・「パン種のように内部から働きかける召命を生きる人が求められている」-菊地東京大司教の世界召命祈願日メッセージ

2025年5月10日 (土) 週刊大司教第208回:復活節第四主日C

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  復活節第四主日です。

 教皇選挙については、できる範囲で別途記します。以下、本日午後6時配信、週刊大司教第208回、復活節第四主日メッセージです。

【復活節第四主日C   2025年5月11日

  ヨハネ福音は、羊飼いと羊のたとえ話を記しています。「私の羊は、私の声を聞き分ける」と主は言われます。復活の命への希望へと招いてくださる羊飼いである主イエスは、私たち羊をよく知っておられます。先頭に立って常に旅路をともに歩んでくださいます。そして常に呼びかけておられます。

 問題は、先頭に立って私たちを導いてくださる羊飼いとしての主の声を、果たして私たちがしっかりと聞き分けているのかどうかでしょう。

 現代社会はありとあらゆる情報に満ちあふれ、人生の成功の鍵という魅力的な誘惑で満ちあふれています。選択肢があればあれほど、決断が難しくなり、多くの人がその波間を漂いながら時を刻んでいます。その中で、希望の道へと招いてくださる牧者の声に耳を傾けることは、容易ではありません。

 それだからこそ、故教皇フランシスコは”シノドスの道”の歩みを最優先事項とされていました。教会は、2028年の予定されている教会総会に向けて、”シノドスの道”を共に歩みながら、互いに支え合い、耳を傾け合い、祈りのうちにその導きを識別しようと努めています。羊飼いの声を聴き分ける羊となろうとしています。

 復活節第四主日は、世界召命祈願日と定められています。この祈願日は、教皇パウロ六世によって、1964年に制定されました。元来は司祭、修道者の召命のために祈る日ですが、同時に、シノダル(共働的)な歩みを続ける教会にあっては、すべてのキリスト者の固有の召命についても、黙想し、祈る日でもあります。牧者の声を識別する役割は、すべてのキリスト者の務めであるというのが、シノダルな教会の一つの特徴です。

 今年の祈願日のメッセージを事前に用意されていた故教皇フランシスコはその中で、「召命とは、神が心に授けてくださる尊い賜物であり、愛と奉仕の道に踏み出すべく自分自身の殻から出るように、という呼びかけです。そして、信徒であれ、叙階された奉仕者であれ、奉献生活者であれ、教会におけるすべての召命は、神が、世に、そしてご自分の子ら一人ひとりに、糧として与えてくださる希望のしるしなのです」と語っておられます。

 その上で、世界がめまぐるしく変わる中で翻弄されて道を見失っている若者たちに、特にこのように呼びかけておられました—「立ち止まる勇気を出して、自らの内面に聞き、神があなたに思い描くものを尋ねてください。祈りの沈黙は、自分自身の人生においての神からの呼びかけを読み取るために、そして自由意志と自覚をもってこたえるために、欠かすことができません」と。

 第二バチカン公会議の教会憲章に、信徒の召命について、「信徒に固有の召命は… 自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、パン種のように内部から働きかけるためである」(31項)と記されています。

 牧者であるキリストの声は、私たちだけでなく、すべての人に向けられています。それを正しく識別するために、キリスト者の働きが必要です。「自分自身の務めを」社会の中で果たしながら、「パン種のように内部から働きかける」召命を生きる人が必要です。「福音の精神に導かれて、世の聖化」のために召命を生きる人が求められています。

(編集「カトリック・あい」=このメッセージは、教皇フランシスコが帰天される前に用意されたものと思われます。今の時点に合わせて手直しをしてあります)

2025年5月10日

・「教皇は東京でのミサで言われた『キリスト者の唯一有効な基準は、神がすべての子供たちに示しておられる慈しみだ』と」菊地・東京大司教の復活節第二主日メッセージ

2025年4月26日 (土)週刊大司教第206回:復活節第二主日C

  復活節第二主日です。

 本日は教皇フランシスコの葬儀ですが、時差もありますので、これは後ほど記事を書きます。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第206回、復活節第二主日メッセージです。

復活節第二主日C 2025年4月27日

 「人類は、信頼を持って私の慈しみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスのメッセージに基づいて、復活節第二主日を「神の慈しみの主日」と定められたのは、教皇聖ヨハネパウロ二世であります。この主日に私たちは、「信じない者ではなく、信じるものになりなさい」と、信じることのできなかったトマスを見放すのではなく、改めてその平和のうちに招こうとされる主の慈しみに信頼し、そのあふれんばかりの愛の想いに身をゆだねる用に招かれています。同時に、私たちを包み込まれる神の慈しみを、今度は他の人たちに積極的に分かち合うことを決意する主日でもあります。

 故教皇フランシスコの東京ドームでの言葉を思い起こします。

 「傷を癒し、和解と赦しの道を常に差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子供たちに示しておられる慈しみ、という基準です」

 私たちが生きている今の世界は、果たして慈しみに満ちあふれている世界でしょうか。慈しみに満ちあふれることは、決してただただ優しくなることではなく、根本的には神からの賜物である命の、それぞれの尊厳を守ることを最優先にすることを意味しています。ですから、他者を排除したり、切り捨てたりすることはできません。

 復活された主は、週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて隠れ鍵をかけていた弟子たちのもとへおいでになります。「平和があるように」という挨拶の言葉は、「恐れるな、安心せよ」と言う励ましの言葉にも聞こえます。同時にここでいう「平和」、すなわち神の平和とは、神の支配の秩序の確立、つまり神が望まれる世界が実現している状態です。そのためには「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」というイエスの言葉が実現しなくてはなりません。私たちは何のために遣わされているのでしょうか。

 イエスは弟子たちに聖霊を送り、罪赦しのために派遣されました。罪の赦し、すなわちイエスご自身がその公生活の中でしばしば行われたように、共同体の絆へと回復させるために、神の慈しみによって包み込む業を行うことであります。排除ではなく、交わりへの招きです。断罪ではなく、人間の尊厳への限りない敬意の証しであります。

 交わりの絆は、私たちの心に希望を生み出します。私たちの信仰は、慈しみ深い主における希望の信仰です。互いに連帯し、支え合い、賜物である命の尊厳に敬意を払って生きるように、と私たちを招く、神の愛と慈しみは、私たちの希望の源です。

(編集「カトリック・あい」=表記を原則として当用漢字表記に統一し、文章として読みやすく、意味が通りやすくしました)

2025年4月27日

・「キリストに倣い、希望を生み出し、証しする者となる決意を新たにしよう」菊地・東京大司教の復活祭メッセージ

2025年4月19日 (土) 2025年の復活祭にあたって

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( 2025年復活祭メッセージ  2025年4月20日)

    皆様、御復活おめでとうございます。

   そしてこの復活祭、または復活節に洗礼を受けられる皆さん、おめでとうございます。教会共同体に心からの喜びを持ってお迎えいたします。

 十字架における受難と死を通じて新しい命へと復活された主は、私たちが同じ新しい命のうちに生きるようにと招きつつ、共に歩んでくださいます。復活された主イエスは、私たちの希望であるキリストです。

 2020年に直面した世界的な命の危機以来、私たちは混乱の暗闇の中をさまよい続けています。その間に勃発した各地の戦争や紛争は止むことなく、今日もまた、命の危機に直面し、絶望のうちに取り残されている人たちが、世界には多くおられます。

 そのような状況は多くの人の心に不安を生み出し、世界全体が自分の身を守ろうとして寛容さを失い、利己的な価値観が横行しています。異質な存在を受け入れることに後ろ向きであったり、暴力を持って排除しようとする事例さえ見受けられます。

 人はその命を、「互いに助けるもの」となるように神から与えられたと旧約聖書の創世記は教えています。ですから互いに助け合わないことは、私たちの命の否定につながります。命の否定は、それを賜物として与えてくださった神の否定につながります。

 互いに助け合わない世界は、神が望まれた世界ではありません。互いに助け合わない世界は、絶望を生み出す世界です。

 今、必要なのは、命を生きる希望を、すべての人の心に生み出すことであります。

 教会は今年、25年に一度の特別な聖なる年、聖年の道を歩んでいます。希望の巡礼者がそのテーマです。私たちは、絶望が支配する世界に希望をもたらす者として、人生の旅路を歩み続けます。一人で希望を生み出すことはできません。信仰における共同体の中で生かされることを通じて、希望が生み出されます。その希望の源は、復活され、私たちと共に歩み続ける主イエス・キリストです。

 先般、東京教区の姉妹教会であるミャンマーで大きな地震が発生し、私たちが特に力を入れて支援してきたマンダレー周辺で大きな被害が出ています。ただでさえクーデター以降不安定な状況が続き、平和を求める教会に対する攻撃も続いている中での災害です。

