・「神の慈しみの心の思いを身に受け、行動で示そう」-菊地・東京大司教の年間第15主日メッセージ

2025年7月12日 (土)週刊大司教第216回:年間第15主日C

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 暑い毎日が続いています。7月13日の主日は年間第15主日です。(写真は、教皇様が夏休みのため滞在されるカステル・ガンドルフォ遠景)

 私は、予定通りであれば13日は岩手県宮古市のカトリック宮古教会で、主日のミサを捧げます。宮古市は私の生まれ故郷であり、洗礼を受けたのがカトリック宮古教会で、当時宮古をはじめ岩手県を担当していた宣教師(ベトレヘム外国宣教会)が、チューリヒあたりのドイツ語を話すスイス人であった関係で、当時まだドイツ人宣教師が多くいた神言修道会に入ることになりました。その意味で、今の私の信仰生活の基礎は宮古にありますので、特に、枢機卿にしていただいてまだ宮古を訪問していませんでしたので、宮古教会の皆さまへの感謝を込めてミサを捧げさせていただく予定です。

 以下、本日午後6時配信、年間第15主日のメッセージ原稿です。

【年間第15主日C 2025年7月13日】

 ルカ福音書は、よく知られた「善きサマリア人」の話を伝えています。

 教皇レオ14世は、5月28日の一般謁見で、このたとえ話を取り上げ、こう述べておられます。

 「人生は出会いによって作られます。そして、この出会いの中で、私たちの真の姿が現れます。私たちは他者の前に立ち、他者の脆さや弱さを目にします。そして、なすべきことを決断することができます。すなわち、その人の世話をするか、何事もなかったかのようなふりをするかです」

 その上で教皇様は、「憐みは具体的な行動によって示されます… サマリア人は、近づきます。なぜなら、誰かを助けたいと思うなら、距離を保とうとは考えません。あなたは関わり、汚れ、もしかすると泥まみれにならねばならないかもしれません。サマリア人は、傷口を油とぶどう酒できれいにしてから包帯をしました。その人を自分のロバに乗せました。つまり、重荷を負いました。なぜなら、真に人を助けたいなら、人の苦しみの重みを進んで感じねばならないからです。サマリア人はその人を宿に連れて行き… 追加の料金が必要なら、さらに支払うことを約束しました。なぜなら、他者は、配達すべき荷物ではなく、ケアすべき人だからです」と述べ、「イエスが立ち止まって、私たちの世話をしてくださったすべての時を思い起こすなら、私たちは一層、憐み深くなることができる」と呼びかけておられます。

 律法の専門家のイエスに対する問いかけは、例えば、労働の対価としてそれに見合った報酬があるべきだ、というような意味合いです。しかし、神と私との関係では、「これだけすれば、これだけ報いがあるはずだ」という論理は通用しません。なぜなら、「神を信じる」とは、神からの一方的な働きかけに身を任せることに他ならないからです。

 〝見事〟な答えをした律法の専門家に対して、イエスは、「よく知っているではないか。それではその神の望みを具体的に生きなさい」と告げます。しかし彼は自分の常識にこだわり、隣人の範囲を明確に定めようとします。

 「善きサマリア人」のたとえ話は、神が求められている慈しみの思いに心を動かされず、自分の殻の中で生きようと目を閉じる二人と、神の慈しみの心に動かされて目を見開き、困窮する隣人の存在を認め、慈しみに具体的に生きよう、としたサマリア人の対比を描いています。

 私たちが求められている憐み深い行動は、単に私たち自身の優しい性格によっているのではなく、神ご自身の思い、張り裂けんばかりに揺さぶられている神の憐みの心に、私たちが自分の心を合わせることによって促される行動です。

 神ご自身は、ただ〝傍観者〟として憐みの心を持って見ているのではなく、行動されました。自ら人となり、十字架での受難と死を通じて、ご自分の慈しみを、目に見える形で生きられました。

 私たち一人ひとりの日常生活での出会いを通じて、また教会の組織を通じて、神の慈しみの心の思いを身に受けて、具体化して参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2025年7月12日