について語ります。そしてこの問答が全くかみ合わない事実が、この世の支配と神の支配が全く異なる実体であることを物語っています。
神の支配とは神の秩序が確立していることであり、それはイエスご自身が、「真理に属する人は皆、私の声を聞く」と言われるように、人間の欲望や知識に根ざしたこの世の権力が支配する国家とは異なる、真理による支配であることを、イエスはピラトに向かって宣言されます。
「カトリック教会のカテキズム」は、「罪と苦しみと死に対する勝利」こそが神の支配の実現によって到来すると指摘しています(カテキズム要約314)。
その上でカテキズムは、「キリストのみ国は教会のうちにすでに現存しているとはいえ、まだ、王であるキリストが地上に来臨し、『大いなる力と栄光』とを持って完成されるには至っていません。・・・ですから、キリスト者は、特に感謝の祭儀の中で、キリストの来臨を早めるために、『主よ、来てください』と祈るのです」として、教会こそが、この世の権威の支配する現実に対して声を上げ、真理に基づいた神の支配を自らの言葉と行いを持って示し続けることを求めます(671)。
私たちがしばしば目にするのは、自分ではなく他の誰かの命の犠牲や誰かの苦しみを踏み台にして、自らの野望を成し遂げようとするこの世の権力の姿です。しかし真理の王は、自ら進んで他者の救いのために苦しみを背負い、自らの言葉と行いで愛と慈しみを具体的にあかしされる方であります。人類の犯すおろかで傲慢な罪を糾弾するのではなく、そのすべてを赦すために、自らを生け贄として犠牲にされる方であります。
「神がすべての支配者」と信じる私たちは、神が望まれる世界の構築を目指して行かなくてはなりません。神の真理が支配する国、すなわち神の秩序が完全に実現している世界、神の愛と慈しみに満ちあふれた世界、すべての命が尊重される世界を目指して、言葉を語り行いを持って証ししたいと思います。
本日は世界青年の日でもあります。教皇様は、イザヤ書から「主に望みをおく人は、歩いても疲れない」を引用され、今年のテーマとされました(イザヤ40・31参照)。
メッセージの中で教皇様は、「戦争の悲劇、社会的不正義、格差、飢餓、人間の搾取と被造物の搾取――。・・・(青年たちは)将来に不安を覚え、夢を具体的に描けないため、希望をもてずに、倦怠と憂鬱から抜け出せず、時には犯罪や破壊行為への幻想に引き込まれかねません」と指摘されます。
その上で教皇様は、希望を持って人生の旅路を歩み続ける巡礼者となるようにと呼びかけて、「希望とはまさに、神が私たちに吹き込んでくださる新たな力であり、それがあるからレースを続けることができ、『先を見つめる目』を持てるので、その時々の困難を乗り越えて確かなゴール、すなわち神との交わりと永遠の命の充満へと導かれるのです」と呼びかけておられます。
神の真理が支配する国は絶望ではなく希望に満ちあふれた国であるはずです。私たちも常に福音における希望を心に抱き、それを伝えながら、歩み続けたいと思います。
(編集「カトリック・あい」)
・東京教区「ミャンマーデー」に菊地大司教が同国のバシュウェ司教を迎えてミサー「シノダル(共働的)教会の模範であり続けたい」
菊地大司教の日記・2024年11月17日 (日)2024年東京教区ミャンマーデー
11月の第三主日は、東京教区において「ミャンマーデー」とされています。ケルン教区とのパートナーシップ関係から発展して、シノドス的教会を具体的に生きる証しとして、ミャンマーの教会への支援が続けられています。
今日のミサにはロイコー教区のセルソ・バシュウェ司教とフィリップ神父様を迎え、都内のミャンマー共同体の方々も加わり、共にミャンマーの平和と安定のために祈りを捧げました。
セルソ司教様は、政治的混乱と武力対立が続くなかでカテドラルや教区本部の建物から追い出され、現在は国内避難民の方々と共に生活をされています。ミサの終わりに挨拶をいただきましたが、東京教区からの支援も含めてロイコー教区のための小さな小屋を建て、そこに司教様も住んでおられます。カテドラルを奪われた司教様です。
以下、配信ミサの説教原稿です。
【年間第33主日 ミャンマーデー 於:東京カテドラル聖マリア大聖堂 2024年11月17日】
今日はミャンマーデーであり、ミャンマーロイコー教区のセルソ・バシュウェ司教とフィリップ神父様を迎え、東京在住のミャンマー共同体の皆さまと共に、ミャンマーのために祈りを捧げています。ミャンマーの教会は東京教区にとって長年の姉妹教会・パートナー教会ですが、そのパートナーシップの原点は、東京教区が第二次世界大戦後、ドイツのケルン教区によって支援を受けたことに遡ります。
2004年2月、東京教区とケルン教区のパートナーシップ発足50周年を迎え、当時の岡田大司教はメッセージにこう記されました。
「1979年、両教区の友好25周年にあたり、当時の白柳誠一東京大司教は「ケルン精神」を学び、ケルン教区の召命のために祈るよう教区の信者に呼びかけました。そして、来日した当時のケルン教区長ヘフナー枢機卿と白柳大司教はケルン精神をさらに発展させようと考え、25周年以降は力をあわせてミャンマーの教会を支援することに合意しました。こうして東京大司教区では、毎年11月の第3日曜日を「ミャンマーデー」と定め、ミャンマーの教会のための献金を呼びかけることになった」と記されています。
ケルン精神というのは、戦後のドイツの復興期にあって、ケルン教区が掲げた自己犠牲と他者への愛の精神を意味しています。ドイツも敗戦国であり、1954年当時は復興のさなかにあって、決して教会に余裕があったわけではありません。にもかかわらず海外の教会を援助する必要性を問われた当時のケルンのフリングス枢機卿は、「あるからとか、余力があるから差し上げるのでは、福音の精神ではありません」と応えたと記録されています。この自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする精神は、当時のケルン教区の多くの人の心を動かし、ケルン教区の建て直しにも大きく貢献したと伝
えられています。
その「ケルン精神」に倣い、今度は東京の教会が具体的にその精神に生きるためにと始まったのが、ミャンマーへの支援でした。
そう考えてみると、まさしく、今、教会がその必要性を説いているシノダリティ(共働性)は、すでに1954年にケルンが東京を支援し始めたとき、そして1979年に両教区が協力しながらミャンマー支援を始めたときに、ケルンと東京とミャンマーの教会の間に存在していたということができると思います。
私たちはすでに長年にわたって、互いに支え合うことで、シノドス的な教会、すなわちともに歩む教会であろうとしてきました。今、そのシノダリティの重要性が説かれ、教会がシノダル(共働的)であることが求められているからこそ、私たちはその先駆者として、率先して教会のシノダリティを深め、その重要性を説いていかなくてはなりません。
白柳枢機卿の時代に始まり、岡田大司教の時代を経て今に至るミャンマーデーです。東京の教会は特に、ミャンマーにおける神学生養成の援助に力を注ぎ、具体的に神学校の建物の建設も行ってきました。さらにこの数年は、コロナ禍の混乱の中で起こったクーデターの後、混乱するミャンマーの安定と平和を祈ることも、大事な意向となっています。
ミャンマーでは、いまだに政治状況は安定しておらず、セルソ司教様はご自分のカテドラルを追い出され、国内避難民と共に生活をされています。平和を呼びかける教会は、暴力にさらされているのが現実です。
マルコ福音は、世の終わりを示唆する様々な困難を記しています。ミャンマーでの不安定な状況、ウクライナでの戦争、ガザでの紛争など、各地での頻発する武力行使を伴ういのちへの暴力、政治や経済の混乱と国際関係の混乱は、現代社会がまさしくこの世の終わりの状況に直面していると思わせます。しかし同時に、そういった「今すぐに世の終わりが来る」というような危機感は、歴史を通じてしばしば起こったことでもあり、そのときの社会の状況に一喜一憂するよりも、その中に示されている「時のしるし」を読み取ることの大切さを福音は説いています。
「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と始まる第二バチカン公会議の現代世界憲章は、全人類との対話のうちに神の福音をあかしするために、「教会は、常に時のしるしについて吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務が」あると指摘しています。目の前で起きている出来事に翻弄されるのではなく、福音的視点からそこに示される「時のしるし」を読み取ることは、教会の務めです。
