・「自分の量る秤で量り返される」ことを肝に銘じる―菊地・東京大司教の年間第7日

2025年2月22日 (土)週刊大司教198回:年間第7主日

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 年間第7主日です。

 ご存じのように、教皇フランシスコは肺炎のため、ローマのジェメリ病院に2月14日に入院され、治療を受けておられます。12月の枢機卿親任式でお会いしたときにも多少風邪気味で、無原罪の聖母の主日ミサの時には、消え入るような声でミサをされていましたが、それでも外面的にはお元気そうでした。しかしその後、いろいろと行事があり、特に聖年が始まって通常以上の行事が予定されていたことから、完全に回復することのないままにお仕事を続けておられたのだ、と推測します。

 広報省からの発表によれば、複雑な状況である者の治療が効いているとのことです。ともに教皇様の回復のために祈りましょう。

 2月17日午後から20日夕方まで、司教総会が行われました。今年から会計年度が12月締めから3月締めに変わりましたので、この司教総会は2024年度の臨時司教総会となります。決定事項の詳細については中央協議会から公表されるますので、そちらをご覧ください。

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 日本の司教協議会の事務局であるカトリック中央協議会が、現在の江東区潮見に移転したのは1992年でした。そのときに新築された建物、日本カトリック会館も今年で建築から33年が経過しました。建物自体は堅牢で、海に面していることから海風や塩の影響はあるものの、まだまだ活用していくことができます。しかし、躯体の中身である配管や内装など諸々の設備については更新が不可欠です。そのため、今年の4月から始めて、通常の業務を行いながら順番にリニューアルをしていくことになりました。

 そのタイミングに合わせて、これまで長年にわたって検討を重ねてきた事務局体制の更新も行うことに致しました。以前からの様々な議論に基づいて、検討チームが具体案をまとめ、今回の総会で、事務局の組織機構を変更することを決定しました。同時に司教協議会の委員会体制についても、これを機会に変更することにし、これについては6月の司教総会で新しい司教様方の委員会体制の任命を行う予定です。

 新しい体制の詳細については、中央協議会から公表されますので、お待ちください。また実際に運営してみて不都合があるときには、フレキシブルに改善することにもしています。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第198回、年間第7主日のメッセージ原稿です。

【年間第7主日C 2025年2月23日】

 希望の巡礼者として聖年を歩んでいる私たちに、ルカ福音は、「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」と呼びかけています。

 教皇様は大勅書「希望は欺かない」に、「希望をもって将来を見ること、それは、伝える熱意にあふれた人生観をもつことでもあります(9)」と記し、その上で、「聖年の間に私たちは、苦しい境遇のもとで生きる大勢の兄弟姉妹にとっての、確かな希望のしるしとなるよう求められます(10)」と呼びかけておられます。私たちは、豊かに愛してくださる神の愛とあわれみを具体的に生きる者となるように招かれています。

 いくつかの具体的な困難の事例を挙げられる教皇様は、その中に、「難民や移住者」の現状を挙げ、そういった方々にとっての「希望のしるし」となるようにと、教会に呼びかけます。

 「偏見や排斥によって、彼らの期待がくじかれることがありませんように。一人ひとりをその尊厳ゆえに喜んで迎えることには、誰もが望ましい未来を築く権利を奪われないようにする、責任が伴います。国際的な緊張状態によって、戦争、暴力、差別を避けるには逃げるしかない多くの亡命者、強制移住者、難民には、安全、就労、教育の機会を保障すべきです。それらは、新しい社会環境に溶け込むために必要な手立てなのです(13)」

 その上で教皇様は、「キリスト者の共同体には常に、最も弱い立場の人々の権利を守る用意がなければなりません。よりよい生活への希望をだれ一人奪われることのないよう、広い心で歓待の扉を開け放ってください」と、私たちに呼びかけておられます。

 ルカ福音は、人の生きる姿勢について、この世の常識とは真っ向から異なる選択肢を掲げた後に、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と記します。

 私たち自身は、自分が何をして欲しいのかを、どうして知っているのでしょう。私たちは自分自身を大切に思い、自らの身体と心の声に真摯に耳を傾けるからこそ、自分自身にとって何が必要なのかを識別することができています。

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という言葉は、私たちに隣人への思いやりの心を求めます。隣人の声に耳を傾ける姿勢を求めます。隣人の命の尊厳を尊重し、その命を守り、共に生きていくことを求めています。

 さらに福音は「人を裁くな」と言われたイエスの言葉を記します。私たちはそもそも、簡単に他者を裁く存在です。あたかも自分により正義がある、と思い込み、様々な手段を通じて幾たび人を裁いてきたことでしょう。正義はどこにあるのでしょうか。命に対する暴力がはびこるこの現実の中で、私たちは不安のあまり寛容さを失い、安易に他者を裁いては安心を得ようとしています。そのような私たちに対して、ルカ福音は主イエスの言葉として、「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」と伝えます。この言葉こそは、私たちひとり一人の心に深く記しておきたい言葉です。

(編集「カトリック・あい」=聖書の訳は日本語の翻訳として優れている「聖書協会・共同訳」を使用して改めました)

2025年2月22日

・「『お言葉ですから』と聖霊の導きに従う覚悟を持つ大切さ」菊地東京大司教の年間第5主日

2025年2月 8日 (土)週刊大司教第196回:年間第五主日

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 年間第五主日です。

 今週の火曜日、2月11日はルルドの聖母の祝日ですが、「世界病者の日」とされています。教皇様の今年のメッセージのタイトルは、聖年にちなんで「希望は欺かない」ですが、本文は中央協議会のこちらのリンクからご一読いただけます。

 また当日は、午後2時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で病者の日のミサがカリタス東京の主催で行われますが、こちらはどなたでもご参加いただけます。このミサは私が司式いたします。またYoutubeでの配信も行われます。どうぞご参加ください。

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 また本日のメッセージでも触れていますが、この一週間は日本の殉教者の記念日が続きました。毎年恒例になっていますが、墨田区の本所教会では、2月の最初の日曜日に日本二十六聖人殉教者の殉教祭ミサが捧げられており、今年も2月2日に私が司式して捧げられました。聖年の巡礼ということもあり、今年のミサには様々な小教区の方々が参加してくださいました。(左の写真)

 さらに2月8日は聖ヨゼフィーナ・バキータの祝日です。メッセージの中で詳しく触れていますが、奴隷としてアフリカから人身売買の被害者としてイタリアにたどり着いた彼女は、その後、カノッサ会の修道女となりました。彼女の人生にちなんで、この日は女子修道会国際総長会議によって「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」とされています。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第196回、年間第五主日のメッセージです。

【年間第5主日C 2025年2月9日】

「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」とイエスに応えたシモン・ペトロは、その後、生涯にわたってまさしく主の「お言葉ですから」と、教会の頭としての務めを果たし続けました。

 召命は、神からの呼びかけであって、自分の選択ではなく、果たすべき役割も、自分の選択ではなく、神の計画です。その神の計画は、人の知恵を遙かに超えていることが、この福音の物語から理解されます。人間の常識的にはあり得ないけれど、「お言葉ですから」と網を下ろした結果は、神の計画の実りでありました。

 教皇フランシスコが、教会のシノドス性について取り上げた先のシノドスの最中、総会の参加者に繰り返されたのは、「主役はあなた方ではなくて、聖霊です」という言葉でした。シモン・ペトロの後継者としての教皇様は、まさしく私たちが従うべきなのは人間の知恵ではなく聖霊の導きであって、常に「お言葉ですから」とその導きに従う覚悟を持つことの大切さを説いておられました。いま教会に必要なのは、この世の知恵に基づく識別ではなく、神の知恵に基づく識別です。聖霊が主役です。

 この一週間は、2月3日に福者高山右近、2月5日に日本26聖人殉教者と、日本の殉教者の記念日が続きました。

 「殉教者の血は教会の種である」と、二世紀の教父テルトゥリアヌスは言葉を残しました。教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実の勝利を、世にある教会が証しし続けていくという意味においてであります。殉教者たちこそは、「お言葉ですから、網を下してみましょう」と答え続けて信仰の道を歩んだ方々です。

 信仰の先達である殉教者たちに崇敬の祈りを捧げるとき、その勇敢な死に賞賛の声を上げるだけでなく、殉教者たちの生きた姿勢と信仰におけるその選択の勇気に、私たち自身が命を生きる希望の道を見い出さなくてはなりません。

 ところで2月8日は、聖ヨゼフィーナ・バキータの祝日です。彼女は1869年にアフリカはスーダンのダルフールで生まれ、7歳にして奴隷として売り飛ばされ、その後イタリアで1889年に自由の身となり、洗礼を受けた後にカノッサ会の修道女になりました。1947年に亡くなった彼女は、2000年に列聖されています。

 人身売買の被害者であった聖人の祝日に当たり、女子修道会の国際総長会議(UISG)は、2月8日を「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」と定めて、人身取引に反対する啓発活動と祈りの日としています。

