・「私たちが見つめねばならないのは、永遠の命の源である主ご自身」-菊地・東京大司教の四旬節第三主日メッセージ

2026年3月 7日 (土)週刊大司教第247回:四旬節第三主日A

 四旬節第三主日です。

 アジア司教協議会連盟(FABC)は、今週、3月3日朝から5日夕方まで、バンコクのカミロ会司牧センターで、年に一度の中央委員会を開催しました。中央委員会はアジアの各国地域の司教協議会会長と、香港・マカオ・ネパールなど司教協議会に属していないアソシエートメンバーの代表(現在は香港が代表)、そして各部局の責任司教と秘書も参加します。私は日本の司教協議会会長として、また現在二期目を務めているFABCの事務局長として、参加しました。

Messenger_creation_09644dc2ce834b6d9c5d4 現在の会長はインド、ゴア教区のフィッポネリ枢機卿、副会長はフィリピン、カローカン教区のダビド枢機卿で、実際にバンコクの事務局を切り盛りしているのは、メリノール会のウィリアム神父です。

 会場は、バンコクのスワンナプーム国際空港の近くにある、カミロ会が開設する児童のための福祉施設に隣接している司牧センターです。司牧センターには、貧しい人のための優先的関わりを再確認した教皇レオ14世のディレクシ・テのバナーが掲げられていました。

 中央委員会は年に一度集まり、四年ごとに行われる総会の決めた方向性に従って、各部局がどのような活動をしており何を企画しているのかを聞きながら、全体の活動などについて具体的な決定をしていきます。また現在、規約を現状に見合う形で改定する作業を続けていますし、また今年の7月にインドネシアで開催される総会の内容についても話し合いました。

 同時に、現在のイランをはじめとした中東での不安定な状況に鑑みて、平和を求める声明も採択しました。また昨年11月にマレーシアのペナンで行われたアジア宣教大会(GPH:希望の偉大なる巡礼)の報告書も出来上がり、そのプレゼンも行われました。(下の写真)

 アジアは中央アジア、南アジア、東南アジア、東アジアの四つの地域に分かれており、それぞれから、9ある部局に責任司教と委員司教、そして秘書を、まんべんなく選出し、アジア全体で福音宣教の課題に取り組んでいく司教たちのImg_20260304_103204955組織です。

 しかし、公用語である英語で責務を果たしていく必要から、どうしても英語を日常的に使う国の出身者が多く任命されることになっています。それでも日本を含めてアジア全体で、できる限り役割を分担して、一緒に取り組んでいくという、シノドス的なあり方が、再確認されました。

 また司教たちの組織ですので、男性ばかりになりがちですが、女性信徒の神学者もアジアには大勢いることから、様々な分野で、今後も女性信徒や奉献生活者の関わりを増やしていくことも確認されました。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第247回、四旬節第3主日のメッセージです。

【四旬節第三主日A 2026年3月8日】

 教会とは、どういうところでしょう。教会とは正しい人だけの集まりではありません。教会は回心を必要とする罪人の集まりです。慈しみ深い御父は、ご自分が創造されたすべての命を、永遠の命における救いへと招こうとされています。

 教会は御父のその招きが具体化し、全うされるようにと、すべての人を招き入れる存在であるはずです。回心を成し遂げた人だけを迎え入れるので把握、まずすべての命を招き入れ、共同体の中で共に祈り、共に耳を傾け合い、聖霊の声に導かれながら、共に回心の道を歩まなくてはなりません。

 シノドス(共働)的な教会は、特定の人だけの共同体ではなく、すべての人を招き入れる神の民です。すべての人が、回心へと招かれています。罪における弱さの内にある私たちに、教会は常に回心を呼びかけています。

 ヨハネによる福音は、のどの渇きを癒す、この地上の水について話すサマリアの女に対して、自らの存在がもたらす永遠の命について語るイエスの言葉を記しています。

 イエスはサマリアの女に対して、「私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われ、この世における乾きの癒やしではなく、本当に大切なもの、すなわち永遠の命へと目を向けるように促します。水の定義について語るのではなく、目の前に存在する永遠の命の源である御自分に目を向けるようにと、促します。

 私たちは、どこに目を向けているでしょうか。神に向かってまっすぐと歩むために、見つめなくてはならないのは、永遠の命の源である主ご自身です。主ご自身との具体的な出会いが、サマリアの女を救いへと招きました。主との出会いは、回心への招きです。

 今年の教皇様の四旬節メッセージ、「耳を傾け、断食する」には、「回心は、一人ひとりの良心に関わるだけでなく、人間関係のあり方、対話の質、現実からも問い直され、教会共同体においても正義と和解に飢え渇く人類においても真の欲求を方向づけるもの、それを見い出す能力にも関わります」と記されています。私たちの回心は、自分とは異なる存在と歩みを共にし、困難の直面する人に手を差し伸べ、罪を悔いる人を命の希望を見いだす回心へと招くものであるはずです。

 福音は、「私たちが信じるのは、もう、あなたが話してくれたからではない。私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」というサマリア人たちの言葉を記しています。主との出会いを通じて強められる私たちの関係は、さらに、それを多くの人へと伝える業へと私たちを招きます。回心は宣教への招きでもあります。私たちの証しを通じて回心へと招かれた人は、さらに自分自身の回心における主との出会いを通じて、さらなる福音宣教者へと変えられていきます。

 私たち一人ひとりへの回心への招きは、神の民に対する福音宣教者となる招きでもあります。

(編集「カトリック・あい」)

2026年3月7日

・「静かに、語りかける神の言葉に耳を傾けよう」菊地・東京大司教の四旬節第二主日メッセージ

2026年2月28日 (土) 週間大司教教第246回:四旬節第二主日A

 2月24日と25日の二日間、福岡教区の大名町教会を会場に、全国各教区のシノドス担当者に集まっていただき、司教団のシノドス特別チームによる研修会を開催しました。全国から50名を超える教区担当者が参加し、司教団からも7名の司教が参加しました。

2026synodws04 ご存じのように、シノドス的な教会になる道はまだ途上であり、現在は、2028年の教会総会(エクレジアル・アッセンブリー)を目指して、2026年一杯の各共同体における具体的な実施ステージ(期間)に入っています。何をするべきなのかは、実は目に見える形での機構改革なのではなく、意識改革というのか、教会の体質改善の基礎作りです。そのために聖霊が今、教会に求めている取り組みを、まず、様々な共同体で識別することが不可欠です。そのための手段として有効なのが、霊における会話です。

 特別チームでは今回の研修会の結果を元にして、復活祭までには手引き書を発行しますので、様々なところで、教区担当者の指示に従いながら、識別の取り組みを行っていただきながら、シノドス的な教会の基礎を築きあげていただければと思います。

 以下、28日午後6時配信、週刊大司教第246回、四旬節第二主日のメッセージです。なお、今回のメッセージの後半で触れている教皇レオ14世の言葉に関連して、見えない形での迫害について、インタビューを受けた記事がCruxというサイトに、英語ですが掲載されています。ご参考までに。

【四旬節第二主日A 2026年3月1日】

 イエスの変容の物語は、非常に興味深い人間の心の弱点をわたしたちに教えます。福音は、ペトロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れたイエスが、高い山の上で姿が変わり、光り輝く驚きの光景が展開したことを伝えています。さらにはモーセとエリヤまで登場しますから、その光景に弟子たちが圧倒されないはずがありません。ペトロは、その興奮のうちにとどまりたいと願い、仮小屋を建てること提案します。

 しかし御父は、神の存在はそのような光り輝く華々しいところにあるのではなく、「これに聞け」ということばを持って、静けさのうちにたたずむイエスにこそ、神の栄光があり、神の意志が示されるのだと明示します。

 私たちはすぐに興奮する世界に、いま住んでいます。わたしたちは自分たちの人生における経験からよく知っていますが、わたしたちは興奮すればするほど、客観性を失い、冷静な判断力を失います。同時に、興奮は長続きせず、すぐに興味を失い、次の興奮の材料を探し求めるようになります。

 今、私たちは、インターネットやスマホなどの発達によって、あっという間に情報を手にすることができるようになりました。興奮する材料は、毎日のように山のように提供されてきます。そしてあちらこちらで、客観性を失い、興奮のうちに、とんでもない判断を積み重ねてしまっています。そしてその興奮の対象は、次から次へと移り変わっていき、忘れられて置き去りにされてしまう人の悲しみだけがの山積みとなっていきます。

 一時的な興奮のうちには、神の真理はありません。神からの賜物である命の尊厳は、そういった一時的興奮の嵐の中で翻弄され、ないがしろにされ、時に暴力的に奪われていきます。神の愛の賜物である命が失われるという悲劇も、興奮のるつぼの前ではすぐに忘れ去られ、残されるのは絶望と悲しみです。

 私たちは、心を落ち着けて神の言葉に耳を傾けたいと思います。時に信仰の世界においても、一時的な興奮状態の中に神の真理が表されるかのような錯覚に陥ることがあります。神の真理は、静かにたたずまれる神の言葉、主イエスのうちにあります。

 貧しい人々への優先的な教会のかかわりを説く教皇レオ14世の使徒的勧告「わたしはあなたを愛している」において教皇は、「多くの場合キリスト信者も、世俗的なイデオロギーや、不当な一般化や誤った結論へと導く政治的・経済的アプローチの影響を受けることがあります。愛の業の実践が、一部の人の強迫観念と見なされ、教会の使命の熱い中心と見なされずに、軽蔑と嘲笑の的となることがあります」と記し、そのような興奮する世界の風潮に左右されないために、「福音をこの世の考え方に置き換える危険に陥らないために、福音を絶えず読み直さなければならない」と記しています。

 興奮の嵐に取り込まれ翻弄されることなく、静かに、語りかける神の言葉に耳を傾けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2026年2月28日

