・菊地・東京大司教の2026年・年頭の司牧書簡「希望の灯火を絶やすことのないように」

 希望の灯火を絶やすことのないように   2026年1月1日 カトリック東京大司教区 大司教 菊地功 枢機卿

 

 新しい年の初めにあたり、東京教区のみなさまに、ご挨拶申し上げます。

 一昨年12月、教皇フランシスコから枢機卿への叙任を受けました。その後、昨年2025年の春に教皇フランシスコの帰天、教皇選挙への参加、新しい牧者レオ14世の誕生、さらに10月9日のローマでの枢機卿名義教会への着座式と、昨年一年は普段にはない行事への対応で教区を不在にすることが続いてしまいました。その間、多くの方にお祈りと励ましを戴いたことに、心から感謝申し上げます。

 着座式のためにローマを訪れた際、ジェズ教会を訪問しました。イエズス会の創立者である聖イグナチオ・ロヨラが葬られているこの聖堂には、聖フランシスコ・ザビエルの右腕が安置されています。わたしはローマを訪れるたびごとにこの教会を訪れ、聖フランシスコ・ザビエルの右腕が安置された祭壇の前で、感謝の祈りを捧げることにしています。

 

 

聖なる宣教師にならって

 

 言うまでもなく、1549年に日本に始めて福音をもたらしてくださった宣教師です。祈りながら心に浮かんだのは、この偉大な宣教師がどれほど大きな不安を抱えて異国の地に足を運ばれたのだろうかということでした。今の時代であれば、宣教師として派遣されるにしても、事前の行き先について情報を集めることが可能です。テクノロジーが進むにつれて、さらにリアルな情報を手にすることも、また行き先の方と事前に打ち合わせをすることも可能でしょう。

 しかしその便利さは、逆に、命がけの冒険に歩みを進めていく勇気を現代社会から奪ってしまったような気がしています。十分な知識を持って緻密な計画を立てておかなければ、未知の歩みを始める勇気がないのです。

 かつて大海原に乗り出し、遙か彼方のアジアに福音をもたらした聖なる宣教師は、未知の歩みを始める勇気をどこから得ていたのでしょう。それは聖霊の導きにすべてを任せる信仰における勇気であったのだと思います。無計画な蛮勇ではなく、信仰に基づく決断の勇気です。

 シノドスの道を歩む教会は、まさしくかつての聖なる宣教師のように、未知の旅路へと歩みを進めるために、聖霊の導きに勇気を持って身を任せる教会です。どうしても緻密な計画を立て、明確な方向性がなければ先に進むことに躊躇してしまう現代社会だからこそ、聖霊に身を任せる勇気が必要です。

 

 

聖年の終わりにあたり

 

 「希望の巡礼者」をテーマに掲げた聖年は、各地の教区で昨年末の聖家族の主日に捧げられた閉幕ミサと、ローマにおいては1月6日に聖ペトロ大聖堂の聖年の扉が教皇レオ14世によって閉じられて閉幕します。

 教皇フランシスコは、混迷を極める現代社会において神の民が旅路を歩み続けるために、二つの大切なことを提示されました。その一つは、教会とは一体どういう存在なのかを問いかけるシノドスの歩みであり、もう一つが、25年に一度の聖年の機会を捉えて、神の民が希望を掲げて歩みを続ける巡礼者であり続けようという呼びかけでした。

 教皇フランシスコは聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、「すべての人は希望を抱きます。明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望は良いものへの願望と期待として、ひとり一人の心の中に宿っています」と記し、この世界を旅する私たちの心には、常に希望が宿っていることを指摘されています。同時に教皇フランシスコは、「希望の最初のしるしは、世界の平和と言いうるものです。世界は今また、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられる様を目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています」と指摘され、この数年間の世界の現実が、いかにその希望を奪い去り、絶望を生み出すものであるのかを強調されました。

 新しい牧者として昨年5月に教皇に選出され、サンピエトロ大聖堂のバルコニーに姿を見せた教皇レオ14世の最初の言葉は、「あなた方に平和があるように」でありました。

 その上でレオ14世は、「愛する兄弟姉妹の皆さん。これが、神の民のために命を与えた、よき牧者である、復活したキリストの最初の挨拶です。私もこう望みます。この平和の挨拶が皆さんの心に入りますように… これが復活したキリストの平和です。謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除く平和です。この平和は神から来るものです」と呼びかけ、平和の確立こそが現代社会における教会の最優先の課題であることを明確にされました。平和の確立こそが絶望の闇を打ち払い、希望を生み出します。今、世界は希望を必要としています。絶望の暗闇を打ち破る希望を必要としています。

 ウクライナ、ミャンマー、ガザなど、混迷を深め絶望をもたらし続ける暴力の嵐は止まるところを知りません。神からの賜物である命は、日々、危機に直面し続けています。

 先行きへの不安を抱え、将来への道筋が不透明な世界は、今や自己保身の利己主義的な価値観に席巻され、異質な存在への排除の力と同調圧力が強まっている、と感じます。

 命は神から与えられた賜物です。神の似姿としての尊厳に満ちあふれています。命は暗闇の中に輝く希望の源です。命への暴力は、どのような形であれ、許されてはなりません。命はその初めから終わりまで、例外なく、人間の尊厳とともに護られなくてはなりません。命に対する暴力こそが世界から希望を奪い去り、絶望の闇の支配を許しています。暗闇の中を孤独のうちに歩いている私たちには、闇を打ち破る希望と、その希望を生み出してくれる一緒に旅をする仲間の存在が必要です。それだからこそ、私たちは共に巡礼者として希望を掲げ、それを証しする旅路を続けていきたいと思います。

 「希望の巡礼者」は聖年の閉幕とともに終わってしまうのではありません。命に対する暴力が続く限り、「希望の巡礼者」たちの教会共同体にはこの世の荒波の中で希望の証しとなる使命があるのです。希望の灯火を絶やすことのないように、それぞれの場で取り組みを続けて参りましょう。

 シノドスの道の歩みは、希望を証しする道です。聖霊がどこに私たちを導いていくのかを、事前に理解することはできません。兄弟姉妹と歩みを共にし、互いに支え合い、共に祈り合うシノドス的な共同体のあり方は、私たちを絶望から解き放ち、希望を生み出す道です。

 聖なる宣教師が勇気を持って聖霊の導きに身を任せて、未知の冒険とも言うべき旅路に出たように、私たちも勇気をもって聖霊の導きに身を任せる教会でありたいと思います。その決断こそが、シノドスの道の歩みを進めていきます。

 

 

シノドスの道

 

 

 2028年10月の教会総会に向けて、それぞれの小教区や教区で、理解と実践を深めることが求められています。世界代表司教会議(シノドス)総会第二会期の最後に出された最終文書は、教皇文書として私たちに与えられた羅針盤です。

 司教団のシノドス特別チームは、先日、2028年10月に向けてのロードマップを公表し、取り組みを呼びかけています。これに従って、東京教区での取り組みも深めて行きたいと思います。まずは「シノダル(共働的)な教会、交わり、参加、宣教《シノドス最終文書≫」を是非ともご一読ください。その上で、聖霊の導きを識別するための実践である「霊における会話」に慣れ親しんでください。「霊における会話」ができるようになることがシノドス性の確立ではありませんが、聖霊の導きを見い出すためには有用な手段です。今後、教区の中で互いに分かち合っていただくテーマなどを、教区のシノドス担当から、提示させていただきます。

 「最終文書」に記されていることについて具体的にどのような選択をするのかは、それぞれの共同体が置かれている社会の現状や生きているコンテキストによって異なっています。しかし私たちの教会がどこを向いて歩んでいるのか、どのような困難を抱えているのか、そういうことを共有しながら、共に歩み、共に祈り、共にに識別するすべを身につけることは重要であると思います。

 宣教協力体の見直しについては歩みが遅くて大変申し訳ありませんが、総代理であるアンドレア司教様のリーダーシップで、昨年一年は、第二期(2023年・2024年)宣教司牧評議会での話し合いに基づいて、教区を大きく七つのグループに分け、訪問する形で具体的なそれぞれの事情に耳を傾ける作業を進めました。

 歴史的な経緯があることと、具体的に運用が成功している協力体とそうではない協力体もあることから、見直し作業は簡単ではありませんが、今年中に何らかの提案ができるかと思います。それに合わせる形で、宣教協力体の存在と密接に関連する宣教司牧方針の中間見直しと宣教司牧評議会のあり方の見直しを進めて参ります。

 

 

皆で共に

 

 社会全体の少子高齢化が激しく進み、教会にもその現実が重くのしかかっています。同時に、外国籍信徒の方々も、教区が公式に統計として出している信徒数に匹敵する数の方々が教区内にはおられると想定しています。長期に一緒に暮らす方も、短期の滞在の方もいるとはいえ、公式統計上は9万人から10万人の間の信徒数の東京教区ですが、実際にはその倍程度には、兄弟姉妹が存在しているものと推定されます。この方々の存在は、東京教区にとって希望の光であるとともに、一緒に教会共同体を育てていく仲間であります。他人ではなく「兄弟姉妹」です。

 そういった中で、教会は秘跡の機会を提供するだけにとどまらず、信仰を同じくする兄弟姉妹による交わりの共同体であることを、改めて意識したいと思います。教会は、司教だけでは成り立ちません。司祭だけでも成り立ちません。修道者だけでも成り立ちません。

 同じキリストへの信仰に招かれ、同じ洗礼を受け、同じ信仰を告白する兄弟姉妹は、司教であろうと司祭であろうと修道者であろうと信徒であろうと、どの国の出身であろうと、皆同じキリスト者として一緒に教会共同体を作り上げる神の民です。

 誰かが育んですべてを準備してくれた教会で霊的サービスを受けるお客様になるのではなく、一緒になって共同体を育てる道に、どうかあなたの力を貸してください。皆さんお一人お一人の力と助けがなければ、教会は成り立ちません。それがシノダルな教会です。