 被災者救援のための募金も始まっています。被災され絶望に打ちひしがれている方々に希望が生み出されるように、私たちは出来る限りのことをしたいと思います。まず、ミャンマーの方々のために、その平和のために、祈りを捧げましょう。祈りには力があります。命を生きる希望を生み出す信仰の絆です。

 復活祭にあたり、互いに支え合い、共に歩む中で絆を深め、希望を生み出し、証しする者となる決意を新たに致しましょう。

 終わりに、病気療養中の教皇フランシスコのために、どうぞともに祈りをお捧げください。

(編集「カトリック・あい」)

2025年4月19日

・「イエスご自身に倣い、互いに支え合い、希望を生み出し、告げる者でありたい」菊地東京大司教の受難の主日メッセージ

2025年4月12日 (土)週刊大司教第205回:受難の主日C

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   受難の主日となり、今年の聖週間が始まりました。改めて私たち一人一人の信仰の原点である主の受難と死、そして復活を黙想して、そこにおける主との出会いという希望の体験に立ち返り、また御復活祭に洗礼を受ける準備をしておられる方々のために、さらに祈りましょう。

   なお受難の主日午前10時に始まり、聖木曜日午後7時、聖金曜日午後7時、復活徹夜祭午後7時、復活の主日午前10時は、すべて私の司式で、東京カテドラル聖マリア大聖堂からビデオ配信の予定です。こちらのリンク先のカトリック東京大司教区のYoutubeチャンネルからご覧頂けます。

  以下、本日午後6時配信、週刊大司教第205回、受難の主日のメッセージ原稿とビデオリンクです。

(受難の主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年4月13日)

 3月28日午後にミャンマー中部を震源とするマグニチュード7.7の大地震が発生しました。現時点での報道では、ミャンマーの第二の都市であるマンダレーや首都のネピドーに大きな被害があり、またタイの首都バンコクでも、建設中の高層ビルが倒壊するなど、被害が多数出ています。

 ミャンマーの教会は、東京教区にとっての長年の大切なパートナーです。ケルン教区と共に様々な支援を行ってきました。今年は、今度は二人のミャンマーの司祭が、東京教区で働くために来日してくれました。

 東京教区は数年前から、今回の震源に近いマンダレー教区の神学生養成の支援に取り組み、哲学課程の神学校建物の建設を支援しています。今回の地震発生直後から、マンダレー教区関係者から連絡があり、教会の施設の多くがダメージを受け、避難者の救援作業にあたっていると支援の要請が来ました。もちろん、金銭での支援も重要ですからこれから具体的な方策を考えますが、それ以上に、信仰の絆における連帯を示すことも重要です。

 愛する家族の一人が、目の前で命の危機に直面しているなら、多くの人は平然としてはおられないはずです。なんとかして、どうにかして、助けたいと思うことでしょう。まさしく今起こっていることは、信仰における兄弟姉妹がいのちの危機に直面している状況です。いても立ってもいられなくなるはずですが、どうでしょうか。東北の大震災の直後、当時カリタスジャパンを担当していた私の元には、世界中各地から、祈っているとのメールが殺到しました。信仰における絆を実感した体験です。

 多くの人が犠牲になる大災害や戦争のような事態が起こっても、それが目の前ではなくて遙か彼方で発生すると、私たちはどういうわけか、あれやこれやと理屈を並べて、まるで人ごとのように眺めてしまいます。そのような態度とは、すなわち無関心です。無関心は命を奪います。神の一人子を十字架につけて殺したのは、あの大勢の群衆の「無関心」であります。

 歓声を上げてイエスをエルサレムに迎え入れた群衆は、その数日後に、「十字架につけろ」とイエスをののしり、十字架の死へと追いやります。無責任に眺める群衆は、そのときの感情に流されながら、周囲の雰囲気に抗うことができません。

 パウロは、イエスが、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であったからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えに」なったのだと記します。

 復活を通じた永遠の命を生きるという私たちたちの希望は、「受難と孤独のうちの十字架での死という絶望的な断絶の状況にあっても、イエスは、御父と一体であったからこそ、希望を失うことがなかった」という事実に基づいています。無関心は孤立をもたらし、絶望を生み出します。しかし「命の与え主である御父に繋がる中で、兄弟姉妹として互いに結ばれている」という確信は、命を生きる希望を生み出します。いま、世界に必要なのは、命を生きる希望であって、絶望ではありません。

 互いへの無関心が支配する現代社会にあって、私たちはイエスご自身に倣い、御父との絆に確信を抱きながら、互いに支え合い、希望を生み出し、それを告げる者でありたいと思います。無関心のうちに傍観して流される者ではなく、互いを思いやり、支え合い、ともに歩みを進める者でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年4月12日

・「神から赦しをいただき、生かされていることを心に刻もう」菊地・東京大司教の四旬節第五主日メッセージ

2025年4月 5日 (土)週刊大司教第204回:四旬節第五主日C

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 四旬節も終わりに近づき、もう第五主日です

 3月23日深夜に出発、29日お昼頃帰着で、ローマに出かけておりました。もともとは一年に一度、この時期に教皇様にお会いして、国際カリタスの活動報告をすることにしていました。当然ながら、現在の教皇様の健康状態もあり、謁見はキャンセルになりましたが、それ以外にも国務省を始め総合的人間開発省、東方教会省、諸宗教対話省、キリスト者一致推進省、広報省、教皇庁未成年者保護委員会、シノドス事務局を、国際カリタスの事務局長と二人で訪問して回りました。

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 またその間に、枢機卿としての名義教会であるサン・ジョバンニ・レオナルディ教会のアントニ・サミィ・エルソン主任司祭(向かって右端)はじめ助任司祭と小教区財務委員の信徒の方の訪問を受け、さらに主任司祭と一緒に教皇庁儀典室のモンセニョールを訪問し、10月9日夕方6時に予定されている着座式の打ち合わせも行いました。

 ローマのどちらかというと郊外の住宅地にある小教区であり、長年、枢機卿の名義教会になることを申請していてやっと夢がかないました、住宅街の共同体なので、日曜のミサの参加者は大勢であり、様々な活動のある教会です。当日は日本からの訪問者も大勢いるだろうし、当小教区出身の司祭や司教も来るので、聖堂に入りきらない場合は、隣の学校のグランドで野外ミサをするとのことです。いまから楽しみです。

 イタリア語ですが、小教区のホームページです。なお司牧を担当しているのは16世紀に聖ジョバンニ・レオナルディが創立したOMD(Ordo Clericorum Regularium Matris Dei)と言う修道会司祭ですが、この会の正式名称をどのように邦訳するのか思案中です。

 その間に、イタリア国政放送RAIのテレビのインタビューがあり、さらには国際カリタスの夏の聖年の青年行事の打ち合わせや、国際カリタス法務委員会との顔合わせなど、盛りだくさんでした。

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 バチカン周辺は思ったほどの人出ではなかったものの、聖年の巡礼団が多く集まり、サンタンジェロ城付近からコンチリアツィオーネ通りにサンピエトロ大聖堂までまっすぐに700メートル近い特別通路が設けられてあり、途中信号などがあるのでボランティアの時間調整や誘導にしたがって、祈りと共に歩んでいました。サンタンジェロ城の近くに登録ブースがあり、ここで先頭を行く十字架を貸してもらえるようです。

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 ローマ市内は、そこら中で道路工事をしていましたが、昨年末に枢機卿親任式で訪れた際には絶対終わるのは不可能と思ったバチカン周辺の工事は、なんと見事に終わり、閉鎖されていた地下トンネルなども再開して、渋滞も少なくなっていました。今回も国際カリタス事務局のすぐ近くの小さなホテルに泊まったのですが、お値段が昨年とは比べものにならないくらい高騰していました。

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 教皇様は宿舎であるサンタマルタの家に戻られていますが、パロリン国務長官によれば「二か月本当に休んでいただけば、なんとか復帰なされるだろう。教皇様がしっかりとお休みになるようにすることが、我々の務めです」と言われ、「回復の度合いにもよりますが、今までのようなペースでの仕事は難しくなるので、スタイルを変更しなくてはならない」とのことでした。どうか続けて、教皇様のためにお祈りください。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第204回、四旬節第5主日のメッセージ原稿です。

(四旬節第五主日C 2025年4月6日)

 ヨハネ福音は、「姦通の現場で捉えられた女」の話を伝えています。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言うイエスの言葉がよく知られています。もちろんこの場において、本当に罪を犯したことのない者は、神の子であるイエスご自身しかおられません。さすがに神に挑戦するような思い上がった人は、当時の宗教的現実の中で、そこにはいなかったと福音は伝えています。