・3月6日「性虐待被害者のための祈りと償いの日」へ菊地・東京大司教がメッセージ

2026年「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたって

 東京教区の皆さま

 日本の司教団は2016年12月14日にメッセージを発表し、教皇フランシスコの意向に沿って、日本における「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を、四旬節・第二金曜日と定めました。2026年にあっては、3月6日(金)がこの「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたります。当日、またはその直後の主日に、この意向を持ってミサを捧げ、東京教区の教会共同体全体として、神からの賜物である命を守り、人間の尊厳を尊重する決意を新たにいたしましょう。

 シノドスの道を共に歩んでいる教会は、命の福音を宣べ伝える神の民として、それぞれが命を守る責務を負っている、という自覚を新たにし、社会の中で自らの存在と、言葉と行いを通じた証しによって、率先して命の大切さを説き、目に見える形で命の尊厳を高める道を歩む共同体とならなくてはなりません。

 世界には戦争や紛争という暴力、また貧困や不正義に起因する暴力によって、危機に直面する命が多く存在し、日本の社会にあっても、誰からも顧みられることなく、忘れられたり、孤独のうちに孤立し、危機に直面する命など、人類の構造的罪に起因する命の危機が数多く存在しています。その中にあって、性的な暴力は、人間の尊厳をないがしろにする、命に対する直接の暴力であり、キリスト者が生きる道ではありません。

 そうであるにもかかわらず、教会共同体においても、性的な暴力やハラスメント行為が実在しています。性的な暴力やハラスメントは、教会共同体全体として、1人ひとりが責任を自覚しながら撲滅していかなくてはなりません。性的な暴力やハラスメント行為は、神が与えてくださった賜物である命への暴力です。

 残念なことに、教会の指導的立場にいる聖職者や霊的指導者が、自らの使命を放棄したかのように、性的な暴力を働いたり、ハラスメント行為によって人間の尊厳をないがしろにした事例が実在します。とりわけ性虐待という人間の尊厳を辱め、蹂躙し、被害者の方々に長期にわたる深い苦しみを生み出した聖職者や霊的指導者が存在することを、大変申し訳なく思います。

 東京教区にあっては対応するための委員会を設け、被害の申告があった場合の聞き取りや必要に応じて第三者の調査を行い、教区司教に対して必要な対応をとるように勧告する、というシステムを長年設けています。このシステムによって、司教による事例の隠蔽を防ぎ、教区全体として被害を受けられた方への可能な限りの対応にあたることにしています。

 しかし、教会内部の歴史に基づく制度上の限界はまだ、克服されておらず、現時点では、東京教区で働く修道会会員にあっては、その修道会上長が、東京教区司祭にあっては、教区司教が対応することになっています。一般の方の立場からすれば、一つの教会の中に複数の対応責任者が存在しているような状況であり、ふさわしい対応を妨げる要因だ、とのご批判をいただいているところです。この教会の制度上の課題も克服できるよう、この数年来、日本の司教団は教皇庁の未成年者・弱者保護委員会と協力しながら、教区や修道会の連携や情報共有の枠組み整備を進め、対応のガイドラインの改定にも取り組んでいます。

 修道会の責任者の皆さんには、自らの責務を忠実に果たし、特に被害者の声に耳を傾け、共に歩む姿勢であることを求めると同時に、教区司教である私も、自らに課せられている責任を誠実に果たしていく決意を新たにいたします。

 神からの賜物である命に対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにした私たち教会の罪を心から謝罪いたします。神の慈しみの手による癒やしによって被害を受けられた方々が包まれますように、心から祈ります。同時に、私たち東京教区で働く聖職者や霊的指導者のためにもお祈りくださるように、お願いいたします。

2026年2月21日 カトリック東京大司教区 大司教 枢機卿 菊地功

(編集「カトリック・あい」南條俊二=ひらがな表記は、原則として当用漢字表記に読みやすく、また言葉本来の意味を分かるように直してあります。例えば、「命」は「天を仰いで感謝していただく」という象形文字が元になっているのです。)

2026年2月23日

・「四十日の間、互いに支え合う心をもって、愛の業のうちに歩み続けよう」菊地・東京医大司教の四旬節第一主日

2026年2月21日 (土)週刊大司教第245回:四旬節第一主日A

20170913_093451

 四旬節の第一主日です。この日曜日あたりから、今年の復活祭に洗礼を予定している小教区では、洗礼志願者のための典礼が始められるところも少なくないと思います。洗礼の準備をしておられる皆様の上に、神様の導きと護りがあるようにお祈りいたします。

 司教総会は終了しました。みなさまのお祈りに感謝いたします。今回は、初日の月曜日に議事を取り上げず、祈りと黙想の日としました。ベテラン宣教師のお話を伺い(ご本人は遺言ですと言われていました)、グループで分かち合い、聖体の前で祈りを捧げる一時を過ごしました。総会について、中央協議会でいつものようにビデオをあげていますので、ご覧ください

以下本日午後6時配信、週刊大司教第245回、四旬節第一主日のメッセージです。

【四旬節第一主日A 2026年02月22日】

 神は、私たちの想像の産物ではありません。私たちこそが神によって命を与えられた者であり、だからこそ私たちが神はどのような存在なのかを決めつけることは不遜です。

 マタイ福音は主イエスが、その公生活を始めるにあたり、40日の試練を受けられた、と記しています。この試練の中で、イエスは三つの大きな誘惑を受けたと、福音に記されています。

 まず空腹を覚えた時に、「石をパンにせよ」との誘惑。それは人間の本能的な欲望や安楽・安定ににとどまることへの内向きな願望を表しています。その人生の中心にあるのは私であって、神ではありません。「神の子なら」という悪魔の言葉が、それを象徴します。

 自分を中心にものを考えてしまう私たちは、不遜にも、「神とは、こういう存在であるべきだ」と勝手に決めつけ、自らの願望を実現するために神を利用しようとします。イエスはそれに対して、人が生きることの中心には、自分の願望ではなく神の言葉があることを示されます。神の言葉に生きるのであれば、私たちの心は、自分ではなく、隣人へと向けられます。

 次に「神に挑戦せよ」との誘惑。それは自分こそがこの世界の支配者である、という謙遜さを欠いた思い上がりの欲望です。私たちは時として、「自分たちがこの世界の命運を握っている」という思い上がりに捕らわれ、神の被造物を好き勝手に浪費し、傷つけてきました。

 そして三つ目は「すべての権力と繁栄を手にすること」への誘惑。「この被造界の支配者は自分たち人間だ」という思い上がりです。

 これら三つの誘惑は、ちょうど教皇フランシスコが回勅「ラウダート・シ」に、「私たちが図々しくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことによって、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました(66)」と記されたことと、密接に繋がっています。

 教皇フランシスコは、人間の根本的な関わり、すなわち「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わりによって、人間の生が成り立っている」とされ、その上で、「命に関わるこの三つの関わりは、外面的にも私たちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です」と指摘されます。ちょうど最初の誘惑が「隣人との関わり」、二つ目の誘惑が「神との関わり」、三つ目の誘惑が「全被造界との関わり」です。この三つの誘惑は、私たちの現実の中に常にあり、私たちはその誘惑の中で、神と隣人と大地との関わりを断絶させ、罪を重ねています。

 四旬節は、私たちが信仰の原点を見つめ直し、慈しみに満ちあふれた御父の懐に、改めて抱かれようと心を委ねる、回心の時です。四旬節は、あふれんばかりの神の愛、すなわち、人類の罪を贖ってくださった主ご自身の愛の行動を思い起こし、それによって永遠の命へと招かれていることを心に刻み、その愛の中で生きる誓いを新たにする時、です。

 そのために教会の伝統は、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三点をもって、信仰を見つめ直すよう呼びかけています。また四旬節の献金は、教会共同体の愛の業の目に見える記しでもあります。この四十日の間、互いに支え合う心をもって、愛の業のうちに歩み続けましょう。

(編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年2月21日

・「信仰の原点に、最初の約束に立ち返ろう」ー四旬節の始まりにあたって、菊地・東京大司教メッセージ

四旬節の始まりにあたって  菊地・東京大司教  2026年2月18日

 2月18日は灰の水曜日です。四旬節が始まりました。今年は復活の主日が、4月5日と、新年度の始まりとほぼ同じになりました。

 毎年この時期に繰り返す四旬節は、何かを決意しても、すぐ忘れてしまう私たちに、約束したことを思い起こすチャンスを与えています。

 大切な人と何か約束をして、それをすっぽかした時、その後に、関係を修復するのにどれだけの努力が必要か、私たちは人生の中で少なからず経験しています。しかし神さまとの関係では違います。私たちに命を与えてくださった神さまは、その命が十全に生きられ、神さまの似姿としての尊厳が、十分に保たれるような世界を求めて待っておられます。実現のために尽くすことなく、裏切り続けている私たちとの関係を断ち切ることなく、待ち続けているのです。神さまは待っておられます。

 私たちは、神の子供として歩むことを決意し、イエスの告げた福音を心に受け入れ、洗礼の恵みを受けた時、イエスの福音がこの世界で実現するように生きることを誓いました。幼児洗礼の方は記憶にないかもしれません。成人洗礼の方は記憶していますか。洗礼式の時、司祭は、たとえば、こう尋ねました。

「あなたは悪霊と、その働きといざないを退けますか?」

 どう答えたでしょう?「うーんどうでしょう」とか「そうなってみないと分からないですね」とは言いませんでした。私たちは「退けます」と応えました。果たして私たちは、今、どうでしょうか。

 イエスが、40日の試練を受けられた時、悪霊に導かれて三つの大きな誘惑を受けられました。それを見ると悪霊の働きと誘いとは、私たちの普段の生き方と無関係ではないことが分かります。