 互いを大切にしてください。「誰かに助けてほしい」と思っているのはご自分だけでなく、教会に集うすべての兄弟姉妹が、それぞれの形で何らかの助けを必要としています。互いの尊厳を尊重し護りながら、耳を傾け合いましょう。助け合いましょう。祈りを共にしましょう。一緒に教会を育み、豊かにして行きましょう。一緒に歩みましょう。一緒に聖霊の導きに身を任せましょう。

 希望の灯火を絶やすことのないように、歩みを共にしてくださるあなたの存在が必要です。一緒に歩んで参りましょう。

 

(編集「カトリック・あい」=表記は一般紙などで使われ、一般の方に馴染みのある用漢字表記にしてあります。「いのち」は繰り返し申し上げていますが、「天を仰いでいただくもの」という深い意味を表す表意文字である「命」に直しました。なお、世界代表司教会議=シノドス=第13回定例総会総会の最終文書のタイトルには「シノドス流」などという言葉は使われていません。「…流」というのは現在の日本語では「小笠原流」とか「観世流」など、芸術関係の分野での特定の流儀を示すものとして使われるのが一般的であり、「教会が歩むべき道そのもの」を表すシノドス(この場合は「共働」)に使うのは適当でない、と判断し、あえて「シノダル(共働的)』とさせていただきました)

2026年1月3日

・「神からの賜物である命が当然のように守られる世界を目指したい」-菊地東京大司教の「聖家族の主日」メッセージ

2025年12月27日 (土) 週刊大司教第238回:聖家族の主日A

 教会の暦の上での今年最後の主日は聖家族の主日です。

 そして今日、世界中の教区で、聖年の閉幕ミサが行われます。希望の巡礼者としての私たちの歩みは終わることはありません。これからも命を生きる希望を多くの人に証ししていく旅人であり続けたい、と思います。

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 今日の週刊大司教のメッセージの中で、バチカンにおかれている群衆像について触れています。ボートの上に乗って避難する多くの人を守るように、その中に天使の羽が見えています。そして真ん中あたりには、大工道具を持った男性と子どもを抱えた女性の姿があります。聖家族です。

 メッセージでも触れましたが、2023年10月のシノドスの最中に、教皇フランシスコは、シノドス参加者を招いてここで夕べの祈りを捧げ、いのちを守るために旅を続ける人に手を差し伸べる様にと呼びかけられました。

 以下、27日午後6時配信、週刊大司教第238回、聖家族の主日のメッセージです。なお週刊大司教は、来週はお休みで、1月11日から再開です。

【聖家族の主日A 2025年12月28日】

 バチカンの聖ペトロ大聖堂前の広場左手に、大きなブロンズの群衆像が設置されています。そのタイトルは英語で、「Angels Unawares」と呼ばれています。その意味するところは、ヘブライ人への手紙13章2節に記されている次の言葉です。

 「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」

「気づかずに天使たちを」というのがその群衆像の名称です。それはボートの上に立ち尽くす様々な人たちの姿で、その真ん中に天使の羽が見えています。よく見ると真ん中に、大工道具を持った男性が幼子を抱えた女性と一緒に立っている姿が見えます。そう、聖家族です。

 本日の福音は、幼子が誕生した後、父ヨセフが、「子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」と天使からのお告げを受けて行動した様子が記されていました。

 広場に置かれたこの群衆像は、安全を求めて避難する多くの人たちの姿を描き、その人たちへの心配りを忘れてはならないことを明示するために制作され、教皇フランシスコによってそこに置かれています。絶望の淵にあって希望を求めて旅を続ける人々の中には、天使も、そして聖家族も、すなわち主ご自身がおられるのだ、ということを改めて自覚させる群衆像です。

 2023年10月19日、シノドス第16回総会の第一会期中に、教皇フランシスコは参加者全員をこの群衆像の前に集め、祈りの集いを行われました。その祈りの集いで、教皇フランシスコはこう述べておられます。

 「よきサマリア人のように、私Aaw01たちはこの時代のすべての旅人にとっての「隣人」となるよう、彼らの命を救い、傷を癒し、痛みを和らげるよう呼ばれています。悲劇的なことに、多くの人々にとっては手遅れであり、私たちは彼らの墓、もし墓があるとしても、その前で泣くことしかできません。あるいは、地中海が彼らの墓となってしまいます。しかし、主は彼ら一人ひとりの顔を知っておられ、それを忘れることはありません」

 その上で教皇フランシスコは、「受け入れ、保護し、推進し、統合する:これが私たちが実行しなければならない働きです」と呼びかけられました。

 今日、聖家族は、共に歩く誰かを必要としています。主ご自身がその中で、誰かの心が向けられること、そして手が差し伸べられることを待っています。

 神の言葉である幼子イエスは、家族のうちに誕生しました。幼子イエスは、聖ヨセフと聖母マリアによって大切に育てられ成長していきました。聖なる家族が救いの歴史において重要な役割を果たしたという事実が、家族という存在の持つ役割の大切さを教えています。

 現代では、さまざまな形態の家族が存在するとはいえ、人と人との繋がりの中で、互いに支え合い助け合う連帯の心を育む場として、家族という共同体は重要な意味を持っています。

 同時に、命の危機に直面し、助けを求めている家族も多く存在しています。その危機は紛争や政治や経済に起因する暴力によってもたらされ、家族を崩壊の危機に追い込みます。

 神からの賜物である命が、当然のように守られる世界を目指したいと思います。

(編集「カトリック・あい」=誤字や、漢字表記を治しました)

2025年12月27日

・「闇の中で希望の光を掲げ、巡礼者としての旅路を共に歩み続けよう」-菊地・東京大司教の待降節第4主日説教

2025年12月20日 (土)週刊大司教第237回:待降節第四主日A

1766209887674 待降節の最後の週に入り、まもなくクリスマスです。どうか良いクリスマスと、祝福に満ちた年末年始をお迎えください。

 目黒教会では、毎年恒例の降誕祭に向けたノベナミサ、シンバンガビが行われています。本来は早朝のミサということですが、日本の社会事情を考慮して、前晩、午後7時から行われます。

 私は12月15日月曜のミサを司式。翌日は教皇大使、三日目はアンドレア司教さまです、その後、いろいろな神父さまにつながれて。降誕祭への準備が進められています。ミサは英語でしたので、主にフィリピン出身の皆さんを中心に、聖堂には一杯の方が集まり、ミサに与られました。

2025_12_15_023 なおすでにご案内かと思いますが、聖年の閉幕ミサが、世界中の教区で、12月28日の聖家族の主日に捧げられることになっています。

 その後、1月6日、公現の祝日に教皇さまが聖ペトロ大聖堂の聖年の扉を閉めることによって、聖年は正式に閉幕となります。このスケジュールは、聖年の初めから決まっていたものです。

 東京教区では、12月28日午後3時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で、私が司式して閉幕ミサを行います。

12月28日から1月6日までの間、つまり年末から年始に聖年は終わっているのか、続いているのか、お問い合わせがありますが、一応、それぞれの教区では「12月28日」で閉幕です。しかしながら、教会全体としては「1月6日」が聖年の最後の日です。ロゴやスタンプなどは「1月6日まで」としてください。なお聖年のテーマソングを歌い続けること自体には、何も問題ありませんので、ミサなどで歌いたいときは、遠慮なく歌ってください。聖年が1月6日の教皇さまによる閉幕の後であっても、歌っていただいて何も問題ありません。

以下、20日午後6時配信、週刊大司教第237回、待降節第四主日のメッセージです。

【待降節第四主日A  2025年12月21日】

 降誕祭を目前にした今日、典礼は霊的な準備の仕上げをするかのように、私たちに「神は私たちと共におられる」ことを、繰り返し伝えます。

 イザヤの預言はまさしく「おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と記します。マタイ福音はこのイザヤの預言を引用しながら、イエスの誕生の次第を記しています。

 神は、私たちと共におられます。神が私たち一人ひとりと歩みを共にしてくださるのですから、当然、神を信じる私たちは兄弟姉妹として、共に歩みます。シノドス的教会です。共に歩む神の民です。その中心には、インマヌエル、神が共におられます。

 救い主の母となることを天使に告げられた聖母マリアが、その事実を冷静に受け止め、謙遜のうちにたたずみ、同時に他者を助けるために行動したように、夫であるヨセフも、天使によって告げられた神の思いを受け止め、それに信頼し、謙遜のうちに行動します。この二人の謙遜さ、勇気、そして神への信頼における行動の選択があったからこそ、救い主の誕生が現実のものとなりました。

 「天よ、露をしたたらせ、雲よ、義人を降らせよ。地よ開いて救い主を生み出せ」-今日の典礼の入祭唱に記されるイザヤ書の言葉は、私たちが最も待ち望んでいること、すなわち救い主の誕生に直接、言及しています。主の降誕を待ち望んでいる私たちは、雲が露をこの地上にしたたらせるように、神の恵みが私たちを包み込み、その私たちの間から救い主が誕生するのだ、と言うことを確信しています。

 天から露のように降り注ぐ神の恵みは、それを受けた人の謙遜さ、勇気、信頼を通じた行動によって、初めて実を結びます。私たちの決断と選択と行動が伴わなければ、神が豊かに降り注がれているその恵みを、私たちは無駄にしてしまいます。神が人となられ、共に歩まれたように、私たちも既成の概念にとらわれることなく殻を破り、神がそうされたように、共に歩み支え祈り合うこと、すなわちシノドス的な教会共同体を構成することが、まさしく、今、求められています。

 暗闇の中を希望を求めてさまよう私たちは、一つのことを確信しています。それは、「神が私たちとともにおられる」という確信です。「見捨てられることはない」という確信です。神は、ご自分が愛を込めて創造された賜物である命を見捨てることは決してない。常に私たちと共に歩んでくださる。旅する神の民の真ん中に、御聖体とみ言葉を通じて、主は現存される—その確信が、私たちに希望をもたらします。共におられる神は、私たちの希望です、私たちは、その希望を掲げ分かち合うために巡礼の旅路を続ける、希望の巡礼者です。

