
教皇様のアジア歴訪は無事に終わりました。私も、9月12日にシンガポールで行われた教皇ミサに参加するように招かれたので、シンガポールまで出かけて参りました。教皇様は三日間シンガポールに滞在されましたが、私は二日目の午前中の、国立大学における政府関係者や外交官を招いての、大統領と教皇様の演説(写真右)と、午後から夕方にかけて国立競技場に5万人を集めて捧げられた教皇ミサにご一緒させていただきました。アジア各地から39名ほどの枢機卿や司教が集まりました(写真左)。

教皇様は2週間近い長旅の最終盤であるにもかかわらずお元気でしたが、立ち上がって数歩歩かれる以外は車椅子のですので、他のミサと同様に、教皇ミサの途中、感謝の典礼から先は、シンガポールのウィリアム・ゴ枢機卿様が祭壇に立たれ、共同司式者として、マレーシアのジュリアン大司教様(クアラルンプール)とセバスチャン枢機卿様(ペナン)が両サイドにつかれました。シンガポール大司教区は国に一つだけの教区ですので、ブルネイと共に、マレーシアの司教協議会の一員となっています。
教皇様はこの後、10月のシノドスの前、9月の末に、ルクセンブルグやベルギーを訪問されることになっています。教皇様の健康のためにお祈りください。
本日の土曜日、イエズス会では新しい司祭が誕生しました。午後2時からイグナチオ教会で行われたパウロ山内豊新司祭の叙階式を、司式させていただきました。彼と同級のコンゴ出身のイエズス会員は、8月の初め頃にコンゴのルブンバシで、ルクセンブルグのオロリッシュ枢機卿によって叙階されていると伺いました。おめでとうございます。
以下、14日午後6時配信、週刊大司教第183回、年間第24主日のメッセージ原稿です。
【年間第24主日B 2024年9月15日】
マルコ福音は、イエスが求める信仰における自己決断の話を記します。
イエスは弟子たちに、「人々は、私のことを何者だと言っているか」と尋ねます。それに対して弟子たちは、先生が多くの人から褒め称えられている現実に誇らしい思いもあったのでしょう。口々に、方々で耳にしてきたイエスについての評価を語ります。「洗礼者ヨハネだ。エリヤだ。預言者の一人だ」。
考えてみれば、それらの評価は、伝聞、つまり「うわさ話」にすぎません。それに対してイエスは、「それでは、あなた方は私を何者だというのか」と弟子たちの自分の判断を求めます。自己決断を迫ります。
信仰を生きている私たちは、常に、主によって自らの回答を迫られています。私たち一人ひとりは、一体何と答えるのでしょう。私にとって、主イエスとは何者なのでしょうか。誰かがそう言っているイエスではなくて、私が知っているイエスは何者なのでしょう。
私たちは、命を与えられた神から愛されている存在です。守られている存在です。その神の慈しみを、愛を、具体的に私たちに示されるのは、共にいてくださる主イエスであります。主こそ私たちの救い主、メシアだと、ペトロと一緒に答えるのだとすれば、その応えに見合った生き方をしなくてはなりません。私たちには、主が生きたように、語ったように、生きていく務めがあります。それは信仰を具体的に行動に表すことであり、すべての命が誰一人として見捨てられることなく、常に神に愛される存在であることを、具体的に示すことであります。
教会は7月の第四日曜日を、祖父母と高齢者のための世界祈願日と定めていますが、日本の教会では、敬老の日が国民の休日として定められている9月にこの祈願日を移行することについて聖座に申請し許可を得ています。今年は15日が祖父母と高齢者のための世界祈願日となります。
少子高齢化が多くの国で激しく進み、伝統的な家庭のあり方が崩壊する中で、かつては知恵に満ちた長老として社会の中に重要な立場にあった高齢者が、周辺部に追いやられ、忘れ去られていく状況が出現しました。高齢者にはそれまでに豊かに蓄えた知識を持って、次の世代につなぐ大切な努めがあることを教皇は強調し、若い世代と高齢の世代の交わりを勧めておられます。
この祈願日にあたり、教皇はメッセージを発表されています。今年のテーマは、詩編71の言葉から、「老いの日にも私を捨て去らないでください」とされています。
メッセージの中で教皇は、「神は決してご自分の子らを見捨てません。齢(よわい)を重ね力が衰えようとも、髪が白くなって社会での役割が少なくなろうとも、活動の生産性が下がって無駄として見られかねないとしても、そうなのです」と述べ、社会に広がりつつある「高齢者が若者から未来を奪う」という考え方が、人間の尊厳の立場から誤っていることを指摘されます。
その上で教皇は、ルツ記の話を引用しながら、「高齢者に寄り添うこと、彼らの、家庭、社会、教会でのかけがえのない役割を認めることで、私たち自身も多くの賜物、多くの恵み、多くの祝福を受ける」と指摘されます。誰も見捨てることのない神の愛を、実践するのは、私たちの務めです。