 まず、「石をパンにせよ」との誘惑。それは人間の本能的な欲望や安楽・安定ににとどまることへの内向きな私の願望で、神の願いではありません。私たちは、「神とは、こういう存在であるべきだ」と勝手に決めつけて、自らの願望を実現するために神を利用しようとします。

 次に「神に挑戦せよ」との誘惑。それは自分こそがこの世界の支配者である、という謙遜さを欠いた思い上がりの欲望です。

 そして三つ目は「すべての権力と繁栄を手にすること」への誘惑。この被造界の支配者は自分たち人間であるという思い上がりの欲望です。

 このように考えてみると、私たちは、日頃から悪の誘惑に負けてばかりではないでしょうか。この世界で権勢を誇っているものは、いつの日かすべて灰に帰って行きます。その事実を象徴するのは、。四旬節の始まりを告げる灰の水曜日です。

 教会の伝統は、四旬節を過ごすにあたって「祈り」と「節制」と「愛の業」という三つの行動を常に心に留めながら、信仰を見つめ直す旅路を歩むようにと勧めています。とりわけ愛の業について教会は、四旬節の間に助けを必要としている隣人、中でも多くの人からその存在を忘れられているような方々に心を向け、特別な献金をするようにも呼びかけています。

 この四旬節の間、信仰の原点に立ち返りましょう。最初の約束に立ち返りましょう。そして今年の復活節に洗礼を受けるために最後の準備に入っておられる方々と、歩みを共にし、共に神に対する誓いを新たにいたしましょう。

 (編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年2月18日

・「四旬節は、私たちの信仰の原点を見つめ直す時」菊地・東京大司教の年間第六主日メッセージ

2026年2月14日 (土) 週刊大司教第244回:年間第六主日A

1770885638691

 年間第六主日です。今週の水曜日は灰の水曜日となり、四旬節が始まります。

 また2月16日の月曜日午後から金曜日にかけて、司教総会が行われます。一年に二回、全国の司教たちが集まる会議です。司教たちの上に、聖霊の導きがあるように、お祈りいただけたら幸いです。

 以下、14日午後6時配信、週刊大司教第244回、年間第六主日のメッセージです。

【年間第六主日A 2026年02月15】

 私たちの生きている社会には、様々な規則が存在します。国の法律や団体の規則などなど、組織体を運営していくためには、規則が不可欠ですが、同時に、その時々の状況に対応するために生み出される規則も、多くあります。

 その背景にある事情が知られているうちはいいのですが、時間の経過とともに、その規則が作られた背景が忘れられ、字面だけが一人歩きを始めることもあります。時に、どうしてそのような規則による制約が存在するのかさえ、分からなくなったまま、規則だけが一人歩きすることすらあり得ます。

 マタイ福音は、イエスご自身の存在と律法や預言者、すなわち旧約聖書との関係を語ります。イエスは旧約の掟や預言と無関係ではなく、イエスがもたらす神の国は旧約に記されていることを完成する、と述べていますが、それは規則を厳格に守ることが重要だ、と説くためではありません。

 律法は、「殺すな」と定めていますがイエスは、その定めの根本にまで立ち入ります。「腹を立てるものは誰でも裁きを受ける」と指摘します。すなわち、イエスはそもそも掟の根本にあるはずの、私たちはどう生きるかという、人間として生きる姿勢を問いかけます。

 つまり掟は、どこまでならば赦されるかを定めるための枠組み基準ではなく、人間はどう生きるかを生み出す基礎となるべきものです。ですから、イエスは他の箇所で、掟を全て守っている、と豪語したあの誠実な金持ちの青年に対して、問われるのはどう生きるのかなのだ、と諭されたのです。

 今週の水曜日は灰の水曜日となり、四旬節が始まります。四旬節は、私たちの信仰の原点を見つめ直すための時です。私たちが心を改め、慈しみに満ちあふれた御父の懐に再び抱かれようと心を委ねる「回心」の時です。

 御父は、「しばしば道を踏み外し、時として背を向けて御父の目前から立ち去ろうとする私たち」を見捨てず、忍耐強く待ってくださる方です。なぜならば御父は、私たちに賜物として命を与え、一人ひとりの命を全て愛しておられるからに他なりません。

 自由意志を与えられた私たち人類の度重なる裏切りにもかかわらず、私たちは神からの恵みと賜物に豊かに満たされ続けています。四旬節は、このあふれんばかりの神の愛、すなわち、人類の罪をあがなってくださった主ご自身の愛の行動を思い起こし、それによって私たちが永遠の命へと招かれていることを心に刻み、その愛の中で生きる誓いを新たにする時です。

 四旬節は、神の掟を書いてある通りに守ることを決意する時ではなく、その掟の背後に控えている神の思いを、神の愛を、心に感じながら、聖霊を通じた神の導きに身を委ねることを決意する時なのです。

(編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年2月14日

・『世界人身取引に反対する祈りと啓発の日』に―「日本も無関係ではない」と菊地・東京大司教

2026年2月 7日 (土)週刊大司教第243回:年間第五主日A

1770421431745 女子修道会の国際総長会議(UISG)によって提案され進められてきた「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」は2月8日です。今年は主日に重なりましたが、この意向を心に留めて、人身取引に反対する啓発活動と祈りの日としたいと思います。

 教皇フランシスコは、2015年2月8日のお告げの祈りの時に、この活動に触れ、積極的に行動するように呼びかけました。UISGが中心になって活動するタリタクムでは、この祈りと啓発の日のホームページを設け、今年の活動を紹介しています。

 今年も教皇レオ14世が、祈りの呼びかけのメッセージを発表されています。(メッセージが発表されたのが2月6日で邦訳ができていないので、こちらのリンクは英語版です=「カトリック・あい」注*「かトリック・あい」は既にメッセージ全文の日本語訳を掲載しています。https://catholic-.net/の「教皇のことば」でご覧ください)

 2月8日というのは、聖ジョゼッピーナ・バキータの祝日です。彼女は1869年にアフリカはスーダンのダルフールで生まれました。聖人はカノッサ修道会の会員でした。同会のホームページにはこう記されています。

 「バキータは男3人、女3人の6人兄弟でした。お姉さんは1874年、奴隷商人たちにさらわれました。バキータは7歳のころ2人のアラビア人にさらわれました。1ヵ月間監禁され、その後、奴隷商人に売り飛ばされます。ありったけの力をしぼって脱走を試みましたが、羊飼いにつかまり、間もなく、冷酷な顔立ちのアラビア人に売り払われます。その後、奴隷商人に売り払われます」

 その後、様々な過酷な体験を経て、イタリアにおいて1889年に自由の身となり、洗礼を受けた後にカノッサ会の修道女になりました。1947年に亡くなった彼女は、2000年に列聖されています。同修道会のホームページに聖バキータの次の言葉が紹介されていました。

 「人々は私の過去の話を聞くと、「かわいそう!かわいそう!」と言います。でも、もっとかわいそうなのは神を知らない人です。私を誘拐し、ひどく苦しめた人に出会ったら、跪いて接吻するでしょう。あのことがなかったら、私は今、キリスト者でも修道女でもないからです」

 聖バキータの人生に象徴されているように、現代の世界において、人間的な尊厳を奪われ、自由意思を否定され、理不尽さのうちに囚われの身にあるすべての人のために、またそういった状況の中で生命の危険にさらされている人たちのために、祈りたいと思います。

 教皇レオ14世は今年のメッセージで、教皇に就任したときの第一声と同じく「平和がみなさんと共に」という復活した主イエスの言葉を繰り返し、「真の平和は、神が与えたすべての人の尊厳が認められ護られる時に始まる」と指摘され、特に現代社会に宛てオンライン詐欺などを通じて人身売取引に巻き込まれる事案に触れ、「例え小さくとも嵐の中で祈りの炎を絶やすことなく、それによってわたし達は不正義に対する無関心に抗う力を与えてくれる」と述べています。

 人身売買・人身取引や奴隷などという言葉を聞くと、現代の日本社会とは関係の無い話のように感じてしまうのかもしれません。実際は,そうなのではありません。一般に「人身取引議定書」と呼ばれる「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人、特に女性および児童の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書」には,次のような定義が掲載されています。

 「“人身取引”とは、搾取の目的で、暴力その他の形態の強制力による脅迫若しくはその行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を獲得し、輸送し、引渡し、蔵匿し、又は収受することをいう。搾取には、少なくとも、他の者を売春させて搾取することその他の形態の性的搾取、強制的な労働若しくは役務の提供、奴隷化若しくはこれに類する行為、隷属又は臓器の摘出を含める。」
(同議定書第3条(a))

 すなわち、売春を強制されたり、安価な労働力として,自己の意思に反して、人間の尊厳が守られないような状況下で労働に服させられている人たちの存在は、私たちの国でも無関係なことではありません。

 以下、7日午後6時配信、週刊大司教第243回、年間第五主日のメッセージです。なおメッセージでも触れていますが、2月11日はルルドの聖母の日であり、また世界病者の日でもあります。今年の教皇様の世界病者の日のメッセージは、こちらのリンクからどうぞ。

【年間第五主日A 2026年02月08日】

 マタイ福音は、イエスの教えとして、「地の塩、世の光」を記しています。塩も光も、その果たす役割をふさわしく果たしているからこそ意味があるのだ、とイエスは指摘します。その上でイエスは、弟子が心にかける大切な原則を示します。

 人はどうしても他者からの評価を気にしてしまう存在です。良い行いをする時にも、自分が褒め称えられることを、心のどこかで求めてしまいます。皆、自分が可愛いのです。

 しかしイエスは、「あなた方の立派な行いを見て」褒め称えられるべきは、その行いを実行する「あなた」ではなくて、皆が「あなた方の天の父をあがめる」ためだと指摘します。与えられた務めを忠実に果たし、その忠実さを通じて、命の与え主である神が称えられるように生きること、すなわち神の愛を証しする者であることが重要である、とイエスは指摘します。

