・「四十日の間、互いに支え合う心をもって、愛の業のうちに歩み続けよう」菊地・東京医大司教の四旬節第一主日

2026年2月21日 (土)週刊大司教第245回:四旬節第一主日A

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 四旬節の第一主日です。この日曜日あたりから、今年の復活祭に洗礼を予定している小教区では、洗礼志願者のための典礼が始められるところも少なくないと思います。洗礼の準備をしておられる皆様の上に、神様の導きと護りがあるようにお祈りいたします。

 司教総会は終了しました。みなさまのお祈りに感謝いたします。今回は、初日の月曜日に議事を取り上げず、祈りと黙想の日としました。ベテラン宣教師のお話を伺い(ご本人は遺言ですと言われていました)、グループで分かち合い、聖体の前で祈りを捧げる一時を過ごしました。総会について、中央協議会でいつものようにビデオをあげていますので、ご覧ください

以下本日午後6時配信、週刊大司教第245回、四旬節第一主日のメッセージです。

【四旬節第一主日A 2026年02月22日】

 神は、私たちの想像の産物ではありません。私たちこそが神によって命を与えられた者であり、だからこそ私たちが神はどのような存在なのかを決めつけることは不遜です。

 マタイ福音は主イエスが、その公生活を始めるにあたり、40日の試練を受けられた、と記しています。この試練の中で、イエスは三つの大きな誘惑を受けたと、福音に記されています。

 まず空腹を覚えた時に、「石をパンにせよ」との誘惑。それは人間の本能的な欲望や安楽・安定ににとどまることへの内向きな願望を表しています。その人生の中心にあるのは私であって、神ではありません。「神の子なら」という悪魔の言葉が、それを象徴します。

 自分を中心にものを考えてしまう私たちは、不遜にも、「神とは、こういう存在であるべきだ」と勝手に決めつけ、自らの願望を実現するために神を利用しようとします。イエスはそれに対して、人が生きることの中心には、自分の願望ではなく神の言葉があることを示されます。神の言葉に生きるのであれば、私たちの心は、自分ではなく、隣人へと向けられます。

 次に「神に挑戦せよ」との誘惑。それは自分こそがこの世界の支配者である、という謙遜さを欠いた思い上がりの欲望です。私たちは時として、「自分たちがこの世界の命運を握っている」という思い上がりに捕らわれ、神の被造物を好き勝手に浪費し、傷つけてきました。

 そして三つ目は「すべての権力と繁栄を手にすること」への誘惑。「この被造界の支配者は自分たち人間だ」という思い上がりです。

 これら三つの誘惑は、ちょうど教皇フランシスコが回勅「ラウダート・シ」に、「私たちが図々しくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことによって、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました(66)」と記されたことと、密接に繋がっています。

 教皇フランシスコは、人間の根本的な関わり、すなわち「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わりによって、人間の生が成り立っている」とされ、その上で、「命に関わるこの三つの関わりは、外面的にも私たちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です」と指摘されます。ちょうど最初の誘惑が「隣人との関わり」、二つ目の誘惑が「神との関わり」、三つ目の誘惑が「全被造界との関わり」です。この三つの誘惑は、私たちの現実の中に常にあり、私たちはその誘惑の中で、神と隣人と大地との関わりを断絶させ、罪を重ねています。

 四旬節は、私たちが信仰の原点を見つめ直し、慈しみに満ちあふれた御父の懐に、改めて抱かれようと心を委ねる、回心の時です。四旬節は、あふれんばかりの神の愛、すなわち、人類の罪を贖ってくださった主ご自身の愛の行動を思い起こし、それによって永遠の命へと招かれていることを心に刻み、その愛の中で生きる誓いを新たにする時、です。

 そのために教会の伝統は、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三点をもって、信仰を見つめ直すよう呼びかけています。また四旬節の献金は、教会共同体の愛の業の目に見える記しでもあります。この四十日の間、互いに支え合う心をもって、愛の業のうちに歩み続けましょう。

(編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2026年2月21日