 しかし同じことが、今の時代に起こったとしたらどうでしょう。とりわけ、バーチャルな世界でのコミュニケーションが匿名性の影に隠れて普及している今、同じことが起きたのであれば、あたかも自分こそが正義の保持者である、というような論調で、この女性を糾弾する声が多く湧き上がるのではないでしょうか。何という不遜な時代に私たちは生きているのでしょう。時にその不遜さは、自分が虐げている弱い相手に対して、自分に対する感謝が足りないなどと、さらにとんでもない要求すらして相手を糾弾します。

 この福音の物語は、時代と文化の制約があるとはいえ、共犯者であるはずの男性は罪を追及されることがなく、女性だけが人々の前に連れ出され断罪されようとしています。同じ罪を形作っているにもかかわらず、女性だけが批判される構図は現代でも変わりません。それどころか、ハラスメントなどの暴行や虐待の事案にあって、あたかも被害者に非があるかのような批判の声が聞かれることすらあります。

 神の愛と慈しみそのものであるイエスは、犯された罪を水に流して忘れてしまうのではなく、一人で責めを受け、命の尊厳を蹂躙されようとしている人を目の前にして、その人間の尊厳を取り戻すことを最優先にされました。もちろん共同体としての秩序と安全を守ることは大切ですし、社会においてもまた宗教共同体においても、掟が存在しています。

 イエスの言葉は、掟を守ることに価値がない、とはしていません。イエスの言葉は、掟が前提とする一人ひとりの人間の尊厳に言及しています。なぜなら、その尊厳ある一人一人が共同体を作り上げているのであって、共同体が人を作り上げているからではありません。イエスは、そのような場に引き出され、辱められ、人間の尊厳を蹂躙されている女性の、そこに至るまでの状況を把握することもなく、掟を盾にして尊い賜物である命の尊厳をないがしろにしている現実のただ中で、一人の命の尊厳を守ろうとしています。その存在を守ろうとしています。私たちの時代は、誰を、そして何を最優先にしているのでしょうか。

 今年の四旬節メッセージ「希望をもって共に歩んでいきましょう」で、教皇様は回心について三つの側面から語っておられます。その三つ目のポイントは、約束に対する「希望をもって」共に歩むことですが、教皇様はそこに、こう記しておられます。

 「回心への第三の呼びかけは、希望への、神とその大いなる約束である永遠の命を信頼することへの招きです。自らに問いましょう。主は私の罪を赦してくださると確信しているだろうか。それとも、自分を救えるかのように振る舞っているのではないだろうか。救いを切望し、それを求めて神の助けを祈っているだろうか。歴史の出来事を解釈できるようにし、正義と兄弟愛、共通の家のケアに務めさせ、誰一人、取り残されることがないようにする希望を、具体的に抱いているだろうか」

 私たちは、神からの赦しをいただいて生かされている、と心に刻むとき、神の前で謙遜に生きることを学びます。神の前に謙遜になるとき、初めて、同じ神の愛によって命を与えられ生かされている兄弟姉妹と共に歩むことの大切さを理解することが可能になります。一人ひとりの人間の尊厳を尊重し、虐げられている人の尊厳を回復しようとする主の慈しみに倣いましょう。

2025年4月5日

・「ミャンマーで大地震発生、被災した方々のために共に祈ろう」菊地東京大司教、四旬節第四主日に

2025年3月29日 (土)ミャンマーでの地震発生にあたって、ともに祈りましょう

             ミャンマー中部マンダレー近郊を震源地とする大地震が発生したことを受けて、私から東京教区の皆様に共に祈りを捧げるように呼びかけております。ミャンマーでの地震発生にあたって、共に祈りましょう

 2月28日午後にミャンマー中部を震源とするマグニチュード7.7の大地震が発生しました。現時点での報道では、ミャンマーの第二の都市であるマンダレーや首都のネピドーに大きな被害があり、またタイの首都バンコクでも、建設中の高層ビルが倒壊するなど、被害が多数出ています。

 現地からの報道はまだ断片的ですが、NHKによれば29日午後3時頃の情報として、「ミャンマーの国営テレビは29日、SNSに投稿し、今回のミャンマー中部で発生した大地震で全国でこれまでに1002人が死亡し、2376人がけがをした」と報道されており、これからも被害は拡大するであろうことが推定されます。

 ミャンマーの教会は、東京教区にとって姉妹教会であり、長年にわたりケルン教区と共に様々な支援を行ってきました。その中で、数年前からはマンダレー教区の神学生養成の支援に取り組み、哲学課程の神学校建物の建設も支援してきました。わたし自身も、東京教区の司祭代表団と一緒に、コロナ禍直前の2020年2月にマンダレー教区ピンウーリンの同神学校を訪問し、さらなる協力関係の構築でマンダレー教区のマルコ大司教様と一致したところでした。

 ミャンマーは2021年2月1日に発生したクーデター後、軍事政権下で不安定な状況が続いており、平和構築と民族融和を訴えるカトリック教会への武力攻撃もやみません。いくつかの教区ではカテドラルを含む教会が襲撃され、教区司教が住居を失った事例も報告されています。

 今回の地震に際して、マンダレー教区からは、教会も含めて大きな被害を受けたとの情報が届いており、教会による救援活動の開始も伝わってきております。情報は随時、東京教区ホームページに掲載いたします。

 募金をとの申し出が相次いでおりますが、それに関しては、詳細が判明してからできるだけ早く、どのような形にするのかをカリタスジャパンの判断も待ちながら、週明けには、教区としての対応をお知らせすることに致します。

 どうか今回の地震の被害に遭われた皆さんのために、また特に姉妹教会であるミャンマーの皆さん、そしてタイの皆さんのために、ミサの中でお祈りをお願いいたします。また、東京教区のミャンマー共同体の皆さんと心を合わせて、日々の祈りの中で、地震の被災者のために、また平和の実現のために、さらなるお祈りをお願いいたします

 以下、週間大司教第203回目のメッセージ原稿です。

( 四旬節第四主日C  2025年3月30日)

 ルカ福音は、よく知られている「放蕩息子」のたとえ話を記しています。この物語には、兄弟とその父親という三名が、主な登場人物として描かれています。

 当時の社会状況とその背景にある宗教的な掟に基づいて、罪人とされている人々に寄り添おうとされたイエスに対して、その掟を厳しく追及する人々は不平を漏らします。

 「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」

 この不平の言葉は、今を生きる私たちの間でも聞かれる言葉であります。こう語る人の視点は、実は「罪人」にあるのではなく、自分自身に向けられています。すなわち、「本来大切にされ受け入れられるべきなのは、正しい私であるはずだ」という心持ちであります。正義は自分にあるはずなのですから、それを否定し、正義を持たない人たちを優遇するイエスを、理解することができません。

 東京ドームのミサの説教で、教皇フランシスコは、「傷を癒し、和解と赦しの道を常に差し出す準備のある、野戦病院となること(東京ドームミサ説教)」を教会共同体に求められました。神の慈しみの深さに包まれ、その行動の原理に倣うことを私たちに説いておられます。

 弟を迎え入れた父親は、「いなくなっていたのに見つかったからだ」という言葉の前に、「死んでいたのに生き返り」と付け加えています。父親の価値基準は正しさにあるのではなく、家族という共同体に繋がって生かされているのかどうかにあります。ですから弟を迎え入れた父親に対して不平を言う兄に、「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」と告げるのです。

 共同体の絆から離れていることは、命を生きていたとしても「死んでいる」ことであって、その絆に立ち返ったからこそ弟は「死んでいたのに生き返り」と父親が語っているのです。共同体の絆、すなわち連帯の絆に結ばれて、人は命を十全に生きることができるのです。父親の優しさとは、罪に対して目をつむることではなく、共同体の連帯の絆に立ち返らせようとする愛の心であって、神の正義はそこにあります。

 今年の四旬節の教皇メッセージ、「希望をもって共に歩んでいきましょう」において、回心について三つの側面から語る教皇は、二つ目の側面である「共に歩む」ことについてこう記しておられます。

 「共に歩む、シノドス的であること、これが教会の使命です。キリスト者は決して孤高の旅人ではなく、共に旅するよう呼ばれています。聖霊は、自分自身から出て神と兄弟姉妹に向かうよう、決して自分自身を閉じないよう、突き動かしておられます」

 そのうえで教皇は、共に歩むことで共同体の絆を回復させることの大切さを説かれ、こう記されます。

 「共に歩むということは、神の子として共に有する尊厳を基盤とした一致の作り手となるということを意味します。それは、人を踏みつけたり押しのけたりせず、ねたんだりうわべの振る舞いをしたりせず、誰も置き去りにしたり疎外感を覚えさせたりせずに、肩を並べて歩む、ということです」