私たちの眼前で、神が賜物として与えてくださった命が暴力的に奪われる状況が続いている中で、私たちが読み取る「時のしるし」は、いったい何でしょうか。賜物である命は、その始めから終わりまで例外なく尊厳が護られなくてはならない、と私たちは信じています。社会の現状はこの信仰への挑戦です。その現実から私たちはどのような「時のしるし」を読み取るのでしょうか。
人類はさまざまな苦難に直面するものの、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と語ることで、愛に満ちあふれた神はご自分の民を決して見捨てることはないと、主イエスは断言されます。わたしたちは神からに捨てられることはないという事実は、わたしたちの信仰において大前提です。どのような困難な時代に合っても、神の言葉は滅びることはありません。神の言葉は常にわたしたちと共にあります。神の言葉は主イエスご自身であります。
私たち神の民にとって時のしるしを読み取るために歩むべき道は、今回のシノドス総会で示されています。シノドス総会は、神によって集められた私たち神の民が共に耳を傾け合い、支え合い、祈り合い、共に歩むことによって、聖霊の導きを一緒に識別することの重要性を説いています。まさしく時のしるしを読み取るのは、特別な才能を持った予言者の務めではなく、共に識別する神の民の務めであり、その意味で、教会は現代に生きる預言者であります。
教皇様は、今回の世界代表司教会議(シノドス)総会の最終日に採択された最終文書を受け取られて、この最終文書を「ご自分の文書」とされることを公表されました。これまでの通例であったシノドス総会後の使徒的勧告は、改めて書くことをしない、と宣言されました。
そのうえで教皇様は、「(具体的な目に見える)証しを伴わない文書は価値を失ってしまう」と指摘され、「暴力、貧困、無関心など」が蔓延する世界に生きる私たちは、「失望させることのない希望をもって、それぞれの心に授けられた神の愛のもとに一致し、平和をただ夢見るだけでなく、そのために全力を尽くさなければならない」と、総会参加者に求められました。
私たちは希望をどこかから持ってくることはできません。希望は心の中から生み出されます。教会は、希望を生み出す共同体でありたい、と思います。その為にも、互いに支え合い、耳を傾け合い、共に歩む教会でありたいと思います。長年のケルンとミャンマーと東京のパートナーシップは、シノダル(共働的)な教会の模範として、多くの人の心に希望を生み出してきました。混迷を極める現代社会に預言者として存在する教会は、「時のしるし」を共に識別し、福音を具体的に明かしする存在であり続けたいと思います。
・・・・・
ミサの最後にはセルソ司教様からの英語での挨拶もありますので、ぜひ、ビデオをご覧ください。
(編集「カトリック・あい」)
・「混迷を極める現代社会で、教会は福音を具体的に証しする存在であり続けたい」菊地大司教、年間第33主日に
2024年11月16日 (土) 週刊大司教第185回:年間第33主日B
シノドス期間中にお休みをいただいておりました「週刊大司教」を、今週から再開いたします。
このたび枢機卿に任命されたことで、このプログラムのタイトルも「週刊枢機卿」に変更となるのかとのお尋ねを複数いただいています。タイトルは変わりません。今後とも「週刊大司教」として続けます。と言いますのも、教会において助祭、司祭、司教は、叙階の秘跡によるものですが、「枢機卿」は秘跡的な叙階ではありません。
「カトリック教会のカテキズム」によれば、「洗礼、堅信、叙階の三つの秘跡は、恵みのほかに、秘跡的な霊印つまり「しるし」を与え… 霊印はいつまでも残り、消えることはありません(1121)」と記されています。枢機卿というのは、特定の役割を果たす立場を教皇様から与えられることによって生じるので、枢機卿になったとしても、叙階の秘跡で私に霊印として刻み込まれた司教である、ということに変わりはありません。したがって、今後も、枢機卿であっても司教であることに変わりはありません。ですから「週刊大司教」で続けたいと思います。
以下、本日午後6時配信の週刊大司教第185回、年間第33主日メッセージ原稿です。
なお明日は東京教区にとってミャンマーデーであり、パートナーとして長年支援しているミャンマーの教会のために祈り、献金する日でもあります。今年はセルソ・バシュウェ司教様がミャンマーのロイコー教区から訪問してくださっています。17日の関口教会午前10時のミサは、私の司式です、セルソ司教様がご一緒してくださいます(ミサの配信を予定しています)。
【年間第33主日B 2024年11月17日】
マルコ福音は、世の終わりを示唆する様々な困難を記しています。各地での戦争や紛争をはじめとして、政治や経済の混乱と国際関係の混乱が続き、さらには気候変動をはじめ災害の頻発する現代社会は、まさしくこの世の終わりの状況にあたると思わされるものがあります。しかし同時に、そういった苦難は歴史を通じてしばしば起こったことでもあり、その時の状況に一喜一憂するよりも、時のしるしを読み取ることの大切さを福音は説いています。
「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」で始まる第二バチカン公会議の現代世界憲章は、全人類との対話のうちに神の福音を証しするために、「教会は、常に時のしるしについて吟味し、福音の光のもとに、それを解明する義務」がある、と指摘しています。起きている出来事に翻弄されるのではなく、福音的視点から、そこに示されるしるしを読み取ることは、教会の務めです。
福音は、受難の時が迫る中でイエスが語った言葉を記しています。人類はさまざまな苦難に直面するものの、「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」と語ることで、愛に満ちあふれた神はご自分の民を決して見捨てることはない、と主イエスは断言されます。同時にイエスは、私たちが「時のしるし」を識別し、常に備える者であるように、と教えられます。
私たち神の民にとって時のしるしを読み取るために歩むべき道は、今回のシノドス総会の中で示されています。シノドス総会は、神によって集められた私たち神の民が、互いに耳を傾けあい、支え合い、祈り合い、共に歩むことによって、共に聖霊の導きを識別することの重要性を説いています。まさしく時のしるしを読み取るのは、カリスマ的な予言者の務めではなく、共に識別する神の民の務めであり、その意味で、教会こそは現代にある預言者であります。
教皇様は、今シノドス総会の最終日に採択された最終文書を受け取られ、「今の時代に『共に歩む教会』になるためにはどうしたらよいか、をよりよく理解するため、神の民の声に、努めて耳を傾けてきた少なくとも3年にわたる年月の実りです」と評価をされました。その上で、教皇様はこの最終文書をご自分の文書とされることを公表され、これまでの通例であったシノドス後の使徒的勧告を改めて書くことはしない、と宣言されました。
教皇様はまた、「経験に基づく証しを伴わない文書は、価値を失ってしまう」と指摘され、「暴力、貧困、無関心などの特徴を持つ世界のあらゆる地域から訪れた私たちは、失望させることのない希望をもって、それぞれの心に授けられた神の愛のもとに一致し、平和をただ夢見るだけでなく、そのために全力を尽くさなければならない」と、シノドス参加者に求められました。
混迷を極める現代社会に預言者として存在する教会は、時のしるしを共に識別し、福音を具体的に証しする存在であり続けたいと思います。
(編集「カトリック・あい」=10月の世界代表司教会議(シノドス)総会の最終文書全文は、「カトリック・あい」にイタリア語原文からの試訳の掲載を進めています。「シノドスの道」の項目から閲覧してください。)
・シノドス総会第2会期の終了と帰国報告-菊地大司教
菊地大司教の日記・2024年11月 2日 (土)
今回のシノドス第二会期は、10月27日午前中の教皇ミサで終了しました。シノドスのためにお祈りいただいた多くの皆様に心から感謝申し上げます。
また昨日11月1日は、わたしの66歳の誕生日でありました。先日の枢機卿への任命とこの誕生日を合わせて、多くの皆様からメッセージ、メール、お手紙などをいただいております。皆様のお祈りと励ましのお言葉に心から感謝申し上げます。ありがとうございます。そしてこれからも、私が与えられた役目を十分に果たしていくことができるように、どうかみなさまお一人お一人のお祈りによって支えてくださいますように、心からお願い申し上げます。