 聖バキータの人生に象徴されているように、現代の世界において、人間の尊厳を奪われ、自由意思を否定され、理不尽さのうちに囚われの身にあるすべての人のために、またそういった状況の中で生命の危険にさらされている人たちのために祈りたいと思います。人身売買は過去のことや我々とは関係のないところで起きているわけではありません。人間の尊厳を奪われ、自由意志を尊重されることなく、隣人としてではなくモノのように扱われる人は、私たちが生きている世界と無関係ではありません。

 神からの賜物である「命」は、その始まりから終わりまで、例外なく守られ、神の似姿としての人間の尊厳は、徹底的に尊重されなくてはなりません。

2025年2月8日

・「聖霊の導きを常に識別し、正しい道を選択する者でありたい」-菊地・東京大司教、「主の奉献」の主日に

2025年2月 1日 (土) 週刊大司教第195回:主の奉献の主日

1738372305121b 2月2日は主の奉献の祝日です。今年はちょうど日曜日と重なり、主の奉献の主日となりました。

 1997年に教皇ヨハネパウロ二世は、この日を奉献生活者の日とお定めになりました。この日に合わせて奉献生活者のミサが各地で行われますが、東京でも男女の修道会管区長総長会の主催で、聖イグナチオ麹町教会で、2月1日午後2時からミサが行われました。ミサの中では、誓願宣立10周年を迎えられた奉献生活者のお祝いも行われました。

 教皇ヨハネパウロ二世は、1997年の最初の奉献生活者の日のメッセージに、その目的は三つあると次のように記しておられます。

 「第一に、より荘厳に主を賛美し、奉献生活という偉大な賜物に対して主に感謝したいという私たちの内なる願いに応えることです。奉献生活は、その多様なカリスマと、神の国のために完全に捧げられた多くの方の生き方によって生み出された輝かしい実りによって、キリスト者共同体を豊かにし、喜びを与えます」

 「第二に、この日は、神の民全体が奉献生活についての知識を深め、それを評価することの促進を目的としています」

 「第三は、奉献生活者に直接関係するものです。奉献生活者は、主が彼らの中で成し遂げた素晴らしい業を荘厳に共に祝い、より深められた信仰によって、聖霊が彼らの生き方に輝かせている神の美しさを発見し、教会と世界における彼らのかけがえのない使命をより鮮明に自覚するよう、招かれています」

 時代の流れの中で、そして世界各地のそれぞれの社会状況の中で、最もふさわしい方法で福音を証しして生きるために、奉献生活者の生き方も変化を続けています。少子高齢化が激しく進み世俗化が深まる日本のような国では、奉献生活の道を選択する若者も減少しています。その現実の中にあっても、教会は奉献生活者の生きる姿を通じた福音の証しに意味を見いだしています。改めて奉献生活に生きる道について、私たちの理解を深め、その道に生きる人たちのために祈りを捧げたいと思います。

 また2月3日は福者高山右近、そして2月5日は日本26聖人殉教者と、日本の教会の歴史にとって重要な殉教者の記念日が続きます。2月2日の主日に、墨田区にある本所教会では長年にわたって26聖人殉教祭を行っていますが、今年も、本所教会午前10時のミサを、私が司式させていただきます。

 一番上の写真は、2017年に大阪で行われた高山右近の列福式です。教皇様の代理として司式してくださったのは当時の列聖省長官、アマート枢機卿様でした。アマート枢機卿様は昨年12月31日に帰天されました。永遠の安息をお祈りいたします。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第195回目、主の奉献の主日メッセージ原稿です。

【主の奉献の主日C 2025年2月2日】

ルカ福音は、誕生から40日後に、「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき」、両親によってイエスがエルサレムの神殿において神に捧げられた時の様子を記しています。

 教皇フランシスコは、2022年の主の奉献の主日ミサ説教で、こう言っておられます。

 「シメオンは「霊に動かされ」(27節)、神殿に向かいます。この場面では聖霊が主役です。・・・聖霊はシメオンに神殿に行くように促し、彼の目に幼く貧しい赤ん坊の姿であってもメシアを認識させるのです。聖霊はこのように働きます。偉大なもの、外見、力の誇示ではなく、小ささ、弱さの中に神の現存と行いを見分けることができるようにしてくれるのです」

 「聖霊が主役です」という言葉は、シノドス性を問いかけるシノドスの総会の最中に、教皇様がしばしば繰り返されたことばでもあります。教皇様は、さらにこの説教で問いかけます。

 「私たちを後押ししているものは何なのでしょうか。私たちを前進させ続ける愛とは何でしょうか。聖霊でしょうか、それともその時々の情熱でしょうか、それとも他の何かでしょうか」

 私たちも聖霊の導きを常に識別し、シメオンのように正しい道を選択するものでありたいと思います。

 聖家族と出会ったシメオンは、奉献された幼子イエスこそが「救い」であり、「異邦人を照らす啓示の光」であると宣言します。同時にシメオンは、その人生の道のりが苦難に満ちあふれていることも宣言し、母マリアに対して「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と述べ、イエスの救いのわざに聖母が常に伴うことを示しています。神に自分自身を捧げることは、同時に、他者の救いのために、自らが苦しむ道を選択することでもあります。

 主の奉献の主日は、教会における奉献生活者の存在に目を向ける日でもあります。奉献生活者とは、いわゆるシスターやブラザーや他の名称で私たちが親しみを込めて呼ぶ、修道生活を営んでいる方々です。

 ベネディクト16世は使徒的勧告「愛の秘跡」において、「教会が奉献生活者から本質的に期待するのは、活動の次元における貢献よりも、存在の次元での貢献です」という興味深い指摘をされています。教皇は、「神についての観想および祈りにおける神との絶えざる一致」こそが奉献生活の主要な目的であり、奉献生活者がそれを忠実に生きる姿そのものが、「預言的な証し」なのだと指摘されています。

 その意味で、教皇ヨハネパウロ二世が、使徒的勧告「奉献生活」の中で、「他の人々がいのちと希望を持つことができるために、自分の命を費やすことができる人々も必要です」と述べて、奉献生活が「教会の使命の決定的な要素として教会のまさに中心に位置づけられます」と指摘するところに、現代の教会における奉献生活者の果たす重要な役割を見いだすことができます。

 奉献生活には、様々な形態があり、修道会や共同体には、それぞれ独自のカリスマとそれに基づいた活動があります。世俗化と少子高齢化が進む社会では、多くの修道会が召命の危機に直面していますが、その中にあっても、私たちは何をしたいのかではなくて、どう生きたいのかを見極め、常に聖霊によって導かれているのかどうかを、見極めるものでありたいと思います。それはすべての信仰者の務めです。

(編集「カトリック・あい」)

2025年2月1日

・「み言葉の生み出す希望を告げる巡礼者に」菊地大司教の神の言葉の主日メッセージ

2025年1月25日 (土)週刊大司教第194回:年間第三主日

 年間第三主日の26日は「神のことば」の主日です。教皇フランシスコによって制定され、制定を告知する文書「アペルイット・イリス」は、PDF版をこちらのリンクから読むことも、印刷することもできます。

 また東京教区にとって、26日は「ケルンデー」でもあります。ケルン教区との協力関係・パートナーシップは、昨年70年を迎えました。その歴史などについては、東京教区ホームページにまとめられていますので、こちらのリンクからご覧ください

 第二バチカン公会議の啓示憲章は、「教会は、主の御体そのものと同じように聖書を常にあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神の言葉の食卓から命のパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、神の言葉に親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだ、と指摘しています。

 個人的に聖書を読み、親しむことはもちろん重要ですが、同時に共同体で共に学ぶことも、主の現存を霊的に知るために必要ですし、それ以上に、典礼において聖書を朗読することもm「とても大切な務めです。典礼における聖書朗読は、「神の言葉の食卓から命のパンを」信徒に与えることになるからです。

 東京カテドラルでは、今年の「ケルンデー」に、私がミサを司式すると同時に、昨年教区を代表してケルンを訪問した冨田神父様、イエズス会の柴田神父様、信徒の赤井さんの三名に参加いただき、冨田神父様には説教を、その他のメンバーにはそれぞれの体験を分かち合っていただく予定でおります。またミサは配信される予定です。ケルン教区の皆さんのため、特に召命のためにお祈りください。また私たちもケルンの皆さんの心に倣い、余裕があるからではなく、少ない中からも進んでさらに困難のうちにある兄弟姉妹のために手を差し出す者であり続けたいと思います。その意味で、ケルン教区とともに進めているミャンマーの教会支援を、これからもさらに深めていきたいと思います。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第194回目、年間第三主日のメッセージ原稿です。

【年間第3主日C 2025年1月26日】

ルカ福音は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」というイエスの言葉を記しています。聖書に記されている言葉が、単なる文字の羅列ではなく、まさしく生きている神の言葉であることを、人となられた神の言葉であるイエスご自身が、宣言される言葉です。