 間もなく降誕祭を迎えます。主が私たちと共にいてくださる事実を、降誕祭の喜びのうちにあらためて黙想し、主への信頼のうちに、その希望の光を暗闇の中で掲げ、巡礼者としての旅路を共に歩み続けましょう。

(編集「カトリック・あい」=活字として読みやすいように、当用漢字表記に統一しています)

2025年12月20日

・「喜びのうちに福音を告げ、希望を証しする者であるように」-菊地・東京大司教の待降節第三主日

2025年12月13日 (土)週刊大司教第236回:待降節第三主日A

 待降節は後半に入り、主の降誕に焦点が当てられます。

 待降節前のノベナが行われる教会もあることだと思います。重要な典礼上の祝日や、意向のために、九日間連続で祈りをささげることを、「九」のラテン語からとってノベナと呼ばれており、様々な機会にノベナが行われます。

かつて修道会で生活をしていた頃には、特に神学院共同体でクリスマス前のノベナを晩の祈りに行っていましたが、小教区などでは、主にフィリピン出身の信徒の共同体が、シンバンガビと呼ばれるクリスマス前のノベナを行っています。フィリピンでは早朝に行われると伺いましたが、東京教区内のいくつかの小教区では、夕方に行われています。メッセージでも触れましたが、私も毎年、目黒教会で晩7時に行われているシンバンガビのミサを一度は捧げるようにしています。英語ミサですが、よろしければご参加ください。今年は12月15日の夜7時が、私の司式です。

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 今回の香港教区創設80年のお祝いの機会に、香港で働く30名ほどの神言会会員と出会うことができました。香港の司祭養成共同体は郊外の3階建て一軒家の半分を改装して設置されていましたが、このたび隣の部分も購入でき、一棟すべてを共同体に使うことができるようになったそうです。30年来の悲願だったとのことでした。

 共同体との昼食後に、数名と一緒に香港郊外の塩田梓島を訪問することができました。釣り客相手の店やシーフードレストランが並ぶ港でモーターボートをチャーターして海を渡り、10分ほど。

1875年に創設された神言会の最初の中国宣教師であった聖ヨゼフ・フライナデメッツが、中国本土に向かう前にこの島に渡り、1879年に聖堂を建て、二年間司牧をされた地です。1881年に聖人は山東省に移動市、その後中国本土の宣教で活躍されました。150年近い歴史を持つ聖堂は、史跡として指定されているとのこと。

今ではこの島に住む人はいなくなったものの、塩田事業は続いており、また聖堂は香港教区の巡礼地として大切にされているとのこと。写真は、かつて聖人が住んでいた司祭館の跡地に据えられている聖ヨゼフ・フライナデメッツの像です。島の船着き場も新しく立派なものでした。

以下、13日午後6時配信、週刊大司教第236回め、待降節第三主日のメッセージです。

【待降節第三主日A 2022年12月14日】

待降節は後半に入ります。前半の二週間は、キリストの再臨、すなわち世の終わりに向けて、過去のしがらみにとらわれずに、謙遜に神の呼びかけに耳を傾け心を向け、回心することに焦点が当てられました。

待降節の後半は、主の降誕を待ち望む喜びに焦点が当てられます。教会の伝統は、大きな祝日や重要な願いのために、九日間の祈りを捧げることを勧めてきました。ノベナの祈りと呼ばれます。東京教区を始め日本の教会にはフィリピン出身の信徒の方が多くおられますが、フィリピンの教会では降誕祭前のノベナの早朝のミサと祈りが捧げられ、シンバンガビと呼ばれています。その伝統も今週から始まります。

東京教区でもフィリピン出身の信徒の共同体がある教会では、早朝よりも夕方にこのミサが捧げられており、私も毎年、目黒教会で夕刻に行われるシンバンガビのミサを司式しています。今年は15日の月曜に目黒教会で英語ミサを捧げる予定です。主の降誕という大きなお祝いの喜びをさらに大きな喜びとするために、それぞれの形で喜びのうちにノベナの祈りを捧げることは、ふさわしい準備ではないでしょうか。

そしてその準備が始まる待降節第三主日は喜びの主日とも呼ばれ、ミサの入祭唱には、フィリピ書4章から、「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」と記されています。典礼では教会によってはバラ色の祭服が使われることもあります。降誕祭を間近に控えて、主とともに歩むという喜びを、しっかりと心に刻む主日です。

マタイ福音は今週も洗礼者ヨハネについて記しています。福音では、イエスが、ご自分が示される栄光と救いの業におけるヨハネの役割について語っています。

ヨハネが預言者として人々に伝えたことは、イエスご自身の業によって証しされました。イエスはそのことを、「見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」とヨハネの弟子に指示することで、洗礼者ヨハネが果たした役割の偉大さをあらためて確認します。そしてこれまで道しるべとして救い主に至る道を示してきたヨハネに代わり、ご自分の言葉と行いこそが救いのしるしであり、それに躓くことのないように、と呼びかけます。

教会は洗礼者ヨハネに倣い、現代世界の中で預言者としての役割を果たし続けています。教会は、自らが信じる神の言葉を具体的に証しするものであろうとしています。それはイエスにこそ命を生きる希望があるからであり、その希望を、神が賜物として与えられた命を生きるすべての人に分かち合いたい、と願っているからに他なりません。願っているだけではないのです。それが私たちの使命です。

私たちは、主イエスの福音を具体的に生きる時、喜びに満たされ、命を生きる希望を抱きます。希望は「もの」ではありませんから、「はい、どうぞ」と分かち合うことはできません。私たちは人との出会いを通じて言葉と行いで希望を証しし、希望の種が出会う人の心に蒔かれるように努めます。

絶望や、悲しみや怒りではなく、喜びのうちに福音を告げ、希望を証しする者であり続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年12月13日

・「豊かな召命が与えられるように、祈り続けよう」-菊地・東京大司教、「布教地召命促進の日」に

2025年12月 6日 (土)週刊大司教第235回:待降節第二主日A

1764855966241 待降節も第二主日です。良い準備の時を過ごされますように。

 12月7日で、教皇フランシスコから枢機卿に叙任されて一年となります。この一年間、いろいろとありましたが、多くの皆さまに支えていただき、心から感謝申し上げます。

 枢機卿に任じられるという個人的にも衝撃的な驚きのニュースを耳にしたのが昨年10月6日。その後、12月7日の枢機卿会に向けて、生まれて初めての経験をいくつもしながら、バタバタと準備をしました。

 そして年が明けて今年、2025年の春には教皇フランシスコが帰天。その後の葬儀や教皇選挙への参加。新しい牧者教皇レオ14世の誕生。さらに10月9日のローマ、サン・ジョバンニ・レオナルディ教会での枢機卿名義教会への着座式と、この一年は普段とは異なる出来事への準備と対応で翻弄され、ローマに出かけることも続き、教区を不在にすることが多くなってしまいました。その間、多くの方にお祈りと励ましを戴いたことに、心から感謝申し上げます。

 枢機卿になったからといってローマからなにか特別な手当や給与が出るわけではありませんので、公務出張が極端に増え、折からの円安で、教区財政に大きな負担をかけていることも大変申し訳なく感じています。

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 また不在が続く間にはアンドレア司教様に、補佐司教として多くの責任を担っていただいています。心から感謝しています。アンドレア司教様がこれからも健康で教区のために一緒に働いてくださるよう、どうぞお祈りください。みなさまのお祈りと支えがなければ、とてもではありませんが、司教は立場に伴う責任を果たしていくことはできません。今後とも、わたしにも、またアンドレア司教様にも、どうぞ、みなさまのお力を貸してくださるように、心からお願い申し上げます。

(この上下の写真は、11月末にローマで行われた国際カリタスの理事会の際、教皇謁見の後に、聖ペトロ大聖堂の聖年の門を、理事会参加者で通り、聖堂内で祈りを捧げたときのものです)
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 メッセージでも触れていますが、待降節第二主日は宣教地召命促進の日です。福音宣教の取り組む司祭修道者の召命のためにお祈りください。

 なお教皇庁宣教事業の聖ペトロ事業がこの担当ですが、日本の教皇庁宣教事業(門間直輝神父様担当)のホームページにその制定の経緯など詳細が記されていますので、ご一読ください。日本の宣教とも密接に関わりある歴史です。

 

【待降節第二主日A(ビデオ配信メッセージ)2025年12月07日】

 マタイによる福音は、主の先駆者として悔い改めて準備をするようにと告げる洗礼者ヨハネについて記しています。

 ヨハネは、既得権益のように自分たちの立場を優位に考えているファリサイ派やサドカイ派の人々に向かって、思い上がりを正し、「神の前に謙遜であるように」と諭します。

 「出向いていく教会であれ」と呼びかけ続けられた教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」の中で、「宣教を中心とした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません(33項)」と呼びかけておられました。その声は今でも力を持っています。

 「これまでこうしてきたから」とか、「こうして成功してきた」とか、「これが当然なのだ」とか、さまざまな人間の思いやおごりにがんじがらめになるとき、私たちは新しい挑戦へと踏み出すことを躊躇してしまい、結局、神の力が働くのを妨げてしまいます。

 ヨハネの前に立ちはだかった伝統に生きる人たちも、その過去のしがらみに縛られて、新しい道を見いだすことができずにいます。ヨハネの言葉は、私たちに、「勇気を持って、傷つくのを恐れず、『出向いていく教会』として、福音に生き、福音を証ししていくように」と力強く呼びかけています。

 神の正義の実現のためには、教会の中にでも変えなくてはならないことが多々あります。人間の尊厳を守り抜くために、正していかなければならないしがらみも多くあります。「一歩ずつ、そのしがらみから自分を解き放つ努力を続けたい」と思います。

 「荒れ野で叫ぶ声」、すなわち洗礼者ヨハネの呼びかけは、ただ空しく響き渡る夢物語ではなく、人々の心に突き刺さる力ある声でありました。その厳しさの故に、後に洗礼者ヨハネは捕らえられ殉教の死を遂げることになります。洗礼者ヨハネが告げる言葉には神の力が宿っており、それを受け入れることのできないものは、命に対する暴力で、神の言葉を否定しようとしました。