 自らの正義を振りかざし、他者を糾弾し排除しようとする誘惑は、現代社会に満ちあふれています。私たちは、放蕩息子を迎え入れた父親のように、共同体の絆に命を回復させ、共に歩もうとする姿勢が求められています。

(編集「カトリック・あい」)

2025年3月30日

・「私たちの信仰の原点『イエスの言葉と行い』との出会いにこそ、希望がある」菊地・東京大司教の四旬節第二主日

2025年3月15日 (土)週刊大司教第201回:四旬節第二主日C

Fabc250301    この一週間、月曜日の夜に始まって金曜日の夕方まで、タイのバンコクを会場に、アジア司教協議会連盟(FABC)の中央委員会が開催されましたので,バンコクまで旅をしてきました。

   中央委員会は、FABCに加盟しているアジアの19司教協議会の会長と、司教協議会を構成していない香港、マカオ、ネパールの司教で構成されています。19の司教協議会の中には、マレーシア、シンガポール、ブルネイや中央アジアのように、いくつかの国で構成されているところと、インドのように三つの典礼(ラテン典礼と二つの東方典礼)とその全体で4司教協議会が存在するところなどがあり、19は国の数ではありません。日本の司教協議会は私が会長を務めていますので職責で参加しましたが、同時に現在二期目のFABC事務局長も務めており、その立場でも参加しました。

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 中央委員会は年に一度開かれ、中央委員会がその時代の必要に応じて設置している諸部局からの報告を受けた後、中央委員会だけの会議を開き、その後、今回は木曜日と金曜日に、OHD(人間開発局)の主催で、環境回勅「ラウダート・シ」の10周年を記念したワークショップを行いました。日本から女子メリノール会のシスター・ジョイが参加し、日本の司教団のラウダート・シデスクの活動について報告してくださいました。

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 今年の11月にブラジルで開かれるCOP30(国連気候変動枠組み条約第30回締約国会議)に向けて、アフリカや南米の司教協議会連盟と協力して、政策提言活動や啓発活動を行うことで一致しました。また、「ラウダート・シ」の10周年を記念して、今回の中央委員会は、司牧書簡を採択し、公表しています。

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 また中央委員会では、(昨年10月に閉幕した)世界代表司教会議(シノドス)第16回総会を受けて,シノダル(共働的)的な教会を育むための委員会を設けることで合意され、副会長のフィリピンのパブロ・ダビド枢機卿が責任者として,各国の司教協議会に働きかけていくことになりました。さらに、各国、各教区にシノダリティ(共働性)を育むための部署を設けるよう求める決議がされました。(左の写真、向かって左から、ビル・ラルース事務局次長、わたし、会長のフィッポ・ネリ枢機卿、副会長のパブロ・ダビド枢機卿)

 なお、以上のFABC事務局の公式発表は、英語ですが、こちらから読むことができます。

 環境問題に関して素晴らしく先進的な取り組みをしている国もあれば、シノダリティを育むことに力を入れ始めた国もあり、日本の教会も、アジアの教会と歩みを共にして行くために、シノダリティを育むための部門を設け、すでに活動している「ラウダート・シ」デスクを充実させるなど、必要な対応をして行かねばなりません。

 なお11月にはマレーシアのペナンでアジア宣教大会が開かれます。11月27日から30日までの予定です。(前回は2006年にタイのチェンマイで行われ、私も参加しました。そのときの模様はこちらの司教の日記に記してあります。)

 今回の中央委員会で、いくつかの候補の中から、今回の宣教大会のロゴマークが決まり、プログラムの骨子も明らかになってきました。千人以上の参加が期待されており、日本からもFABC枠で参加する私以外に三名の司教様と、そのほか20名以上の参加が期待されています。前回も、私を含め司教三名と、総勢21名が参加しています。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第201回め、四旬節第二主日のメッセージです。

【四旬節第二主日C  2025年3月16日】

 四旬節は、私たちが信仰の原点に立ち返る時です。「希望の巡礼者」として歩んでいる私たちに、福音は、共通の救いの記憶、すなわち共同体の信仰の原点に立ち返ることの重要性を教えています。栄光に光り輝くイエスにこそ、私たちの信仰の原点である希望があることを、ルカ福音は伝えています。

 ペトロ、ヨハネ、ヤコブにとって、信仰の原点は、御変容の出来事の経験でした。私たちの原点としての体験は何でしょうか。この四旬節に、改めて、私たちに共通する希望の源を見つめ直しましょう。その原点は、一体どこにあるのでしょうか。

 創世記は、まだ「アブラム」と呼ばれていたアブラハムを神が選び、契約を結ばれた出来事を記しています。暗闇の中で天を仰ぎ、「星を数えることができるなら、数えてみるが良い」と告げられたアブラハムの驚きを想像します。アブラハムの信仰の原点は、暗闇に満天の星を眺め、未来に向かって人間の想像を遙かに超えた約束を与えられた、その夜の驚きであったと思います。

 ルカ福音は、御変容の出来事とそれを体験した弟子たちの驚きを記します。神の栄光を目の当たりにしたペトロは、何を言っているのか分からないままに、そこに仮小屋を三つ建てることを提案したと福音は伝えます。きっとペトロはその輝く栄光の中にとどまりたかったのでしょう。

 福音はモーセとエリヤが共に現れたと記します。この二人は律法と預言書の象徴、すなわち旧約における神とイスラエルの民との契約を象徴します。その中で神はイエスを名指しして、旧約ではなくイエスこそがそれを凌駕する存在であるとして、「これは私の愛する子。これに聞け」と告げた、と記されています。この日の神の栄光を目の当たりにした驚きと、その中でイエスこそが旧約を凌駕する新しい契約の主であると告げられた弟子たちの驚きは、教会の信仰の原点でもあります。私たちの希望の源はイエスにあることが明示されました。

 教皇様は大勅書「希望は欺かない」に、このように記しておられます。

「希望と忍耐が影響し合うことから、次のことが明らかになります。つまり、キリスト者の人生は目的地である主キリストとの出会いへと導いてくださるかけがえのない伴侶、すなわち希望を養い強める絶好の機会を必要とする旅路だということです(5項)」

 巡礼の旅路は、忍耐を必要とする旅路です。私たちは「主との出会い」にこそ、救いの希望があることを心に刻み、忍耐のうちに、しかし希望を持って歩みを続けます。この世の栄光にとどまることはしません。そこに希望はありません。イエスとの出会いは、この世の栄光をうち捨て、苦難の道を忍耐を持って歩み続けた先に存在します。私たちの信仰の原点は、「イエスの言葉と行い」との出会いです。そこにこそ希望があります。その希望に導かれた、私たちはイエスとの出会いへと歩みを進める者でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年3月15日

・「私たちの共通の信仰の原点は『希望』にある」菊地・東京大司教の四旬節第一主日

2025年3月 8日 (土) 週刊大司教第200回:四旬節第一主日

1741397728379 毎週土曜夕方にお送りしているビデオプログラム「週刊大司教」は、今回で節目の200回目となりました。ご視聴いただき、一緒に祈ってくださる多くのみなさまにに感謝いたします。

 ビデオでの配信は、教区本部の広報担当者が制作にあたっていますが、毎回の視聴数が千を下回ることが続いた場合、役目を終えたと判断して終わりにするようにと申し合わせてありました。ただ有難いことに、毎回千を越える方が視聴してくださっていますので、ここまで続いてきました。これからも可能な限り続けていきたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願い致します。

 また、こちらのブログ「司教の日記」には、毎回のテキストに加え、その時々の情報も色々と記しておりますので、できれば教区の皆様全員に目を通していただければと願っています。お近くのお知り合いにも、このブログの存在をお知らせいただければ幸いです。もちろんパソコンでもスマホでもご覧いただけます。

 なお四旬節第一主日にあたる3月9日午後2時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂において、教区の召命のために祈り献金する一粒会の総会に合わせてミサが行われ、その中で、アンセルムス今井克明神学生の朗読奉仕者選任式を執り行います。このミサには、一粒会の総会関係者以外のどなたでも参加いただけます。お時間の許す方はどうぞご一緒にミサにご参加くださり、司祭召命のために、また今井神学生のために、ミサの中でお祈りください。

 以下、四旬節第一主日、週刊大司教第200回目のメッセージ原稿です。

【四旬節第一主日C 2025年3月9日】

 3月5日の灰の水曜日から、今年の四旬節が始まりました。今日は四旬節第一主日です。

 教会の伝統は、四旬節において「祈り」「節制」「愛の業」という三つの行動をもって、信仰を見つめ直すように私たちに呼びかけています。また教会は四旬節に特別な献金をするようにも呼びかけ、日本の教会ではこれをカリタスジャパンに委託しています。四旬節愛の献金は、隣人のために自らを犠牲として捧げる心をもって行う、具体的な愛の業そのものです。またその犠牲の心を持って私たちは、命の危機に直面し助けを必要としている多くの人たちに心を向け、具体的な意味で共に歩む者となります。互いに支え合う連帯の絆は、命を生きる希望のしるしです。