シノドスの最終週は、月曜が終わることには体調が急に悪化し、翌日検査したところ新型コロナ陽性となり、宿舎において隔離状態となりました。そのため、金曜日まで会議に参加できませんでしたが、最終日土曜日の会議には何とか検査でも陰性となり、参加することができました。
最終週の月曜日には、それまで三週間の分かち合いの成果をまとめた最終文書の原案が提示され、よく火曜日と水曜日にそれに対する修正動議を各グループで考え提出し、それに基づいて水曜から金曜の間に起草委員会が最終文書の書き直しをするというスケジュールでした。
最終日の土曜日には、朝、教皇様も出席の中、祈りの後に最終文書案が配布され、昼までに読み込むことが求められました。
最終文書案はイタリア語です。我々の手元に来たのは機械翻訳の英語版ですが、それでも60ページ近くあります。イタリア語の文章は一つ一つが長いのですが、それを英語に機械翻訳しているので、わかりやすいものではありません。ネイティブの方々は昼頃までに読み切ったみたいですが、それ以外の者にとっては、至難の業でした。
午後4時半から、再び教皇様が出席。司教や枢機卿は正装をして集まり、最後の投票を行いました。
投票は段落ごとに、すべての段落で三分の二以上の賛成を必要とします。昨年は、段落ごとに読み上げて投票したので、夜の8時過ぎまでかかりましたが、今年は改善され、それぞれのタブレットに10段落ほどまとめて表示され、それぞれの段落にチェックを入れる方式となり、あっという間に時間通り、二時間ほどで投票は終了し、すべての段落が賛成多数で通過しました。反対が多かった段落などについては、様々に報道されているとおりです。
その後教皇様からの言葉があり、作業に対する感謝の言葉と、この最終文書は教会の神の民の声として贈り物であるという評価とともに、教皇様はこれをご自分の文書として公表することにして、これを基にした使徒的勧告は書かれないと宣言されました。したがって最終文書は、教皇様の文書としての権威を帯びることになりました。すでにイタリア語は公表されていますが、英語の公表は遅れている模様です。
教皇様は、この文書に基づいて、それぞれの地方教会でシノドス性が具体的に実現されるようにと求められています。
このような形で今回の4年間に及んだシノドスは閉幕しました。最終週には次のシノドスに備えるための委員会メンバーの選挙もあり、アジアからはFABCの次期会長と副会長であるインドのゴアのフィリッポネリ枢機卿、フィリピンのパブロダビド被選枢機卿の二人が選ばれました。
シノドスの会期中にお祈りくださった皆様に心から感謝します。最終文書の翻訳は、中央協議会からできる限り早く公開できるように努めたいと思います。シノドスの道はこれからが本番です。
というわけで、10月末に何とか帰国しましたが、コロナの後遺症で体調がおもわしくありません。今しばらくスローにして、体調回復に努めてまいります。あらためて皆様のお祈りをお願い申し上げます。
(菊地功・東京大司教、日本カトリック司教協議会会長)
・「突然の枢機卿指名、驚きと困惑の日曜日」-菊地大司教の日記
2024年10月 7日 (月)
日本の教会の皆様へ
シノドスの第二会期の第一週目が終わり、土曜の午後と日曜は休みとなりました。そこでこの日曜日、午前10時から、ローマに在住のカトリック日本人会のミサを司式させていただくことに。
朝9時過ぎに、シスター弘田と一緒に、迎えに来てくださった大阪教区の豊田神父様とザベリオ会のロペス神父様とタクシーで、ミサが行われている神言会の本部へ向かいました。西村さんは、今週も議長代理の務めがあり、その準備の打ち合わせがあるため、一緒に来ることがかないませんでした。
今回は、ローマに在住している司祭が増え、写真のように、大勢の司祭と一緒にミサを捧げることができました。ミサ後には茶話会があり、しばらくしてシスター弘田とロペス神父様とタクシーで帰ることに。シスター弘田の宿舎はサンピエトロの目の前ですので、そこに向かい一緒におりました。
サンピエトロ広場の回廊の横を歩いていると、「菊地大司教さん、おめでとう」と英語で声をかけられました。いつもシノドスホール前の門のあたりにいて、司教さんたちの肖像写真を何枚も持っていて、本人を捕まえてはサインを求め、コレクションしている、という青年です。「さっき、教皇の正午の祈りの時に枢機卿の発表があり、『東京の菊地』と言っていた」と彼が言うのです。
そんな話は何も聞いていないので、またまたこの人は何を冗談を言っているのだと思い、正午の祈りからの帰途についている大群衆の中を宿舎へと向かいました。
宿舎のロビーに入るとボゴタのルエダ枢機卿様に声をかけられました。「枢機卿の任命、おめでとう」。半信半疑でいるとルエダ枢機卿さんがスマホを取り出して、バチカンニュースの映像録画を見せてくれ、一緒に聞いていたら、確かに私の名前を教皇様が呼ばれています。ちょうどそこに、FABC(アジア司教協議会連盟)の次期会長であるインドのゴアのフィリッポ・ネリ枢機卿様が現れ、お祝いしてくださいます。どうも本当に枢機卿に任命されたようです。
驚きました。心の底からこれだけ驚いたのは久しぶりなほど、驚きました。そして困惑しました。枢機卿は単なる名誉職ではなく、教皇様の顧問として果たすべき役割が多々あることを考えると、自分の足りなさばかりが浮かんできます。そもそも私のイタリア語は初歩の初歩で、やっと日常会話が理解できる程度です。教皇様とのコミュニケーションには、少なくとも英語の通訳が必要です。
2日前の金曜日にシノドスの会場に入ると、ちょうど教皇様の周りに誰もいなかったので、挨拶に行きました。教皇様は私の名前を記憶しておられたにもかかわらず、私のIDカードを手に取って、しげしげと眺めておられました。何度もお会いしているのに、何を見ているのだろうといぶかしく思いました。そこにいた西村桃子さんが写真を撮ってくれると、教皇様は彼女を指して、「彼女は日本人なのにマテ茶を飲む変な人だよ」と大笑いされていました。枢機卿の話なんて、かけらもありません。だから、今日の急な発表は、本当に驚きました。
12月8日に親任のための枢機卿会が行われるそうです。それまでどんな準備が必要なのか、見当もつきません。せっかくいまローマにいるのに、正式な通知は何もないですから、すべてニュースで聞いているだけです。
一緒に神言会の会員がもう一人枢機卿に任命されました。セルビアのベオグラードのネメット大司教さんです。以前から存じ上げている兄弟会員です。神言会は来年、創立150年をお祝いします。この150年の歴史の中で、これまで枢機卿は、1967年に帰天された北京の大司教であったトマス田(ティエン)枢機卿様お一人だけでした。今回、二人目と三人目の枢機卿が誕生したことは、神言会にとっての名誉になったかと思います。
また同時に、この任命は私個人の名誉ではなくて、日本の教会にとって、また特に東京教区にとって大きな名誉です。加えて、現在その総裁を務めさせていただいている国際カリタスにとっても名誉であると思います。
さらには、今回、アジア司教協議会連盟(FABC)の次期副会長となるフィリピンのパブロ・ダビド司教様も枢機卿任命を受けたことで、FABCにとっても大きな意味を持つ名誉ある任命となったかと思います。
たくさんの皆様からお祝いのメッセージやメールをいただきました。心から感謝申し上げます。繰り返しですが、自分の身に余る役目を仰せつかったと思います。自分の足りなさに身が縮む思いをしています。どうかこれからも皆様のお祈りで支えてくださるように、心からお願い申し上げます。
感謝のうちに。 2024年10月7日 菊地功
(編集「カトリック・あい」)
・10月のシノドス総会第2会期は、歩むべき道を見極めるための具体的な作業の場に―菊地大司教・年間第25主日
2024年9月21日 (土)週刊大司教第184回:年間第25主日B
9月も終わりに近づきました。来週末には、世界代表司教会議(シノドス)第16回定期総会の第二会期に参加するために、ローマに出かけます。9月30日と10月1日に黙想会が行われ、その後、10月2日からシノドスの第二会期が始まります。
東京教区のYoutubeチャンネルで土曜の夕方6時に配信している「週刊大司教」ですが、来週9月28日の夜はシノドス前の特別版を配信します。その後、10月5日から10月末までは、通常の「週刊大司教」はお休みとさせていただきます。ただし昨年同様、シノドスの現場からのレポートをお送りすることができればと思います。