 教会は、その誕生の時から聖霊によって導かれ、聖霊によって力づけられながら、その時代における預言者としての務めを果たそうとしてきました。私たちは現代社会を旅する神の民として、ヨハネの姿勢にならい、過去のしがらみから自らを解き放ち、常に恐れることなく神の言葉を証しする預言者でありたいと思います。

 待降節第二主日は、宣教地召命促進の日です。日本だけでなく、多くの国で、司祭・修道者の召命は危機的状況にあります。数字の上ではそうでしょう。主は呼びかけることをやめたのでしょうか。そんなはずはありません。呼びかけに耳を傾け、それに勇気を持って「はい」と答えることができる霊的な環境を、共同体の中で整えたいと思います。

 宣教地において、すべての信徒が福音を証しする使命を果たせるよう、また宣教に従事する司祭・修道者がよりいっそう増えるよう祈ることは、とても大切なことです。この日、私たちは、世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲を捧げます。教会が神の民としてふさわしく預言者としての使命を果たしていくことができるように、豊かな召命が与えられるよう祈り続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)
 

2025年12月6日

・「主の再臨を、積極的に行動しながら待ち望もう」-菊地東京大司教の待降節第一主日

2025年11月29日 (土)週刊大司教第234回:待降節第一主日A

 典礼の暦は新しく始まり、本日はその最初、待降節第一主日です。

 降誕祭に向けた霊的な準備が始まりました。町中にはすでにクリスマスをイメージした飾りがあったり、クリスマス商戦が始まっていたり、きれいなイルミネーションが暗闇を照らしています。その本当の意味、特に、絶望にとらわれて暗闇を歩んでいるわたしたちに、神の御子の受肉と誕生という希望の光が差し込んだ出来事の意味を、少しでも伝えることができればと思います。Footer_logo

 今週末、11月27日から30日まで、アジア司教協議会連盟(FABC)、同福音宣教部門、そして教皇庁宣教事業が共催で、マレーシアのペナンにおいてアジア宣教大会が開催されています。同地の宗教的文化的背景を考慮に入れて、「The Great Pilgrimage of Hope(希望の大巡礼)」という名称で呼ばれています。

 アジアでの宣教大会は、2006年のチェンマイに続いて二回目となります。日本からも、森山、ガクタン、中野司教を始め全国教区からの代表が参加しています。わたしも、他の予定との関連で全日程に参加することができませんが、金曜と土曜の二日間は、FABCの事務局側として現地へ飛び、参加してきます。アジアの教会の様々な人との出会いを経験した日本からの参加者の声を待ちたいと思います。

以下、29日午後6時配信、週刊大司教第324回、待降節第一主日のメッセージです。

【待降節第一主日A(ビデオ配信メッセージ)2025年11月30日】

 待降節が始まりました。典礼の暦は新しい年の始まりです。今日から、主の降誕・クリスマスに向けて、私たちの信仰における準備が始まります。四週間設けられている待降節は、前半と後半で焦点が異なります。前半は主に世の終わりに焦点が当てられ、後半は救い主の受肉と誕生に焦点を当てています。

 しかしその全期間を通じて、中心に置かれているメッセージは、30日の福音に記されている、「目を覚ましていなさい」、「用意していなさい」という主の言葉にあります。いつ起こるのか分からない出来事に備えて、目を覚まし準備を整えておくことの重要性が繰り返されます。

 まさしく「待降節」という言葉が表しているように、私たちは待っています。パウロがコリント人への手紙に記したように、私たちは「マラナタ」-主よ来てください、と祈っています。救い主の再臨を待ち望んでいます。

 当然ですが、待つことには様々な態度が思い起こされます。「いつだろう」と、そわそわしていることも待つことですが、何もせずに眠りこけていたとしても、それは待っていることに変わりはありません。しかし、イエスの指摘される「待つ」姿勢は、「目を覚ましている」ことと、「準備整えている」という二つの行動を必要とします。ただ「立ち尽くす」のではなく、「行動して待つ」のです。

 私たちは、主の時がいつであるのかを知らないのですから、ただ立ち尽くして待つのではなく、その時のしるしをよく識別できるように、常に準備をするために行動するものでありたい、と思います。その準備は、主に従って生きることなのですから、自分自身のためではなく、主が愛されているすべての人のためであります。主ご自身の模範に倣って、愛と慈しみに積極的に生き行動するものでありたい、と思います。助けを必要とする人々のところへ出向いていこうとする、常に積極的な待つ姿勢を証しする教会共同体でありたい、と思います。

 ただ立ち止まって待っているだけでなく、行動する神の民は、主に立ち返る者でもあります。今、私たちが一年間過ごしている聖年が終わりに近づきました。聖年は祈る時でもありますが、巡礼を促しているように、行動する時でもあります。積極的に待つ姿勢を証しする時です。

 昨年の降誕祭に教皇フランシスコは、次のように述べておられました。

 「イエスは門です… すべての人が主に立ち帰ることができるようにするためです。私たちは皆、失われた羊のようであり、牧者を必要としていて、御父の家に帰るための門を必要としているのです。イエスは牧者であり、門です」。

 そのうえで、教皇は、「私たちは時として… 門をくぐる勇気がないのです。私たちの生き方を見つめ直すことが求められるからです。門を通るには、『前に一歩を踏み出す』という犠牲が求められます… 平和の君である御子の大きく開かれた両腕に自分自身を委ねるためです。聖年の始めのこのクリスマス、私は一人ひとりの人、すべての民族と国家に呼びかけます。その扉をくぐる勇気を持って、希望の巡礼者となり、武器の轟音を黙らせ、分裂を克服しましょう」。

 世界は「希望」を必要としています。その希望は、ただ立ち尽くしていたのでは生まれません。主の再臨を待ち望む私たちは、その主が求められている神の平和が確立されるために、積極的に行動しながら、主を待ち望む者でありたい、と思います。

 マラナタ。主よ来てください。

(編集「カトリック・あい」=表記を当用漢字表記に沿って統一しました)

2025年11月29日

・「私たちも、この世界で平和を証しする使徒であり続けよう」-菊地・東京大司教の「王であるキリストの主日」メッセージ

2025年11月22日 (土)週刊大司教第233回:王であるキリスト

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 典礼暦上の一年の最後の主日となります。王であるキリストの主日です。

 メッセージでも触れていますが、王であるキリストの主日は世界青年の日でもあります。2027年8月にソウルで開催される世界青年大会への準備が進む中、毎年のこの世界青年の日も大切な祈りの機会です。

 教皇レオ14世は、この日のメッセージを発表されています。こちらのリンク先からご覧ください。

 第40回目となる世界青年の日のメッセージテーマは、ヨハネ福音15章27節からとられた「あなた方も、初めから私と一緒にいたのだから、証しをするのである」とされています。

 以下、22日午後6時配信、週刊大司教第233回目、王であるキリストの主日のメッセージです。

【王であるキリスト主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年11月23日】

 「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで,選ばれたものなら、自分を救うがよい」

 このイエスをあざける議員たちの言葉が、キリストが世界の王であるとは一体どういう意味なのかを,明確に示しています。

 全世界の王である神は、自分自身の名誉や欲望のために、皆に仕えることを強制する権力者ではなく、創造された全ての命への限りない愛の救いのために、自らの命を与え、自らを犠牲にする王であることを、議員たちの言葉は図らずも、証しをしています。

 さらに議員の言葉は、人間の身勝手な思い違いを明らかにします。自分が求めている条件を満たさなければ神と認めないというのです。神はご自分からその姿を私たちに示す現実の存在であって、人間の願望を満たすための存在、すなわち夢物語ではありません。神が私たちを支配するのであって、私たちが神をコントロールするのではありません。

 神は苦しみの中でも口を閉ざしてあざけりに耐え、いのちを賭してまで、仕えるものであろう、とされます。世界を支配する王であるキリストは、私たちがその模範に倣い、常に仕えるものであるようにと求めます。自分の願望や欲望を満たすためではなく、他者の命を生かすために行動することを求めています。

 王であるキリストの主日は,世界青年の日と定められています。40回目となる世界青年の日のためのメッセージで、教皇レオ14世はヨハネ福音書からの主イエスの言葉、「あなた方も、初めから私と一緒にいたのだから、証しをするのである」をテーマとして掲げられました。

 教皇は、2027年にソウルで開催される世界青年大会までの歩みを念頭に、「私は証しの二つの側面、すなわち神から賜物として頂いたイエスとの友情と、社会における平和の建設者となる、という私たちの決意に焦点を当てたい」と述べてメッセージを始めています。

 弟子として従おうとする私たちを「友」として呼ばれるイエスは、その「友情を通して、イエスは皆さんの話に耳を傾け、皆さんに励ましを与え、皆さんを導き、皆さん一人一人を新しい人生へと招いてくださいます」と教皇は述べています。

 さらに、世界の過酷な現実の中で命の危機に直面している多くの人の実例を挙げた後で、教皇は青年達に、イエスがそう招いておられるように、そういった困難に直面する人たちに寄り添うようにと呼びかけます。

 教皇はメッセージの締めくくりで、福音を証しする者は平和構築に取り組むことに触れ、こう記しています。

 「信仰の言葉を用いて分裂を煽る者たちに倣ってはいけません。むしろ、不平等をなくし、分裂し抑圧された共同体を和解させるための計画を立てましょう。愛する友よ、そのために、私たちの内なる神の声に耳を傾け、利己心を克服し、平和の積極的な担い手となりましょう。復活した主の賜物である平和は、心に主の霊を宿す人々の共通の証しを通して、この世に現れるでしょう」

 世界の王であるキリストの支配する世界は、神の秩序が支配する世界です。それこそが真の平和です。私たち教会共同体も、この世界のただ中で平和を証しする使徒であり続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年11月22日

