新しい年の初めにあたり、東京教区のみなさまに、ご挨拶申し上げます。
一昨年12月、教皇フランシスコから枢機卿への叙任を受けました。その後、昨年2025年の春に教皇フランシスコの帰天、教皇選挙への参加、新しい牧者レオ14世の誕生、さらに10月9日のローマでの枢機卿名義教会への着座式と、昨年一年は普段にはない行事への対応で教区を不在にすることが続いてしまいました。その間、多くの方にお祈りと励ましを戴いたことに、心から感謝申し上げます。
着座式のためにローマを訪れた際、ジェズ教会を訪問しました。イエズス会の創立者である聖イグナチオ・ロヨラが葬られているこの聖堂には、聖フランシスコ・ザビエルの右腕が安置されています。わたしはローマを訪れるたびごとにこの教会を訪れ、聖フランシスコ・ザビエルの右腕が安置された祭壇の前で、感謝の祈りを捧げることにしています。
聖なる宣教師にならって
言うまでもなく、1549年に日本に始めて福音をもたらしてくださった宣教師です。祈りながら心に浮かんだのは、この偉大な宣教師がどれほど大きな不安を抱えて異国の地に足を運ばれたのだろうかということでした。今の時代であれば、宣教師として派遣されるにしても、事前の行き先について情報を集めることが可能です。テクノロジーが進むにつれて、さらにリアルな情報を手にすることも、また行き先の方と事前に打ち合わせをすることも可能でしょう。
しかしその便利さは、逆に、命がけの冒険に歩みを進めていく勇気を現代社会から奪ってしまったような気がしています。十分な知識を持って緻密な計画を立てておかなければ、未知の歩みを始める勇気がないのです。
かつて大海原に乗り出し、遙か彼方のアジアに福音をもたらした聖なる宣教師は、未知の歩みを始める勇気をどこから得ていたのでしょう。それは聖霊の導きにすべてを任せる信仰における勇気であったのだと思います。無計画な蛮勇ではなく、信仰に基づく決断の勇気です。
シノドスの道を歩む教会は、まさしくかつての聖なる宣教師のように、未知の旅路へと歩みを進めるために、聖霊の導きに勇気を持って身を任せる教会です。どうしても緻密な計画を立て、明確な方向性がなければ先に進むことに躊躇してしまう現代社会だからこそ、聖霊に身を任せる勇気が必要です。
聖年の終わりにあたり
「希望の巡礼者」をテーマに掲げた聖年は、各地の教区で昨年末の聖家族の主日に捧げられた閉幕ミサと、ローマにおいては1月6日に聖ペトロ大聖堂の聖年の扉が教皇レオ14世によって閉じられて閉幕します。
教皇フランシスコは、混迷を極める現代社会において神の民が旅路を歩み続けるために、二つの大切なことを提示されました。その一つは、教会とは一体どういう存在なのかを問いかけるシノドスの歩みであり、もう一つが、25年に一度の聖年の機会を捉えて、神の民が希望を掲げて歩みを続ける巡礼者であり続けようという呼びかけでした。
教皇フランシスコは聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、「すべての人は希望を抱きます。明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望は良いものへの願望と期待として、ひとり一人の心の中に宿っています」と記し、この世界を旅する私たちの心には、常に希望が宿っていることを指摘されています。同時に教皇フランシスコは、「希望の最初のしるしは、世界の平和と言いうるものです。世界は今また、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられる様を目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています」と指摘され、この数年間の世界の現実が、いかにその希望を奪い去り、絶望を生み出すものであるのかを強調されました。
新しい牧者として昨年5月に教皇に選出され、サンピエトロ大聖堂のバルコニーに姿を見せた教皇レオ14世の最初の言葉は、「あなた方に平和があるように」でありました。
その上でレオ14世は、「愛する兄弟姉妹の皆さん。これが、神の民のために命を与えた、よき牧者である、復活したキリストの最初の挨拶です。私もこう望みます。この平和の挨拶が皆さんの心に入りますように… これが復活したキリストの平和です。謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除く平和です。この平和は神から来るものです」と呼びかけ、平和の確立こそが現代社会における教会の最優先の課題であることを明確にされました。平和の確立こそが絶望の闇を打ち払い、希望を生み出します。今、世界は希望を必要としています。絶望の暗闇を打ち破る希望を必要としています。
ウクライナ、ミャンマー、ガザなど、混迷を深め絶望をもたらし続ける暴力の嵐は止まるところを知りません。神からの賜物である命は、日々、危機に直面し続けています。
先行きへの不安を抱え、将来への道筋が不透明な世界は、今や自己保身の利己主義的な価値観に席巻され、異質な存在への排除の力と同調圧力が強まっている、と感じます。
命は神から与えられた賜物です。神の似姿としての尊厳に満ちあふれています。命は暗闇の中に輝く希望の源です。命への暴力は、どのような形であれ、許されてはなりません。命はその初めから終わりまで、例外なく、人間の尊厳とともに護られなくてはなりません。命に対する暴力こそが世界から希望を奪い去り、絶望の闇の支配を許しています。暗闇の中を孤独のうちに歩いている私たちには、闇を打ち破る希望と、その希望を生み出してくれる一緒に旅をする仲間の存在が必要です。それだからこそ、私たちは共に巡礼者として希望を掲げ、それを証しする旅路を続けていきたいと思います。