 果たして私たちはどうでしょうか。私たちが果たすべき役割に忠実であることによって、私たちに命を与え、救いへ、と招いてくださる主ご自身の存在を証しする者でありたいと思います。

 今週の水曜日、2月11日は世界病者の日と定められています。

 2月11日は1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、湧き出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かに湧き出し、多くの人に希望と生きる勇気を与える源となっています。

 私たちすべての教会共同体が、ルルドの霊的な安らぎの雰囲気に倣い、訪れる多くの人の心に、希望と生きる勇気を生み出すものでありたいと思います。

 教皇様は今年の世界病者の日にあたり、「サマリア人のあわれみ、他者の苦しみを担うことで愛する」というメッセージを発表されています。

 その中で教皇様は善きサマリア人のたとえ話の現代的意味を探求する必要を説き、「困窮する人に対する思いやりとあわれみは、単なる個人的な努力にとどまらず、様々な関係の中で実現されます。すなわち、困窮する兄弟との関係、彼らを世話する人々との関係、私たちにご自身の愛を与えてくださる神との関係です」と記し、助けを求める人との出会いの中で、また互いに助け合う人々との出会いの中で、私たちは自我を捨て、キリストと出会うことを指摘されます。

 その上で教皇様は、「自尊心や自己評価を成功やキャリアや地位や家柄といった固定観念に基づかせようとする思いから離れ、神と兄弟の前での自分の位置を再発見すること」が重要であると指摘しています。

 現代社会は、忙しい世界です。インターネットの発達は、それをさらに加速させました。すぐに答えがほしいのです。すぐに結論が知りたいのです。でもその中で、立ち止まって、イエスのまなざしを向け、助けを必要としている兄弟姉妹のために、自分の時間を費やすことの必要性を、改めて心に留めたいと思います。

(編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年2月7日

・日本26聖人殉教者の記念日、本所教会にてー菊地・東京大司教の講話

2026年2月 1日 (日)2026年日本26聖人殉教祭本所教会

Image3

2月5日は、聖パウロ三木と同志殉教者、いわゆる日本26聖人殉教者の記念日です。東京教区の本所教会では、かなり昔から、この記念日に近い主日に殉教祭を続けてこられました。

今年は、2月1日の主日に、ミサが捧げられました。

ミサ後には30分ほど、昨年の教皇選挙やわたしの名義教会着座式などについて、写真を見ながらお話をさせていただき、その後には信徒会館で、今年はいつもの美味のおでんではなく、これまたおいしい豚汁が振る舞われました。準備してくださった皆さん、ありがとうございます。

Image0

以下、本日のミサの説教の原稿です。後半は週刊大司教とほぼ同じ内容です。

【日本26聖人殉教者殉教祭ミサ 2026年2月1日 本所教会】

昨年は忙しい一年でありました。復活祭の翌日に教皇フランシスコが帰天され、その直後に始まった枢機卿の総会と教皇フランシスコの葬儀。、それに続く教皇選挙。ちょうど「教皇選挙」という映画が公開され、日本でも注目していただきました。

そして新しい牧者レオ14世の誕生と、10月9日のローマでの私の枢機卿名義教会への着座式。さらに昨年一年は希望の巡礼者をテーマにした聖年でもあり、それに関係する行事も多く行われました。

忙しい一年が終わり落ち着く間もなく、年明けとともに今度は臨時の枢機卿総会が開かれ、新年早々にローマへ出かけてきました。枢機卿に叙任されてから一年以上たちましたが、それ以前にはなかった様々な行事への参加が増えて、教区を不在にすることが続いていますが、その間、多くの方にお祈りと励ましを頂いてきたことに心から感謝しております。

私はローマに出かけるたびごとに、時間が許せばジェズ教会を訪問しています。この聖堂にはイエズス会の創立者である聖イグナチオ・ロヨラの墓がありますし、かつて日本で活躍しその後イエズス会の総長となられたアルペ神父様もここに葬られています。そしてこの聖堂には、日本の教会にとって重要な聖人である、聖フランシスコ・ザビエルの右腕が安置されています。ザビエルはインドのゴアに遺体が安置されていますが、アジア各地で洗礼を授けた聖なる右腕は、ローマに安置され、400周年記念などで日本にも運ばれてきたことがあります。

この教会を訪れて、日本にイエス・キリストの福音を一番最初にもたらしてくださった聖人の右腕の前で、その福音宣教の業への感謝の祈りを捧げることにしています。日本の教会は、1549年、聖フランシスコ・ザビエルによって始められました。

昨年の10月、名義教会での着座式を前に、いつもと同じようにこの教会を訪れ、祈りを捧げた時に、一つのことが心に浮かんで来ました。それは、この偉大な宣教師がどれほど大きな不安を抱えて異国の地に足を運ばれたのだろうかということでした。

現代であれば、皆さん、初めて訪れる国に出かける前に何をされますか。ちょっと前であれば、「地球の歩き方」と言うマニュアルみたいな本がありました。今もあると思います。わたしも大変お世話になりました。そして今であれば、まずネットで検索しませんか?

到着する空港の情報や泊まるホテルの情報は言うに及ばず、現地の治安や経済状態、何をするべきか、また何を避けるべきか、などなど。ありとあらゆる情報を、出かける前に識ることができます。それだけ情報を事前に調べたとしても、そこがやはり初めて行く国であれば、不安は心に残ります。

それが16世紀はどうだったでしょう。ザビエルには日本について調べる手段は何もなかったことだと思います。事前に断片的な情報はあったことでしょうが、現代のわたしたちが手にするような情報は、全くと言っていいほどなかったことだと思います。それであればこそ、心に抱える不安は大きなものがあったことだと想像します。それでも彼は出かけていきました。大海原に乗り出しました。命がけの冒険であります。

今の時代の便利さは、逆に、命がけの冒険に歩みを進めていく勇気を、わたしたちから奪ってしまったような気がします。十分な知識を持って緻密な計画を立てておかなければ、未知の歩みを始める勇気が出てこない。

聖なる宣教師は、未知の歩みを始める勇気をどこから得ていたのでしょう。それは聖霊の導きにすべてを任せる信仰における勇気、神の計画にすべて身を委ねる勇気でありました。

いまシノドス的な教会になる道を歩む私たちは、ともすれば、先行きがはっきりしないがために、どこを目指しているのかを明確に識ることができないために、尻込みし、様々な理屈をこねくり回しては、前進ではなく今の場所にとどまろうとしてしまいます。不安なのです。先行きが見えないので不安なのです。教会はいま、まさしくかつての聖なる宣教師のように、未知の旅路へと歩みを進めるために、聖霊の導きに勇気を持って身を任せようとしています。

2月の最初の週には、日本の教会の殉教者の記念日が二つ並んでもうけられています。2月3日は福者ユスト高山右近、そして2月5日が聖パウロ三木と同志殉教者、いわゆる日本26聖人殉教者の記念日です。

福者ユスト高山右近は、生涯をかけて信仰を守りぬいたが故に、すべてを失い、生まれた国を追われ、家族とともにマニラに追放処分となりました。1614年末のことです。右近は、その直後に熱病にかかり、翌1615年2月3日に、マニラで亡くなられたと伝えられています。信仰のために、すべてを奪われ、それでも喜びと希望のうちに信仰を全うした生き方が、殉教者としての生き方であると教会は認めました。

右近を大名の座から追放しようと決めた秀吉の気持ちを和らげるため、「妥協せよ」という周囲の忠告に耳を貸さず、右近は説得する周囲に対して、「神に関することは、一点たりとも曲げるべきではない」と述べたと伝えられています。

「神に関することは、一点たりとも曲げるべきではない」という覚悟は、わたしはわたしの考えるように生きるという宣言ではなく、わたしの人生は神の手に委ねられているという宣言であります。神にすべてを委ねる勇気が、右近にはありました。

本日このミサで私たちが記念している日本26聖人殉教者。1597年2月5日、長崎の西坂の地で、信仰を守り抜き、そのいのちを神にささげた26人は、「人間は一体何のために生きるのか」という問いかけに対する答えを、その生涯の言葉と行いを通じて、多くの人に対して証しいたしました。最後の最後まで神の計画に身を委ねるという勇気を、多くの人の目の前で証しして行かれました。

26人の聖なる殉教者たちは、信仰に生きるということは、神の計画にすべてを委ねるという勇気ある行動であることを証ししました。殉教に価値があるのは、勇気を持って死んでいったからだけではなく、勇気を持って神の計画に身を委ね、それを最後まで生き抜いた、その生きる姿にこそ、具体的なあかしによる福音宣教としての意味があります。

26人の聖なる殉教者たちは、「人間はいったい何のために生きるのか」という問いに、明確な答えを残して、そのいのちを生き抜かれました。聖なる殉教者たちは、現代を生きるわたしたちに、人生においてどのように福音を生き抜くのか、その模範を残されました。

シノドスの歩みは、勇気を持って神の計画に身を委ね、いのちを生きる希望をあかしする旅路です。聖霊がどこにわたし達を導いていくのかを、事前に知ることはできません。兄弟姉妹と歩みをともにし、互いに支え合い、ともに祈り合うシノドス的な共同体のあり方は、わたし達を絶望から解き放し希望を生み出す道です。

聖なる宣教師が勇気を持って聖霊の導きに身を任せて、未知の冒険とも言うべき旅路に出たように、私たちも勇気をもって聖霊の導きに身を任せる教会でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2026年2月1日