 四旬節において、私たちは信仰を見つめ直し、自らの信仰の原点に立ち返ります。また御父の慈しみを自らの心に刻み、社会の現実の中でそれを多くの人に具体的に示し、希望を証しする者となります。

 ルカ福音は、荒れ野における四十日の試みの話を記します。イエスは、命を生きるには極限の状態である荒れ野で、人間の欲望に基づいた様々な誘惑を悪魔から受けます。福音に記された、空腹の時に石をパンに変えることや、この世の権力と繁栄を手に入れることや、神に挑戦することなどの誘惑は、この世に満ちあふれている人間の欲望の反映であります。それに対してイエスは、申命記の言葉を持って反論していきます。本日の第一朗読である申命記には、モーセがイスラエルの民に原点に立ち返ることを説く様を記します。神に感謝の捧げ物をするときに、自分たちがどれほどに神の慈しみと力に護られてきたのかを、共同体の記憶として追憶する言葉です。「神に救われた民」の原点に立ち返ろうとする記憶の言葉です。

 共通の救いの記憶、すなわち「共同体の信仰」の原点に立ち返ることにこそ、この世の様々な欲望に打ち勝つ力があることを、イエスは明確にします。現代社会の神の民である私たちにとって、旧約の民のような「立ち返るべき共通の信仰」の原点は何でしょうか。

 教皇様は聖年の大勅書「希望は欺かない」に、聖年のロゴのイメージについて次のように記しておられます。

 「錨のイメージが雄弁に示唆するのは、人生の荒波にあっても、主イエスに身を委ねれば手にできる安定と安全です。嵐にのまれることはありません。私たちは、キリストにおいて生きて、罪と恐れと死に打ち勝つことができるようにする恵みである希望に、しっかりと根を下ろしているからです」。

 私たちの共通の信仰の原点は、そこにこそあります。死に打ち勝ったイエスにこそ、私たちの信仰の原点である希望があります。この四旬節に、改めて私たちに共通する希望の源を見つめ直しましょう。

 四旬節第一主日には今年の復活祭に洗礼を受けるために準備をされている方々の洗礼志願式が多くの教会で行われます。復活に向けて心を整えるこの時期こそ、キリストの死と復活に与る洗礼への準備に最も適しています。洗礼志願者の皆さんのためにも祈りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年3月8日

・「偽情報に惑わされず、教皇の速やかな回復を祈ろう」菊地・東京大司教、年間第8主日メッセージ

2025年3月 1日 (土)週刊大司教第199回:年間第8主日

   2023_10_25_rca_0375 今年は復活祭が遅く、4月20日ですので、3月に入ってもまだ、典礼では年間の主日が続きます。今年の四旬節は、3月5日の灰の水曜日から始まります。

  教皇様の容態は、徐々にではありますが回復に向かっていると伝えられていますが、まだ危険な状況であることに変わりはない模様です。入院が続いています。どうぞ教皇様のために、全世界の兄弟姉妹とともに続けてお祈りください。

   なお先日、皆様に教皇様へのお祈りを呼びかけました司教の日記の記事が、一時、消失しておりました。大変申し訳ありません。このブログを置いているNiftyのココログさんでサーバーを更新した際に、最新のデータが移動しなかった模様で、その後に回復いたしました。ご迷惑をおかけしました。

  また教皇様が入院したことを受けて、インターネット上では様々な偽物の情報が飛び交っています。すでに帰天されたと主張する偽情報もありました。私たちの生命は神様の御手の中にあります。それを忘れた不遜な言動は慎みたいと思います。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第199回、年間第8主日メッセージです。

【年間第8主日C 2025年3月2日】

 希望の巡礼者として聖年を歩んでいる私たちに、ルカ福音は、「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」と語りかけます。

 私たちは、現代社会にあってどのような実を結んでいるのでしょうか。希望の巡礼者である私たちは、まさしく希望そのものを具体的に表すしるしとなることが求められています。

 教皇様は大勅書「希望は欺かない」において、「聖年の間に私たちは、苦しい境遇のもとで生きる大勢の兄弟姉妹にとっての、確かな希望のしるしとなるよう求められます」と呼びかけておられます。良い木として私たちが結ぶ実は、希望のしるしです。

 先般、教皇様は合衆国の司教たちに書簡を送られ、その中で、「出エジプト記に記されているイスラエルの民の奴隷から自由への旅路は、現代社会において移住という現象によってはっきりと示される現実を、常にわたしたちの身近におられ、受肉され、移住者であり、難民である神への信仰においてだけではなく、すべての人間の犯すことのできない神秘的な尊厳を再確認するための歴史的決定的な瞬間として見つめるよう招いている」と指摘して、その立場にかかわらず人間の尊厳を守ることの重要性を強調されています。

その上で教皇様は、それぞれの国家が自らの治安を守る責務の重要性を認めながらも、「促進されなければならない真の愛の秩序は、「善きサマリア人」のたとえ話を絶えず黙想することによって、例外なくすべての人に開かれた兄弟愛を築く愛について黙想することによって発見されるものだ」と呼びかけます。

 不寛容さが支配し、利己主義の蔓延する社会にあって、教会は排除することのない愛の証しとして、また徹底的に人間の尊厳を守る存在として、希望のしるしとなることが求められてます。

 私たちが語る言葉は、私たちの心の反映です。私たちの行動は、私たちの心の鏡です。福音は、「人の口は,心からあふれ出ることを語るのである」と記します。それはすなわち「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」という言葉に集約されます。私たちはどのような実を結ぶ木なのでしょうか。

 同時にルカ福音は、「兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と語るイエスの言葉を記します。どれほど私たちは、自らの身を振り返ることなく,他者を裁いていることでしょうか。他者を裁き断罪するとき、私たちは時に大きな思い違いをしてはいないでしょうか。自分も同じように、過ちを犯す人間である。弱さを抱えた人間であるということを、忘れてはいないでしょうか。
社会の現実の中にあって、希望のしるしとして歩みを続けていきましょう。

2025年3月2日

・「自分の量る秤で量り返される」ことを肝に銘じる―菊地・東京大司教の年間第7日

2025年2月22日 (土)週刊大司教198回:年間第7主日

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 年間第7主日です。

 ご存じのように、教皇フランシスコは肺炎のため、ローマのジェメリ病院に2月14日に入院され、治療を受けておられます。12月の枢機卿親任式でお会いしたときにも多少風邪気味で、無原罪の聖母の主日ミサの時には、消え入るような声でミサをされていましたが、それでも外面的にはお元気そうでした。しかしその後、いろいろと行事があり、特に聖年が始まって通常以上の行事が予定されていたことから、完全に回復することのないままにお仕事を続けておられたのだ、と推測します。

 広報省からの発表によれば、複雑な状況である者の治療が効いているとのことです。ともに教皇様の回復のために祈りましょう。

 2月17日午後から20日夕方まで、司教総会が行われました。今年から会計年度が12月締めから3月締めに変わりましたので、この司教総会は2024年度の臨時司教総会となります。決定事項の詳細については中央協議会から公表されるますので、そちらをご覧ください。

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 日本の司教協議会の事務局であるカトリック中央協議会が、現在の江東区潮見に移転したのは1992年でした。そのときに新築された建物、日本カトリック会館も今年で建築から33年が経過しました。建物自体は堅牢で、海に面していることから海風や塩の影響はあるものの、まだまだ活用していくことができます。しかし、躯体の中身である配管や内装など諸々の設備については更新が不可欠です。そのため、今年の4月から始めて、通常の業務を行いながら順番にリニューアルをしていくことになりました。

 そのタイミングに合わせて、これまで長年にわたって検討を重ねてきた事務局体制の更新も行うことに致しました。以前からの様々な議論に基づいて、検討チームが具体案をまとめ、今回の総会で、事務局の組織機構を変更することを決定しました。同時に司教協議会の委員会体制についても、これを機会に変更することにし、これについては6月の司教総会で新しい司教様方の委員会体制の任命を行う予定です。

 新しい体制の詳細については、中央協議会から公表されますので、お待ちください。また実際に運営してみて不都合があるときには、フレキシブルに改善することにもしています。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第198回、年間第7主日のメッセージ原稿です。

【年間第7主日C 2025年2月23日】

 希望の巡礼者として聖年を歩んでいる私たちに、ルカ福音は、「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」と呼びかけています。