・「苦難が続くミャンマーの教会のために、祈りと援助を続けよう」-菊地・東京大司教、東京教区の「ミャンマーデー」に

2025年11月16日 (日) 東京教区ミャンマーデー@関口教会

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 11月の第三日曜日は、東京教区にとってパートナー教会であるミャンマーの教会のために祈り献金を捧げる「ミャンマーデー」です。これまでの歴史や現在の支援活動については、こちらのリンクの東京教区ホームページをご覧ください。(写真は、2020年2月、マンダレーのマルコ大司教様と)

 ご存じのようにミャンマーでは、コロナ禍の最中に発生したクーデター後、政情不安定が続き、平和を訴えるカトリック教会は攻撃の対象となっています。今年のミャンマーデーにあわせて、ミャンマーからは南部のモーラミャイン教区からモリス司教様が来日され、現在東京でもメンバーが増えているミャンマー共同体と、本日午後に築地教会でミサを捧げて祈りを共にされています。

 ミャンマーには全人口の多数を占めるビルマ族と、それ以外の数多くの少数民族が、一緒になって国を作っています。

 しかしながら、多数派の占める軍が力を持ち、加えて隣国との国境地帯を中心に少数民族による独立運動が続いてきたこともあり、過去の歴史を顧みれば、現在のような状況の中で、対話ではなく武力を持って国家の安定を回復することは至難の業であり、多くの命が危機にさらされ、また暴力で奪われてしまうことは避けられません。

 政府はまもなく選挙を行うことにしていると報道されていますが、果たしてこの選挙が民主的に行われるのか、注目していきたいと思います。

 教会はクーデター後から、幾度も軍部や政府に対して、対話による平和構築を呼びかけてきましたが、それに対しては、武力による破壊がもたらされてきました。司教館やカテドラルを空襲で失った司教様もおられます。

 長年のパートナーであるミャンマーの教会のために祈りたいと思います。

 なお年間第33主日にあたる今日は、貧しい人のための世界祈願日でもあります。教皇様のメッセージはこちらにあります。

 教皇フランシスコの意向を引き継いで貧しい人への司牧を教会の中心に据える教皇レオ14世も、メッセージの中で様々な呼びかけを行っています。私自身もそうですが、その呼びかけをどのように具体的な行動に移していくのかが、大きな課題であると思います。いつも申し上げていることですが、皆が同じことをする必要はないと共に、皆が同じことをできるわけではないので、必ずこれをしなくてはならないということではありません。

 しかしながら、貧しい人々へのかかわりが単なる慈善活動ではなくて教会の司牧の中心にあるという教皇様の指摘を考慮するとき、格差を生じさせる社会全体の構造的な課題に目をつぶっていては結果として何も変わらないという状況が何十年も続いているのですから、具体的に教会がどう行動するのかを、今の次代の立ち位置から考えてみる必要を痛感しています。

以下、本日午前10時、東京カテドラル聖マリア大聖堂での主日ミサの説教原稿です。

【年間第33主日C・ミャンマーデー・ミサ 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2025年11月16日】

 教会は年間第33主日を、貧しい人々のための世界祈願日と定めています。2016年、いつくしみの特別聖年が終わるにともない、教皇フランシスコは、「世界中のキリスト教共同体を、もっとも小さくされた人々ともっとも困窮している人々に向けられたキリストの愛のより具体的で大きなしるしとするために」この祈願日を設けることを提案され、2017年から教会の世界祈願日として行われています。

 教皇フランシスコによれば、その第一の目的は、「使い捨てと浪費の文化を否定し、出会いの文化を受け入れるようキリスト者を励ますこと」であり、同時に「兄弟愛の具体的な表れであるあらゆる連帯活動を通して、貧しい人と分かち合うよう、宗教の別に関わりなく、すべての人を」招くことも目的としています。分断と排除が推し進められている世界の風潮に対して警鐘を鳴らし続けた教皇フランシスコは、経済的困窮のために人間の尊厳を否定され、社会から忘れ去られ、いのちの危機に直面する方々とともに歩むことの重要性を指摘し、こう言われました。

 「もしキリストに会いたいと真に望むなら、聖体のうちに与えられる秘跡的な交わりへの応答として、わたしたちは貧しい人の傷ついたからだの中におられるキリストのからだに触れなければなりません」

 困難に直面する人たちへの愛の奉仕は、わたしたちの自己満足のためではなく、その人たちとの出会いと分かち合いを通じて、キリストと出会うことであると、教皇は述べておられました。すべての人に与えられたいのちの賜物を、例外なくすべて護ることは、私たちの大切な使命です。

9回目となる今年の教皇メッセージは、詩編71篇からとられた「主よ、あなたは私の希望」をテーマとしています。

 この一年、私たちが過ごしている聖年のテーマは「希望の巡礼者」ですが、教皇レオ14世はメッセージの中で、「人生の試練のただ中で、聖霊によって心に注がれる神の愛に対する堅固で力強い確信によって、希望は力づけられます。だから、希望は欺くことがありません」と、聖年の柱となるメッセージを繰り返しておられます。

 その上で、「貧しい人々は、貧困、脆弱さ、疎外による不安定な生活条件の中で希望を告白するからこそ、力強く信頼できる希望の証人となることができます。彼らは権力や富の安定を当てにしません。・・・彼らは別のところに希望を置くしかありません。私たちも、神が第一の、また唯一の希望であることを認めることによって、儚い希望から、永遠の希望へと移ります」と呼びかけておられます。

 教皇レオ14世は、教皇フランシスコが最初のメッセージで強調した点を繰り返し、貧しい人たちとの関わりは単なる慈善事業ではなく、教会の司牧活動の中心に貧しい人たちがいることを指摘されます。その上で、「神は貧しい人々の貧しさを引き受けました。それは、彼らの声と物語と顔を通して、私たちを豊かにするためです。あらゆる形の貧困は、例外なしに、福音を具体的に生き、希望の力強いしるしを示すようにとの呼びかけです」と記し、教会共同体が社会の現実の中で、福音を具体的に明かしする存在であるように呼びかけています。

 私たちは、今、この社会の中で、何を証しする存在であるでしょうか。教会は何を証しているでしょうか。

 本日は東京教区にとってはミャンマーデーであり、私たちの兄弟姉妹であるミャンマー共同体の皆さんと心を合わせ、ミャンマーのために祈りを捧げています。コロナ禍の最中に起こったクーデター後、未だに政情は安定せず、平和を唱え行動するカトリック教会に対しては、武力による攻撃も起こっています。いくつもの教会が破壊され、カテドラルと司教館を失った司教様もおられます。ミャンマーの平和のために特に祈りたいと思います。

 ミャンマーの教会とのパートナーシップの原点は、東京教区が第二次世界大戦後、ドイツのケルン教区によって支援を受けたことに遡ります。1979年、両教区の友好25周年にあたり、当時の白柳誠一東京大司教は「ケルン精神」、すなわち自己犠牲の精神を学び、ケルン教区の召命のために祈るよう教区の信者に呼びかけ、来日した当時のケルン教区長ヘフナー枢機卿との話し合いで、両教区は力をあわせてミャンマーの教会を支援することに合意しました。東京大司教区では、毎年11月の第3日曜日を「ミャンマーデー」と定め、ミャンマーの教会のための献金を呼びかけ、パートナー教会のために祈りを捧げてきました。

 シノダル(共働的)な教会は、「共に支え、共に耳を傾け、共に祈りあいながら、聖霊に導かれて道を歩んでいく教会」ですが、そう考えてみると、すでに1954年にケルンが東京を支援し始めたとき、そして1979年に両教区が協力しながらミャンマー支援を始めた時に、ケルンと東京とミャンマーの教会共同体は、”シノドスの道”を歩んでいたということができます。このシノダルな教会のあり方を、さらに継続し、深めていきたいと思います。

 教皇レオ14世は、先ほどの祈願日のメッセージの終わりにこう書かれています。

 「この聖年が、古くからの形態と新たな形態の両方の貧困と戦い、また、もっとも貧しい人を支え、助ける新たな取り組みを行うための政策の発展を促しますように。労働、教育、住居、健康は、安全の土台です。武力によって安全を保障することはできません」

 貧しさへの取り組みは、経済的問題だけではなく、人間の尊厳の問題であり、神の平和の確立こそがその解決になります。パートナー教会であるミャンマーの平和のために祈り行動することも、この世界祈願日にふさわしいことであると思います。

 典礼の暦は待降節から新しく始まりますので、暦の終わりのこの時期には、世の終わりについて語られるイエスの言葉に耳を傾けます。

 世の終わりは一体いつ訪れるのか。世の終わりにおける主イエスの再臨を待ち望んでいるわたしたちにとって、関心のあることであろうと思います。しかしイエスは、社会の中で次々と起こる不安を深める状況に振り回されることなく、感情的に振り回されないようにと忠告します。その上で、イエスは、「忍耐によって、あなた方はいのちを勝ち取りなさい」と諭します。

 簡単に情報にアクセスできる昨今、不確実な情報に振り回されることも多くなりました。情報の流れを操作することで、一定の世論を生み出すこともできるようになりました。そのような時代だからこそ、振り回されることなく、時のしるしを読み取りながら、忍耐のうちにイエスの言葉に従い続け、真の命に到達できるように努めたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年11月16日

・「教会共同体の取り組みの中心に誰がいるのか、見つめ直そう」-「貧しい人々のための世界祈願日」に菊地・東京大司教

 2025年11月15日 (土) 週刊大司教第232回:年間第33主日C

 典礼の暦も終わりに近づいてきました。16日は年間第33主日です。

 年間第33主日は、「貧しい人々のための世界祈願日」です。2016年、慈しみの特別聖年が終わるに伴い、教皇フランシスコは「世界中のキリスト教共同体を、最も小さくされた人々と最も困窮している人々に向けられたキリストの愛のより具体的で大きなしるしとするために」、この祈願日を設けることを提案され、2017年から教会の世界祈願日として行われています。

 「分断と排除」が推し進められている世界の風潮に対して警鐘を鳴らし続けた教皇フランシスコは、経済的困窮のために人間の尊厳を否定され、社会から忘れ去られ、命の危機に直面する方々と共に歩むことの重要性を指摘して、こう言われました。