・私たちはそれぞれの場で、神の言葉を証しする者でありたい」菊地・東京大司教の年間第三主日・御言葉の主日に

2026年1月24日 (土)週刊大司教第241回:年間第三主日A

Img_20240414_133208184_hdr_20260122144401

年間第三主日、神の言葉の主日です。

 教皇フランシスコは、自発教令の形式による使徒的書簡『アペルイット・イリス(Aperuit illis)』をもって、2019年9月30 日(聖ヒエロニモ司祭の記念日)に、年間第三主日を神の言葉の主日とすることを宣言されました。こちらの中央協議会のページに同書簡へのリンクがありますので、一度ご覧ください。

 命のパンとしての主イエスの現存である神の言葉に親しむことは、主イエスの現存である聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと、第二バチカン公会議は指摘しています。ミサの中で聖書が朗読されるとき、神の言葉はそこで生きており、そこに主がおられます。私たちを生かしてくださる主の言葉の朗読に、真摯に耳を傾けましょう。

 また1月の第四日曜日はケルンデーです。戦後から今に至るまで、多くの支援をいただいたケルン教区のために祈り、同時に現在はともに支えているミャンマーの境界にも思いを馳せていただければと思います。ケルンとの関係の歴史は、東京教区ホームページのこちらをご覧ください。また今年はケルンデーのための共同祈願を用意しました。こちらをご覧ください

 年明け早々に衆議院が解散され、2月8日には衆議院議員選挙が行われることになりました。このところ大雪が各地で続いているので、大切な投票日に多くの方が投票所へ足を運べないような事態にならないことを祈っています。

 国会議員を選出する選挙は、いつであっても国政の有り様を左右する重要な選挙であり、その結果は日本に住むすべての人の生活に直結するものです。投票する権利のある方にあっては、この機会を大切にしたいと思います。

 神から与えられた命の尊厳を大切にしている私たちは、神の望まれる世界を実現するために力を尽くさなくてはなりません。イエスが告げ知らせ、多くの信仰の先達がいのちをかけて護り伝えてきた福音が私たちの社会の価値観を支えるような世界を目指さなくてはなりません。

 そのためにも、国の政治のリーダーたちが、聖霊の導きに耳を傾け、神の望まれる平和の実現に向けて歩むように、また、すべての命が守られる世界が実現するように指導力を発揮してくださることを願い、祈りましょう。さらには人間の尊厳が守られる世界の実現に結びつく政治のリーダーが誕生するように、この選挙を前に共に祈り、慈しみ深い御父の導きと聖霊の照らしを願いましょう。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第241回、年間第三主日のメッセージです。

年間第三主日A(神のことばの主日)2026年01月25日

 年間第三主日は、「神の言葉の主日」です。

 イエスはその宣教活動を、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉をもって始められました。イエスこそは、神の言葉そのものの受肉です。この主日を定められた教皇フランシスコは、使徒的書簡「アペルイット・イリス」で、第二バチカン公会議の「啓示憲章』に言及し、「かつて永遠なる父の御言葉が人間の弱さをまとった肉を受け取って人間と同じようなものになったと同様に、神の言葉は人間の言語で表現されて人間の言葉と同じようなものにされた」と指摘されています。そこに、神が自ら命を創造し与えられた人間に対する愛の発露が、神ご自身のへりくだりによって明確に表されている、と教皇は述べておられます。

 聖書を通じて聖霊の働きをもって、今も私たちと共におられる神の言葉は、単にあがめ奉る対象ではなく、「主は自らの花嫁に生きた言葉を絶えず語り続け」ているのであって、その言葉に生かされることによって「花嫁である教会は愛のうちに、また信仰の証しのうちに成長することができます」と教皇は呼びかけます。神のことばは、神の愛の発露であります。

 マタイによる福音は、イエスの公生活の始まりを伝えています。

 イエスの宣教活動は、それを支え、共に歩む弟子たちを召し出すことから始まりました。ガリラヤ湖畔でイエスは漁師であったペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレに「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言葉をもって呼びかけます。さらにはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも声をかけられます。二人ずつ四人を召し出すこの物語は、福音宣教の業が、常に共同体の業であることを象徴しています。同じ愛の言葉を持ってイエスは、現代社会にあっても、私たちに「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけ続けておられます。私たちはその声に応えて、「愛のうちに、また信仰の証しのうちに成長」しているでしょうか。神の言葉に呼びかけられている私たち一人ひとりの責任は、イエスの言葉に応えて行動することです。

 啓示憲章には、「教会は、主の体そのものと同じように聖書を常に崇め敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストの体と同時に神の言葉の食卓から命のパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)とも記されています。ご聖体に対する信心を深める私たちは、聖書を通じて語られる神の言葉にも、同じように深い尊敬の念を持って耳を傾けたいと思います。そこに主がおられます。

 先日行われた臨時の枢機卿会の閉会にあたって、教皇レオ14世はこれから数年間の教会の優先課題を明確にするために、多くの声に耳を傾ける姿勢を明確にし、その上で、「私たちはキリストの言葉を告げ知らせたいと望みます。それゆえ、現代世界の中で証しをすることができる、真の霊的生活を私たち自身においても生きることが重要です」と呼びかけられました。

 私たちは、それぞれが生きている場において、それぞれに与えられた方法を持って、神の言葉を証しする者、すなわち主イエスを多くの人にもたらす者でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2026年1月24日

 ・「同じ一つの体、一つの霊に与り、兄弟姉妹として希望の福音を証しする巡礼者であり続けたい」-菊地・東京大司教、キリスト教一致週間の初めに

2026年1月17日 (土)週刊大司教第240回:年間第二主日A

 降誕祭も終わり、典礼は年間に入りました。年間第二主日です。

 教皇レオ14世の最初の使徒的勧告、「わたしはあなたを愛している(Dilexi Te)」の邦訳が終わり、書籍として発売されています。教皇フランシスコが準備されていた、貧しい人への教会と私たち一人ひとりの関わりについて記した文書を、教皇職を引き継がれたレオ14世が完成させた内容です。この文書を出すことを通じて、教皇レオ14世は、教皇フランシスコが示された慈しみの神にならう教会のあり方を引き継いでいくことを宣言されています。ご一読ください、

 1月17日の土曜日、東京教区の年始の集いが行われました。以前から行われていた恒例の年初の行事ですが、コロナ禍の中で中止になったり規模の縮小もありました。また以前のように戻していきたいと思いますが、教区内のすべての小教区共同体などから代表の方においでいただき、この一年の教会活動の方針について思いを共有し、聖霊の導きをともに祈る場としたいと思いました。今回は土曜日の開催となりましたが、できれば来年以降は成人の日(月曜日祝日)に開催することを考えておりますし、内容も充実させたいと検討中です。

 1月18日から25日までは、毎年のキリスト教一致祈祷週間です。東京教区では、1月18日(日)午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂でエキュメニカル祈祷集会を行います。事前の予約など不要です。どなたでも参加いただけます。

 今年の祈祷集会は司式を私が担当し、説教は日本キリスト教協議会の議長である吉高叶先生が担当されます。ご参加いただき、祈りの時を一緒にしていただければ幸いです。なお今年の全国の祈祷集会の情報などは、中央協議会のこちらをご覧ください

 以下、17日午後6時配信、週刊大司教第240回、年間第二主日のメッセージです。

【年間第二主日A 2026年01月18日】

 ヨハネ福音に記されている主の洗礼の出来事が、本日朗読されます。その中で、洗礼者ヨハネは、いま自分が洗礼を授けたイエスは、「世の罪を取り除く神の小羊」であって、イエスの誕生の理由が、罪にまみれた人類の救いのためであることを宣言します。

 その上で洗礼者ヨハネは、自分の立場を明確にします。つまりイエスは、「私よりも先におられた」方であり、「この方がイスラエルに現れるため」に、自分は水の洗礼を授けてきたのだと語ります。つまりヨハネは、自分が理解したことを語り行っていたのではなく、神によってそうするようにと派遣の使命を受けていたのだということを証言しています。

 すべからく預言者は自分の思いや言葉を語るのではなく、神から与えられた使命を果たすために語ります。教会は現代社会にあって預言者でありたいと願っています。再び来られる主イエスを迎えるために、道を備えるものでありたいと思っています。

 教会は、自分の思いを伝えているのではありません。自分の考えを表明しているのでもありません。自分が褒め称えられるために行動するのではありません。すべては洗礼を通じてイエスの神性に与った私たちに与えられた、イエスの福音を告げしらせるという使命を果たすためであります。私たち教会の語る言葉と行いで、主イエスが現存することを証ししようとしています。私たちが伝えるのは、自分ではなく、主イエスです。命を生きる希望の源、主イエスであります。

 今年も1月18日から1月25日まで、キリスト教一致祈祷週間が行われます。東京でも18日に行われますが、各地でエキュメニカルな祈祷集会が企画されていることだと思います。

 今年のテーマはエフェソの信徒への手紙4章4節から「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」とされています。ここにも私たちが、希望の巡礼者としての歩みを続けるようにという招きが記されています

 第二バチカン公会議以降、「エキュメニズム」という言葉で進められている一致運動では、様々な取り組みがなされています。教義の側面や神学的な対話は行われてきてはいますが、実際的にはやはり長年にわたって異なる道で信仰を守っていますから、具体的な組織の合同と言う一致は容易ではありません。

 しかし、社会のさまざまな問題に取り組む現場では、教団・教派の枠を超えて、互いに協力し合いながら活動することが当たり前になっています。つまり「福音を生きる側面での一致」はかなり進んでいる、とも言えるかと思います。その現場での一致を、霊的な側面にいかに波及させるのかが課題の一つです。

 同じ一つの体、一つの霊に与り、同じ希望に招かれている兄弟姉妹として、共に社会の中を歩みながら希望の福音を証しする巡礼者であり続けたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2026年1月17日