 公生活の初めに、ナザレの会堂で、イエスに渡されたイザヤ書の言葉こそ、イエスご自身の語り行うすべての根幹をなす生きる姿勢を明示したものでした。イエスこそは、囚われた人に解放を告げ、主の恵みの年を告げる存在であり、それこそが神の良い知らせ、福音であることが明らかにされます。イエスこそは希望の源です。自由を奪われ不安の暗闇に閉じ込められているわたしたちに、神がいのちを創造されたときに願われた思いを生きることができるようにと、囚われからの解放をもたらす希望の源は、神の言葉であります。

 「希望の巡礼者」をテーマとして始まった聖年は、まさしくイエスの言われた「主の恵みの年」であり、この一年、私たちは、自分自身の回心、霊的な成長、そして救いだけを心に留めるのではなく、主と共に歩む巡礼者として、与えられた自由と解放がもたらす希望を、さらに多くの人に伝えていく使命があります。

 年間第三主日は、神のことばの主日です。教皇フランシスコによって2020年に制定されたこの主日は、使徒的書簡「アペルイット・イリス」によれば、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」主日とされました。

 その上で教皇様は、「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘されています。ミサの中で聖書が朗読されるとき、神の言葉は生きており、そこに主がおられます。ですから、典礼における聖書朗読の奉仕者の役割には、聖体の秘跡に関わる司祭と同様に重要な意味があります。

 教皇様は、「聖霊は、神の言葉を聞く人々のうちにおいても働いています」と使徒的書簡に記し、だからこそ「原理主義的な読み方は避ける必要が」あると強調されます。その意味で、シノドスの道を歩む際に重要とされている霊における会話のように、共同体でともに神の言葉に耳を傾け、分かち合いながら、聖霊の導きを識別することには意味があります。

 神の言葉は、その昔に実現したのではなく、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現」します。

 東京教区にとって26日は「ケルンデー」であります。ケルンと東京のパートナーシップは昨年2024年に70年を迎えました。第二バチカン公会議直前に始まった東京カテドラル聖マリア大聖堂の建設をはじめ、東京教区はケルン教区から多額の援助を受けて育てられてきました。そして、白柳枢機卿の時代に、ミャンマーの教会支援という新しいパートナーシップへと発展しました。

 与えられ育まれてきた財産を、これからどのように維持、発展させていくのかは、愛を受けた私たちの責任です。私たちは、教区を育ててくださった兄弟姉妹の愛の心に感謝しながら、それに倣い、神の愛の生きた証し人として、神の言葉の生み出す希望を告げる巡礼者でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年1月25日

・18日からキリスト教一致祈祷週間、テーマは「あなたは このことを信じますか」ー菊地・東京大司教・年間第二主日の言葉

2025年1月18日 (土)週刊大司教第193回:年間第二主日C

 降誕祭も終わり、典礼の暦は年間に入りました。次は灰の水曜日から四旬節が始まるまでの期間です。

 メッセージでも触れていますが、毎年1月18日から25日までは、キリスト教一致祈祷週間です。今回のテーマは、「あなたは このことを信じますか」(ヨハネ11・26)です。詳しくは中央協議会のホームページのこのリンクをご覧ください。今回の一致祈祷週間のために用意された小冊子は、このリンク先の中央協議会のホームページにある小冊子の写真をクリックすると、PDFでご覧いただけ、ダウンロードもできます。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第193回、年間第二主日メッセージ原稿です。

(菊地・東京大司教)

【年間第2主日C 2025年1月19日】

 ヨハネ福音に記されたカナの婚姻の奇跡物語は、イエスの最初の奇跡とされています。母マリアとともに招かれたカナの婚姻の席で、用意されたぶどう酒が尽きた時に、母の願いに応えて、水をぶどう酒に変えたという奇跡物語です。

 現代社会での披露宴などの婚姻の宴が、どのように捉えられているのかは、一概に言うことはできないのでしょうが、聖書では、しばしば神の救いや神の支配の実現するときの喜びを表現するために用いられています。すなわち、神の救いや神の支配が実現したときには、そこにはあふれんばかりの喜びがあり、その喜びが満ちあふれる希望を生み出す。それが婚姻の宴における喜びと希望に例えられています。

 その喜びの源であるぶどう酒が無くなったとき、そこに神が奇跡を持ってあふれんばかりにぶどう酒を与えたのですから、福音は「イエスこそが救いの喜びの源であること」を、この奇跡から教えようとします。単に、イエスが水をぶどう酒に変える力を持っていることを称えたいのではなく、そこに示される意味を説き明かそうとしています。

 さらにこのカナの婚姻では、イエスは行動を促す聖母に対して、「私の時はまだ来ていません」と答えています。すべての出来事には神ご自身が定めた「時」がありますが、それを変えさせ神の行動を引き出したのは、聖母マリアの信仰とそれに基づく確信です。

 カナの婚姻の出来事に、私たちは、聖母マリアの取次の力と、神の救いの喜びと希望に寄与する聖母の存在の重要さを見出します。私たちが聖母に祈るのは、聖母自身を礼拝しているのではなく、聖母を通してこそ主イエスに導かれるからであり、聖母マリアはそれほどまでに神からの信頼を得ている存在として、私たちが崇敬し尊敬するべき模範であります。

 教会は、1月18日から25日までを、キリスト教一致祈祷週間と定めています。今年のテーマは、ヨハネ福音からとられた「あなたは このことを信じますか」(ヨハネ11・26)です。

 第二バチカン公会議のエキュメニズムに関する教令は、「あたかもキリスト自身が分裂しているかのような(現状は)… 明らかにキリストの意志に反し、また世にとってはつまずきで」あると指摘し、福音を告げ知らせるためにもキリスト教における一致の重要性が示されています。それは単純に組織を合同することではなく、それぞれのカリスマを生きながらともに歩む一致です。

 今年2025年は、コンスタンチノープル近郊のニケアで最初の公会議が開かれてから1700年目に当たります。まさしく「キリスト者に共通の信仰を振り返る時」です。私たちがミサの時に共に唱えているニケアコンスタンチノープル信条は、325年のこの公会議と381年のコンスタンチノープル公会議を経て成立した信条で、キリスト教の多くの教派で信条とされています。

 ニケア公会議を記念するこの年、キリスト教祈祷一致週間は、信じることの意味、さらに「私は信じます」と「私たちは信じます」という、個人または共同体としての信仰をあらためて確認する機会となります。

 信仰における一致のうちに、歩みを共にして参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年1月18日

・「公生活の初めに、主は、共に歩むことの意味を示してくださった」ー菊地・東京大司教の「主の洗礼」の祝日講話

2025年1月11日 (土)週刊大司教192回:主の洗礼の主日

2024_12_29_016b この数日、大雪に見舞われている地域の皆さまに、お見舞い申し上げます。

 主の洗礼の主日です。降誕祭は終わり、月曜日から典礼の暦は年間になります。(写真右:東京カテドラル聖マリア大聖堂の洗礼盤。聖年開幕のミサで)

 2025年最初の、カテドラル以外の小教区でのミサとして、1月10日金曜日の午前10時に、板橋教会でミサを捧げました。主任を務められる久富神父様にお会いする用事があったのですが、私のこの数週間のスケジュールではちょうどこの日しか空いておらず、せっかく午前中にミサがある日なので、司式させていただきました。お集まりいただいた皆さまとは、ミサ後に、茶話会で新年のご挨拶をさせていただきました。

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 板橋教会の聖堂内の柱には、聖人の御像がいくつか安置してあるのですが、その中の一つが、私の霊名であるタルチシオです。タルチシオの像というのはなかなか珍しく、ヨーロッパでは侍者の保護の成人とされており、私が生まれたばかりの時に洗礼を授けてくださったスイス人の宣教師が「将来しっかりと侍者になるように」と願ってこの洗礼名をつけてくださった、と両親から聞いています。その御像の前で一枚。左の写真です。

 以下、本日午後6時配信、主の洗礼の主日のメッセージです。

【主の洗礼の主日C 2025年1月12日】

 主の洗礼を記念するこの日、パウロはテトスへの手紙で、私たちの救いは、「キリストが私たちのためにご自身を捧げられた」ことを通じて「あらゆる不法から贖い出し」たことによって与えられた恵みであることを強調します。そして「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現した」と記します。

 救いは、私たちが正しく生きたことに対しての対価として与えられるような類いものではなく、徹頭徹尾、神からの一方的な恵みです。そのこと自体が「私たちが正しく生きることの意味を薄める」ことはありませんが、同時に、「正しく生きたからご褒美として救われる」というような、人間本位ではないことを心に刻みましょう。救いは、神ご自身の苦難を通じて与えられ、それが水と聖霊による洗礼によって実現した、神からの恵みです。

 ルカ福音は、公生活を始めるにあたって、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記しています。ヨハネ自身がメシアを待望する人々に対して明確に告げたように、水による洗礼は罪の赦しの象徴であって、主ご自身が与える聖霊と火による洗礼とは比較にならないものであります。