会期前の二日間の黙想会の終わり、10月1日の午後6時(日本時間2日午前1時)、聖ペトロ大聖堂で、教皇様司式で回心の儀が行われます。ともに歩む教会は常に回心を続ける教会でもあると教皇様は呼びかけ、そのためにも教会は、自らの罪を掲げ、その痛みと時に恥を身に受けることによって、復活のように再び立ち上がることを赦される、と言われます。
回心の儀では、虐待の罪、戦争の罪、世界中での移民を無視した罪の三つの体験者が分かち合いを行い、その後に怠りも含めて教会が関わった次のような罪が告白されます。
平和に反する罪、被造物や先住民族や移住者に対する罪、虐待の罪、女性、家族、青年に対する罪、教義を石を投げるために利用した罪、貧困への罪、シノドス性に反し、耳を傾けず、交わりを拒否し、皆が参加することを拒んだ罪。
シノドス期間中はバチカンのyoutubeサイトなどで、映像配信もあると思いますので、映像を通じて是非ご一緒いただければと思います。
また度々繰り返していることですが、第二会期で”シノドスの道”が終わるのではなくて、シノドス(共働)的な教会となるための道は、今回の2期にわたるシノドス総会を通じて明確になるのですから、終わってからこそが教会全体の取り組みの始まりです。改めて司教協議会の会長としてのメッセージにも目を通していただければ幸いです。
以下、本日午後6時配信、週刊大司教第184回、年間第25主日のメッセージです。
【年間第25主日B 2024年9月22日】
マルコ福音は、誰が一番偉いのかと弟子たちが議論していた話を記します。誰が一番偉いのか、というよりも、自分が一番になりたい、皆の上に立ちたい、というのは、人間社会につきものの、避けて通ることのできない欲望の一つです。
その弟子たちに対して、イエスは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」と教えます。これは弟子たちに対する回答というよりも、この世に対する警告の言葉でもあります。この世界が価値があると定めるはかりではなく、神は、皆に使えるものとなるところに価値を見いだされる。神が良しとされる価値観は、弟子たちが囚われているような、この世の価値観とは全く異なっているのだ、ということを悟らせようとする言葉です。
受難と死へと至るイエスの生涯そのものが、人間の常識をはるかに超えた人生です。その人生にこそ、自らが創造された人類への愛と慈しみが具現化しています。神の常識は、人間が最も忌み嫌う、苦しみと死の自己犠牲の道にこそ、神の栄光と愛と慈しみがあるとするのです。信仰の道は、私たちの常識をはるかに超えたところにあります。
その意味で、教皇が今、教会全体に根付かせようとしている”シノドスの道”も、私たちの常識を遙かに超えた神の価値観の道のりです。10月には、今回の世界代表司教会議(シノドス)総会の第二会期が始まります。ローマでの会議は、それぞれの国を代表してレポートを発表する場ではなく、歩むべき道を見極めるための具体的な作業をする場となっています。
今回のシノドスは、シノドス(共働)性そのものを取り上げ、シノドス(共働)的な教会が宣教する教会であるためにどのような道を歩むべきかを一緒に識別するためのプロセスです。ですから、多くの人が期待しているような、具体的な事柄は何も決まらないかもしれません。またこの10月の会議ですべてが終了するものでもありません。いま進められているプロセスは、終わりに向かっているのではなく、始まりに過ぎません。教会はこれから常に、シノドス的な教会であるために努力を続けていきます。なぜなら、神の民である教会は、その本性からしてシノドス的であり、ともに歩み続ける存在だからであります
教会に民主主義を持ち込むのではないか、とか、新しい政治的イデオロギーではないか、とか、この会期が終わるまでに日本では何もしないのか、とか、いろいろな意見が飛び交っているのは事実です。しかしそういったことではなくて、聖母マリアと主イエスとの歩み、主イエスと弟子たちとの歩み、そういった教会誕生の原点にある姿を、確実に具体化して生きていこうとするのが、今の”シノドスの道”の目的です。これからも長い目で見ながら、その具体化に努めて行きたいと思います。
聖霊の導きを識別し続けながらともに歩むこの”シノドスの道”は、簡単な道ではありません。時間と手間のかかることでもあり、まずもって忍耐を必要とします。同時にそこで見出される神の計画の道は、常に安楽の道であるとも限りません。なぜならば、神の救いの計画の中心には常に十字架の苦しみが存在しているからです。
”シノドスの道”を共に歩むことで、私たちは様々な困難に直面することでしょう。様々な意見の対立に翻弄されるでしょう。常識の壁が立ちはだかることでしょう。決断の及ぼす影響を考え、たじろいでしまうかも知れません。その時にこそ、苦しみと自己犠牲の道にこそ、神は価値を見出されることを思い起こしましょう。
(編集「カトリック・あい」=以前からご本人にもご注意申し上げているのですが、いまだに教皇が21年秋に始められた「シノドスの道(英語でsinodality way あるいはsinodality pass=バチカンでもいまだに表記が定まっていませんが)」と、その中間集約の世界レベルの具体的な場とも言うべき「世界代表司教会議第16回通常総会」が、同じ「シノドス」という言葉で混同して使われており、信者の間で理解に障害をもたらす原因の一つとなっているようです。「カトリック・あい」では、バチカン発表の文章、教皇のお話なども含めて、言葉の書き分けを当初から行っており、上記の菊地大司教の文章も、誤字の修正も含めて、表記の統一を図っています)
・「高齢者も、誰もを見捨てない神の愛を実践するのは、私たちの務め」菊地大司教、年間第24主日
2024年9月14日 (土) 週刊大司教第183回:年間第24主日B
教皇様のアジア歴訪は無事に終わりました。私も、9月12日にシンガポールで行われた教皇ミサに参加するように招かれたので、シンガポールまで出かけて参りました。教皇様は三日間シンガポールに滞在されましたが、私は二日目の午前中の、国立大学における政府関係者や外交官を招いての、大統領と教皇様の演説(写真右)と、午後から夕方にかけて国立競技場に5万人を集めて捧げられた教皇ミサにご一緒させていただきました。アジア各地から39名ほどの枢機卿や司教が集まりました(写真左)。
教皇様は2週間近い長旅の最終盤であるにもかかわらずお元気でしたが、立ち上がって数歩歩かれる以外は車椅子のですので、他のミサと同様に、教皇ミサの途中、感謝の典礼から先は、シンガポールのウィリアム・ゴ枢機卿様が祭壇に立たれ、共同司式者として、マレーシアのジュリアン大司教様(クアラルンプール)とセバスチャン枢機卿様(ペナン)が両サイドにつかれました。シンガポール大司教区は国に一つだけの教区ですので、ブルネイと共に、マレーシアの司教協議会の一員となっています。
教皇様はこの後、10月のシノドスの前、9月の末に、ルクセンブルグやベルギーを訪問されることになっています。教皇様の健康のためにお祈りください。
本日の土曜日、イエズス会では新しい司祭が誕生しました。午後2時からイグナチオ教会で行われたパウロ山内豊新司祭の叙階式を、司式させていただきました。彼と同級のコンゴ出身のイエズス会員は、8月の初め頃にコンゴのルブンバシで、ルクセンブルグのオロリッシュ枢機卿によって叙階されていると伺いました。おめでとうございます。
以下、14日午後6時配信、週刊大司教第183回、年間第24主日のメッセージ原稿です。
【年間第24主日B 2024年9月15日】
マルコ福音は、イエスが求める信仰における自己決断の話を記します。
イエスは弟子たちに、「人々は、私のことを何者だと言っているか」と尋ねます。それに対して弟子たちは、先生が多くの人から褒め称えられている現実に誇らしい思いもあったのでしょう。口々に、方々で耳にしてきたイエスについての評価を語ります。「洗礼者ヨハネだ。エリヤだ。預言者の一人だ」。
考えてみれば、それらの評価は、伝聞、つまり「うわさ話」にすぎません。それに対してイエスは、「それでは、あなた方は私を何者だというのか」と弟子たちの自分の判断を求めます。自己決断を迫ります。
信仰を生きている私たちは、常に、主によって自らの回答を迫られています。私たち一人ひとりは、一体何と答えるのでしょう。私にとって、主イエスとは何者なのでしょうか。誰かがそう言っているイエスではなくて、私が知っているイエスは何者なのでしょう。
