・「福音のメッセージを証しする巡礼者であり続けたい」菊地・東京大司教の「主の洗礼」の主日

2026年1月10日 (土)週刊大司教第239回:主の洗礼の主日A

 1767974148416新しい年の最初の週刊大司教です。主の洗礼の主日となります。

 2026年も「週刊大司教」の配信は、定期的に継続していく予定です。どうぞよろしくお願いします。

 以前にも記しましたが、毎週の配信は千人を超える方に見ていただき、時には二千人を超えることもあります。話している私にも、製作している教区広報担当にとっても、多くの方が視聴してくださっていることは継続する力の源となっています。ありがとうございます。心から感謝申し上げます。皆さまの主日に向けての祈りの一助になっているのであれば、幸いです。

 また、「週刊大司教」や、このブログ「司教の日記」をご存じない方も多くおられると思いますので、ご覧いただいている皆さまには、お知り合いの方に紹介などしていただけると幸いです。

 以下、10日午後6時配信、週刊大司教第239回、主の洗礼の主日のメッセージです。

【主の洗礼の主日A 2026年01月11日】

新しい年の初めにあたり、皆さまにお喜びを申し上げます。

教皇フランシスコによって始められた25年に一度の聖年は、1月6日に聖ペトロ大聖堂の聖年の扉が教皇レオ14世によって閉じられ、終わりを迎えました。このたびの聖年は、聖年としての行事と共に、教皇フランシスコの帰天とレオ14世の選出という出来事が重なり、様々な意味で特別な年でありました。

その聖なる一年は終わりを迎えましたが、教皇フランシスコによって選ばれた「希望の巡礼者」というテーマは、教皇レオ14世に引き継がれ、これからも教会を導き重要なテーマとして私たちに与えられています。私たちは、これからも、この混迷し暗闇に沈む社会の中で、希望を証しする巡礼者であり続けたいと思います。

マタイの福音は、イエスがガリラヤからヨルダン川のヨハネの所へ出向き、洗礼を受けた様を記しています。神の子羊が洗礼を受けに来たことに驚き、躊躇する洗礼者ヨハネに対して、イエスは「正しいことをすべて行うのは、私たちにふさわしいことです」と述べています。

もちろん「正しいこと」とは、神の目において「正しいこと」、つまり神の定めた秩序の実現のために欠かすことのできない選択のことであります。そして、ヨハネが躊躇するのは、自分がそのような尊大な行動は選択できないという人間のごく当然の価値判断に依っているからです。つまり神の計画の実現には、人間の価値観を遙かに超える神の意志に従った行動を選択することが不可欠であることを、イエスご自身の行動が示しています。

「罪の赦しを得させるために悔い改め」の水による洗礼を受けることは、そもそも罪の汚れのない神であるイエスには必要のないことですが、カテキズムによれば、「その洗礼は神の苦しむ僕としての使命の受諾」であり(カテキズム536項)、罪人である人類に神ご自身が加わることで、水を通じて私たちにその贖いの業に与る道が開かれました。水による洗礼はイエスの公生活の始まりを告げています。

希望の巡礼者として、混迷する世界の暗闇の中で希望を証しすることは、それほどたやすいことではありません。神の平和を説き、人間の尊厳を護り、神の賜物である命を守ることを主張することは、必ずしも現実社会の選択と轍を同じくする主張とは限りません。時に、福音に基づいて発言し行動することは、夢物語に生きている非現実的な主張と見なされることも少なくありません。

それでも私たちは、「正しいことをすべて行うのは、私たちにふさわしいこと」という主御自身の言葉に励まされ、福音のメッセージを証しする巡礼者であり続けたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

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2026年1月10日