 しかし主イエスは、人間となられ私たちと共に歩まれることの意味を明確にし、その行為が自らの意思で行われた、まさしく贈り物であることを告げるために、公生活を始めるにあたってヨハネの水による洗礼を受ける、という選択をされます。それは同時に、神ご自身が人類の罪を背負って共に歩まれることになるのだ、という事実を明確にするためでもありました。神は私たちと共に歩まれます。

 その選択を祝福するように聖霊が鳩のように降り、「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」との御父の声が響き渡ります。御子イエスの人生の歩みが、天地を創造された御父の御旨に完全に従うものであることを明示する言葉です。御父と御子と聖霊は一体なのですから、イエスの言葉と行いは、三位一体の神の言葉と行いそのものであります。

 人間としての人生における苦しみを通じて私たちを贖ってくださった主は、同じ道を歩むようにと、私たちを招いておられます。ただ、その道を「一人で孤独に歩め」とは命じておられません。主イエスご自身が、私たちと歩みを共にし、私たちの声に耳を傾け、私たちを支えてくださいます。

 私たちが同じように、共に歩く兄弟姉妹の声に耳を傾け、支え合い、歩みを共にすることを求めておられます。そのことは同時に、私たちこそが、主と共に歩み、主の声に耳を傾け、主を支えなくてはならないことも意味しています。まさしく私たちがシノドス(共働)的な教会共同体となるように、公生活の初めに、主は、共に歩むことの意味を自ら示してくださいました。

(編集「カトリック・あい」)

2025年1月11日

・「私たちは何に基づいて生きているのか、改めて見つめ直そう」-菊地東京大司教「主の公現」の主日に

2025年1月 4日 (土)週刊大司教第191回:公現の主日C

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   1月の最初の日曜日は「公現の主日」です。今年は「公現の主日」が1月5日で、「主の洗礼」が1月12日の主日となっているので、降誕節が1月12日まで続きます。典礼暦年に関する一般原則で、本来。1月6日の「公現の祝日」は、1月2日から8日の間の主日に移すことが認められており、同時に、1月6日直後の主日は「主の洗礼」と定められています。

   そうすると、例えば2024年のように1月2日から8日の間の主日が7日なので、そこを主の公現とすると、その日は1月6日の直後の主日になるので、公現と主の洗礼の優先順位から、7日を主の公現とし、翌日月曜日を主の洗礼とします。今年はちょうど良いカレンダーの並びなので、公現と主の洗礼が、1月最初の日曜と2番目の日曜になりました。

 聖年が始まったことで、「ローマなどへの巡礼がないのか」というお問い合わせをいくつかいただいております。日本の司教協議会としての公式巡礼団を募集することは決まっており、時期としては、私の枢機卿としての名義教会着座式を予定している10月9日あたりにローマで合流できるようにして、10月初旬にいくつかのコースを企画することで調整中です。

 またそれ以外にも、聖座の福音宣教省が関わっている大阪万博のバチカンの展示(イタリアのパビリオンに同居予定)にあわせて、司教協議会としての聖年行事を行うことも検討中です。万博に関しては4月、巡礼は10月を目指していますので、早急に調整を進め、お知らせできるようにいたします。なお、それ以外にも、いくつかの教区や団体で、聖年中のローマ巡礼を企画されている、と伺っています。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第191回目、公現の主日のメッセージ原稿です。

【主の公現の主日C 2025年1月)5日)

 皆様、新年明けましておめでとうございます。

 占星術の学者たちの言葉を耳にした時の、ヘロデ王の不安を、マタイ福音は伝えています。占星術の学者は、新たなユダヤ人の王が誕生したと告げています。それを告げられている相手、すなわちヘロデ王は現役のユダヤの王様です。心は乱れ、不安に駆られたと福音は記しています。自分が手にした地位と名誉を脅かすものが現れたと告げられているのですから、ヘロデ王の心は不安に満ちあふれたことでしょう。

 その不安は、単に地位が脅かされることへの不安にとどまらず、神の真理による支配の前では、自らの不遜さが明らかになってしまうことへの不安でもあります。人間の欲望に基づいた傲慢な支配におごり高ぶっている姿が暴かれることで、ヘロデ王は自らが罪の状態にあることが明らかになってしまいます。そこに不安が生じます。

 私たち自身はどうでしょうか。人間の欲望に支配されて傲慢さに満ちあふれていないでしょうか。飼い葉桶に寝かされた神の言葉の受肉の、その弱々しい姿が、「謙遜さこそ、真の力」であることを私たちに教えています。

 困難な旅路を経てイエスの元にたどり着いた占星術の学者たちは、暗闇に輝く小さな光にこそ、人類の希望があることを確信します。学者たちはその確信に基づいて、すべてを贈り物として神にささげ、神の支配に従うことを表明し、その後も神の導きに従い、人間の傲慢さの元に戻ることなく、神の意志に基づいて行動していきます。

 教会はその小さな謙遜さのうちにある、神の希望の光を受け継ぎました。人間の欲望に支配された組織としてではなく、神の真理の光を小さくとも輝かせる存在でありたいと思います。

 神が与えられた賜物である命は、誕生した幼子が守られ育まれたように、私たちに、同じように守り、育む務めが与えられています。命はその始めから終わりまで、例外なく守られなければなりません。また守るだけではなく、神の似姿としての人間の尊厳は、常に尊重されなくてはなりません。

 毎年の初めに教皇様は世界平和の日のメッセージを発表されています。今年は「私たちの罪をお赦しください。平和をお与えください」をテーマとされています。

 メッセージ冒頭で教皇様は「私は特に、過去の過ちによって重荷を負わされ、他者の裁きによって攻撃され、自分の人生にかすかな希望さえ見いだせない、と感じている人たちのことを考えている」と記され、始まったばかりの「希望」をテーマとした聖年において、周辺部に追いやられ排除されることの多い多くの人へ心を向けています。

 その上で教皇様は、聖ヨハネパウロ二世教皇の「構造的な罪」を引用しながら、世界で起きている人間の尊厳をおとしめている様々な出来事に、人類全体が何らかの責任を感じるべきだと指摘します。今年のメッセージで教皇様は、国家間の負債の軽減、命の尊厳を守ること、武力のための資金の一部を飢餓などの軽減のために使うことなど、具体的な提案をされています。

 私たちは、何に基づいて生きているのでしょう。人間の傲慢な欲望か、神の真理に基づく希望か。あらためて見つめ直してみましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年1月4日

・「平和のために、共に希望の旅路を」-菊地東京大司教の2025年の年頭司牧書簡

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 主の降誕と新年のお喜びを申し上げます。

 昨年末の枢機卿叙任にあたっては、多くの方のお祝いの言葉とお祈りをいただきましたこと、心より感謝申し上げます。教皇さまから与えられたこの務めを果たすために十分な能力がわたしにあるものでもなく、また霊的な深さを持ち合わせているわけでもありません。求められていることを忠実に果たしていくことができるように、皆さまの変わらぬお祈りによる支えを心からお願い申し上げます。

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 さて、昨年10月には、世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会の第二会期がバチカンで開催され、私も日本の司教団を代表して参加してきました。この会期をもって、第16回通常総会は閉幕となりました。

 これまでの慣例であれば、総会の最終文書を受け取られた教皇さまは、それに基づいて使徒的勧告を執筆され、教会全体への教えとされます。しかし今回、シノドス総会の最終日に出席された教皇さまは、参加者の投票によって最終文書が採択された直後に、その文書をご自分の文書とされることと、使徒的勧告を改めて執筆しないと発表されました。すなわち、今回のシノドスの最終文書は、教皇さまご自身の文書となりました。

 その上で教皇さまは、「私たちは世界のあらゆる地域から集まっています。その中には、暴力や貧困や無関心がはびこっている地域があります。一緒になって、失望させることのない希望を掲げ、心にある神の愛によって結ばれて、平和を夢見るだけでなく全力を尽くして、平和が実現するよう取り組みましょう。平和は耳を傾け合うこと、対話、そして和解によって実現します。シノドス的教会は、ここで分かち合われた言葉に具体的な行動を付け加えることが必要です。使命を果たしに出かけましょう。これが私たちの旅路です」と呼びかけられました。

 今回のシノドスは、教会のシノドス性そのものを話し合うシノドスでした。特に第二会期では、「宣教するシノドス的教会」であるために、何が求められているのかを、参加者はともに識別しました。教会がシノドス的であるということの意味は、教皇さまにおいては、すべて神の平和の構築に繋がっており、それこそが教会の使命であることが、この言葉からも明確に識ることができます。平和の構築こそは、教皇さまがお考えになる教会にとっての最優先課題です。

 そう考えるとき、今の時代ほど、その願いの実現からほど遠い世界はありません。

 この数年間、世界は歴史に残るような命の危機に直面してきました。暗闇が深まった結果は何でしょうか。それは自分の身を守りたいという欲求に基づく利己主義の蔓延と、先行きが見通せない絶望の広まりであって、絶望は世界から希望を奪い去りました。加えて、ミャンマーのクーデターやウクライナでの戦争、そしてガザでの紛争をはじめとして世界の闇がさらに深まるような暴力的な出来事が続き、絶望が世界を支配しています。あまりにも暴力的な状況が蔓延しているがために、世界には暴力に対抗するためには暴力を用いることが当たり前であるかのような雰囲気さえ漂っています。