私たちは、命を与えられた神から愛されている存在です。守られている存在です。その神の慈しみを、愛を、具体的に私たちに示されるのは、共にいてくださる主イエスであります。主こそ私たちの救い主、メシアだと、ペトロと一緒に答えるのだとすれば、その応えに見合った生き方をしなくてはなりません。私たちには、主が生きたように、語ったように、生きていく務めがあります。それは信仰を具体的に行動に表すことであり、すべての命が誰一人として見捨てられることなく、常に神に愛される存在であることを、具体的に示すことであります。
教会は7月の第四日曜日を、祖父母と高齢者のための世界祈願日と定めていますが、日本の教会では、敬老の日が国民の休日として定められている9月にこの祈願日を移行することについて聖座に申請し許可を得ています。今年は15日が祖父母と高齢者のための世界祈願日となります。
少子高齢化が多くの国で激しく進み、伝統的な家庭のあり方が崩壊する中で、かつては知恵に満ちた長老として社会の中に重要な立場にあった高齢者が、周辺部に追いやられ、忘れ去られていく状況が出現しました。高齢者にはそれまでに豊かに蓄えた知識を持って、次の世代につなぐ大切な努めがあることを教皇は強調し、若い世代と高齢の世代の交わりを勧めておられます。
この祈願日にあたり、教皇はメッセージを発表されています。今年のテーマは、詩編71の言葉から、「老いの日にも私を捨て去らないでください」とされています。
メッセージの中で教皇は、「神は決してご自分の子らを見捨てません。齢(よわい)を重ね力が衰えようとも、髪が白くなって社会での役割が少なくなろうとも、活動の生産性が下がって無駄として見られかねないとしても、そうなのです」と述べ、社会に広がりつつある「高齢者が若者から未来を奪う」という考え方が、人間の尊厳の立場から誤っていることを指摘されます。
その上で教皇は、ルツ記の話を引用しながら、「高齢者に寄り添うこと、彼らの、家庭、社会、教会でのかけがえのない役割を認めることで、私たち自身も多くの賜物、多くの恵み、多くの祝福を受ける」と指摘されます。誰も見捨てることのない神の愛を、実践するのは、私たちの務めです。
・「私たちは、命を生かされている喜びに満ちあふれているだろうか」菊地大司教、年間第23日主日に
2024年9月 7日 (土) 週刊大司教第182回:年間第23主日B
9月になり、少しづつ秋の気配も感じるようになりましたが、まだまだ暑い毎日が続きそうです。
教皇様はインドネシアに始まり、パプアニューギニア、東ティモール、シンガポールを歴訪中です。教皇様の健康のためにお祈りください。わたしも司教協議会の会長として呼ばれたので、12日のシンガポールでのミサに参加させていただく予定です。
世界代表司教会議(シノドス)総会の第2会期がまもなく始まります。第2会期のための討議要項の日本語翻訳ができあがりましたので、中央協議会のホームページで公開されています。また昨日開催された臨時の司教総会で司教様方に報告ができたので、第2会期に備えた様々な準備の記事や呼びかけなどの記事をシノドス特別チームで作成して、中央協議会の特設サイトに掲載いたしました。どうぞご覧ください。
冒頭に、私からの呼びかけがあり、さらにそのほかの記事へのリンクも張ってあります。そのほかの記事としては、まず5月に行われた小教区で働く司祭の会合について参加した高山徹神父様の報告、8月に行われたアジアのシノドス参加者の会合について参加した西村桃子さんの報告。そして8月末に行われたアジア、アフリカ、ラテンアメリカの司教協議会連盟の会合の報告を私が記しました。
討議要項(第二会期のための公式な手引き書)はかなり長い文書ですので、その要約も特別チームで作成し、さらにそこから読み取れる今後期待される展開について、チームの小西神父様(フランシスコ会)に記事を書いていただきました。ご覧いただけましたら幸いです。
以下、本日午後6時配信の週刊大司教第182回、年間第23主日のメッセージ原稿です
【年間第23主日B 2024年9月08日】
マルコ福音書に記された「エッファタ」の物語が、「すべての命を守るための月間」を過ごしている今、朗読されることは、意義深いものがあります。なぜなら、「ラウダート・シ」で教皇フランシスコが呼びかけていることを理解するためには、現実に対して閉ざされている私たちの心の耳と目が開かれる必要があるからです。
現実の世界におけるしがらみは、私たちの思考を制約し、聞こえるはずの叫びに耳を塞がせ、見えるはずの世界から目を背けさせてしまいます。教皇フランシスコは、そういったしがらみによる縛りをすべてうち捨て、いのちが育まれるこの共通の家をどうしたら神が望まれるように育み護ることが出来るのか、目を開き、耳を開くようにと呼びかけます
マルコ福音には、イエスが「エッファタ」の言葉を持って、耳の聞こえない人の耳を開き、口がきけるようにされた、と記されています。さまざまな困難を抱えて命を生きている人に、希望と喜びを生み出した奇跡です。この物語は、具体的に困難の中で生きている多くの方への神の慈しみの希望のメッセージであると同時に、すべての人にとっても必要な、閉ざされた心の目と耳の解放の物語でもあります。
私たちは、命を生かされている喜びに、満ちあふれているでしょうか。そもそも私たちの命は、希望のうちに生かされているでしょうか。喜びに満たされ、希望に満ちあふれるためには、すべての恐れを払拭する神の言葉に聞き入らなくてはなりません。
「恐れるな」と呼びかける神の声に、心の耳で聞き入っているでしょうか。私たちは、神の言葉を心に刻むために、心の耳を、主イエスによって開いていただかなくてはなりません。「エッファタ」という言葉は、私たちすべてが必要とする神の慈しみの力に満ちた言葉であります。私たち一人ひとりの命が豊かに生かされるために、神の言葉を心にいただきたい。だからこそ、私たち一人ひとりには今日、主ご自身の「エッファタ」という力ある言葉が必要です。
先頃日本の司教団が発表した総合的エコロジーのメッセージ「見よ、それはきわめてよかった」において、私司教団は、「観る、識別する、行動する」という「三段階を通じて、環境やエコロジーについての理解を深めるよう」勧めています。
第一のステップの「観る」について司教団は、「単なる事実の把握にとどまらず、神の思いに包まれながら、心を動かされつつ気づく」ことだとして、それは「出会う」ことでもあると指摘します。その上で、司教団は、「私たちはたくさんの思い込みや先入観、自己中心的な願望を持って生きています。また問題の状況・原因は複雑なもので、私たちの認識にはいつも限界があります。そのような限界を認めつつ、聖霊を通して豊かに働いてくださる主に信頼して、観る歩みを進めましょう」と呼びかけています。
私たちの閉ざされた目と耳を開こうと、主は今日も「エファッタ」と呼びかけておられます。
(編集「カトリック・あい」)
・「神から与えられた使命を忠実に果たす『神の掟を守る者』であろうとしているか」菊地大司教、被造物を守る世界祈願日に
2024年8月31日 (土)週刊大司教第181回:年間第22主日
あっという間に8月は終わり、9月が始まります。
この数日の、台風に伴う大雨の影響で、被害を被られた皆さまに、心からお見舞い申し上げます。
今年の9月1日は、被造物を大切にする世界祈願日です。この日から10月4日までを、日本の教会は「すべてのいのちを守るための月間」と定めています。司教協議会の「ラウダート・シ」デスク(責任司教は成井司教様)では、呼びかけのメッセージを発表しています。また教皇様も、世界祈願日にあたって、「被造物とともにあって、希望し行動しよう」というタイトルのメッセージを発表されています。
さらに日本の司教団では、司教団のメッセージとして、「見よ、それはきわめてよかった」を発表しており、書籍でも頒布していますが、中身が重要ですのでテキストを公開しています。是非ご一読ください。
日本カトリック司教協議会(教会法上の一定地域の司教たちの集まりの名称)には、様々な委員会やデスクなどがあり、事務局であるカトリック中央協議会(日本の法律に基づいた宗教法人の名称)を通じて、それぞれのテーマの担当が様々なメッセージを発表しています。
そういったメッセージの中でも「司教団メッセージ」と呼ばれるものは、現役の司教全員が賛成した一つの地域の司教団の総意を表すメッセージとして、一番重要な意味を持つメッセージとお考えください。ですから、「司教団メッセージ」は、それほど頻繁に出されることはありません。
また司教団も、数年でガラリとメンバーが替わります。例えば2015年のアドリミナに出かけた日本の司教団と、今回2024年のアドリミナに出かけた司教団のメンバーは、10名が入れ替わっています。ですので、前回の司教団メッセージである「いのちへのまなざし、増補新版」と今回の「見よ、それはきわめてよかった」では、司教団のメンバーが替わり、そのトーンなどに違いが出ているのを感じ取っていただければと思います。