・「福音のメッセージを証しする巡礼者であり続けたい」菊地・東京大司教の「主の洗礼」の主日

2026年1月10日 (土)週刊大司教第239回:主の洗礼の主日A

 1767974148416新しい年の最初の週刊大司教です。主の洗礼の主日となります。

 2026年も「週刊大司教」の配信は、定期的に継続していく予定です。どうぞよろしくお願いします。

 以前にも記しましたが、毎週の配信は千人を超える方に見ていただき、時には二千人を超えることもあります。話している私にも、製作している教区広報担当にとっても、多くの方が視聴してくださっていることは継続する力の源となっています。ありがとうございます。心から感謝申し上げます。皆さまの主日に向けての祈りの一助になっているのであれば、幸いです。

 また、「週刊大司教」や、このブログ「司教の日記」をご存じない方も多くおられると思いますので、ご覧いただいている皆さまには、お知り合いの方に紹介などしていただけると幸いです。

 以下、10日午後6時配信、週刊大司教第239回、主の洗礼の主日のメッセージです。

【主の洗礼の主日A 2026年01月11日】

新しい年の初めにあたり、皆さまにお喜びを申し上げます。

教皇フランシスコによって始められた25年に一度の聖年は、1月6日に聖ペトロ大聖堂の聖年の扉が教皇レオ14世によって閉じられ、終わりを迎えました。このたびの聖年は、聖年としての行事と共に、教皇フランシスコの帰天とレオ14世の選出という出来事が重なり、様々な意味で特別な年でありました。

その聖なる一年は終わりを迎えましたが、教皇フランシスコによって選ばれた「希望の巡礼者」というテーマは、教皇レオ14世に引き継がれ、これからも教会を導き重要なテーマとして私たちに与えられています。私たちは、これからも、この混迷し暗闇に沈む社会の中で、希望を証しする巡礼者であり続けたいと思います。

マタイの福音は、イエスがガリラヤからヨルダン川のヨハネの所へ出向き、洗礼を受けた様を記しています。神の子羊が洗礼を受けに来たことに驚き、躊躇する洗礼者ヨハネに対して、イエスは「正しいことをすべて行うのは、私たちにふさわしいことです」と述べています。

もちろん「正しいこと」とは、神の目において「正しいこと」、つまり神の定めた秩序の実現のために欠かすことのできない選択のことであります。そして、ヨハネが躊躇するのは、自分がそのような尊大な行動は選択できないという人間のごく当然の価値判断に依っているからです。つまり神の計画の実現には、人間の価値観を遙かに超える神の意志に従った行動を選択することが不可欠であることを、イエスご自身の行動が示しています。

「罪の赦しを得させるために悔い改め」の水による洗礼を受けることは、そもそも罪の汚れのない神であるイエスには必要のないことですが、カテキズムによれば、「その洗礼は神の苦しむ僕としての使命の受諾」であり(カテキズム536項)、罪人である人類に神ご自身が加わることで、水を通じて私たちにその贖いの業に与る道が開かれました。水による洗礼はイエスの公生活の始まりを告げています。

希望の巡礼者として、混迷する世界の暗闇の中で希望を証しすることは、それほどたやすいことではありません。神の平和を説き、人間の尊厳を護り、神の賜物である命を守ることを主張することは、必ずしも現実社会の選択と轍を同じくする主張とは限りません。時に、福音に基づいて発言し行動することは、夢物語に生きている非現実的な主張と見なされることも少なくありません。

それでも私たちは、「正しいことをすべて行うのは、私たちにふさわしいこと」という主御自身の言葉に励まされ、福音のメッセージを証しする巡礼者であり続けたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2026年1月10日

・菊地・東京大司教の2026年・年頭の司牧書簡「希望の灯火を絶やすことのないように」

 希望の灯火を絶やすことのないように   2026年1月1日 カトリック東京大司教区 大司教 菊地功 枢機卿

 

 新しい年の初めにあたり、東京教区のみなさまに、ご挨拶申し上げます。

 一昨年12月、教皇フランシスコから枢機卿への叙任を受けました。その後、昨年2025年の春に教皇フランシスコの帰天、教皇選挙への参加、新しい牧者レオ14世の誕生、さらに10月9日のローマでの枢機卿名義教会への着座式と、昨年一年は普段にはない行事への対応で教区を不在にすることが続いてしまいました。その間、多くの方にお祈りと励ましを戴いたことに、心から感謝申し上げます。

 着座式のためにローマを訪れた際、ジェズ教会を訪問しました。イエズス会の創立者である聖イグナチオ・ロヨラが葬られているこの聖堂には、聖フランシスコ・ザビエルの右腕が安置されています。わたしはローマを訪れるたびごとにこの教会を訪れ、聖フランシスコ・ザビエルの右腕が安置された祭壇の前で、感謝の祈りを捧げることにしています。

 

 

聖なる宣教師にならって

 

 言うまでもなく、1549年に日本に始めて福音をもたらしてくださった宣教師です。祈りながら心に浮かんだのは、この偉大な宣教師がどれほど大きな不安を抱えて異国の地に足を運ばれたのだろうかということでした。今の時代であれば、宣教師として派遣されるにしても、事前の行き先について情報を集めることが可能です。テクノロジーが進むにつれて、さらにリアルな情報を手にすることも、また行き先の方と事前に打ち合わせをすることも可能でしょう。

 しかしその便利さは、逆に、命がけの冒険に歩みを進めていく勇気を現代社会から奪ってしまったような気がしています。十分な知識を持って緻密な計画を立てておかなければ、未知の歩みを始める勇気がないのです。

 かつて大海原に乗り出し、遙か彼方のアジアに福音をもたらした聖なる宣教師は、未知の歩みを始める勇気をどこから得ていたのでしょう。それは聖霊の導きにすべてを任せる信仰における勇気であったのだと思います。無計画な蛮勇ではなく、信仰に基づく決断の勇気です。

 シノドスの道を歩む教会は、まさしくかつての聖なる宣教師のように、未知の旅路へと歩みを進めるために、聖霊の導きに勇気を持って身を任せる教会です。どうしても緻密な計画を立て、明確な方向性がなければ先に進むことに躊躇してしまう現代社会だからこそ、聖霊に身を任せる勇気が必要です。

 

 

聖年の終わりにあたり

 

 「希望の巡礼者」をテーマに掲げた聖年は、各地の教区で昨年末の聖家族の主日に捧げられた閉幕ミサと、ローマにおいては1月6日に聖ペトロ大聖堂の聖年の扉が教皇レオ14世によって閉じられて閉幕します。

 教皇フランシスコは、混迷を極める現代社会において神の民が旅路を歩み続けるために、二つの大切なことを提示されました。その一つは、教会とは一体どういう存在なのかを問いかけるシノドスの歩みであり、もう一つが、25年に一度の聖年の機会を捉えて、神の民が希望を掲げて歩みを続ける巡礼者であり続けようという呼びかけでした。

 教皇フランシスコは聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、「すべての人は希望を抱きます。明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望は良いものへの願望と期待として、ひとり一人の心の中に宿っています」と記し、この世界を旅する私たちの心には、常に希望が宿っていることを指摘されています。同時に教皇フランシスコは、「希望の最初のしるしは、世界の平和と言いうるものです。世界は今また、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられる様を目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています」と指摘され、この数年間の世界の現実が、いかにその希望を奪い去り、絶望を生み出すものであるのかを強調されました。

 新しい牧者として昨年5月に教皇に選出され、サンピエトロ大聖堂のバルコニーに姿を見せた教皇レオ14世の最初の言葉は、「あなた方に平和があるように」でありました。

 その上でレオ14世は、「愛する兄弟姉妹の皆さん。これが、神の民のために命を与えた、よき牧者である、復活したキリストの最初の挨拶です。私もこう望みます。この平和の挨拶が皆さんの心に入りますように… これが復活したキリストの平和です。謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除く平和です。この平和は神から来るものです」と呼びかけ、平和の確立こそが現代社会における教会の最優先の課題であることを明確にされました。平和の確立こそが絶望の闇を打ち払い、希望を生み出します。今、世界は希望を必要としています。絶望の暗闇を打ち破る希望を必要としています。

 ウクライナ、ミャンマー、ガザなど、混迷を深め絶望をもたらし続ける暴力の嵐は止まるところを知りません。神からの賜物である命は、日々、危機に直面し続けています。

 先行きへの不安を抱え、将来への道筋が不透明な世界は、今や自己保身の利己主義的な価値観に席巻され、異質な存在への排除の力と同調圧力が強まっている、と感じます。

 命は神から与えられた賜物です。神の似姿としての尊厳に満ちあふれています。命は暗闇の中に輝く希望の源です。命への暴力は、どのような形であれ、許されてはなりません。命はその初めから終わりまで、例外なく、人間の尊厳とともに護られなくてはなりません。命に対する暴力こそが世界から希望を奪い去り、絶望の闇の支配を許しています。暗闇の中を孤独のうちに歩いている私たちには、闇を打ち破る希望と、その希望を生み出してくれる一緒に旅をする仲間の存在が必要です。それだからこそ、私たちは共に巡礼者として希望を掲げ、それを証しする旅路を続けていきたいと思います。

 「希望の巡礼者」は聖年の閉幕とともに終わってしまうのではありません。命に対する暴力が続く限り、「希望の巡礼者」たちの教会共同体にはこの世の荒波の中で希望の証しとなる使命があるのです。希望の灯火を絶やすことのないように、それぞれの場で取り組みを続けて参りましょう。

 シノドスの道の歩みは、希望を証しする道です。聖霊がどこに私たちを導いていくのかを、事前に理解することはできません。兄弟姉妹と歩みを共にし、互いに支え合い、共に祈り合うシノドス的な共同体のあり方は、私たちを絶望から解き放ち、希望を生み出す道です。