 今、世界で、様々な形の暴力が私たちの命に襲いかかっています。神が与えてくださった賜物である命は、その始まりから終わりまで、例外なく、守られなくてはなりません。命を奪う暴力は、どのような形であれ許されてはなりません。

 教皇さまは、「希望の巡礼者」をテーマとする聖年の開催を告知する大勅書「希望は欺かない」に、「すべての人にとって聖年が、救いの門である主イエスとの、生き生きとした個人的な出会いの時となりますように」と記し、その上で、「教会は、主イエスを私たちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持って」いると指摘されます。

 今、世界は希望を必要としています。絶望に彩られた世界には、希望が必要です。

 希望は、どこからか持って来られるような類いのものではなく、心の中から生み出されるものです。心の中から希望を生み出すための触媒は、共同体における交わりです。互いに支え合い、共に歩むことによって生まれる交わりです。少ない中からも、互いに自らが持っているものを分かち合おうとする心こそは、交わりの共同体の中に希望を生み出す力となります。希望の巡礼者こそは、今の時代が必要としている存在です。

 2025年は第二次世界大戦が終わりを告げて80年の節目の年になります。人類の歴史に大きな傷跡を残した戦争を体験してもなお、人類は闘いをやめようとしません。1981年と2019年に、お二人の教皇さまが日本を訪れ、広島と長崎から平和を訴えられました。改めてお二人の教皇さまの呼びかけの言葉を読み返し、2025年を、神が求められる平和の確立を呼びかける年にしたいと思います。聖年は希望を生み出す巡礼者となることを、私たちに求めます。神の平和の確立こそは、希望を生み出す源です。争いを解決し、神が私たちに賜物として与えられた命の尊厳が守られる世界を実現するために、祈りのうちに行動する一年と致しましょう。

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 教皇さまの文書となったことで、シノドスの最終文書はイタリア語原文からの英訳などに時間がかかり、12月に入ってからやっと英語公式訳が公開されました。現在これに基づいて日本語訳が進められていますが、この公式訳には、シノドス総会で投票した際には存在しなかった教皇さまご自身の初めの言葉が付け加えられています。

 そこで教皇さまは、「各地方教会・・・は、教会法と本文書自体に規定されている識別と意思決定のプロセスを通して、文書に含まれている権威ある指摘を、様々な文脈で適用するよう、今、求められています」と記し、さらに、「シノドス第16回通常総会が終了したからといって、シノドスの歩みに終止符が打たれるわけではありません」と述べています。

 これからは、私たちがこの呼びかけに応える番です。今回のシノドスが求めているのは、いわゆる議会民主制を教会に持ち込むことでは、もちろんありません。司教協議会に、例えば教会の教えを決めるような権威を持たせるようなものでもありません。今すぐ教会の伝統的な諸制度を改革しようと呼びかけるものでもありません。それよりも、互いの声に耳を傾けあい、祈りを共にしながら、一緒になって聖霊の導く方向を識別し、その方向に向かってよりふさわしく進む道を見いだすようにと求めているものです。そうすることによって、初めて教会は、宣教するシノドス的な教会になることが可能となります。

 東京教区においても、様々なレベルで、シノドス的な識別を取り入れる可能性を探っていかなくてはなりません。そのためには、単に組織構造を変えることが最優先ではありません。まず最初に、霊的識別の道を学ぶことが、はじめの一歩となります。そのための研修などを開催することを、現在検討中です。

 同時に、今すぐこの道をたどりながら取り組めることがあります。

 2020年に東京教区の宣教司牧方針をお示ししました。これはそれに先だって、多くの共同体からの意見をいただいて集約する中でまとめられた方針で、10年をめどとして達成するべき宣教司牧の優先課題を記したものです。同指針には「今後10年を目途に実施のための取り組みを行い、10年後に評価と反省を試みて、教会のさらなる発展に寄与していきたいと考えています」と記しました。

 しかし10年はそれなりに長い時間でもあり、教会が置かれた社会の現実にも変化がありますから、中間となる5年目で一度見直しをすることがふさわしいと判断いたしました。

 現在、教区の宣教司牧評議会において、その見直し作業に着手していますが、これを教区全体で行いたいと思います。その見直しにあたって、シノドス的な霊的識別の方法をできる限り取り入れて行くようにしたいと思います。

 具体的な見直しについては別途お知らせいたしますが、基本的には次のように考えています。

 東京大司教区の宣教司牧方針の三つの柱、①「宣教する共同体をめざして」、②「交わりの共同体をめざして」、③「すべての命を大切にする共同体をめざして」は、変更せずに堅持したいと思います。それに付随する具体的な取り組みについて、これまでの取り組みとこれからの可能性、そしていまの社会の現実の中で必要となってきた取り組み課題などについて、できる限り多くの方の声をいただければと思います。

 最初に宣教司牧方針を作成した時のように、個人のお考えではなくて、共同体の声を伺います。共同体における声の集約には、霊における会話の手法などを活用して、聖霊が私たち東京教区をどのような道に導いているのか、その方向性を見極める作業に取り組んでいただければと思います。

 具体的な方法や、霊における会話の方法、さらにその声を集約する方法などについては、復活節中には、皆さまに具体的にお知らせするように致します。見直しのための小冊子を用意しますので、それぞれの共同体で祈りのうちに、宣教司牧方針の見直しの作業に取り組んでください。この見直しの作業は、一年程度の期間を見込んでいます。

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 教会が宣教するシノドス的な教会であることを求められる教皇フランシスコは、ともに支え合い、助け合いながら、力を合わせて祈り続けることで、聖霊の導きをともに識別し、進むべき方向性を見いだす必要性をしばしば強調されています。教皇様の貧しい人や困難に直面する人への配慮は、単に個人的に優しい人だからという性格の問題ではなくて、教会が神の愛と慈しみを具体的に体現する存在であるからに他なりません。

 従って、教会が共に歩む教会であるのであれば、それは当然、神の愛と慈しみを具体的に示しながら、共に歩む教会であって、そこに排除や差別、そして利己主義や無関心が入り込む余地はありません。広く心の目を開き、教会がいま進むべき方向性を、共に見極めることができれば幸いです。一緒になって教会を広く大きく育てていきましょう。福音を告げていきましょう。新しい働き手を見いだしていきましょう。ともに祈りを捧げましょう。

 新しい一年、福音をさらに多くの人に伝えることができるように、ともに歩んで参りましょう。みなさまの上に、またみなさまのご家族の上で、神様の豊かな祝福をお祈りいたします。

 2025年1月1日     カトリック東京大司教区 大司教    枢機卿 菊地功

(編集「カトリック・あい」)

2025年1月1日

・「希望の巡礼者こそ、今の時代が必要としている」-菊地大司教、聖年開幕ミサで

2024年12月29日 (日)聖年開幕ミサ@東京カテドラル

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 聖年が始まりました。教皇様は12月24日の夜の主の降誕のミサの始めに、聖ペトロ大聖堂の聖年の扉を開き、26日の聖ステファノの祝日には刑務所を訪れてミサを捧げ、刑務所で聖年の扉を開かれました。そして29日、聖家族の主日に、世界中すべての教区カテドラルで、聖年開幕ミサを司教が捧げるようにと指示をされています。

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 東京カテドラル聖マリア大聖堂でも、本日、聖家族の主日の午後3時から、聖年開幕のミサを捧げました。ルルドの前に集まり、そこから大聖堂正面扉まで行列をすることから始まりました。

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 聖年に関するお知らせは、中央協議会のこちらのホームページをご覧ください。また東京大司教区からは、各小教区を通じて巡礼のなどの手引きの小冊子を配布しております。

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以下、29日の聖年開幕ミサの説教原稿です。

 

【2025年聖年開幕ミサ 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2024年12月29日】

 教皇さまは12月24日に、バチカンの聖ペトロ大聖堂入り口右手にある聖年の扉を開かれ、聖年を開始されました。世界中の各教区の司教座聖堂では、本日聖家族の主日にミサを捧げ、聖年の開始を告げるようにと求められています。

 今回の聖年は、来年2025年の12月28日の日曜日に、各教区での閉幕ミサが捧げられ、翌2026年1月8日に、聖ペトロ大聖堂の聖年の扉が閉じられることで閉幕となります。

 特別聖年などの際には、各地方教会にも聖年の扉を設けるように指示が出ることもありますが、今回はローマの四大バジリカの扉だけが聖年の扉とされています。

 聖ペトロ大聖堂に続いて、本日12月29日には教皇様のローマ司教としての司教座であるサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂、続いて2025年1月1日の神の母聖マリアの祭日に、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、最後に1月25日にサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂の聖なる扉が順番に開かれます。