 教皇様は大勅書「希望は欺かない」に、「希望をもって将来を見ること、それは、伝える熱意にあふれた人生観をもつことでもあります(9)」と記し、その上で、「聖年の間に私たちは、苦しい境遇のもとで生きる大勢の兄弟姉妹にとっての、確かな希望のしるしとなるよう求められます(10)」と呼びかけておられます。私たちは、豊かに愛してくださる神の愛とあわれみを具体的に生きる者となるように招かれています。

 いくつかの具体的な困難の事例を挙げられる教皇様は、その中に、「難民や移住者」の現状を挙げ、そういった方々にとっての「希望のしるし」となるようにと、教会に呼びかけます。

 「偏見や排斥によって、彼らの期待がくじかれることがありませんように。一人ひとりをその尊厳ゆえに喜んで迎えることには、誰もが望ましい未来を築く権利を奪われないようにする、責任が伴います。国際的な緊張状態によって、戦争、暴力、差別を避けるには逃げるしかない多くの亡命者、強制移住者、難民には、安全、就労、教育の機会を保障すべきです。それらは、新しい社会環境に溶け込むために必要な手立てなのです(13)」

 その上で教皇様は、「キリスト者の共同体には常に、最も弱い立場の人々の権利を守る用意がなければなりません。よりよい生活への希望をだれ一人奪われることのないよう、広い心で歓待の扉を開け放ってください」と、私たちに呼びかけておられます。

 ルカ福音は、人の生きる姿勢について、この世の常識とは真っ向から異なる選択肢を掲げた後に、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と記します。

 私たち自身は、自分が何をして欲しいのかを、どうして知っているのでしょう。私たちは自分自身を大切に思い、自らの身体と心の声に真摯に耳を傾けるからこそ、自分自身にとって何が必要なのかを識別することができています。

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という言葉は、私たちに隣人への思いやりの心を求めます。隣人の声に耳を傾ける姿勢を求めます。隣人の命の尊厳を尊重し、その命を守り、共に生きていくことを求めています。

 さらに福音は「人を裁くな」と言われたイエスの言葉を記します。私たちはそもそも、簡単に他者を裁く存在です。あたかも自分により正義がある、と思い込み、様々な手段を通じて幾たび人を裁いてきたことでしょう。正義はどこにあるのでしょうか。命に対する暴力がはびこるこの現実の中で、私たちは不安のあまり寛容さを失い、安易に他者を裁いては安心を得ようとしています。そのような私たちに対して、ルカ福音は主イエスの言葉として、「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」と伝えます。この言葉こそは、私たちひとり一人の心に深く記しておきたい言葉です。

(編集「カトリック・あい」=聖書の訳は日本語の翻訳として優れている「聖書協会・共同訳」を使用して改めました)

2025年2月22日

・「『お言葉ですから』と聖霊の導きに従う覚悟を持つ大切さ」菊地東京大司教の年間第5主日

2025年2月 8日 (土)週刊大司教第196回:年間第五主日

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 年間第五主日です。

 今週の火曜日、2月11日はルルドの聖母の祝日ですが、「世界病者の日」とされています。教皇様の今年のメッセージのタイトルは、聖年にちなんで「希望は欺かない」ですが、本文は中央協議会のこちらのリンクからご一読いただけます。

 また当日は、午後2時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で病者の日のミサがカリタス東京の主催で行われますが、こちらはどなたでもご参加いただけます。このミサは私が司式いたします。またYoutubeでの配信も行われます。どうぞご参加ください。

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 また本日のメッセージでも触れていますが、この一週間は日本の殉教者の記念日が続きました。毎年恒例になっていますが、墨田区の本所教会では、2月の最初の日曜日に日本二十六聖人殉教者の殉教祭ミサが捧げられており、今年も2月2日に私が司式して捧げられました。聖年の巡礼ということもあり、今年のミサには様々な小教区の方々が参加してくださいました。(左の写真)

 さらに2月8日は聖ヨゼフィーナ・バキータの祝日です。メッセージの中で詳しく触れていますが、奴隷としてアフリカから人身売買の被害者としてイタリアにたどり着いた彼女は、その後、カノッサ会の修道女となりました。彼女の人生にちなんで、この日は女子修道会国際総長会議によって「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」とされています。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第196回、年間第五主日のメッセージです。

【年間第5主日C 2025年2月9日】

「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」とイエスに応えたシモン・ペトロは、その後、生涯にわたってまさしく主の「お言葉ですから」と、教会の頭としての務めを果たし続けました。

 召命は、神からの呼びかけであって、自分の選択ではなく、果たすべき役割も、自分の選択ではなく、神の計画です。その神の計画は、人の知恵を遙かに超えていることが、この福音の物語から理解されます。人間の常識的にはあり得ないけれど、「お言葉ですから」と網を下ろした結果は、神の計画の実りでありました。

 教皇フランシスコが、教会のシノドス性について取り上げた先のシノドスの最中、総会の参加者に繰り返されたのは、「主役はあなた方ではなくて、聖霊です」という言葉でした。シモン・ペトロの後継者としての教皇様は、まさしく私たちが従うべきなのは人間の知恵ではなく聖霊の導きであって、常に「お言葉ですから」とその導きに従う覚悟を持つことの大切さを説いておられました。いま教会に必要なのは、この世の知恵に基づく識別ではなく、神の知恵に基づく識別です。聖霊が主役です。

 この一週間は、2月3日に福者高山右近、2月5日に日本26聖人殉教者と、日本の殉教者の記念日が続きました。

 「殉教者の血は教会の種である」と、二世紀の教父テルトゥリアヌスは言葉を残しました。教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実の勝利を、世にある教会が証しし続けていくという意味においてであります。殉教者たちこそは、「お言葉ですから、網を下してみましょう」と答え続けて信仰の道を歩んだ方々です。

 信仰の先達である殉教者たちに崇敬の祈りを捧げるとき、その勇敢な死に賞賛の声を上げるだけでなく、殉教者たちの生きた姿勢と信仰におけるその選択の勇気に、私たち自身が命を生きる希望の道を見い出さなくてはなりません。

 ところで2月8日は、聖ヨゼフィーナ・バキータの祝日です。彼女は1869年にアフリカはスーダンのダルフールで生まれ、7歳にして奴隷として売り飛ばされ、その後イタリアで1889年に自由の身となり、洗礼を受けた後にカノッサ会の修道女になりました。1947年に亡くなった彼女は、2000年に列聖されています。

 人身売買の被害者であった聖人の祝日に当たり、女子修道会の国際総長会議(UISG)は、2月8日を「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」と定めて、人身取引に反対する啓発活動と祈りの日としています。

 聖バキータの人生に象徴されているように、現代の世界において、人間の尊厳を奪われ、自由意思を否定され、理不尽さのうちに囚われの身にあるすべての人のために、またそういった状況の中で生命の危険にさらされている人たちのために祈りたいと思います。人身売買は過去のことや我々とは関係のないところで起きているわけではありません。人間の尊厳を奪われ、自由意志を尊重されることなく、隣人としてではなくモノのように扱われる人は、私たちが生きている世界と無関係ではありません。

 神からの賜物である「命」は、その始まりから終わりまで、例外なく守られ、神の似姿としての人間の尊厳は、徹底的に尊重されなくてはなりません。

2025年2月8日

・「聖霊の導きを常に識別し、正しい道を選択する者でありたい」-菊地・東京大司教、「主の奉献」の主日に

2025年2月 1日 (土) 週刊大司教第195回:主の奉献の主日

1738372305121b 2月2日は主の奉献の祝日です。今年はちょうど日曜日と重なり、主の奉献の主日となりました。

 1997年に教皇ヨハネパウロ二世は、この日を奉献生活者の日とお定めになりました。この日に合わせて奉献生活者のミサが各地で行われますが、東京でも男女の修道会管区長総長会の主催で、聖イグナチオ麹町教会で、2月1日午後2時からミサが行われました。ミサの中では、誓願宣立10周年を迎えられた奉献生活者のお祝いも行われました。

 教皇ヨハネパウロ二世は、1997年の最初の奉献生活者の日のメッセージに、その目的は三つあると次のように記しておられます。

 「第一に、より荘厳に主を賛美し、奉献生活という偉大な賜物に対して主に感謝したいという私たちの内なる願いに応えることです。奉献生活は、その多様なカリスマと、神の国のために完全に捧げられた多くの方の生き方によって生み出された輝かしい実りによって、キリスト者共同体を豊かにし、喜びを与えます」

