・「私たちの教会は『迎え入れる教会』になっているだろうか」-菊地・東京大司教の年間第16主日メッセージ

2025年7月19日 (土)週刊大司教第217回:年間第16主日C

 年間第16主日となりました。先日7月13日に、生まれ故郷である岩手県の宮古市を訪れ、枢機卿に親任されてから初めてのミサを、宮古教会で捧げることができました。宮古教会は、教会で働いていた両親のもと、わたしが洗礼を受け、育てられ、幼稚園の年中組までを過ごした地です。わたしにとっては、信仰の原点が宮古教会です。聖堂はその頃(昭和30年代)と同じように建っていますが、内装も外装も新しくなっています。聖堂横の鐘楼は昔のまま。幼稚園園舎や司祭館は新しく建て直されています。25miyako06

 この日は宮古教会だけでなく、同じ宮古出身で、現在宮古教会を担当しているイエズス会の堀江神父様が、ひとりで兼任されている釜石や遠野を始め、大船渡、水沢や盛岡の四ツ家や志家からも信徒の方が来てくださり、聖堂はいっぱいになりました。ミサにおいでくださり祈りの時をともにしてくださった皆さんありがとうございます。中には一緒に幼稚園に行った幼なじみや、小学校のころに一緒に侍者をした仲間もおいででした。

Img_20250718_165003694_burst000_cover その幼なじみのひとり、ウルスラ会のシスター中島が、わたしの肖像画(写真左)を描いてくださいました。

 また土曜日には、たまたま訪れた景勝地の浄土ヶ浜で、クリーンアップ活動が行われており、このたび新しく就任された宮古市の中村尚道市長にお会いしてご挨拶させていた来ました。(右下の写真:向かって左側が中村尚道市長。右はカトリックの小百合幼稚園の加藤園長で、クリーンアップ活動に参加中でした)

 岩手県の教会の皆さん、いつもお祈りありがとうございます。

 明日は大切な選挙の日です。世界には民主的な選挙が実現しておらず、かえって制限されたり独裁がまかり通る国も、近隣を始め少なからず存在することを考える時、この国で私たちに与えられた意思表明の権利を行使することは大切です。今の自分のことだけでなく、もっと広く、将来の世代への希望や、この地球全体で神から賜物としていのちを与えられている全ての人の明日も考えながら、しっかりとご自分の考えに基づいて、この権利を行使されますように。絶望ではなく、希望が生み出される社会となることを願いながら。

  以下、本日午後6時配信、週刊大司教第217回、年間第16主日のメッセージです。25miyako04

(年間第16主日C 2025年7月20日)

 ルカ福音はよく知られているマリアとマルタの物語を記しています。イエスを迎えた家で、イエスの話に耳を傾けるばかりで客人の接待の手伝いをしようとしないマリアに対して「手伝ってくれるようにおっしゃってください」と不平を漏らしたマルタの心持ちを、私を含めて多くの人が、理解できると思ったのではないでしょうか。

 そしてそれに対するイエスの言葉、「マリアはよい方を選んだ」というのは、なんとも一生懸命になって、もてなしをするマルタをないがしろにしている、と感じたのではないでしょうか。イエスの本意はどこにあるのでしょう。

 イエスの本意を知る手がかりは、マルタが「せわしく立ち働いていた」という福音の描写と、イエス自身の言葉、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」にあります。すなわちイエスは、マリアとマルタのどちらの行動が優れているのか判断を示されているのではなく、その現実の中で「心がどこにあるのか」を問題にしておられるのです。

 教皇レオ14世は、6月1日の、聖年における家庭・子ども・祖父母・高齢者の祝祭のミサ説教で、次のように述べておられます。

 「私たちは、望む前から命を与えられました… それだけではありません。私たちは生まれるや否や、生きるために他の人を必要としました。私たちは独りきりでは生きることができませんでした。他の誰かが、私たちの肉体と霊魂の世話をすることによって、私たちを救ったのです。それゆえ、私たちは皆、関係によって、すなわち、自由で解放をもたらす人間のつながりと、互いに世話をし合うことによって生きるのです」

 互いに助け合う中で、そこにはそれぞれが果たすべき役割があります。しかしながら、心は常に命を与えてくださった神に向けられている。その命の与え主に対して、マルタは思わず、自分の役割についての不平を述べてしまいました。

 教皇フランシスコは2019年7月21日のお告げの祈りで、「心の知恵は、観想と活動、この二つの要素をどのように結び合わせるかを知ることにあるということです。マルタとマリアはその道を示してくれます。喜びをもって人生を味わいたいのなら、この二つの姿勢をつなげなければなりません」と述べています。どちらが優れているのかではなく、神に向かって生きるときには、二つの行動がどちらも大切であり、その二つが十分になくてはならないことを強調します。個人的な優しさの問題ではなく、神に向かっているかどうかの問題です。

 そもそも、話の冒頭で、イエスを迎え入れるのはマルタです。創世記でアブラハムが三人の旅人を無理にでもと迎え入れたように、マルタはイエスを家に迎え入れます。マルタのこの迎え入れる態度がなければ、全ては始まりません。マルタがイエスを迎え入れていなければ、マリアはその足元でイエスの言葉に耳を傾けることもなかったことでしょう。

 マルタのこの行動とアブラハムの行動は、私たちに、迎え入れる態度こそが、神との出会いの鍵であることを教えています。私たちの教会は、迎え入れる教会となっているでしょうか。

このエントリーをはてなブックマークに追加
2025年7月20日