2025年8月30日 (土)週刊大司教第222回:年間第22主日C
今年は八月の最後の日が日曜日となりました。年間第22主日です。
9月1日にの月曜日に始まって、アシジの聖フランシスコの祝日である10月4日まで、日本の教会は「すべての命を守る月間」と定めています。これは2019年に、「すべての命を守るため」をテーマと掲げて教皇フランシスコが日本を訪問されたことを記念し、記憶するために、日本の教会が定めました。
また世界の教会は、エキュメニカルなコンテキストの中で、この同じ期間を「被造物の季節」と定めています。今年は特に、2015年に教皇フランシスコが環境回勅「ラウダート・シ」を発表されてから10年ですので、節目を祝うイベントが多く予定されています。
日本の司教協議会では、「ラウダート・シ部門」を設けており、担当者である成井司教様から、メッセージが出ています。こちらのリンク先をご覧ください。また教皇レオ14世の被造物を大切にする世界祈願日にあたってのメッセージ、「平和と希望の種」は、こちらのリンクです。
またラウダート・シ部門では、10月4日にシンポジウムを福岡で開くことになっており、こちらのリンクに詳細がありますが、オンラインでも参加いただけることになっています。
先日米国はミネソタ州ミネアポリスのカトリック教会で、学校の子どもたちが集まりミサを下げている場で銃による襲撃が起こり、二人の子どもが殺害されるという事件がありました。銃撃犯もその場で自死したと伝えられています。犯行の背景や具体的な動機など詳細には分からないことも多いので、予断を持って語ることは避けたいとは思います。しかし、命に対するこのような暴力的攻撃は赦されてはなりません。
亡くなられた子どもたちの永遠の安息と、怪我をされた子どもたちの身体と心の癒やしを祈るとともに、改めて、神からの賜物である命に対する暴力は、どのような理由であれ、許されないことを心に留めたいと思います。
とりわけ、「すべての命を守る月間」に入ろうとしている今、それは単に環境保全活動を推奨しているのではなく、回心を求めていることを心に留め、神が愛を込めて創造されたすべての被造物の中でも特にご自分の似姿として創造され与えられた私たちの命を、徹底的に守り抜く決意を固めたいと思います。
9月3日には聖座とイタリアのルッカ大司教区の主催する大阪万博でのシンポジウムがあり、日本の司教団も招待されています。その機会を捉えて、シノドス特別チームでは、翌日に大阪で、司教団と教区のシノドス担当者を集め、”シノドスの道”のこれからの歩みについて学ぶ研修会を開きます。
先の世界代表司教会議第16回通常総会(シノドス)の総書記であったオロリッシュ枢機卿様もこのシンポジウムのために来日されることから、今回の研修会ではオロリッシュ枢機卿様に日本語で講演をしていただきます。シノドスの中心におられた方で、日本語で話ができるのはオロリッシュ枢機卿様だけですから、この機会を逃さず、いろいろと学び実践し、それを各教区での”シノドスの道”のこれからの歩みにつなげていきたいと思います。
以下、本日午後6時配信、週刊大司教第222回、年間第22主日のメッセージです。
【年間第22主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年8月31日】
ルカ福音は、イエスがファリサイ派のある議員の家で食事に招かれたときの話を記しています。集まってきた人たちが、多分は、「われ先に」と名誉ある良い席に着こうとする姿を見て、イエスが「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない」と語ったことを福音は記します。
人間関係においては謙遜さが重要だとするこの話は、それだけで終わっていたら、単にマナーを教える話にとどまってしまいます。しかしこのあとにルカ福音は、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と記し、ここでいう謙遜さはマナーではなく、人としての生き方の選択の話であることを明確にします。
すなわち、「神の国に招かれる」というのは、「何かを成し遂げたことに対するご褒美」なのではなく、「どのような生き方を選択したかに基づく、神からの恵み」であります。謙遜に生きることを選択した時、初めて神からの恵みとして、「さあ、もっと上席に進んでください」という招きがあるのです。何を成し遂げたかではなく、どう生きることを選択したのか。それが神の目には重要です。
その選択にあっては、賜物として与えられたすべての命を神が愛おしく思われているからこそ、「誰一人として忘れ去られることはない」という道を最優先にしなければならないことが、その続きの話によって示唆されます。天の国で豊かに報いを受けるためには、この社会の現実の中で、余すことなく自分自身を与え、互いのきずな、交わり、兄弟愛を深め、報いを期待せずに困難にある隣人に目を向けることが不可欠である、と指摘されます。
高慢さの中にあって、困難に直面する隣人への視点を失ったところには命がないと、イエスは指摘されています。
現代社会の現実は、排除と排斥に軸足を置き、持てる者と持たない者との格差が広がり続け、持たない者はその存在さえ忘れ去られたと、教皇フランシスコは、たびたび指摘してこられました。
教皇レオ14世は、先日の聖年の行事の一つ、青年の祝祭での晩の祈りで、青年たちにこう語りかけました。
「選択は、人間の根本的な行為です。・・・私たちが選択を行うとき、私たちはどのような者になりたいかを決断します。実際、優れた意味での選択とは、自分の人生に対する決断です。私はどのような人間になりたいのか。親愛なる若者の皆様。私たちは人生の試練を通して、そして、何よりもまず自分が選ばれたことを思い起こすことによって、選択することを学びます… 私たちは命を、自分で選ぶことなく、無償で与えられました。私たちの存在の起源にあるのは、自分の決断ではなく、私たちを望んだ愛です。私たちが行うように招かれた選択において、この恵みを認め、新たにすることを、私たちの存在を通して助けてくれる人こそが、真の友です」
私たちの謙遜さは、社会の人間関係にあってのマナーではなく、「神からまず愛されたのだ」という事実を認めることによる、神の前での謙遜さです。そのとき、同じく愛されたものとして、特に困難に直面する隣人への目が開かれます。危機に直面する命に対して、目が開かれます。私たちは同じ命を与えられました。そのいのちが、神が求めた人生を豊かに充実して歩み、常に愛に満たされる社会を生み出していく努力を続けたいと思います。
(編集「カトリック・あい」=「命」は、「天を仰ぎ、ありがたくいただくもの」と言う意味の象形文字で、立派な日本語です。新聞など一般社会でも「命」が広く使われていますが、”教会用語”の、ひらがなの「いのち」では、この意味は伝わりません。「カトリック・あい」では、この表記に統一させていただいています。)