 「第二に、この日は、神の民全体が奉献生活についての知識を深め、それを評価することの促進を目的としています」

 「第三は、奉献生活者に直接関係するものです。奉献生活者は、主が彼らの中で成し遂げた素晴らしい業を荘厳に共に祝い、より深められた信仰によって、聖霊が彼らの生き方に輝かせている神の美しさを発見し、教会と世界における彼らのかけがえのない使命をより鮮明に自覚するよう、招かれています」

 時代の流れの中で、そして世界各地のそれぞれの社会状況の中で、最もふさわしい方法で福音を証しして生きるために、奉献生活者の生き方も変化を続けています。少子高齢化が激しく進み世俗化が深まる日本のような国では、奉献生活の道を選択する若者も減少しています。その現実の中にあっても、教会は奉献生活者の生きる姿を通じた福音の証しに意味を見いだしています。改めて奉献生活に生きる道について、私たちの理解を深め、その道に生きる人たちのために祈りを捧げたいと思います。

 また2月3日は福者高山右近、そして2月5日は日本26聖人殉教者と、日本の教会の歴史にとって重要な殉教者の記念日が続きます。2月2日の主日に、墨田区にある本所教会では長年にわたって26聖人殉教祭を行っていますが、今年も、本所教会午前10時のミサを、私が司式させていただきます。

 一番上の写真は、2017年に大阪で行われた高山右近の列福式です。教皇様の代理として司式してくださったのは当時の列聖省長官、アマート枢機卿様でした。アマート枢機卿様は昨年12月31日に帰天されました。永遠の安息をお祈りいたします。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第195回目、主の奉献の主日メッセージ原稿です。

【主の奉献の主日C 2025年2月2日】

ルカ福音は、誕生から40日後に、「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき」、両親によってイエスがエルサレムの神殿において神に捧げられた時の様子を記しています。

 教皇フランシスコは、2022年の主の奉献の主日ミサ説教で、こう言っておられます。

 「シメオンは「霊に動かされ」(27節)、神殿に向かいます。この場面では聖霊が主役です。・・・聖霊はシメオンに神殿に行くように促し、彼の目に幼く貧しい赤ん坊の姿であってもメシアを認識させるのです。聖霊はこのように働きます。偉大なもの、外見、力の誇示ではなく、小ささ、弱さの中に神の現存と行いを見分けることができるようにしてくれるのです」

 「聖霊が主役です」という言葉は、シノドス性を問いかけるシノドスの総会の最中に、教皇様がしばしば繰り返されたことばでもあります。教皇様は、さらにこの説教で問いかけます。

 「私たちを後押ししているものは何なのでしょうか。私たちを前進させ続ける愛とは何でしょうか。聖霊でしょうか、それともその時々の情熱でしょうか、それとも他の何かでしょうか」

 私たちも聖霊の導きを常に識別し、シメオンのように正しい道を選択するものでありたいと思います。

 聖家族と出会ったシメオンは、奉献された幼子イエスこそが「救い」であり、「異邦人を照らす啓示の光」であると宣言します。同時にシメオンは、その人生の道のりが苦難に満ちあふれていることも宣言し、母マリアに対して「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と述べ、イエスの救いのわざに聖母が常に伴うことを示しています。神に自分自身を捧げることは、同時に、他者の救いのために、自らが苦しむ道を選択することでもあります。

 主の奉献の主日は、教会における奉献生活者の存在に目を向ける日でもあります。奉献生活者とは、いわゆるシスターやブラザーや他の名称で私たちが親しみを込めて呼ぶ、修道生活を営んでいる方々です。

 ベネディクト16世は使徒的勧告「愛の秘跡」において、「教会が奉献生活者から本質的に期待するのは、活動の次元における貢献よりも、存在の次元での貢献です」という興味深い指摘をされています。教皇は、「神についての観想および祈りにおける神との絶えざる一致」こそが奉献生活の主要な目的であり、奉献生活者がそれを忠実に生きる姿そのものが、「預言的な証し」なのだと指摘されています。

 その意味で、教皇ヨハネパウロ二世が、使徒的勧告「奉献生活」の中で、「他の人々がいのちと希望を持つことができるために、自分の命を費やすことができる人々も必要です」と述べて、奉献生活が「教会の使命の決定的な要素として教会のまさに中心に位置づけられます」と指摘するところに、現代の教会における奉献生活者の果たす重要な役割を見いだすことができます。

 奉献生活には、様々な形態があり、修道会や共同体には、それぞれ独自のカリスマとそれに基づいた活動があります。世俗化と少子高齢化が進む社会では、多くの修道会が召命の危機に直面していますが、その中にあっても、私たちは何をしたいのかではなくて、どう生きたいのかを見極め、常に聖霊によって導かれているのかどうかを、見極めるものでありたいと思います。それはすべての信仰者の務めです。

(編集「カトリック・あい」)

2025年2月1日

・「み言葉の生み出す希望を告げる巡礼者に」菊地大司教の神の言葉の主日メッセージ

2025年1月25日 (土)週刊大司教第194回:年間第三主日

 年間第三主日の26日は「神のことば」の主日です。教皇フランシスコによって制定され、制定を告知する文書「アペルイット・イリス」は、PDF版をこちらのリンクから読むことも、印刷することもできます。

 また東京教区にとって、26日は「ケルンデー」でもあります。ケルン教区との協力関係・パートナーシップは、昨年70年を迎えました。その歴史などについては、東京教区ホームページにまとめられていますので、こちらのリンクからご覧ください

 第二バチカン公会議の啓示憲章は、「教会は、主の御体そのものと同じように聖書を常にあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神の言葉の食卓から命のパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、神の言葉に親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだ、と指摘しています。

 個人的に聖書を読み、親しむことはもちろん重要ですが、同時に共同体で共に学ぶことも、主の現存を霊的に知るために必要ですし、それ以上に、典礼において聖書を朗読することもm「とても大切な務めです。典礼における聖書朗読は、「神の言葉の食卓から命のパンを」信徒に与えることになるからです。

 東京カテドラルでは、今年の「ケルンデー」に、私がミサを司式すると同時に、昨年教区を代表してケルンを訪問した冨田神父様、イエズス会の柴田神父様、信徒の赤井さんの三名に参加いただき、冨田神父様には説教を、その他のメンバーにはそれぞれの体験を分かち合っていただく予定でおります。またミサは配信される予定です。ケルン教区の皆さんのため、特に召命のためにお祈りください。また私たちもケルンの皆さんの心に倣い、余裕があるからではなく、少ない中からも進んでさらに困難のうちにある兄弟姉妹のために手を差し出す者であり続けたいと思います。その意味で、ケルン教区とともに進めているミャンマーの教会支援を、これからもさらに深めていきたいと思います。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第194回目、年間第三主日のメッセージ原稿です。

【年間第3主日C 2025年1月26日】

ルカ福音は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」というイエスの言葉を記しています。聖書に記されている言葉が、単なる文字の羅列ではなく、まさしく生きている神の言葉であることを、人となられた神の言葉であるイエスご自身が、宣言される言葉です。

 公生活の初めに、ナザレの会堂で、イエスに渡されたイザヤ書の言葉こそ、イエスご自身の語り行うすべての根幹をなす生きる姿勢を明示したものでした。イエスこそは、囚われた人に解放を告げ、主の恵みの年を告げる存在であり、それこそが神の良い知らせ、福音であることが明らかにされます。イエスこそは希望の源です。自由を奪われ不安の暗闇に閉じ込められているわたしたちに、神がいのちを創造されたときに願われた思いを生きることができるようにと、囚われからの解放をもたらす希望の源は、神の言葉であります。

 「希望の巡礼者」をテーマとして始まった聖年は、まさしくイエスの言われた「主の恵みの年」であり、この一年、私たちは、自分自身の回心、霊的な成長、そして救いだけを心に留めるのではなく、主と共に歩む巡礼者として、与えられた自由と解放がもたらす希望を、さらに多くの人に伝えていく使命があります。

 年間第三主日は、神のことばの主日です。教皇フランシスコによって2020年に制定されたこの主日は、使徒的書簡「アペルイット・イリス」によれば、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」主日とされました。

 その上で教皇様は、「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘されています。ミサの中で聖書が朗読されるとき、神の言葉は生きており、そこに主がおられます。ですから、典礼における聖書朗読の奉仕者の役割には、聖体の秘跡に関わる司祭と同様に重要な意味があります。

 教皇様は、「聖霊は、神の言葉を聞く人々のうちにおいても働いています」と使徒的書簡に記し、だからこそ「原理主義的な読み方は避ける必要が」あると強調されます。その意味で、シノドスの道を歩む際に重要とされている霊における会話のように、共同体でともに神の言葉に耳を傾け、分かち合いながら、聖霊の導きを識別することには意味があります。