なお「ラウダート・シ」デスクが主催して、東京教会管区では、同メッセージ発表に伴う出版記念シンポジウムを、9月7日に、東京四谷のニコラ・バレ修道院を会場に、午前10時半から昼過ぎまで開催いたします。当日は管区内の司教のうち、私や成井司教を含め数名も参加します。詳細は、こちらの東京教区ホームページをご覧ください。(東京教会管区:札幌、仙台、新潟、さいたま、横浜、東京の各教区で構成)
以下、本日午後6時配信、週刊大司教第181回、年間第22主日のメッセージ原稿です。
【年間第22主日B 2024年9月1日】
9月1日は、被造物を大切にする世界祈願日であり、日本の教会は、本日から10月4日、アシジの聖フランシスコの祝日までを、「すべての命を守るための月間」と定めています。
教皇様は今年の祈願日にあたりメッセージを発表され、そのタイトルを「被造物とともにあって、希望し行動しよう」とされています。
教皇様はメッセージで、「キリスト者の生き方とは、栄光のうちに主が再臨されるのを待ち望みつつ、愛のわざに励む、希望に満ちあふれた信仰生活です。・・・信仰は贈り物、私たちの内なる聖霊の実なのです。けれども同時に、自由意志で、イエスの愛の命令への従順をもって果たすべき務めでもあります。これこそが、私たちが証しすべき恵みの希望です」と記します。
その上で教皇様は、「イエスが栄光のうちに到来するのを希望をもって辛抱強く待ち望んでいる信者の共同体を、聖霊は目覚めさせておき、たえず教え、ライフスタイルの転換を促し、人間が引き起こす環境悪化を阻止して、変革の可能性の何よりのあかしとなる社会批評を表明するよう招くのです」と呼びかけておられます。
司教団の優先的取り組みとして、司教協議会には「ラウダート・シ・デスク」が設けられており、その責任者である成井司教様は、「月間」の呼びかけで、「イエスのセンス・オブ・ワンダー、驚きに満ちた眼差しは、私たちが総合的な(インテグラル)エコロジー、すなわち神と、他者と、自然と、そして自分自身と調和して生きる道筋を示しています。今年のすべての命を守るための月間の間、イエスの驚きに満ちたまなざしで自分を取り巻く命の繋がりに目を向けてみませんか」と呼びかけておられます。司教団が先般発表したメッセージ、「見よ、それはきわめてよかった――総合的な(インテグラル)エコロジーへの招き」を、是非ご一読ください。
マルコ福音は、ファリサイ派と律法学者が、定められた清めを行わないままで食事をするイエスの弟子の姿を指摘し、掟を守らない事実を批判する様が描かれています。それに対してイエスは、ファリサイ派や律法学者たちを「偽善者」と呼び、掟を守ることの本質は人間の言い伝えを表面的に守ることではなく、神が求める生き方を選択するところにあると指摘されます。
さまざまな掟や法が定められた背後にある理由は、人を規則で縛り付けて自由を奪うためではなく、神の望まれる生き方に近づくための道しるべであること思い起こし、人間の言い伝えではなく、神の望みに従って道を歩むことが、掟や法の「完成」であります。すなわち、使徒ヤコブが記しているように、その掟や法を定められた神のことばを、馬耳東風のごとく聞き流すのではなく、「御言葉を行う人」になることこそが、求められています。
神がその慈しみの御心を持って愛のうちに創造された全被造界は、私たちに守り耕すようにと委ねられたものであって、好き勝手に浪費するために与えられてはいません。私たちは神から与えられた使命を忠実に果たす、本当の意味での神の掟を守る者でありたい、と思います。
・「私たちにとって必要なのは、イエスとの具体的な出会い」菊地大司教の年間第21主日
2024年8月24日 (土) 週刊大司教第180回:年間第21主日B
8月の最後の日曜日となりました。年間第21主日です。
今週は、世界代表司教会議(シノドス)総会の関連で、アジアと南米とアフリカの、それぞれの地域司教協議会連合体の責任者を集めて、シノドス第2会期の準備の会合が、オロリッシュ枢機卿様の教区、ルクセンブルグで開催されます。
主催者によると、南の司教協議会連合の意見を集約するため、とのことで、私もアジア司教協議会連盟(FABC)の事務局長として参加してきます。アジアからは、FABCの現在の会長であるミャンマーのボ枢機卿、来年から会長に就任されるインドのフェラオ枢機卿様、次期副会長のフィリピンのダビド司教様、さらに副事務局長のラルース神父様が参加し、さらに講師として、ボンベイのグラシアス枢機卿様も来られると伺っています。これについては、また記します。
シノドスはまもなく第2会期ですが、すでに何度も繰り返しているように、第2会期で何かを決めて、それで今回のシノドス(の道)が終わるのではありません。
従来のシノドスは、特定の課題について世界各国の様々な意見を集約し、それに基づいてローマの会議で議論して、教皇様への提言を作成するというプロセスでした。今回は全く異なります。何度も繰り返していますが、今回のシノドスは特定のテーマについて何かを決めることではなくて、霊における会話などを通じて教会共同体が共に霊的な識別をして、聖霊の導きを見極めるようになることを目指しています。
そのために、特に第2会期の準備では、草の根の共同体がそれぞれ何かを提言して、それを国などの単位でまとめ上げて、さらにローマで集約するという手段は採用されていません。それよりも、これから先に向かって、長期的な視点から、霊における会話を通じた共同識別を根付かせるために、何がその壁になっているかを見いだし、その壁を乗り越えるにはどうしたらよいのかの道を見いだすことを、まさに霊における会話を通じて話し合い識別するのが、この10月の第2会期です。
ローマに自分たちの意見が届いていない、反映していないとご心配されている方の声が聞かれますが、それはこの第2会期の課題ではありませんのでご安心ください。そうではなくて、これから10月の会期が終わっても、「将来に向かって、このシノドス的な霊的識別の方法を、いかにして根付かせていくのかを具体的に実践していく」のが今の課題です。教会の方向性の変革は、まだ始まったばかりです。今年の10月で終わりではありません。
したがって、先般シノドス特別チームが作成したハンドブックは、第2会期に間に合わせるために作成したのではなくて、将来を見越して、これから長期的に実践していくための手引きです。来年も再来年も長期的に使っていた抱くものです。この数か月に慌てて実践するためではなくて、これから先何年にもわたって息長く実践することで、霊における会話による霊的識別を定着させるためのハンドブックです。
すでに東京教区においても、いくつもの小教区から追加で注文をいただいています。東京教区の宣教司牧評議会でも、毎回実践して、だんだんと当たり前の識別方法として定着させようとしています。来年以降の教区宣教司牧評議会では、5年目になる東京教区の宣教司牧方針の中間見直しを、霊における会話を通じて深めていくことを考えています。
ハンドブックは中央協議会のシノドス特設ページからPDFでダウンロードもしていただけます。どんどん利用して、多くの方に実践していただきたいと思います。司教協議会のシノドス特別チームでは、必要であれば、教区単位などの研修会のお手伝いをしたり、そのための講師を斡旋することも可能ですので、必要の際には、中央協議会までご相談ください。
また4月末に行われた、教区司祭のためのシノドスの集まりには、日本から大阪高松教区の高山徹神父様が参加してくださいました。高山神父様もシノドス特別チームのメンバーですが、各地の司祭の研修会などで、その貴重な体験をお話しくださいますので、お声かけください。
以下、本日午後6時配信、年間第21主日のメッセージ原稿です。
福音書は、弟子たちに対して自己決断を迫るイエスの姿が描かれています。人々がイエスを預言者だとかメシアだとか褒め称えていた話を伝えたとき、イエスが弟子たちに、「それではあなた方はわたしを何者だというのか」と問いかけた話が福音の他の箇所にありますが、今日もまたイエスは弟子たちに自ら判断するようにと迫ることで、私たちの信仰が、誰かに言われて信じるものではなくて、自らの判断と決断に基づいた信仰であることを明示しています。
自らを命のパンとして示され、ご自分こそが、すなわちその血と肉こそが、永遠の命の糧であることを宣言された主を、多くの人々は理解することが出来ません。世の常識と全くかけ離れたところにイエスが存在しているからです。多くの人が離れていく中で、イエスは弟子たちに決断を迫ります。「あなた方も離れていきたいか」。