 聖年は、旧約聖書のレビ記に記された「ヨベルの年」に基づいています。50年ごとに、耕作地を休ませることや負債を免除すること、奴隷の解放などを行うようにと、神は民に命じています。それに倣って教会は、50年ごとに聖なる年を設け、神のいつくしみをあらわす「免償」を与える特別な機会としてきました。現在ではより多くの人がその恵みを受けることができるようにと、25年に一度、聖年を行うことになっています。

 なお免償とは直接的な罪の赦しではなくて、「カトリック教会のカテキズム」には「罪科としてはすでに赦免された罪に対する有限の罰の神の前におけるゆるし(1471 項)」であると記されています。教皇庁内赦院は「免償の賜物は、神の憐みがいかに無限であるかを分からせてくれます。古代において、『あわれみ(misericordia)』という言葉は、『免償』という言葉と互換性のあるものだったのは偶然ではありません。なぜなら、まさに『免償』は、限界を知らない神の赦しの十全さを表そうとするものだからです」と、今回の聖年の免償について記した文書で述べています。

 ご存じのように東京教区では小冊子を作成し、これらのポイントについての解説を掲載し、この聖年の間に勧められる巡礼の指定教会を記していますので、是非手に取って、ご活用ください。

 さて、聖年のテーマは、「希望の巡礼者」とされていますが、そこには二つのテーマ、すなわち「希望」と「旅路を歩む」という、現代社会に生きる教会にとって重要な二つのテーマが示されています。

 聖年のロゴには四人の人物が描かれています。それは地球の四方から集まってきた全人類を表現しています。全人類を代表する四人が抱き合う姿は、すべての民を結びつける連帯と友愛を示しています。先頭の人物は十字架をつかんでいます。足元には人生の旅に立ち向かう困難の波が押し寄せていますが、長く伸びた十字架の先は「いかり」となり、信仰の旅を続ける四人が流されてしまうことのないように支えています。

 人生の道を共に歩む私たちに、十字架の主が常に共にいてくださり、荒波に飲み込まれ流されることのないように支えてくださっていることを象徴するこのロゴマークは、まさしく今、教会が追い求めているシノドス的な教会のあり方を象徴しています。

 教皇さまは聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、「すべての人は希望を抱きます。明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望は良いものへの願望と期待として、ひとり一人の心の中に宿っています(1)」と記し、この世界を旅し続けるわたしたちの心には、常に希望が宿っていることを指摘されます。同時に教皇さまは、「希望の最初のしるしは、世界の平和と言いうるものです。世界はいままた、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられるさまを目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています(8)」と指摘され、この数年間の世界の現実が、いかにその希望を奪い去り、絶望を生み出すものであるのかを強調されています。いま世界は希望を必要としています。

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 この数年間、世界各地で命に対する暴力が激しさを増しています。ミャンマー、ウクライナ、聖地ガザなどなど。神から与えられた賜物である命は、幼子が暗闇の中に輝く希望の光として誕生したように、私たちの希望の源です。その希望の源への暴力は、どのような形であれ許されてはなりません。

 命はその始めから終わりまで、例外なく守られなくてはなりません。命に対する暴力の広がりは世界から希望を奪い去り、絶望の闇が支配しています。暗闇の中を孤独のうちに歩いている私たちには、闇を打ち破る希望と、その希望を生み出してくれる一緒に旅をする仲間の存在が必要です。

 この聖年において、教会はこの二つ、すなわち希望と巡礼者を掲げて、暗闇の中に小さく輝く幼子のように、暴力と孤独が支配する闇の中で、希望の光を掲げ、ともに支え合いながら道を歩もうと呼びかけています。

 教皇さまは、「聖年が、すべての人にとって、希望を取り戻す機会となりますように。神のことばが、その根拠を見つけるのを助けてくれます(1)」と、人となられ、私たちのうちに住まわれた神のみことばに耳を傾け、希望を見いだすよすがとするように勧めておられます。
果たして今の私たちの教会は、希望を生み出しているでしょうか。暴力や排除や差別によって、教会が絶望を生み出すものとなっていないでしょうか。希望の光を求めて訪れる人たちに、安住の地を提供しているでしょうか。絶望と不安の闇にさまよう多くの人を忘れることなく心を向け、光を提供するものとなっているでしょうか。振り返る時にしたいと思います。

 10月の末に閉幕したシノドスは、2021年に始まって3年間にわたり、教会のシノドス性、特に宣教するシノドス的な教会となる道を模索してきました。

 教皇様は10月26日、最終文書の採択が終わった直後の総会でスピーチされ、「私たちは世界のあらゆる地域から集まっています。その中には、暴力や貧困や無関心がはびこっている地域があります。一緒になって、失望させることのない希望を掲げ、心にある神の愛によって結ばれて、平和を夢見るだけでなく全力を尽くして、平和が実現するよう取り組みましょう。平和は耳を傾け合うこと、対話、そして和解によって実現します。シノドス的教会は、ここで分かち合われた言葉に具体的な行動を付け加えることが必要です。使命を果たしに出かけましょう。これがわたしたちの旅路です」と呼びかけられました。

 今、世界は希望を必要としています。絶望に彩られた世界には、希望が必要です。

 希望は、どこからか持ってこられるような類いのものではなく、心の中から生み出されるものです。心の中から希望を生み出すための源は、共同体における交わりです。互いに支え合い、共に歩むことによって生まれる交わりです。少ない中からも、互いに自らが持っているものを分かち合おうとする心こそは、交わりの共同体の中に希望を生み出す力となります。希望の巡礼者こそは、今の時代が必要としている存在です。

 

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2024年12月31日

・「希望の巡礼」の聖年の初めにー「教会が絶望を生み出す元になっていないだろうか」菊地大司教、聖家族の主日メッセージ

2024年12月28日 (土)週刊大司教第190回:聖家族の主日

     2025年聖年は、12月24日の夜半ミサにおいて教皇様が聖ペトロ大聖堂の聖年の扉を開いたことによって始まりました。世界中の司教座聖堂では、聖家族の主日に、聖年の開始を告知するミサを捧げるように定められており、東京教区では12月29日午後3時、聖家族の主日の午後に、東京カテドラル聖マリア大聖堂でミサをささげます。なお当日は、ミサの開始前に外に集まり、一緒になって入堂する儀式が行われる予定ですので、どうぞご参加ください。(左の写真は、今回開かれた聖年の扉。撮影は10月のシノドスの最中です)

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 司祭団は、教区司祭と宣教会司祭、そして修道会司祭が共に集い、一年の感謝の祈りを捧げ、「テ・デウム」を歌うことを習わしとしており、クリスマス後から大晦日までの間に、それぞれの教区の事情に応じて行われています。

 東京教区では、主の降誕の翌日に行われてきましたので、今年も12月26日の午前11時に司祭団が東京カテドラル聖マリア大聖堂に集まり、聖体賛美式を行い、一年の締めくくりに感謝を込めて「テ・デウム」を歌いました。昨年まではラテン語で歌っていましたが、ラテン語で通して歌える司祭が減ってきたこともあり、今年からは日本語で歌うことにいたしました。

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 今年はクリスマス頃にかけて帰天される信徒の方が相次いだようで、26日に葬儀が入った司祭も多数おられ、全員の参加とはなりませんでしたが、多くの司祭、とりわけ教区司祭だけではなくて修道会や宣教会の司祭たちが参加してくださったことに感謝したいと思います。

 東京教区における活動は、教区司祭団、修道会、宣教会がそれぞれ独自にしているのではなくて、一緒になって司祭団を形成して取り組んでいることを実際に感じることができますので、様々な国出身の様々な共同体の司祭が集まってくださったことに感謝します。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第190回、聖家族の主日のメッセージ原稿です。

( 聖家族の主日C  2024年12月29日)

皆様、主の降誕おめでとうございます。

 クリスマスにつきものの馬小屋の飾りでは、誕生した幼子が飼い葉桶に寝かされ父ヨセフと母マリアの愛のまなざしによって育まれ守られているさまが描かれています。受肉した神のみ言葉は、家族のうちに誕生し、家族によって守られ、育まれました。降誕祭直後の主日は、このいのちを育んだ家族を黙想し、家族への祝福を祈る日であります。

 聖家族は、驚くべき神の言葉に従順に従い、その御旨の実現のために人生を捧げられたヨセフとマリアという偉大な二人と、その結果として誕生した神のみことばの受肉によって成り立っています。すなわち、神による祝福は、神のみ旨への従順によってのみもたらされることが示されています。

 ルカ福音は、イエスが十二歳になったときの聖家族の旅路を記しています。過越祭のためにエルサレムに上ったとき、その帰路、少年イエスがエルサレムに残り、家族と離れてしまったときの逸話です。

 三日目に見出されたイエスは、自らが神の子であることを明示され、真の家族は神のもとにあることを示されますが、同時にイエスは、神の掟を守る二人から離れることなく、そのもとにとどまるために、両親と一緒に旅を続けます。神のよって祝福された人生は、神と共に歩む旅路であります。聖家族の旅路は、神のことばと共に亜歩む巡礼の旅路でありました。

