主の御降誕、おめでとうございます。
今年は、雪の中でのクリスマスを迎えておられる地域も多いのではないでしょうか。東京は晴れていますが、風がとても冷たいクリスマスとなりました。
東京カテドラル聖マリア大聖堂では、主の降誕夜半のミサとして午後5時、7時、9時の三回のミサが捧げられ、私は9時のミサを司式させていただきました。
例年ですと、大勢の方で聖堂は一杯になります。今年はなんとか定員近い人が入れるように、感染対策を緩和しましたが、それでもまだまだ以前とは異なります。それでも大勢の方に参加していただいて感謝いたします。
25日は日中のミサ、東京カテドラル聖マリア大聖堂は午前8時と10時で、私は10時のミサを司式いたします。今夜のミサと明日のミサとも、関口教会のYoutubeチャンネルでご覧いただくことができます。
以下、24日午後9時の主の降誕夜半のミサの説教の原稿です。
【主の降誕(夜半ミサ)2022年12月24日午後9時 東京カテドラル聖マリア大聖堂】
皆様、主の降誕、おめでとうございます。
栄光の輝きの中で誕生した小さな命は、暗闇を打ち破り、喜びと希望を生み出す源である、神ご自身でした。栄光に輝く神は、ご自分が賜物として人類に与えた命が、どれほど尊いものであるのかを証しするために、自らがその命を生きるものとなられました。神が望まれる平和の支配は、命を守ることによってのみ成し遂げられることを、神の受肉の神秘は私たちに示しています。私たちの間に来られ、私たちと共にいてくださる神は、「平和の君」であります。
今年の11月の第6回「貧しい人のための世界祈願日」に発表された教皇フランシスコのメッセージには、「愚かな戦争が、どれほど多くの貧しい人を生み出していることでしょう。
どこを見ても、いかに暴力が、無防備な人やいちばん弱い人にとって打撃となるかが分かります。数えられないほどの人が、とりわけ子どもたちが、根ざしている地から引きはがして別のアイデンティティを押しつけるために追いやられています」と、今の世界の有り様を悲しむ言葉が記されています。
この3年間、私たちは感染症と対峙する中で、生命の危機の暗闇を生き抜いてきました。まだ多少の不安は残されているものの、2020年の初め頃に比べれば、どのように行動するべきなのか経験を積み重ね、専門家の知見も深まっています。いわゆる”パンデミック”による暗闇は、徐々に明けつつあります。
しかしその間に、今度は暴力を直接行使する命の危機が始まってしまいました。すでに2021年2月には、ミャンマーでクーデターが起こり、自由を求める多くの人への暴力的圧迫が今でも続いています。世界に様々な暴力的な出来事がある中で、しばしばミャンマーに触れるのは、東京のカトリック教会とミャンマーのカトリック教会が、長年の姉妹関係にあるからに他なりません。私たちは、命の危機に直面する兄弟姉妹を目前にして、沈黙しているわけにはいきません。
すでにそういう状況であったのに、今度は2022年2月に、ロシアという大国によるウクライナ侵攻が始まり、今でも戦争状態が続いています。平和的解決を求める声が国際社会に響き渡っているものの、今の時点でそれが実現する見込みはなく、それどころか欧州における戦火の拡大すら懸念されています。
先日、ウクライナの平和を願いながら祈りを捧げた教皇様は、祈っても呼びかけても平和が実現せず、多くの人が生命の危機に直面している現実を目の当たりにしながら、涙されました。
2000年前、自ら人となり私たちと共におられることを具体的に証しされた神ご自身も、まさしく同じ思いであったのだ、と思います。
旧約の歴史を通じて、預言者や様々な人の言葉と行いを通じて、神はご自分の平和を確立するために働きかけてこられた。にもかかわらず、人類はその呼びかけに耳を傾けず、私利私欲を追求し、暴力に明け暮れ、命を奪い合い、対立しあっている。その愚かさに業を煮やされた神は、ご自分が直接行動し、歴史に介入する道をお選びになりました。
教皇様は,先ほどの「貧しい人のための世界祈願日」のメッセージの中で、互いに助け合うことの重要さを説いた後でこう述べておられます。
「使徒パウロはキリスト者に愛のわざを強いているわけではないことです。・・・むしろ、彼らの貧しい人への配慮と気遣いに、その愛の『純粋さを確かめ』ようとしています。パウロが求めることの根底にあるのは、もちろん具体的な援助の要請ですが、しかしながら使徒の意図はそれ以上のものです… 貧しい人に寛大であることへの最大の動機づけは、ご自分を貧しくなさろうとした神の御子の選びにあるのです(6)」。
目の前で展開するあまりにも愚かな人類の行動が、尊い賜物である命を危機に陥れ、平和の確立を遠い夢物語にしている。その現実を目の当たりにしながら、神は、全てをあきらめてしまうのではなく、自ら行動して人類と共にいるという選択をされました。私たちが語る連帯の根本は、この神ご自身の選択にあります。私たちは、命を与えてくださった神ご自身が、そう選択され行動されたのだからこそ、それに倣って連帯のうちに支え合うのです。
業を煮やして私たちのもとに来られた神ご自身が、両親の助けがなければ生き抜くことができないであろう幼子の命のうちに宿られたからこそ、命の尊さを繰り返し強調するのです。
この3年間、大げさに聞こえるのかもしれませんが、私たちは「命の危機の暗闇」で生きてきました。暗闇に生きるものは,先行きが見えない不安から、なんとしてでも光を手にしようと、もがきます。不安の継続する時間が長くなればなるほど、少しでも光のようなものが目に入れば、中身を良く吟味することなく飛びついてしまう誘惑に駆られます。加えて、この暗闇の中で、今度は暴力的な戦争や事件が続いて起こり、その状態はさらに深まる様相を呈しています。ますます持って、私たちは命を守ろうとして、心は消極的になっていきます。
そのような心理状態の中で、いつしか、「暴力に対抗するためには暴力が必要だ」といざなう光を手にしたとしても,その光の存在に疑問を抱かなくなってしまいます。暴力を押さえ込むためには多少の暴力はかまわない。命を守るためには多少の犠牲はかまわない。
歴史の中で,私たちは同じような選択を繰り返してきたのでしょう。そのたびごとに、愚かな選択を重ねる私たち人類を目前にして、命を賜物として与えられた神ご自身も涙されたやもしれません。歴史は私たちに教えています。暴力の行き着く先は死です。暴力は命の与え主である神への挑戦です。
教会が今歩んでいるシノドスの道は、私たちに教会が現代社会のただ中にあって、どのような存在であるべきなのかを,改めて見つめ直すように,私たちを招いています。
その中心になるのは「連帯すること」です。連帯するためには、互いの声に耳を傾け合う姿勢が必要であり、互いの存在への思いやりの心が不可欠であり、それは全て、お互いのうちに宿っている神からの賜物である命への尊敬に基礎づけられています。
私たちはこの暗闇の中で、繰り返し響き渡る悲嘆の声に耳を傾け、互いの命への尊重の内に思いやり、心を遣い、互いに助け合いながら、共にいてくださる主御自身が与えてくださる命の希望の光を、高く掲げるものでありましょう。
私たちの努めは、幼子として誕生した主イエスがもたらしてくださった神の栄光の光を受け継いで、それを一人でも多くの人の前で輝かせることであり、互いに連帯し助け合い支え合いながら、命を守り抜くことであります。