 聖なる宣教師が勇気を持って聖霊の導きに身を任せて、未知の冒険とも言うべき旅路に出たように、私たちも勇気をもって聖霊の導きに身を任せる教会でありたいと思います。その決断こそが、シノドスの道の歩みを進めていきます。

 

 

シノドスの道

 

 

 2028年10月の教会総会に向けて、それぞれの小教区や教区で、理解と実践を深めることが求められています。世界代表司教会議(シノドス)総会第二会期の最後に出された最終文書は、教皇文書として私たちに与えられた羅針盤です。

 司教団のシノドス特別チームは、先日、2028年10月に向けてのロードマップを公表し、取り組みを呼びかけています。これに従って、東京教区での取り組みも深めて行きたいと思います。まずは「シノダル(共働的)な教会、交わり、参加、宣教《シノドス最終文書≫」を是非ともご一読ください。その上で、聖霊の導きを識別するための実践である「霊における会話」に慣れ親しんでください。「霊における会話」ができるようになることがシノドス性の確立ではありませんが、聖霊の導きを見い出すためには有用な手段です。今後、教区の中で互いに分かち合っていただくテーマなどを、教区のシノドス担当から、提示させていただきます。

 「最終文書」に記されていることについて具体的にどのような選択をするのかは、それぞれの共同体が置かれている社会の現状や生きているコンテキストによって異なっています。しかし私たちの教会がどこを向いて歩んでいるのか、どのような困難を抱えているのか、そういうことを共有しながら、共に歩み、共に祈り、共にに識別するすべを身につけることは重要であると思います。

 宣教協力体の見直しについては歩みが遅くて大変申し訳ありませんが、総代理であるアンドレア司教様のリーダーシップで、昨年一年は、第二期(2023年・2024年)宣教司牧評議会での話し合いに基づいて、教区を大きく七つのグループに分け、訪問する形で具体的なそれぞれの事情に耳を傾ける作業を進めました。

 歴史的な経緯があることと、具体的に運用が成功している協力体とそうではない協力体もあることから、見直し作業は簡単ではありませんが、今年中に何らかの提案ができるかと思います。それに合わせる形で、宣教協力体の存在と密接に関連する宣教司牧方針の中間見直しと宣教司牧評議会のあり方の見直しを進めて参ります。

 

 

皆で共に

 

 社会全体の少子高齢化が激しく進み、教会にもその現実が重くのしかかっています。同時に、外国籍信徒の方々も、教区が公式に統計として出している信徒数に匹敵する数の方々が教区内にはおられると想定しています。長期に一緒に暮らす方も、短期の滞在の方もいるとはいえ、公式統計上は9万人から10万人の間の信徒数の東京教区ですが、実際にはその倍程度には、兄弟姉妹が存在しているものと推定されます。この方々の存在は、東京教区にとって希望の光であるとともに、一緒に教会共同体を育てていく仲間であります。他人ではなく「兄弟姉妹」です。

 そういった中で、教会は秘跡の機会を提供するだけにとどまらず、信仰を同じくする兄弟姉妹による交わりの共同体であることを、改めて意識したいと思います。教会は、司教だけでは成り立ちません。司祭だけでも成り立ちません。修道者だけでも成り立ちません。

 同じキリストへの信仰に招かれ、同じ洗礼を受け、同じ信仰を告白する兄弟姉妹は、司教であろうと司祭であろうと修道者であろうと信徒であろうと、どの国の出身であろうと、皆同じキリスト者として一緒に教会共同体を作り上げる神の民です。

 誰かが育んですべてを準備してくれた教会で霊的サービスを受けるお客様になるのではなく、一緒になって共同体を育てる道に、どうかあなたの力を貸してください。皆さんお一人お一人の力と助けがなければ、教会は成り立ちません。それがシノダルな教会です。

 互いを大切にしてください。「誰かに助けてほしい」と思っているのはご自分だけでなく、教会に集うすべての兄弟姉妹が、それぞれの形で何らかの助けを必要としています。互いの尊厳を尊重し護りながら、耳を傾け合いましょう。助け合いましょう。祈りを共にしましょう。一緒に教会を育み、豊かにして行きましょう。一緒に歩みましょう。一緒に聖霊の導きに身を任せましょう。

 希望の灯火を絶やすことのないように、歩みを共にしてくださるあなたの存在が必要です。一緒に歩んで参りましょう。

 

(編集「カトリック・あい」=表記は一般紙などで使われ、一般の方に馴染みのある用漢字表記にしてあります。「いのち」は繰り返し申し上げていますが、「天を仰いでいただくもの」という深い意味を表す表意文字である「命」に直しました。なお、世界代表司教会議=シノドス=第13回定例総会総会の最終文書のタイトルには「シノドス流」などという言葉は使われていません。「…流」というのは現在の日本語では「小笠原流」とか「観世流」など、芸術関係の分野での特定の流儀を示すものとして使われるのが一般的であり、「教会が歩むべき道そのもの」を表すシノドス(この場合は「共働」)に使うのは適当でない、と判断し、あえて「シノダル(共働的)』とさせていただきました)

2026年1月3日

・「神からの賜物である命が当然のように守られる世界を目指したい」-菊地東京大司教の「聖家族の主日」メッセージ

2025年12月27日 (土) 週刊大司教第238回:聖家族の主日A

 教会の暦の上での今年最後の主日は聖家族の主日です。

 そして今日、世界中の教区で、聖年の閉幕ミサが行われます。希望の巡礼者としての私たちの歩みは終わることはありません。これからも命を生きる希望を多くの人に証ししていく旅人であり続けたい、と思います。

Aaw03

 今日の週刊大司教のメッセージの中で、バチカンにおかれている群衆像について触れています。ボートの上に乗って避難する多くの人を守るように、その中に天使の羽が見えています。そして真ん中あたりには、大工道具を持った男性と子どもを抱えた女性の姿があります。聖家族です。

 メッセージでも触れましたが、2023年10月のシノドスの最中に、教皇フランシスコは、シノドス参加者を招いてここで夕べの祈りを捧げ、いのちを守るために旅を続ける人に手を差し伸べる様にと呼びかけられました。

 以下、27日午後6時配信、週刊大司教第238回、聖家族の主日のメッセージです。なお週刊大司教は、来週はお休みで、1月11日から再開です。

【聖家族の主日A 2025年12月28日】

 バチカンの聖ペトロ大聖堂前の広場左手に、大きなブロンズの群衆像が設置されています。そのタイトルは英語で、「Angels Unawares」と呼ばれています。その意味するところは、ヘブライ人への手紙13章2節に記されている次の言葉です。

 「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」

「気づかずに天使たちを」というのがその群衆像の名称です。それはボートの上に立ち尽くす様々な人たちの姿で、その真ん中に天使の羽が見えています。よく見ると真ん中に、大工道具を持った男性が幼子を抱えた女性と一緒に立っている姿が見えます。そう、聖家族です。

 本日の福音は、幼子が誕生した後、父ヨセフが、「子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」と天使からのお告げを受けて行動した様子が記されていました。

 広場に置かれたこの群衆像は、安全を求めて避難する多くの人たちの姿を描き、その人たちへの心配りを忘れてはならないことを明示するために制作され、教皇フランシスコによってそこに置かれています。絶望の淵にあって希望を求めて旅を続ける人々の中には、天使も、そして聖家族も、すなわち主ご自身がおられるのだ、ということを改めて自覚させる群衆像です。

 2023年10月19日、シノドス第16回総会の第一会期中に、教皇フランシスコは参加者全員をこの群衆像の前に集め、祈りの集いを行われました。その祈りの集いで、教皇フランシスコはこう述べておられます。

 「よきサマリア人のように、私Aaw01たちはこの時代のすべての旅人にとっての「隣人」となるよう、彼らの命を救い、傷を癒し、痛みを和らげるよう呼ばれています。悲劇的なことに、多くの人々にとっては手遅れであり、私たちは彼らの墓、もし墓があるとしても、その前で泣くことしかできません。あるいは、地中海が彼らの墓となってしまいます。しかし、主は彼ら一人ひとりの顔を知っておられ、それを忘れることはありません」

 その上で教皇フランシスコは、「受け入れ、保護し、推進し、統合する:これが私たちが実行しなければならない働きです」と呼びかけられました。

 今日、聖家族は、共に歩く誰かを必要としています。主ご自身がその中で、誰かの心が向けられること、そして手が差し伸べられることを待っています。

 神の言葉である幼子イエスは、家族のうちに誕生しました。幼子イエスは、聖ヨセフと聖母マリアによって大切に育てられ成長していきました。聖なる家族が救いの歴史において重要な役割を果たしたという事実が、家族という存在の持つ役割の大切さを教えています。

 現代では、さまざまな形態の家族が存在するとはいえ、人と人との繋がりの中で、互いに支え合い助け合う連帯の心を育む場として、家族という共同体は重要な意味を持っています。

 同時に、命の危機に直面し、助けを求めている家族も多く存在しています。その危機は紛争や政治や経済に起因する暴力によってもたらされ、家族を崩壊の危機に追い込みます。

 神からの賜物である命が、当然のように守られる世界を目指したいと思います。

(編集「カトリック・あい」=誤字や、漢字表記を治しました)

2025年12月27日

・「闇の中で希望の光を掲げ、巡礼者としての旅路を共に歩み続けよう」-菊地・東京大司教の待降節第4主日説教

2025年12月20日 (土)週刊大司教第237回:待降節第四主日A

1766209887674 待降節の最後の週に入り、まもなくクリスマスです。どうか良いクリスマスと、祝福に満ちた年末年始をお迎えください。

 目黒教会では、毎年恒例の降誕祭に向けたノベナミサ、シンバンガビが行われています。本来は早朝のミサということですが、日本の社会事情を考慮して、前晩、午後7時から行われます。