 教皇さまは12月24日に聖年の扉を開かれ、聖年を開始されました。世界中の各教区の司教座聖堂では、聖家族の主日にミサを捧げ、聖年の開始を告げるようにと求められています。25年に一度の聖なる年が始まります。

 この聖年のテーマは、「希望の巡礼者」」とされていますが、そこには、「希望というテーマ」と「旅を歩む」という、現代社会に生きる教会にとって重要な二つのポイントが示されています。

 教皇さまは聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、「すべての人は希望を抱きます。明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望は良いものへの願望と期待として、一人ひとりの心の中に宿っています(1)」と記し、この世界を旅し続ける私たちの心には、常に希望が宿っていることを指摘されます。同時に教皇さまは、「希望の最初のしるしは、世界の平和と言いうるものです。

 世界は今、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられるさまを目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています(8)」と指摘され、この数年間の世界の現実が、いかにその希望を奪い去り、絶望を生み出すものであるのかを強調されています。いま世界は希望を必要としています。教会は絶望ではなくて、希望を生み出す源となることが求められています。

 教皇さまは、「聖年が、すべての人にとって、希望を取り戻す機会となりますように。神の言葉が、その根拠を見つけるのを助けてくれます(1)」と、人となられ、私たちのうちに住まわれた神の御言葉に耳を傾け、希望を見い出すよすがとするように勧めておられます。教会は希望を生み出しているでしょうか。暴力や排除や差別によって、教会が絶望を生み出すものとなっていないでしょうか。希望を生み出す旅路を、この一年続けて参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2024年12月29日

・「主の降誕に向けて霊的な準備も怠らないように」-菊地大司教、待降節第4主日に

2024年12月21日 (土)週刊大司教第189回:待降節第四主日C

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    待降節第四主日です。あと数日で降誕祭となりました。(写真は21日の枢機卿就任感謝ミサ入堂。詳細は後日。)

   12月21日は、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、午前11時から、私の枢機卿叙任(親任)感謝ミサを捧げさせていただきました。これについては別途記します。お祈りくださった皆様、ご参加くださった皆様、ありがとうございます。

 以下、21日午後6時配信の、週刊大司教第189回、待降節第四主日メッセージ原稿です。

( 待降節第四主日C  2024年12月22日) 

 待降節も最後の主日となり、まもなく主の降誕の日を迎えます。日々の生活の中でも、クリスマスや年末年始が近づくこの時期、様々な準備に心を裂くことが多いかと思いますが、最後の数日間、主の降誕のお祝いに向けて、霊的な準備も怠らないように心掛けたいと思います。

 第四主日に最初に朗読されるミカの預言には、エルサレム近くの小さな町ベツレヘムからイスラエルを治めるものが現れる、と記されており、「主の力、神である主の御名の威厳を持って」治める王の支配こそが、平和であると述べています。すなわち、誕生する幼子が支配する世界こそ、神の平和が実現している状況です。

 第二の朗読のヘブライ人への手紙は、新約の契約は「御心を行うために」誕生された主イエスご自身のいけにえによってただ一度で成し遂げられているのであり、キリストを信じるものはその救いのために形式的な祈りを捧げ続ける必要はなく、「すでに聖なるものとされていることを自覚し、その自覚のうちに生きることが必要である」と指摘します。

 ルカ福音は、自らの驚くべき運命に翻弄されながらも、しかし、助けを必要としている他者への心配りを忘れず積極的に行動する聖母の姿を記します。聖母マリアのエリザベトご訪問です。

 聖母マリアのこのご訪問に触れて、教皇フランシスコは使徒的勧告「福音の喜び」の終わりに、「マリアは… すぐに動かれる聖母、人に手を貸すために自分の村から『急いで』出掛ける方です。正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです(288項)」とされました。

 その上で教皇は、「聖霊と共に、マリアは民の中に常におられます。マリアは、福音を宣べ伝える教会の母です… 教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります。というのは、マリアへと目を向けるたびに、優しさと愛情の革命的な力を改めて信じるようになるからです」(288項)と記しておられます。

 私たちが待ち望んでいる救いは、形式的な崇敬を繰り返すことによって実現するのではありません。それは、福音の到来が待ち望まれている地へ出向いて行って、神の望まれる秩序を打ち立て平和を生み出すことによって、私たちのうちに実現します。聖母はその模範を示し、主ご自身がその道程をともに歩んでくださいます。

(編集「カトリック・あい」)

2024年12月21日

・「皆様のお祈りに感謝いたします」-菊地・新枢機卿の大司教の日記で

2024年12月 9日 1733599771404(月)皆様のお祈りに感謝いたします。

   昨日、12月7日の夕刻、サンピエトロ大聖堂で行われた枢機卿会において、教皇様から枢機卿へ叙任していただきました。与えられた務めに対して、私の力は十分ではありません。皆様のこれまでのお祈りに心から感謝すると同時に、これからもさらなるお祈りをお願い申し上げます。

   12月8日、教皇様の司式で、感謝ミサも捧げ、その後、日本から来られた60名を超える巡礼団の皆様とバチカン近くで感謝の昼食会を行い、その後、神言会の総本部を訪れることもできました。

   水曜日には帰国いたしますが、あらためて今回の一連の行事について報告させていただきます。

  なお昨日の枢機卿叙任に当たり、枢機卿としての名義教会を頂きました。ローマ教区の小教区でSan Giovanni Leonardiと言う教会です。今後、小教区や儀典室と調整しながら、来年には着座式のために訪れたいと思います。

 皆様に心から感謝申し上げます。

2024年12月9日

・「枢機卿となって、私自身が先頭に立ち、『主の道を真っすぐにせよ』と叫ぶ覚悟を持たねば」菊地大司教、待降節第2主日に

2024年12月 7日 (土)週刊大司教第188回:待降節第二主日C

 待降節第二主日です。

    この数日間、私は、12月7日夕刻に開催される枢機卿会に出席するため、ローマに滞在し、準備をしております。枢機卿としてこれからどのような形で普遍教会に寄与することができるのか分かりませんが、これまで通り、まず第一の務めである東京教区の教区大司教としての役割を忠実に果たしていきたいと思います。同時に教皇様が求める役割があるのであれば、それにも常に忠実でありたいと思います。

   この12月16日で、2017年に東京の大司教に着座してから七年となります。七年と言えば十分な時間と言えますが、しかし残念なことにそのうちのおおよそ半分ほど、特に2020年の春頃から三年程度の期間は、コロナ感染症への対応のために、通常の取り組みがほとんどできずに過ごしました。ですので、着座から7年が経過したと言っても、実質的には半分程度しか務めを果たしていません。時宜を逸したことも多々あります。残念です。

  とりわけ2019年11月に教皇様が訪日され、大きなインパクトを残されたその直後から、教会活動がほぼストップしてしまったのは、本当に無念でした。教皇様の言葉を受けて考えられた様々な企画は、そのためにすべて消え失せてしまいました。教皇様が外国訪問をされた後には必ず行われる、答礼のローマ巡礼すら実施することができませんでした。

   今般、訪日5周年を記念して、12月11日の夕方には麹町教会で司教団の主催で訪日記念ミサを捧げ、上智大学構内で様々な催しを行いますが、ちょうどシノドスも終わり、現在、最終文書を翻訳するために正式な英語訳が出るのを待っているところですが、正式英語版が公表され次第、日本語訳に取り組み。この訪日5周年と併せて、年明け2月の司教総会での議論を経て、全国的な取り組みを進めていきたいと考えています。

  以下、本日午後6時配信、週刊大司教第188回、待降節第二主日のメッセージです。

【待降節第二主日C   2024年12月8日】

 12月7日、私はバチカンの聖ペトロ大聖堂において、教皇様より枢機卿の称号をいただきます。枢機卿とは単なる名誉職ではなく、教皇様の顧問団の一人として、教会全体において役割を果たしていくことが求められる立場です。その求められている役割を果たすには、自分が十分ではないことをよく自覚し、恐れの中で震えております。私が求められている務めを忠実に果たすことができるように、これからも皆様のお祈りによる支えをお願い申し上げます。

 洗礼者ヨハネの出現を伝えるルカ福音は、イザヤ書を引用しながら、ヨハネが救い主の先駆者であることを教えています。洗礼者ヨハネは「荒れ野」で、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声だと記されていますが、その響き渡る声によって、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と福音は記します。

 私たち教会も、現代社会という「荒れ野」に生きています。命を奪う暴力がはびこり、戦争が続き、利己的な価値観が支配する「命の荒れ野」に生きています。その現代の「命の荒れ野」のただ中にあって、教会は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と呼びかける声であり続けたい、と思います。

 枢機卿がいただく正装の色は深紅です。それは福音のために殉教すら厭わない、という決意を象徴しています。ですから私自身が教会の先頭に立って、現代社会に向かい、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ覚悟を持たなくてはなりません。同時にそれは教会全体の務め、すなわちキリストに従う皆さんと共にある教会の務めです。

