キリストの聖体の主日です。
私たちの信仰生活の中心にあり、あらゆる意味で私たちを一致させる秘跡です。私たちはご聖体をいただくことで主イエスと一致し、また聖体における主御自身によって一つの共同体に招かれ、同じ主を信じることで一致しています。
キリストの聖体の主日と言えば、キリスト教国においては、神の民の一致を目に見える形で現し、主の現存に感謝し、主と一致することを心に誓い、愛と慈しみに満ちあふれた唯一の神を礼拝するために、大規模な聖体行列が行われます。主御自身であるご聖体が町の中を顕示され運ばれていく中で、その町に住む多くのキリスト者が表に出て、目に見える形で主を礼拝する姿は、信仰の証しとなります。
キリストの聖体の主日でいつも懐かしく思い出し、また繰り返し掲載してきたのは、左の写真です。わたしが20代後半から30代前半にかけて主任司祭をしていたガーナの教会の、聖体行列です。ご聖体を納めた顕示台は、教会の長老が頭に載せた木の船の中にあります。
この地域の部族のチーフが乗り運ばれる輿のミニチュアです(右下の写真がチーフを乗せた輿)。住民の半分以上がカトリック信徒であった村ですので、村の中に四カ所設けられた臨時の礼拝所には多くの人が集まり、行列中に一時的に安置されるご聖体を礼拝しました。写真の中で、ご聖体の前にいる侍者の一人はその後司祭となり、いま目黒教会の助任司祭をしています。
以下、本日午後6時配信、週刊大司教第169回、キリストの聖体の主日メッセージ原稿です。
【キリストの聖体の主日B 2024年6月2日】
主イエスは、最後の晩餐において聖体の秘跡を制定されました。主御自身は、その直後にご自分が捕らえられ十字架への道歩むことで、最愛の弟子たちとの別れが迫っていること、そしてその弟子たちがこれから起こる出来事のあまりの衝撃に打ちのめされ、恐れに囚われてしまうことをご存じでした。
まだまだ弟子たちに伝えたいことは多くあったことでしょう。その弟子たちへの思い、そして弟子たちを通じて私たちすべてへの思いを込めて、主はパンをとり、「私の体である」と述べ、また杯をとって「私の血である」と述べられました。
主の心持ちは、その次の言葉、すなわち、「私の記念としてこれを行いなさい」に込められています。「私の言葉を、私の行いを、決して忘れるな」という切々たるものであります。すべての思いを込めて、すべての愛を込めて、主は聖体の秘跡を制定され、愛する弟子たちに残して行かれました。
この主の思いは日々のミサにおいて繰り返され、私たちがミサに与り、聖体を拝領するごとに、あの晩、愛する弟子たちを交わりの宴へと招かれた主イエスの御心が、私たちの心を満たします。
教皇ヨハネパウロ二世は、「教会に命を与える聖体」に、こう記しておられます。
「教会は過越の神秘から生まれました。まさにそれゆえに、過越の神秘を目に見えるかたちで表す秘跡としての聖体は、教会生活の中心に位置づけられます。(3)」
その上で教皇は、「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です」(9)と記し、聖体が個人的な信心のためではなく、共同体の霊的な糧であることを明示します。
ご聖体は共同体の秘跡です。そもそもミサそれ自体が、共同体の祭儀です。聖体は一人で受けたとしても、共同体の交わりのうちに私たちはご聖体をいただきます。それは司祭が一人でミサを捧げても、個人の信心のためではなく、共同体の交わりのうちにミサを捧げるのと同じであります。ご聖体は、共同体の秘跡です。
教皇様は2025年の聖年のテーマを「希望の巡礼者」とされることを決定され、先日の「主の昇天の主日」に、聖年を布告する大勅書「Spes non confundit(希望は欺くことがありません)」を発表されました。
その中で教皇様は、教会共同体が時のしるしを読み取り、総合的な人間開発の視点から、人間の尊厳を貶めるような状況にある人たちに、命を生きる希望をもたらす共同体であることを求められています。そのために、「巡礼」というのは、単に個人の信心の問題なのではなく、共同体としてともに歩む中で、教会こそが社会にあって希望を生み出し、歩みの中で出会う人々に希望をもたらす存在となることが重要である、と指摘されています。
ともすれば聖年にしても、ご聖体にしても、個人の信心の視点から意味を探ろうとしてしまいますが、今、私たちに求められているのは、まさしくシノドス的な教会として、共に歩むことによって、主の現存を告げ知らせ、希望をもたらす教会となることです。
あの晩ご聖体の秘跡を制定された主は、どのような状況にあっても、いつも私たちと共に歩んでくださいます。
(編集「カトリック・あい」)