 「もしキリストに会いたいと真に望むなら、聖体のうちに与えられる秘跡的な交わりへの応答として、私たちは貧しい人の傷ついた体の中におられるキリストの体に触れなければなりません」。

 困難に直面する人たちへの愛の奉仕は、「私たちの自己満足のためではなく、その人たちとの出会いと分かち合いを通じて、キリストと出会うことだ」と教皇は述べておられました。すべての人に与えられたいのちの賜物を、例外なくすべて護ることは、わたしたちの大切な使命です。

 今年の教皇レオ14世のメッセージは、こちらのリンクからご覧いただけます。「貧しい人々のための世界祈願日」が始まって9回目となる今年の教皇メッセージは、詩編71篇からとられた「主よ、あなたは私の希望」をテーマとしています。

 以下、15日午後6時配信、週刊大司教第232回、年間第33主日のメッセージです。

【年間第33主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年11月16日】

 典礼の暦は待降節から新しく始まります。暦の終わりのこの時期には、世の終わりについて語るイエスの言葉に耳を傾けます。

 世の終わりは、いったい、いつ訪れるのか。世の終わりにおける主イエスの再臨を待ち望んでいる私たちにとって関心のあることだろう、と思います。しかしイエスは、社会の中で次々と起こる不安を深める状況に振り回されることなく、そういった諸々の不安を醸し出す出来事に振り回されないように、と忠告されます。その上で、イエスは、「忍耐によって、あなた方は命を勝ち取りなさい」と諭されます。

 情報に容易にアクセスできる昨今、不確実な情報に振り回されることも多くなりました。情報の流れを操作することで、一定の世論を生み出すことができてしまうようになりました。そのような時代だからこそ、振り回されることなく、時のしるしを読み取りながら、忍耐のうちにイエスの言葉に従い続け、真の命に到達できるように努めたいと思います。

 第二バチカン公会議は、「時のしるし」を読み解き行動することを柱の一つに据えました。公会議を締めくくる「現代世界憲章」は、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と指摘した後に、教会は「常に時のしるしについて吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務を課されている(4)」と記しています。「時のしるし」を福音の光に照らされて読み解くのは、私たちの務めです。

 教会は年間第33主日を「貧しい人々のための世界祈願日」と定めています。今年の教皇メッセージのテーマは、詩編71篇からとられた「主よ、あなたは私の希望」とされています。

 この一年、私たちが過ごしている聖年のテーマは「希望の巡礼者」ですが、教皇様はメッセージの中で、「人生の試練のただ中で、聖霊によって心に注がれる神の愛に対する堅固で力強い確信によって、希望は力づけられます。だから、希望は欺くことがありません」と、聖年の柱となるメッセージを繰り返しておられます。

 その上で、「貧しい人々は、貧困、脆弱さ、疎外による不安定な生活条件の中で希望を告白するからこそ、力強く信頼できる希望の証人となることができます。彼らは権力や富の安定を当てにしません… 彼らは別のところに希望を置くしかありません。私たちも、神が第一の、また唯一の希望であることを認めることで、儚い希望から、永遠の希望へと移ります」と呼びかけておられます。

 教皇様は、貧しい人たちとの関わりは慈善事業ではなく、司牧活動の中心に貧しい人たちはおられ、「神は貧しい人々の貧しさを引き受けました。それは、彼らの声と物語と顔を通して私たちを豊かにするためです。あらゆる形の貧困は、例外なしに、福音を具体的に生き、希望の力強いしるしを示すように、との呼びかけです」と記されています。

 教会共同体の取り組みの中心に誰がいるのか、見つめ直してみたいと思います。時のしるしを正しく読み取り、忍耐強いものでありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年11月15日

・「私たちは教皇と共に歩み、共に主の身体を作り上げる神の民」-菊地・東京大司教の「ラテラノ教会献堂の祝日」説教

2025年11月 8日 (土)週刊大司教第231回:ラテラノ教会の献堂

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 9日の年間第32主日は、ラテラノ教会の献堂の記念日と重なります。ラテラノ教会とは、ローマ司教の司教座聖堂、すなわち教皇様のカテドラルの献堂の記念日ですので、主日に優先してお祝いされます。今日は特に教皇レオ14世のためにお祈りいたしましょう。

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 11月6日夜から7日午後にかけて、上石神井にある日本カトリック神学院で神学院司教会議を行い、全国のほぼ全員の司教が神学院に集まり、神学院に一泊して神学生と交流し、共に祈り、そして神学院の運営について話し合いました。神学生のために、また司祭修道者の召命のためにお祈りください。

 以下、8日午後6時配信、週刊大司教第231回、ラテラノ教会献堂の主日のメッセージです。

【ラテラノ教会の献堂C 2025年11月9日】

 11月9日はラテラノ教会の献堂の祝日です。今年は日曜日と重なりましたので、主日に、この献堂記念を祝うことになります。なぜならば、ラテラノ聖堂とは、教皇様のローマ司教としての司教座聖堂・カテドラルとして重要な意味を持っているからです。

 普遍教会の牧者であるローマ教皇のカテドラル献堂を祝うことは、私たちの教会は、あたかも「本店があって支店がある」というような、”本店”であるローマの教会の”支店”が日本にある、ということなのではなく、一人の牧者の下に、どこにいても皆で一つの神の民を形成しており、それぞれの教会は一つの身体の部分なのだ、ということを思い起こさせます。その意味で、ラテラノ教会の献堂の祝日は、私たちに、「教会とはいったい何であるのか」を改めて考えさせる祝日です。

 ”シノドスの道”は、まさしくこの「教会とは何であるのか」を改めて振り返ることを、私たちに求めていました。教会は各地にある建物のことではなく、「時の流れの中を、共に旅する神の民」であることを改めて自覚し、神の民として共に歩み、支え合い、耳を傾け合い、共に祈ることを通じて、聖霊の導きを識別することを目指しているのが、今、進められている”シノドスの道”の歩みです。

 それぞれの地方の教会が勝手に歩んでいるのではなく、皆が一つになって構成する神の民の一部分であることを自覚するためにも、その中心にある教皇様のカテドラルの存在を意識することは大切です。

 この地上における目に見える組織としての教会は、同時に霊的な交わりとしての教会でもあり、さらには天上の教会とも繋がれています。教会憲章の8項には、次のように書かれています。

 「位階制度によって組織された社会とキリストの神秘体、目に見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人間的要素と神的要素を併せ持つ複雑な一つの実在を形成している」

 ですから、教会共同体のありかたを、普遍教会のレベルでも、地方教会のレベルでも、社会一般の価値観で判断していくことは、必ずしもふさわしいことではありません。私たちは、様々な考え方や思想を持った人間ですが、同じ信仰において結ばれていることを心にとめて、自分の考えではなく、神によって集められたものとして、互いの違いを乗り越えてキリストの神秘体を形作る努力をしなくてはなりません。

 私たち一人ひとりが教会です。一人ひとりが教会を構成するのです。日曜日に教会という建物に来たときだけ。私たちは教会の一員になるのでなく、信仰者として生きている限り、常にどこにあっても、私たちは大きな神の民の一部として、教会に生きていくのです。

 ヨハネ福音でイエスは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とユダヤ人たちに語ります。建物ではなく、ご自身そのものが神殿であることを、明確にします。ですから教会は、復活されたイエスの体であります。

 その意味で、神の民を牧者として導く役割を主ご自身から託されたペトロの後継者である教皇様のために、この祝日には祈りを捧げましょう。私たちは教皇様と共に歩み、共に主の身体を作り上げる神の民なのです。

(用語編集「カトリック・あい」)

2025年11月8日

・「諸聖人の祝日と死者の日は二つで一つの記念、教会が地上と天上の交わりのうちに存在していること思い起こさせてくれる」-菊地・東京大司教

2025年11月 1日 (土)週刊大司教第230回:死者の日

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  11月1日は諸聖人の祝日、2日は死者の日とされています。

 この時期の全免償についてメッセージでも触れています。今年は聖年ですので、次の文書も参照ください。「教皇フランシスコにより発表された2025年の通常聖年の間に与えられる免償に関する教令」で、リンク先は中央協議会のホームページです。次のように記されています。

「2025年の通常聖年の期間中、すでに与えられた他の免償は有効であり続けます。心から痛悔し、罪の傾きから離れ(『免償の手引き』[Enchiridion Indulgentiarum, IV ed., norm. 20, § 1]参照)、愛の精神に動かされ、聖年の間、ゆるしの秘跡によって清められ、聖体に力づけられ、教皇の意向に従って祈る信者は、教会の宝から全免償が与えられ、その罪の赦免とゆるしが与えられます。これは代願のかたちで、煉獄の霊魂に対して与えられることも可能です」

 東京教区では11月2日の午後、合同追悼ミサが三カ所で捧げられます。関口のカテドラル、府中墓地、そして五日市霊園で、すべて午後2時から始まります。カテドラルは私、府中墓地はアンドレア司教様、五日市霊園は小田武直神父様の司式となります。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第230回、死者の日のメッセージ原稿です。

【死者の日主日C 2025年11月2日】

 11月1日は諸聖人の祝日であり、翌2日は死者の日とされています。教会の伝統は、11月1日から8日までの間、全免償を得ることで、それを煉獄の霊魂に譲ることができる、とも定めています。この期間、赦しの秘跡を受け、どこであっても聖堂を敬虔に訪問し、聖体をいただき、墓所で祈り、主の祈りと信仰宣言を唱えて全免償をいただき、それを煉獄の死者に譲ることができます。

 もちろん今年は聖年ですから、教皇庁内赦院の定めによって、「赦しの秘跡によって清められ、聖体に力づけられ、教皇の意向に従って祈る信者は、教会の宝から全免償が与えられ」、それを煉獄の霊魂のために与えることは年間を通じて可能とされています。