 この「命の荒れ野」のただ中に立つ教会と歩みを共にしてくださるのは聖母マリアです。12月8日は無原罪の聖母の祭日ですが、今年は待降節第二主日と重なるために、翌日に変更となっています。聖母マリアは、傷ついた私たちを神の愛で包み込み、共に歩み、共に「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声になってくださいます。

 共に歩んでくださる聖母の取り次ぎに信頼しながら、これからも共に、荒れ野に響きわたる先駆者の声であり続けましょう。

2024年12月7日

・「共に旅路を歩み、希望を言葉と行いで証しし続ける『希望の巡礼者』」―待降節第1主日の菊地大司教メッセージ

2024年11月30日 (土) 週刊大司教第187回:待降節第一主日C

 典礼の暦では新しい一年が始まり、今年の12月1日は待降節第一主日です。

 2025年1月1日に統合される千葉寺教会と西千葉教会は、典礼暦が新しくなる今日から、一緒に典礼に与ることになり、新しい出発への感謝ミサが捧げられます。

 小教区の統合は簡単に決めることでもなく、簡単に実現すべきことでもありません。それぞれの小教区共同体には、その創設から現在に至る歴史があり、そこには多くの方が関わってこられ、共同体を生み出し育て上げるために尽力された事実が残っています。千葉県においては、特にコロンバン会の宣教師の皆さんと、協力された信徒の方々の多大な労苦と挑戦の結果として、現在の小教区教会が存在しています。

 今回の統合にあたって、尽力された多くの方々の様々な形での捧げに、心から感謝したいと思います。またこれまで、特に千葉寺教会の維持管理発展のために貢献してくださった多くの方々のご苦労に、心から敬意を表し、感謝申し上げます。

 小教区共同体は単なる組織体ではなくて、神の民の集まりとして生きた共同体です。キリストにおける共同体は「二人三人が、私の名の下に集まるとき、私はそこにいる」と約束された主の言葉に従い、二人のキリスト者がいるところから始まるからに他なりません。その意味で、小教区教会という拠点の建物にだけキリスト者の共同体は存在するわけではなく、様々なところに様々な形で共同体は存在しています。

 このたび一つの拠点がなくなるという事実を踏まえ、小教区という包括する共同体に様々な理由から加わることのできない方々の存在に、心を向けたいと思います。新しい小教区の誕生が、忘れられるキリスト者を生み出すことのないように、心配りたいと思います。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第187回、待降節第一主日のメッセージです。

【待降節第一主日C 2024年12月1日】

教会の典礼の暦は、待降節から新たに始まります。典礼の暦のはじめは、降誕祭に向けた準備の時である待降節です。待降節はその名の通り、降誕を待つ時であり、特に信仰における「待つ」ということの意味を考えさせられる季節でもあります。この待降節の前半は、私たちの救いの完成の時、すなわち世の終わりに焦点が当てられ、後半は救い主の誕生を黙想するように、私たちを招きます。どちらの部分でも、その黙想を通じて、今をどのように生きるべきなのかを、信仰の視点から考える時となっています。

 ルカ福音において、「放蕩や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」と弟子たちに語られる主イエスは、「いつも目を覚まして祈りなさい」と促します。すなわち、私たちの信仰生活の姿勢において「待つ」ことは、ただ欲望に身を任せて、だらけていることではなくて、何かに注意を向け続け、常に即応体制にあることを意味しています。

 「目を覚まして祈りなさい」という言葉は、単に覚醒状態であり続けることを促しているのではなく、祈りのうちに「時のしるし」を読み取り、主が命じられた生き方を続ける努力を求める言葉です。時のしるしを読み解くことは、一人でできることではありません。先日も触れましたが、「現代世界憲章」によれば、それは教会共同体全体の使命であり、まさしく教会が現代社会に預言者として存在することを意味しています。

 まさしくシノドスの道が、一人で孤独に歩む道ではなく、皆で支え合い耳を傾け合いながら、能動的に歩む道であり、さらにそれは祈りのうちに共同で聖霊の導きを識別することへと繋がります。私たちは、ただ座して何かが起こるのをじっと待っているのではなく、常に前進を続け、共に祈りのうちに識別を続けながら、行動的に主の時を待たなくてはなりません。

 様々な困難な現実が展開し続ける世界の現実にあって、私たちはどのように行動するべきなのでしょう。「時のしるし」を読み取るために、まさしく、シノドス的な教会であり続けることが、不可欠です。「神に喜ばれる」生き方を見出すのは、ひとり個人の務めではなくて、教会共同体に与えられた使命でもあります。

 私たちの歩みは、漠然とした旅路ではありません。教皇様は聖年の開始を告知する大勅書「希望は欺かない」に、こう記しておられます―「キリスト者の人生は、目的地である主キリストとの出会いを垣間見せてくれるかけがえのない伴侶、すなわち希望を養い強める絶好の機会をも必要とする旅路だということです(5)」

 私たちが目指すのは、ひとり自分だけが品行方正に正しく生きることではなく、共に旅路を歩みながら、希望を高く掲げ、それを言葉と行いで証しし続ける「希望の巡礼者」の旅路を歩むことです。

2024年12月1日

・「福音に希望を抱き、伝えながら歩み続けたい」菊地大司教、「王であるキリストの主日」に

2024年11月23日 (土)週刊大司教第186回:王であるキリストの主日

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 典礼の暦における最後の主日は「王であるキリスト」の主日です。また週刊大司教のメッセージでも触れていますが、教皇様はこの日を世界青年の日と定めておられます。

 教皇様の今年の世界青年の日のメッセージは、テーマを「主に望みをおく人は、歩いても疲れない」(イザヤ40・31参照)としており、日本語の翻訳はこちらの中央協議会のリンクでご覧いただけます。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第186回目のメッセージ原稿です。

(王であるキリストの主日B 2024年11月24日)

 ヨハネ福音は、ピラトとイエスの問答を記しています。ピラトが象徴するのは、国家を支配するこの世の権威です。それに対してイエスは、神の国、すなわち神の支配について語ります。そしてこの問答が全くかみ合わない事実が、この世の支配と神の支配が全く異なる実体であることを物語っています。

 神の支配とは神の秩序が確立していることであり、それはイエスご自身が、「真理に属する人は皆、私の声を聞く」と言われるように、人間の欲望や知識に根ざしたこの世の権力が支配する国家とは異なる、真理による支配であることを、イエスはピラトに向かって宣言されます。

 「カトリック教会のカテキズム」は、「罪と苦しみと死に対する勝利」こそが神の支配の実現によって到来すると指摘しています(カテキズム要約314)。

   その上でカテキズムは、「キリストのみ国は教会のうちにすでに現存しているとはいえ、まだ、王であるキリストが地上に来臨し、『大いなる力と栄光』とを持って完成されるには至っていません。・・・ですから、キリスト者は、特に感謝の祭儀の中で、キリストの来臨を早めるために、『主よ、来てください』と祈るのです」として、教会こそが、この世の権威の支配する現実に対して声を上げ、真理に基づいた神の支配を自らの言葉と行いを持って示し続けることを求めます(671)。

   私たちがしばしば目にするのは、自分ではなく他の誰かの命の犠牲や誰かの苦しみを踏み台にして、自らの野望を成し遂げようとするこの世の権力の姿です。しかし真理の王は、自ら進んで他者の救いのために苦しみを背負い、自らの言葉と行いで愛と慈しみを具体的にあかしされる方であります。人類の犯すおろかで傲慢な罪を糾弾するのではなく、そのすべてを赦すために、自らを生け贄として犠牲にされる方であります。

 「神がすべての支配者」と信じる私たちは、神が望まれる世界の構築を目指して行かなくてはなりません。神の真理が支配する国、すなわち神の秩序が完全に実現している世界、神の愛と慈しみに満ちあふれた世界、すべての命が尊重される世界を目指して、言葉を語り行いを持って証ししたいと思います。

  本日は世界青年の日でもあります。教皇様は、イザヤ書から「主に望みをおく人は、歩いても疲れない」を引用され、今年のテーマとされました(イザヤ40・31参照)。

  メッセージの中で教皇様は、「戦争の悲劇、社会的不正義、格差、飢餓、人間の搾取と被造物の搾取――。・・・(青年たちは)将来に不安を覚え、夢を具体的に描けないため、希望をもてずに、倦怠と憂鬱から抜け出せず、時には犯罪や破壊行為への幻想に引き込まれかねません」と指摘されます。

  その上で教皇様は、希望を持って人生の旅路を歩み続ける巡礼者となるようにと呼びかけて、「希望とはまさに、神が私たちに吹き込んでくださる新たな力であり、それがあるからレースを続けることができ、『先を見つめる目』を持てるので、その時々の困難を乗り越えて確かなゴール、すなわち神との交わりと永遠の命の充満へと導かれるのです」と呼びかけておられます。

   神の真理が支配する国は絶望ではなく希望に満ちあふれた国であるはずです。私たちも常に福音における希望を心に抱き、それを伝えながら、歩み続けたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2024年11月23日