「希望の巡礼者」は聖年の閉幕とともに終わってしまうのではありません。命に対する暴力が続く限り、「希望の巡礼者」たちの教会共同体にはこの世の荒波の中で希望の証しとなる使命があるのです。希望の灯火を絶やすことのないように、それぞれの場で取り組みを続けて参りましょう。
シノドスの道の歩みは、希望を証しする道です。聖霊がどこに私たちを導いていくのかを、事前に理解することはできません。兄弟姉妹と歩みを共にし、互いに支え合い、共に祈り合うシノドス的な共同体のあり方は、私たちを絶望から解き放ち、希望を生み出す道です。
聖なる宣教師が勇気を持って聖霊の導きに身を任せて、未知の冒険とも言うべき旅路に出たように、私たちも勇気をもって聖霊の導きに身を任せる教会でありたいと思います。その決断こそが、シノドスの道の歩みを進めていきます。
シノドスの道
2028年10月の教会総会に向けて、それぞれの小教区や教区で、理解と実践を深めることが求められています。世界代表司教会議(シノドス)総会第二会期の最後に出された最終文書は、教皇文書として私たちに与えられた羅針盤です。
司教団のシノドス特別チームは、先日、2028年10月に向けてのロードマップを公表し、取り組みを呼びかけています。これに従って、東京教区での取り組みも深めて行きたいと思います。まずは「シノダル(共働的)な教会、交わり、参加、宣教《シノドス最終文書≫」を是非ともご一読ください。その上で、聖霊の導きを識別するための実践である「霊における会話」に慣れ親しんでください。「霊における会話」ができるようになることがシノドス性の確立ではありませんが、聖霊の導きを見い出すためには有用な手段です。今後、教区の中で互いに分かち合っていただくテーマなどを、教区のシノドス担当から、提示させていただきます。
「最終文書」に記されていることについて具体的にどのような選択をするのかは、それぞれの共同体が置かれている社会の現状や生きているコンテキストによって異なっています。しかし私たちの教会がどこを向いて歩んでいるのか、どのような困難を抱えているのか、そういうことを共有しながら、共に歩み、共に祈り、共にに識別するすべを身につけることは重要であると思います。
宣教協力体の見直しについては歩みが遅くて大変申し訳ありませんが、総代理であるアンドレア司教様のリーダーシップで、昨年一年は、第二期(2023年・2024年)宣教司牧評議会での話し合いに基づいて、教区を大きく七つのグループに分け、訪問する形で具体的なそれぞれの事情に耳を傾ける作業を進めました。
歴史的な経緯があることと、具体的に運用が成功している協力体とそうではない協力体もあることから、見直し作業は簡単ではありませんが、今年中に何らかの提案ができるかと思います。それに合わせる形で、宣教協力体の存在と密接に関連する宣教司牧方針の中間見直しと宣教司牧評議会のあり方の見直しを進めて参ります。
皆で共に
社会全体の少子高齢化が激しく進み、教会にもその現実が重くのしかかっています。同時に、外国籍信徒の方々も、教区が公式に統計として出している信徒数に匹敵する数の方々が教区内にはおられると想定しています。長期に一緒に暮らす方も、短期の滞在の方もいるとはいえ、公式統計上は9万人から10万人の間の信徒数の東京教区ですが、実際にはその倍程度には、兄弟姉妹が存在しているものと推定されます。この方々の存在は、東京教区にとって希望の光であるとともに、一緒に教会共同体を育てていく仲間であります。他人ではなく「兄弟姉妹」です。
そういった中で、教会は秘跡の機会を提供するだけにとどまらず、信仰を同じくする兄弟姉妹による交わりの共同体であることを、改めて意識したいと思います。教会は、司教だけでは成り立ちません。司祭だけでも成り立ちません。修道者だけでも成り立ちません。
同じキリストへの信仰に招かれ、同じ洗礼を受け、同じ信仰を告白する兄弟姉妹は、司教であろうと司祭であろうと修道者であろうと信徒であろうと、どの国の出身であろうと、皆同じキリスト者として一緒に教会共同体を作り上げる神の民です。
誰かが育んですべてを準備してくれた教会で霊的サービスを受けるお客様になるのではなく、一緒になって共同体を育てる道に、どうかあなたの力を貸してください。皆さんお一人お一人の力と助けがなければ、教会は成り立ちません。それがシノダルな教会です。
互いを大切にしてください。「誰かに助けてほしい」と思っているのはご自分だけでなく、教会に集うすべての兄弟姉妹が、それぞれの形で何らかの助けを必要としています。互いの尊厳を尊重し護りながら、耳を傾け合いましょう。助け合いましょう。祈りを共にしましょう。一緒に教会を育み、豊かにして行きましょう。一緒に歩みましょう。一緒に聖霊の導きに身を任せましょう。
希望の灯火を絶やすことのないように、歩みを共にしてくださるあなたの存在が必要です。一緒に歩んで参りましょう。
(編集「カトリック・あい」=表記は一般紙などで使われ、一般の方に馴染みのある用漢字表記にしてあります。「いのち」は繰り返し申し上げていますが、「天を仰いでいただくもの」という深い意味を表す表意文字である「命」に直しました。なお、世界代表司教会議=シノドス=第13回定例総会総会の最終文書のタイトルには「シノドス流」などという言葉は使われていません。「…流」というのは現在の日本語では「小笠原流」とか「観世流」など、芸術関係の分野での特定の流儀を示すものとして使われるのが一般的であり、「教会が歩むべき道そのもの」を表すシノドス(この場合は「共働」)に使うのは適当でない、と判断し、あえて「シノダル(共働的)』とさせていただきました)


