ペトロの言葉に、弟子たちの決断が記されています。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」。
ペトロの答えの特徴は何でしょうか。それは、ペトロ自身が体験し、納得した事実に基づいている自己決断の言葉であります。ペトロはイエスと出会い、イエスと旅路を共にする中で、イエスこそが永遠の命の言葉であると確信しました。誰かにそう教えられたのでもなく、どこかで学んできたことでもない。自分自身の「イエス体験」に基づいて、ペトロは自己決断をしています。
私たちにとって必要なのは、この自己決断に至るための、「イエス体験」、つまりイエスとの具体的な出会いです。
教皇様は、来年の聖年の開催を告知する大勅書「希望はあざむかない」に、「すべての人にとって聖年が、救いの門である主イエスとの、生き生きとした個人的な出会いの時となりますように」と記し、その上で、「教会は、主イエスをわたしたちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持って」いると指摘されます。
教皇様は、キリスト者の人生は希望と忍耐によって彩られているけれど、希望は人生の旅路の中でわたしたちをイエスとの出会いへと導いてくれる伴侶であると指摘されています。
私たちには、「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人」との出会いの中で、「二人または三人が私の名によって集まるところ」において、そしてご聖体の秘跡において、主と直接に出会う機会が与えられています。さらに教皇様が今回の聖年を前に示されるように、主における希望を抱き、その希望を多くの人にもたらすことを通じて、私たちは主との出会いへと導かれます。
主との具体的な出会いを通じて、私たちは信仰における確信を深め、自らの決断のうちに、ペトロと共に、「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と、力強く答えるものでありたいと思います。
(編集「カトリック・あい」)
・「自分の利益のみを考え、他者を顧みないところに、真の平和は存在しない」聖母被昇天の祝日に菊地大司教
2024年8月15日 (木)聖母被昇天@東京カテドラル
聖母被昇天の祝日の15 日、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、午後6時からミサが捧げられ、私が司式しました。
ガーナ訪問からは、昨晩帰国しました。8名の方々と一緒の訪問団となり、皆無事に帰国致しました。お祈りいただいた皆さまに感謝致します。今回訪問した、わたしがかつて主任司祭であったオソンソン村の出身で、現在目黒教会助任のマーティン神父が同行してくれたおかげで、いろいろと現地での手配が進み、同行してくださった方々には、5時間かかるミサとか、いろいろと体験していただいたと思います。これについては稿をあらためて記します。
以下、本日午後6時の東京カテドラル聖マリア大聖堂でのミサの説教原稿です。
聖母被昇天 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2023年8月15日
聖母被昇天を祝うこの日、日本では太平洋戦争が終戦となった日を記憶に留め、多くの人が平和を求めて祈っています。神の望まれる世界の実現を求めている私たちは、命の創造主である御父の御心を思いながら、具体的にこの地において、神の平和が実現するように祈り、語り、また行動していきましょう。平和の元后である聖母マリアの取り次ぎに信頼しながら、祈りを深めたいと思います。
あらためて繰り返すまでもなく、私たちの信仰は、いのちは神からの賜物であって、それがゆえに命を守り、また命が十全に生きることができるように努めることは、私たちの使命であります。また神は、ご自身の似姿として命を創造されました。完全であり完璧である神の似姿として、命には尊厳がその始まりから与えられています。ですから命の始まりから終わりまで、人間の尊厳が保たれるように努めることも、私たちに与えられた大切な使命です。
実際の世界は残念ながらその事実を認めていません。私たち人類は、その時々に様々な理由をこじつけては、賜物である命に対する暴力を肯定してきました。そういった命に対する暴力を肯定する様々な理由は自然に発生するものではなく、人間の都合で生み出されたものです。すなわち、命に対する暴力は、自然に発生するものではなく、私たち自身が生み出したものであります。
今、私たちが生きている世界の現実は、 無防備な市民を巻き込んで、命を暴力的に奪い去る出来事で彩られています。命に対する暴力は世界各地で頻発し、加えて国家を巻き込んだ紛争が一度始まってしまうと、その終わりを見通すことができません。
ウクライナやガザでの現実を見るとき、また長年のパートナー教会であるミャンマーの現状を見るとき、神が愛される、一人ひとりの人間の尊厳は、暴力の前にないがしろにされています。平和を求めて声を上げるミャンマーのカトリック教会は、暴力的な攻撃を受けています。この数週間の間にバングラデシュでも、政治的な混乱が続き、多くの人が命を奪われました。
毎年8月6日から15日までの10日間、日本の教会は平和旬間を定めて、平和について祈り、語り、行動する決意を新たにしています。もちろん平和について考え祈ることは、8月だけの課題ではありません。なぜなら平和とは、単に「戦争がない」ことだけを意味してはいないからです。
ヨハネ23世の回勅「地上の平和」は次のように始まります。
「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」
果たして私たちが生きている今の世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。
そう考えるとき、「平和とは、単に戦争がないことではない」と気がつきます。様々な方法で、賜物であるいのちが暴力的に奪われている状況を、神が望んでいるとは到底思えません。今の世界に神の平和は実現していません。
今年の平和旬間に寄せて、ミャンマーのヤンゴン教区大司教であるボ枢機卿様から、ビデオメッセージをいただきました。そのメッセージの中で枢機卿様は、現在のミャンマーの状況を詳しく述べられ、平和を求めて声を上げる教会が暴力にさらされていることを訴えられています。その上で枢機卿様は、「『正義』とは『報復』を意味するのではなく、『互いを認めること』と『悔い改め』を意味します」と強調されています。
今必要なことは、対立し憎しみを増やすような暴力に暴力を持って対抗することではなく、共に歩み寄り、互いの声に耳を傾けあうことです。
平和の元后である聖母マリアは、天使のお告げを受け、「お言葉通りにこの身になりますように」と、全身全霊をささげて神の計画の実現のために生きることを宣言されました。
教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢は、福音に記されているこの聖母マリアの讃歌に明らかに示されています。
エリザベトを訪問したときに高らかに歌い上げたこの讃歌には、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます」と、神の計画実現とはいかなる状態なのかが明示されています。
そこでは、この世界の常識が全く覆され、教皇フランシスコがしばしば指摘される、社会の中心ではなく、周辺部に追いやられた人にこそ、神の目が注がれ、慈しみが向けられていることが記されています。
聖母マリアがその身をもって引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な「救い主の母となる」という役割であるにもかかわらず、その選びを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを、讃歌の中で高らかに歌っています。
また「身分の低い、この主の仕え女にも、目を留めてくださった」と歌うことで、聖母は、神が何をもって人間の価値を判断しているのかを明示します。それは人間の常識が価値があるとみなす量りで量るのではなく、神ご自身の量りで判断される価値です。
すなわち、すべての命はご自身がその似姿として創造されたものとして大切なのだ、という、神の命に対する価値観が、そこに明示されています。私たち人間が価値がないと見なすところに、神はご自分が大切にされる価値を見いだされます。