 『カトリック教会のカテキズム』には、聖人たちとの交わりについて、次のように記されています。

 「私たちが天の住人の記念を尊敬するのは、単に彼らの模範のためばかりではなく、それ以上に、全教会の一致が兄弟的愛の実践をとおして霊において固められるからです… 諸聖人との交わりは、私たちをキリストに結び合わせるのであって、全ての恩恵と神の民自身の生命は泉、あるいは頭からのように、キリストから流れ出ます」(957項)

 また死者への祈りついて、カテキズムは、こう記します。

 「…死者のための私たちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者が私たちのために執り成すのを有効にすることができるのです(958項)」

 11月1日と2日の記念は、二つでひとつの記念であり、教会は地上と天上の交わりのうちに存在していることを、私たちに思い起こさせてくれます。

 イエスをキリストと信じる私たちは、イエスに結ばれることで、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠の命に生きる大きな希望を持ちながら、この人生を歩んでいます。私たちの人生の歩みは、この世の命だけで終わるものではなく、永遠の中で私たちは生かされています。

 私たちは、信仰宣言で「聖徒の交わり」を信じると宣言します。そもそも教会共同体は「聖徒の交わり」であります。教会共同体は孤立のうちに閉じ籠る”排他的集団”ではなく、命を生かすために互いに支え合う”連帯の共同体”です。シノドス(共働)的教会です。共に歩む教会、互いに耳を傾け合う教会、互いに支え合う教会、それこそが「交わりの教会」そのものであります。

 私たちは、地上の教会において、御聖体を通じて一致し、一つの体を形作っており、互いに与えられた賜物を生きることによって、主ご自身の体である教会共同体全体を生かす分かち合いにおける交わりに生きています。同時に教会は、「地上で旅する者、自分の清めを受けている死者、また天国の至福に与っている者たちが、皆ともに一つの教会を構成している」とカテキズムに記しています。

 シノドス的な教会は、天上の教会との交わりの中で、霊的に支え合う共同体です。ですから、例えば祈りの側面がかけていて、この世における助け合いの集団となってしまっては、本来の意味とは異なるものとなってしまいます。シノドス的教会は聖徒の交わりの教会です。地上と天上の交わりにある教会です。

 ですから私たちは死んでいなくなってしまった人たちを嘆き悲しむ祈りを捧げるのではなく、今、一緒になって一つの教会を作り上げているすべての人たちと共に捧げる、今、生きている祈りをささげるのです。

(表記を当用漢字表記に統一しました=「カトリック・あい」)

2025年11月1日

・「私たちが求められている謙遜さは『神に全てを委ねているかどうか』だ」-菊地・東京大司教の年間第30主日メッセージ

2025年10月25日 (土)週刊大司教第229回:年間第30主日C

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 時は瞬く間に過ぎ去り、10月も最後の日曜日となりました。今月の最初の頃は枢機卿名義教会着座式のためにローマにいたことが、遙か昔のようです。左の写真は10月8日の一般謁見です。

 先週19日は、世界宣教の日でありました。中央協議会のホームページに以下の説明が掲載されています。

「世界宣教の日」は、すべての人に宣教の心を呼び起こさせること、世界の福音化のために、霊的物的援助をはじめ宣教者たちの交流を各国の教会間で推進することを目的としています。この日の献金は、各国からローマ教皇庁に集められ、世界中の宣教地に援助金として送られます。日本の教会は、いまだに海外から多くの援助を受けていますが、経済的に恵まれない国々の宣教活動をさらに支援できるように成長していきたいものです。

 教皇庁宣教事業に関しては、日本における対応部署のホームページが設けられており、そこに詳細が記されていますので、一度お訪ねください。現在の日本全体の教皇庁宣教事業担当者は、東京教区の門間直輝神父様です。

 25日の週刊大司教でも触れた今年の世界宣教の日の教皇メッセージは、そのサイトに掲載されています。こちらからご覧ください

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 以下、25日午後6時配信、週刊大司教第229回、年間第三十主日のメッセージです。

 【年間第30主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年10月26日】

 私たちの目は”節穴”です。肝心な本質が見えていません。往々にして、思い込みと勘違いを引き起こしています。ルカ福音は、本質を知るためにどこに目を向けるのか、を記しています。

 福音は、「神様、罪人の私を憐れんでください」と、目を上げることもなく胸を打った徴税人の方が、自らの正しい行いを誇るファリサイ派の人よりも、神の目には正しい人とされた話を記します。

 当時の徴税人は様々な不正に手を染めていたとも言われ、多くの人の目には正しい人とは映らなかったことでしょうし、ファリサイ派の人は掟を忠実に守っていることから、多くの人からは正しい人と見なされていたことでしょう。神の目には本質が見え、私たちの目は”節穴”です。

 ファリサイ派の人が自分を見つめています。自分しか見えていません。自分はどういう人間なのか。彼が語るのは、自分のことばかりであり、自分の世界に閉じこもっているので、その世界では自分が一番に決まっています。ですから臆面もなく、報いを求めます。

 それに対して徴税人は、その目を神に向けています。自分がどういう人間であるのか、という判断をするのではなく、それをすべて神の判断に委ねています。つまり二人の違いは、自らの存在を神に委ねているか、委ねていないか、にあります。

 私たちには、単にマナーとして謙遜になることが求められているのではありません。求められている謙遜さは、神にすべてを委ねているかどうか、であります。御旨に従うことは、格好良く見栄え良く生きることではありません。

 自分の名誉のためではなく、神が「救いたい」と望んでおられる全ての命に福音が届けられるように、神の計画に身を委ね、全てを尽くして福音を証しするものとなりたいと思います。

 先週、10月19日は「世界宣教の日」でありました。教皇レオ14世はこの日のためのメッセージのテーマを「諸民族の中で生きる希望の宣教者」とされ、「キリストの足跡に従って希望の使者となり、それを築く者となるという根本的な召命」がキリスト者一人ひとりと教会共同体にはあるのだ、と強調されています。

 その上で教皇は、第二バチカン公会議の現代世界憲章に記されている、「「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある。真に人間的な事柄で、キリストの弟子たちの心に響かないものは何もない」(『現代世界憲章』1項)を引用して、「キリストの弟子たちはまず、自らが希望の『職人』となり、混乱し不幸に陥りがちな人類を回復させる者となる修練を積むよう求められています」と、全てのキリスト者がそれぞれの立場に応じて福音宣教をする者となるように、求めておられます。

 私たちも自らの宣教者としての使命を思い起こし、福音を、よりふさわしく証しする道を探り続けたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年10月25日

・「執拗に祈り続け、語り続け、証し人となり続けよう」-菊地・東京大司教の年間第29日メッセージ

週刊大司教第228回:年間第29主日C

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 先週は、10月9日木曜日夕方6時からローマで行われた枢機卿名義教会着座式のため、週刊大司教は一度お休みさせていただきました。

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 着座した名義教会サン・ジョバンニ・レオナルディ教会は、ローマ市郊外の比較的新しい住宅地にある生き生きとした小教区です。聖ジョバンニ・レオナルディが創立した修道会の会員が司牧にあたり、現在はインド出身の司祭が担当されています。

 日本ではあまり知られていない聖ジョバンニ・レオナルディについては、以下のメッセージで触れている教皇ベネディクト16世の、2009年10月7日の一般謁見での講話で詳しく紹介されています。こちらのリンクから是非お読みください

 同小教区聖堂は、サイズ的に300人程度の規模ですが、戦後に発展した住宅地にあり、信徒の方々が自分たちの努力で建設した教会だと伺いました。日曜日には4回のミサが捧げられているそうです。敷地内にはいわゆる学童保育的施設やカリタスのセンター、そしてサッカー教室などもあり、子どもたちも多く見られました。

 この日のミサには日本からの巡礼団だけで100名を超えていたため、聖堂に入りきれない恐れがあり、まず名義教会着座式を聖堂で行い、その後に隣にある運動場に移動して、そこでのミサとなりました。信徒の方々にとってはこの日、10月9日は、保護の聖人である聖ジョバンニ・レオナルディの祝日であり、木曜の着座式に始まって日曜の堅信式までの小教区フィエスタの初日となりました。

 運動場にはステージが設けられ、その上でミサを捧げましたが、その後は深夜まで、コンサートが行われ、地域の大勢の方が参加されていました。

 日本からは前田枢機卿様、中村大司教様、中野司教様、アンドレア司教様、その他複数の巡礼団の皆さんが参加してくださり、東京教区を代表して事務局長の泉神父様と赤井職員1760084876463、枢機卿秘書役として小西神父様、前田枢機卿秘書としてスック神父様、巡礼団に同行して山口道孝神父様が参加されました。また日本政府を代表して駐バチカンの千葉大使ご夫妻や、国際カリタス事務局長始めシニアスタッフ、ローマのカトリック日本人会、留学中の司祭や修道者・信徒の皆さん、さらにはローマ市の代表も参加されました。皆さんありがとうございます。心から感謝申し上げます。

 右の写真の祭服は、小教区に伝わる祭服だそうです。カズラの下にはダルマチカも着用しています。侍者は福音宣教省管轄下のウルバノ大学で学ぶ神学生たちが来てくださり、全体の儀式は教皇儀典室のモンセニョール(教皇フランシスコ訪日の際にも来られたモンセニョール)がおいでになり、しっかりと仕切ってくださいました。わたしは彼のささやきの通りに動きました。なおミサはイタリア語です。練習しました。説教は日本語で行い、アンドレア司教様が翻訳してくださいました。説教原稿は別途掲載します。

 以下、18日午後6時配信の年間第29主日のメッセージです。

《年間第29主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年10月19日》

 10月9日の夕刻、ローマ郊外にあるサン・ジョバンニ・レオナルディ教会において、枢機卿の名義教会の着座式を行いました。

 枢機卿になることによって、名義上はローマの司祭団の一員に加えられますので、慣例によって枢機卿にはローマ教区内のいずれかの小教区が名義教会として割り当てられます。ローマ教区の教区司教である教皇様のもとには、300を超える小教区があり、枢機卿の数を超えていますから、中には伝統によって長年名義教会であるところもありますが、私の名義教会は今回が初めてとなります。