 私は12月15日月曜のミサを司式。翌日は教皇大使、三日目はアンドレア司教さまです、その後、いろいろな神父さまにつながれて。降誕祭への準備が進められています。ミサは英語でしたので、主にフィリピン出身の皆さんを中心に、聖堂には一杯の方が集まり、ミサに与られました。

2025_12_15_023 なおすでにご案内かと思いますが、聖年の閉幕ミサが、世界中の教区で、12月28日の聖家族の主日に捧げられることになっています。

 その後、1月6日、公現の祝日に教皇さまが聖ペトロ大聖堂の聖年の扉を閉めることによって、聖年は正式に閉幕となります。このスケジュールは、聖年の初めから決まっていたものです。

 東京教区では、12月28日午後3時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で、私が司式して閉幕ミサを行います。

12月28日から1月6日までの間、つまり年末から年始に聖年は終わっているのか、続いているのか、お問い合わせがありますが、一応、それぞれの教区では「12月28日」で閉幕です。しかしながら、教会全体としては「1月6日」が聖年の最後の日です。ロゴやスタンプなどは「1月6日まで」としてください。なお聖年のテーマソングを歌い続けること自体には、何も問題ありませんので、ミサなどで歌いたいときは、遠慮なく歌ってください。聖年が1月6日の教皇さまによる閉幕の後であっても、歌っていただいて何も問題ありません。

以下、20日午後6時配信、週刊大司教第237回、待降節第四主日のメッセージです。

【待降節第四主日A  2025年12月21日】

 降誕祭を目前にした今日、典礼は霊的な準備の仕上げをするかのように、私たちに「神は私たちと共におられる」ことを、繰り返し伝えます。

 イザヤの預言はまさしく「おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と記します。マタイ福音はこのイザヤの預言を引用しながら、イエスの誕生の次第を記しています。

 神は、私たちと共におられます。神が私たち一人ひとりと歩みを共にしてくださるのですから、当然、神を信じる私たちは兄弟姉妹として、共に歩みます。シノドス的教会です。共に歩む神の民です。その中心には、インマヌエル、神が共におられます。

 救い主の母となることを天使に告げられた聖母マリアが、その事実を冷静に受け止め、謙遜のうちにたたずみ、同時に他者を助けるために行動したように、夫であるヨセフも、天使によって告げられた神の思いを受け止め、それに信頼し、謙遜のうちに行動します。この二人の謙遜さ、勇気、そして神への信頼における行動の選択があったからこそ、救い主の誕生が現実のものとなりました。

 「天よ、露をしたたらせ、雲よ、義人を降らせよ。地よ開いて救い主を生み出せ」-今日の典礼の入祭唱に記されるイザヤ書の言葉は、私たちが最も待ち望んでいること、すなわち救い主の誕生に直接、言及しています。主の降誕を待ち望んでいる私たちは、雲が露をこの地上にしたたらせるように、神の恵みが私たちを包み込み、その私たちの間から救い主が誕生するのだ、と言うことを確信しています。

 天から露のように降り注ぐ神の恵みは、それを受けた人の謙遜さ、勇気、信頼を通じた行動によって、初めて実を結びます。私たちの決断と選択と行動が伴わなければ、神が豊かに降り注がれているその恵みを、私たちは無駄にしてしまいます。神が人となられ、共に歩まれたように、私たちも既成の概念にとらわれることなく殻を破り、神がそうされたように、共に歩み支え祈り合うこと、すなわちシノドス的な教会共同体を構成することが、まさしく、今、求められています。

 暗闇の中を希望を求めてさまよう私たちは、一つのことを確信しています。それは、「神が私たちとともにおられる」という確信です。「見捨てられることはない」という確信です。神は、ご自分が愛を込めて創造された賜物である命を見捨てることは決してない。常に私たちと共に歩んでくださる。旅する神の民の真ん中に、御聖体とみ言葉を通じて、主は現存される—その確信が、私たちに希望をもたらします。共におられる神は、私たちの希望です、私たちは、その希望を掲げ分かち合うために巡礼の旅路を続ける、希望の巡礼者です。

 間もなく降誕祭を迎えます。主が私たちと共にいてくださる事実を、降誕祭の喜びのうちにあらためて黙想し、主への信頼のうちに、その希望の光を暗闇の中で掲げ、巡礼者としての旅路を共に歩み続けましょう。

(編集「カトリック・あい」=活字として読みやすいように、当用漢字表記に統一しています)

2025年12月20日

・「喜びのうちに福音を告げ、希望を証しする者であるように」-菊地・東京大司教の待降節第三主日

2025年12月13日 (土)週刊大司教第236回:待降節第三主日A

 待降節は後半に入り、主の降誕に焦点が当てられます。

 待降節前のノベナが行われる教会もあることだと思います。重要な典礼上の祝日や、意向のために、九日間連続で祈りをささげることを、「九」のラテン語からとってノベナと呼ばれており、様々な機会にノベナが行われます。

かつて修道会で生活をしていた頃には、特に神学院共同体でクリスマス前のノベナを晩の祈りに行っていましたが、小教区などでは、主にフィリピン出身の信徒の共同体が、シンバンガビと呼ばれるクリスマス前のノベナを行っています。フィリピンでは早朝に行われると伺いましたが、東京教区内のいくつかの小教区では、夕方に行われています。メッセージでも触れましたが、私も毎年、目黒教会で晩7時に行われているシンバンガビのミサを一度は捧げるようにしています。英語ミサですが、よろしければご参加ください。今年は12月15日の夜7時が、私の司式です。

Img20251209wa0034Hongkong08

 今回の香港教区創設80年のお祝いの機会に、香港で働く30名ほどの神言会会員と出会うことができました。香港の司祭養成共同体は郊外の3階建て一軒家の半分を改装して設置されていましたが、このたび隣の部分も購入でき、一棟すべてを共同体に使うことができるようになったそうです。30年来の悲願だったとのことでした。

 共同体との昼食後に、数名と一緒に香港郊外の塩田梓島を訪問することができました。釣り客相手の店やシーフードレストランが並ぶ港でモーターボートをチャーターして海を渡り、10分ほど。

1875年に創設された神言会の最初の中国宣教師であった聖ヨゼフ・フライナデメッツが、中国本土に向かう前にこの島に渡り、1879年に聖堂を建て、二年間司牧をされた地です。1881年に聖人は山東省に移動市、その後中国本土の宣教で活躍されました。150年近い歴史を持つ聖堂は、史跡として指定されているとのこと。

今ではこの島に住む人はいなくなったものの、塩田事業は続いており、また聖堂は香港教区の巡礼地として大切にされているとのこと。写真は、かつて聖人が住んでいた司祭館の跡地に据えられている聖ヨゼフ・フライナデメッツの像です。島の船着き場も新しく立派なものでした。

以下、13日午後6時配信、週刊大司教第236回め、待降節第三主日のメッセージです。

【待降節第三主日A 2022年12月14日】

待降節は後半に入ります。前半の二週間は、キリストの再臨、すなわち世の終わりに向けて、過去のしがらみにとらわれずに、謙遜に神の呼びかけに耳を傾け心を向け、回心することに焦点が当てられました。

待降節の後半は、主の降誕を待ち望む喜びに焦点が当てられます。教会の伝統は、大きな祝日や重要な願いのために、九日間の祈りを捧げることを勧めてきました。ノベナの祈りと呼ばれます。東京教区を始め日本の教会にはフィリピン出身の信徒の方が多くおられますが、フィリピンの教会では降誕祭前のノベナの早朝のミサと祈りが捧げられ、シンバンガビと呼ばれています。その伝統も今週から始まります。

東京教区でもフィリピン出身の信徒の共同体がある教会では、早朝よりも夕方にこのミサが捧げられており、私も毎年、目黒教会で夕刻に行われるシンバンガビのミサを司式しています。今年は15日の月曜に目黒教会で英語ミサを捧げる予定です。主の降誕という大きなお祝いの喜びをさらに大きな喜びとするために、それぞれの形で喜びのうちにノベナの祈りを捧げることは、ふさわしい準備ではないでしょうか。

そしてその準備が始まる待降節第三主日は喜びの主日とも呼ばれ、ミサの入祭唱には、フィリピ書4章から、「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」と記されています。典礼では教会によってはバラ色の祭服が使われることもあります。降誕祭を間近に控えて、主とともに歩むという喜びを、しっかりと心に刻む主日です。

マタイ福音は今週も洗礼者ヨハネについて記しています。福音では、イエスが、ご自分が示される栄光と救いの業におけるヨハネの役割について語っています。

ヨハネが預言者として人々に伝えたことは、イエスご自身の業によって証しされました。イエスはそのことを、「見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」とヨハネの弟子に指示することで、洗礼者ヨハネが果たした役割の偉大さをあらためて確認します。そしてこれまで道しるべとして救い主に至る道を示してきたヨハネに代わり、ご自分の言葉と行いこそが救いのしるしであり、それに躓くことのないように、と呼びかけます。

教会は洗礼者ヨハネに倣い、現代世界の中で預言者としての役割を果たし続けています。教会は、自らが信じる神の言葉を具体的に証しするものであろうとしています。それはイエスにこそ命を生きる希望があるからであり、その希望を、神が賜物として与えられた命を生きるすべての人に分かち合いたい、と願っているからに他なりません。願っているだけではないのです。それが私たちの使命です。

私たちは、主イエスの福音を具体的に生きる時、喜びに満たされ、命を生きる希望を抱きます。希望は「もの」ではありませんから、「はい、どうぞ」と分かち合うことはできません。私たちは人との出会いを通じて言葉と行いで希望を証しし、希望の種が出会う人の心に蒔かれるように努めます。

絶望や、悲しみや怒りではなく、喜びのうちに福音を告げ、希望を証しする者であり続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年12月13日