エリザベトは、「神の祝福は、神の言葉が実現すると信じるものに与えられる」と宣言します。私たちにとって、神のことばが実現することこそが、神の秩序の確立、すなわち神の平和の実現であります。真の平和は、弱い存在を排除するところにはありません。自分の利益のみを考えて、他者を顧みないところには、真の平和は存在しません。「自分の利益のために、他者の命を犠牲にしよう」などと考える、利己的な心の思いのうちに、神の平和は実現しません。
命に対する暴力がはびこる世界の現実を目の当たりし、十字架上のイエスのもとに悲しみのうちにたたずまれたあの日のように、聖母は今日も私たちが生きる道筋を示そうとたたずまれています。栄光のうちに天に上げられた平和の元后、聖母マリアの御心をおもい、その取り次ぎに信頼しながら、全被造界が神の望まれる状態となるよう、神の平和の実現のために、共に歩んで参りましょう。
(編集「カトリック・あい」)
・「すべての命の尊厳を守るための道は」-菊地大司教、東京教区平和メッセージ
2024年8月10日 (土)2024年平和旬間:東京教区平和メッセージ
2024年のカトリック平和旬間にあたり、平和メッセージを記します。8月10日午後5時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われる平和旬間のミサに合わせて、わたしの説教として準備致しましたが、同日は、アフリカのガーナで司祭叙階式の司式を依頼されましたので、不在となります。同日のカテドラルにおける平和を願うミサの司式は、小池神父様にお願いしています。
( 平和を願うミサ 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2024年8月10日)
毎年の夏、社会でもまた教会でも、平和について語り、ともに祈る機会が多く与えられます。平和の季節としての夏の始まりは、6月23日の沖縄での戦争終結の日です。そこからはじまり、8月6日と9日の広島・長崎の原爆忌、そして終戦記念日である8月15日までの間、私たちは過去の歴史を振り返り、平和を求めて祈り、行動します。
今年の4月、日本の司教団はアドリミナの聖座訪問でローマに出かけ、司教一同で教皇様にお会いしました。日本の教会の様々な出来事について教皇様に報告する中で、沖縄、那覇教区のウェイン司教様は、外国の軍隊がほぼ恒久的に他の国の中に軍事基地を設置し、駐留を続けることの倫理性を、教皇様に尋ね、問題提起されました。もちろんそれは沖縄の現実そのものであります。
教皇様はこれに対して、外国の軍隊の駐留の倫理性については考えたことはなかったが、重要な課題として是非これから研究してみたいと答えておられました。あの悲惨な戦争の現実から79年が経過しても、今なお、平和のための武力での防衛は維持強化され、結果として平和は実現していません。
今年の6月23日、沖縄慰霊の日にあたり、ウェイン司教様は、教区に向けた平和メッセージを発表されました。そこにこう記されています。
「平和・共生・協調の理念は、すべての人の共通の普遍的な願いであるはずなのに、同じ理念を目指しながらも、一方は他者の存在を必要とする立場から『対話』を選びますが、他方では同じ平和を理由にして、自己防衛のためにと『武力』を選択しています」
ウェイン司教様は、まったく同じ「平和・共生・協調」という理想を掲げながらも、人間はその立場によって、「対話」と「武力の行使」という全く異なる道を選択するのだということを指摘されています。「自分達の安心・安全」だけを中心に平和を考える利己的な姿勢に立つ場合、武力の行使を放棄して対話を選択するのではなく、平和を守るために必要だという理由で、暴力の行使を容認してしまう。それこそは、すなわち、平和を守るために平和を打ち壊すような状況を生み出しているのだと、メッセージの中で指摘されています。
仮に一人ひとりの命を守ることが最優先であると考えるのなら、武力の行使こそは、なんとしてでも避けるべきですが、実際にはそのような考えは非現実的だと批判されることもしばしばあります。もちろん国際関係の現実を見るならば、国家間の関係が単純には割り切れないものであることは当然です。しかしながら、近年の日本の周囲の情勢を念頭に、防衛のための武力を強化することは平和維持に不可欠だという機運が醸成されている状況は、神の与えられた賜物であるいのちを守るという教会の立場からは、平和を求める本来の道ではありえないことを、常に念頭に置かなくては成りません。
今、私たちが生きている世界の現実は、 無防備な市民を巻き込んで、命を暴力的に奪い去る出来事で彩られています。いのちに対する暴力は世界各地で頻発し、加えて国家を巻き込んだ紛争が一度始まってしまうと、その終わりを見通すことができません。ロシアによるウクライナへの攻撃で始まった戦争は、2年半が経過しても終わりへの道が見えません。パレスチナとイスラエルの対立は泥沼化し、ガザでは三万七千人を超える人たちのいのちが奪われています。アジアにおけるわたしたちの隣人の状況を見ても、ミャンマーではクーデター後の混乱はまだ続いており、すでに3年を超えて、平和の道筋は見えていません。平和を求めて声を上げるミャンマーのカトリック教会は、暴力的な攻撃を受けています。この数週間の間にバングラデシュでも、混乱が続き、多くの人が命を落としました。
ヨハネ23世の回勅「地上の平和」は次のように始まります。「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」
果たして私たちが生きているいまの世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。
そう考えるとき、平和とは単に戦争がないことではないと気がつきます。様々な方法で、賜物であるいのちが暴力的に奪われている状況を、神が望んでいるとは到底思えません。いまの世界に神の平和は実現していません。
神がご自分の似姿として創造された命には、神の愛が注ぎ込まれています。神は命を賜物として私たちに与えられました。ですから私たちには、命の尊厳を守り抜く責務があります。
賜物である命に対する暴力を行使し、神の秩序の実現を阻害しているいう視点から現実を見るとき、そこには戦争を越えてさらに多くの現実が見えてきます。
環境破壊と地球温暖化によって、長年住み慣れた地を追われる人たち。戦争や紛争の結果として故郷を離れざるを得ない難民や国内避難民。命の尊厳をないがしろにする状況の中で生きざるを得ない人たち。思想や信仰や生活のあり方の違いによって社会から排除され、存在を無視されている人たち。様々な口実で暴力的に奪われていく人間の命。ここで指摘することが適わないほど、さらに多くのいのちへの暴力行為があります。
それらすべては、平和の課題です。一人の命がその尊厳を奪われようとしている現実は、すべからく平和の課題です。神の賜物であるいのちは、その始まりから終わりまで、徹底的にその尊厳を守られ、希望を持って生きられなくてはなりません。
教皇様は、2017年に、それまであった難民移住移動者評議会や開発援助評議会、正義と平和評議会など、社会の諸課題に取り組む部署を統合し、「人間開発」という名称で一つの部署にされました。この「人間開発」という名称の前には、「インテグラル」と言う言葉がつけられています。日本語では「インテグラル」を「総合的」と訳しています。「総合的人間開発」を担当する部門です。
教皇様が「ラウダート・シ」を2015年に発表されたとき、第四章にこう書いておられます。
「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸課題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することのできる展望を求めています(137)」
現代社会にあってすべての出来事は複雑に関係しており、社会で起こる現実の出来事は複雑さを極め、命の危機はシングルイシューでは解決することができなくなっています。どうしてもインテグラル・総合的な視点が不可欠です。いま私たちの平和の活動には、インテグラルな視点が不可欠です。簡単に善悪と決めつけ、すべてが分かったような気になっているのがいまの社会なのかもしれません。しかし、人間が生み出す現実は、当たり前ですが、そんなに単純ではありません。
平和について考えるいま、世界の様々な現実を目の前にして、総合的・インテグラルな視点を持ち続けながら、すべての命の尊厳を守るための道を見いだしていきたいと思います。