 神の言葉は、その昔に実現したのではなく、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現」します。

 東京教区にとって26日は「ケルンデー」であります。ケルンと東京のパートナーシップは昨年2024年に70年を迎えました。第二バチカン公会議直前に始まった東京カテドラル聖マリア大聖堂の建設をはじめ、東京教区はケルン教区から多額の援助を受けて育てられてきました。そして、白柳枢機卿の時代に、ミャンマーの教会支援という新しいパートナーシップへと発展しました。

 与えられ育まれてきた財産を、これからどのように維持、発展させていくのかは、愛を受けた私たちの責任です。私たちは、教区を育ててくださった兄弟姉妹の愛の心に感謝しながら、それに倣い、神の愛の生きた証し人として、神の言葉の生み出す希望を告げる巡礼者でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年1月25日

・18日からキリスト教一致祈祷週間、テーマは「あなたは このことを信じますか」ー菊地・東京大司教・年間第二主日の言葉

2025年1月18日 (土)週刊大司教第193回:年間第二主日C

 降誕祭も終わり、典礼の暦は年間に入りました。次は灰の水曜日から四旬節が始まるまでの期間です。

 メッセージでも触れていますが、毎年1月18日から25日までは、キリスト教一致祈祷週間です。今回のテーマは、「あなたは このことを信じますか」(ヨハネ11・26)です。詳しくは中央協議会のホームページのこのリンクをご覧ください。今回の一致祈祷週間のために用意された小冊子は、このリンク先の中央協議会のホームページにある小冊子の写真をクリックすると、PDFでご覧いただけ、ダウンロードもできます。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第193回、年間第二主日メッセージ原稿です。

(菊地・東京大司教)

【年間第2主日C 2025年1月19日】

 ヨハネ福音に記されたカナの婚姻の奇跡物語は、イエスの最初の奇跡とされています。母マリアとともに招かれたカナの婚姻の席で、用意されたぶどう酒が尽きた時に、母の願いに応えて、水をぶどう酒に変えたという奇跡物語です。

 現代社会での披露宴などの婚姻の宴が、どのように捉えられているのかは、一概に言うことはできないのでしょうが、聖書では、しばしば神の救いや神の支配の実現するときの喜びを表現するために用いられています。すなわち、神の救いや神の支配が実現したときには、そこにはあふれんばかりの喜びがあり、その喜びが満ちあふれる希望を生み出す。それが婚姻の宴における喜びと希望に例えられています。

 その喜びの源であるぶどう酒が無くなったとき、そこに神が奇跡を持ってあふれんばかりにぶどう酒を与えたのですから、福音は「イエスこそが救いの喜びの源であること」を、この奇跡から教えようとします。単に、イエスが水をぶどう酒に変える力を持っていることを称えたいのではなく、そこに示される意味を説き明かそうとしています。

 さらにこのカナの婚姻では、イエスは行動を促す聖母に対して、「私の時はまだ来ていません」と答えています。すべての出来事には神ご自身が定めた「時」がありますが、それを変えさせ神の行動を引き出したのは、聖母マリアの信仰とそれに基づく確信です。

 カナの婚姻の出来事に、私たちは、聖母マリアの取次の力と、神の救いの喜びと希望に寄与する聖母の存在の重要さを見出します。私たちが聖母に祈るのは、聖母自身を礼拝しているのではなく、聖母を通してこそ主イエスに導かれるからであり、聖母マリアはそれほどまでに神からの信頼を得ている存在として、私たちが崇敬し尊敬するべき模範であります。

 教会は、1月18日から25日までを、キリスト教一致祈祷週間と定めています。今年のテーマは、ヨハネ福音からとられた「あなたは このことを信じますか」(ヨハネ11・26)です。

 第二バチカン公会議のエキュメニズムに関する教令は、「あたかもキリスト自身が分裂しているかのような(現状は)… 明らかにキリストの意志に反し、また世にとってはつまずきで」あると指摘し、福音を告げ知らせるためにもキリスト教における一致の重要性が示されています。それは単純に組織を合同することではなく、それぞれのカリスマを生きながらともに歩む一致です。

 今年2025年は、コンスタンチノープル近郊のニケアで最初の公会議が開かれてから1700年目に当たります。まさしく「キリスト者に共通の信仰を振り返る時」です。私たちがミサの時に共に唱えているニケアコンスタンチノープル信条は、325年のこの公会議と381年のコンスタンチノープル公会議を経て成立した信条で、キリスト教の多くの教派で信条とされています。

 ニケア公会議を記念するこの年、キリスト教祈祷一致週間は、信じることの意味、さらに「私は信じます」と「私たちは信じます」という、個人または共同体としての信仰をあらためて確認する機会となります。

 信仰における一致のうちに、歩みを共にして参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年1月18日

・「公生活の初めに、主は、共に歩むことの意味を示してくださった」ー菊地・東京大司教の「主の洗礼」の祝日講話

2025年1月11日 (土)週刊大司教192回:主の洗礼の主日

2024_12_29_016b この数日、大雪に見舞われている地域の皆さまに、お見舞い申し上げます。

 主の洗礼の主日です。降誕祭は終わり、月曜日から典礼の暦は年間になります。(写真右:東京カテドラル聖マリア大聖堂の洗礼盤。聖年開幕のミサで)

 2025年最初の、カテドラル以外の小教区でのミサとして、1月10日金曜日の午前10時に、板橋教会でミサを捧げました。主任を務められる久富神父様にお会いする用事があったのですが、私のこの数週間のスケジュールではちょうどこの日しか空いておらず、せっかく午前中にミサがある日なので、司式させていただきました。お集まりいただいた皆さまとは、ミサ後に、茶話会で新年のご挨拶をさせていただきました。

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 板橋教会の聖堂内の柱には、聖人の御像がいくつか安置してあるのですが、その中の一つが、私の霊名であるタルチシオです。タルチシオの像というのはなかなか珍しく、ヨーロッパでは侍者の保護の成人とされており、私が生まれたばかりの時に洗礼を授けてくださったスイス人の宣教師が「将来しっかりと侍者になるように」と願ってこの洗礼名をつけてくださった、と両親から聞いています。その御像の前で一枚。左の写真です。

 以下、本日午後6時配信、主の洗礼の主日のメッセージです。

【主の洗礼の主日C 2025年1月12日】

 主の洗礼を記念するこの日、パウロはテトスへの手紙で、私たちの救いは、「キリストが私たちのためにご自身を捧げられた」ことを通じて「あらゆる不法から贖い出し」たことによって与えられた恵みであることを強調します。そして「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現した」と記します。

 救いは、私たちが正しく生きたことに対しての対価として与えられるような類いものではなく、徹頭徹尾、神からの一方的な恵みです。そのこと自体が「私たちが正しく生きることの意味を薄める」ことはありませんが、同時に、「正しく生きたからご褒美として救われる」というような、人間本位ではないことを心に刻みましょう。救いは、神ご自身の苦難を通じて与えられ、それが水と聖霊による洗礼によって実現した、神からの恵みです。

 ルカ福音は、公生活を始めるにあたって、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記しています。ヨハネ自身がメシアを待望する人々に対して明確に告げたように、水による洗礼は罪の赦しの象徴であって、主ご自身が与える聖霊と火による洗礼とは比較にならないものであります。

 しかし主イエスは、人間となられ私たちと共に歩まれることの意味を明確にし、その行為が自らの意思で行われた、まさしく贈り物であることを告げるために、公生活を始めるにあたってヨハネの水による洗礼を受ける、という選択をされます。それは同時に、神ご自身が人類の罪を背負って共に歩まれることになるのだ、という事実を明確にするためでもありました。神は私たちと共に歩まれます。

 その選択を祝福するように聖霊が鳩のように降り、「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」との御父の声が響き渡ります。御子イエスの人生の歩みが、天地を創造された御父の御旨に完全に従うものであることを明示する言葉です。御父と御子と聖霊は一体なのですから、イエスの言葉と行いは、三位一体の神の言葉と行いそのものであります。

 人間としての人生における苦しみを通じて私たちを贖ってくださった主は、同じ道を歩むようにと、私たちを招いておられます。ただ、その道を「一人で孤独に歩め」とは命じておられません。主イエスご自身が、私たちと歩みを共にし、私たちの声に耳を傾け、私たちを支えてくださいます。

 私たちが同じように、共に歩く兄弟姉妹の声に耳を傾け、支え合い、歩みを共にすることを求めておられます。そのことは同時に、私たちこそが、主と共に歩み、主の声に耳を傾け、主を支えなくてはならないことも意味しています。まさしく私たちがシノドス(共働)的な教会共同体となるように、公生活の初めに、主は、共に歩むことの意味を自ら示してくださいました。

(編集「カトリック・あい」)

2025年1月11日