 そのためもあって、着座式には多くの信徒の方が参加され、活気のある小教区共同体の一面を体験することができましたし、日本からも巡礼団を始め100名を超える方が一緒に参加くださいましたので、日本とローマの教会共同体の絆も生まれたのではと期待しています。私がこの小教区の運営に直接関わるわけではありませんが、今後も信仰上の交わりを深めたいと思います。

 10月9日は聖ジョバンニ・レオナルディの祝日でもありました。教皇ベネディクト16世は、2009年10月7日、聖人の没後400周年を記念したメッセージで次のように聖人を紹介されています。「聖ジョヴァンニ・レオナルディは神の母律修参事会の創立者で・・・強い宣教への熱意においても記憶にとどめられています。レオナルディはフアン・バウティスタ・ビベスとイエズス会士のマルティン・デ・フネスとともに宣教者のための聖座の特別な省、すなわち布教聖省と将来の布教聖省直属のウルバノ大学の設立を計画し、そのために貢献しました」

 その上で教皇は、「ジョヴァンニ・レオナルディは、イエス・キリストと個人的に出会うことを自らの根本的な存在理由にしようと努めました。彼が繰り返していったとおり、「キリストから再出発しなければなりません」。すべてにおいてキリストを第一とすることが、彼の判断と行動の具体的な基準であり、司祭としての活動を生み出す原理でした」と述べておられます。福音宣教を第一に掲げて活動された聖人の教会を、名義教会としていただいたことに、心から感謝しています。

 本日のルカ福音は、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」、イエスが裁判官相手に正義の行使を求め続ける一人のやもめの話を記しています。その執拗な要求に、裁判官が降参してしまった様を記したあとに、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、いつまでも放っておかれることがあろうか」というイエスの言葉が記されています。

 そうであるならば、私たちは困難にめげることなく、神の福音をのべ伝え続けましょう。諦めることはありません。執拗に祈り続けましょう。執拗に語り続けましょう。執拗に証し人となり続けましょう。

  10月はロザリオの月です。教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアに捧げられた「ロザリオの月」と定められました。福音宣教における困難な状況に立ち向かうためにも、神の母であり、教会の母であり、そして私たちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、多くの人に救いのメッセージがもたらされるように、共にいてくださる主イエスと歩みを共にしながら、祈り続け、証しを続けていきましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年10月18日

・「私どもは取るに足りない僕」と心から告白できる者であり続けたい—菊地・東京大司教の年間第27主日メッセージ

2025年10菊地・東京大司教の「週間大司教」第227回:年間第27主日 「10月はロザリオの月」

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 時間が過ぎるのは本当に速いものです。数日前まで真夏のように暑い毎日でしたが、少しづつ秋が近づいている気配もあります。その秋らしい季節の10月は、ロザリオの月でもあります。

 10月7日にはロザリオの聖母の祝日があり、伝統的に10月にロザリオを祈ることが勧められてきたこともあり、教皇レオ十三世によって10月が「ロザリオの月」と定められました。

 ロザリオの起源には諸説ありますが、十二世紀後半の聖人である聖ドミニコが、当時の異端と闘うときに、聖母からの啓示を受けて始まったと言われています。ある意味、ロザリオは信仰における戦いのために道具であるのは事実です。

 10月7日のロザリオの聖母の記念日が1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍への勝利がロザリオの祈りによってもたらされたことを記念していますが、そういった時代からは社会のあり方が変わった現代社会にあっても、信仰を守るために重要な存在であると思います。

 社会全体の高齢化が進む中で、実際に教会共同体に足を運ぶことが適わない人にとっても、ロザリオの祈りで、霊的共同体の絆を深めることは意味があることだと思います。

 来週は枢機卿名義教会への着座式(10月9日)のため、巡礼団と共にローマへ出かけていますので、週刊大司教はお休みします。次回の週刊大司教第228回は、10月18日夜6時の配信になります。

 以下、4日午後6時配信の週間大司教第227回、年間第27主日のメッセージです。

【年間第27主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年10月5日】

 ルカ福音は、使徒たちがイエスに対して「私どもの信仰を増してください」と願ったことをまず記しています。確かに神を信じて生きるとき、「信仰」という目に見えない事柄を誰かが強めてくれたら、そんなに楽なことはありませんから、そのように願う弟子たちの気持ちも分からないではありません。しかし、イエスの答えは有名な「からし種一粒ほどの親交があれば」という言葉でした。

 もちろん、イエスは「本物の信仰があれば何でもできる」と言いたかったわけではありません。イエスがここで指摘するのは、「信仰というのは、誰かによって強めてもらうような類いのものではなく、人生における自分の選択と、それに基づく行動によっているのだ」ということです。

 6月に行われた聖年の神学生の祝祭のおりに、教皇レオ14世は集まった神学生たちに対して、「信仰は、積極的に行動することで深まる」として、次のように話されました。

 「キリストのみ心は、計り知れない憐れみによって動かされていました。キリストは人類の善きサマリア人であり、私たちにこう語りかけます。『行って、あなたも同じようにしなさい』。この憐れみは、群衆のために御言葉と分かち合いのパンを裂くように、と、キリストを突き動かしました。それは、そのときご自身を食べ物として与えた、二階の広間と十字架でのキリストの振る舞いを垣間見させました。そしてキリストは、こう言われました。『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』。それは、あなたがたのいのちを愛のたまものとしなさいという意味です」。

 信仰は、まさしく「あなた方の命を愛の賜物としなさい」というイエスの招きに応えることによって、強められます。

 さらに福音は、務めに対して忠実で謙遜な僕について語るイエスの言葉を記しています。すべき務めをすべて果たした時に、「私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言う謙遜な姿勢こそが、忠実な僕のあるべき姿だ、とイエスは語ります。

 私たちが信仰を生きる姿勢は、まさしくそのように、それぞれの与えられた召し出しに忠実に、そして謙遜に生きるところに意味があることを、イエスは強調されます。神に対する忠実さと謙遜さが、私たちにはあるでしょうか。

 昨日10月4日で、今年の「すべての命を守る月間」は終わりました。しかしエコロジカルな回心への招きには、終わりはありません。

 教皇フランシスコは環境回勅「ラウダート・シ」において、「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わりによって、人間の生が成り立っている」と記しておられます(66項)。その上で、「私たちはずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和を乱しました」と指摘されました。創造主に対する忠実さと謙遜さの喪失こそが、神に背を向ける姿勢をもたらし、ひいては被造物を、そして共に住む家を破壊する行動に繋がっている、と指摘された教皇フランシスコは、神の前で忠実さと謙遜さを取り戻す回心の必要性を説き続けられました。

 「私どもは取るに足りない僕です」と心から告白できる者であり続けたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年10月4日

・私たちは「心の扉を開いて、出向いていく教会」になっているか―菊地・東京大司教、「世界難民移住移動者」の日に

2025年9月27日 (土)週刊大司教226回:年間第26主日C

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 九月最後の日曜日となりました。年間第26主日にあたるこの日、9月最後の主日を、教会は世界難民移住移動者の日と定めています。

 この日にあたっての教皇レオ14世のメッセージは、「移住者—希望の宣教者」をテーマとし、次のように指摘されています。

「多くの移住者、難民、避難民は、彼らが神に身をゆだね、未来のために逆境に耐えることを通して、日々の生活の中で生きる希望の特別な証人となっています。彼らはこの未来の中に、幸福と総合的な人間的発展が近づくのを垣間見るからです。彼らにおいてイスラエルの民の旅の経験が繰り返されます」

 教皇様は、教会は神の民として旅を続ける存在であることを、難民や移住者の存在によって思い起こさせられ、教会が歩みを止め、ある一点に留まるときに、神ではなく世に属する者となる、として、次のように語られます。

「移住者と難民は教会に、自らの巡礼者としての側面を思い起こさせてくれます。教会は、対神徳である希望に支えられながら、最終的な祖国に到達することを目指してたえず歩み続けるからです。教会は、『定住』の誘惑に屈し、『旅する国(civitas peregrina)』―天の祖国を目指して旅する神の民(アウグスティヌス『神の国』[De civitate Dei, Libro XIV-XVI]参照)―であることをやめるとき、『世にある者』であることをやめ、『世に属する者』となるのです」

 このようにお述べになった後で、教皇様は、信徒として移住する人たちや難民の方々の存在に焦点を当て、彼らが福音を告げる宣教者であるとして、次のように語られます。

「特にカトリック信者の移住者と難民は、彼らを受け入れる国において、現代の希望の宣教者となることができます。彼らは、イエス・キリストのメッセージがまだ届いていないところに、新たな信仰の歩みをもたらし、日常生活と共通の価値の探求による諸宗教対話を始めることができるからです」

 国連難民高等弁務官事務所によれば、現在四千万人を超える人が国境を越えて難民となり、さらには七千万人の人が自国内での避難民となっています。国連によれば、この数は10年前と比較しても倍増していると言います。

 現時点で国際カリタスは、それぞれの国のカリタスを通じて、カトリック教会として難民の方々の支援や救援を行っています。もちろん現時点ではウクライナやガザの状況は困難を極め、とりわけガザでは虐殺とも言うべき状況が続いています。神から賜物として与えられた命の尊厳が損なわれる状況を、教会は見過ごすことはできません。国際カリタスは聖座と共に、あらゆるチャンネルを通じて、停戦の実現と人道支援の強化を求め続けています。

 以下、27日午後6時配信、週刊大司教第226回、年間第26主日のメッセージです。

【年間第26主日C 2025年9月28日】

 10年前にエコロジカルな回心を問う回勅「ラーダート・シ」を発表された教皇フランシスコは、その中で、「現在の世界情勢は、不安定や危機感を与え、それが集団的利己主義の温床となります(205項)」と指摘されました。10年が経過しても、その状況は全く改善していません。

 教会は9月最後の主日を、世界難民移住移動者の日と定めています。この日にあたり教皇レオ14世は、「移住者―希望の宣教者」と題したメッセージを発表されています。

 その中で教皇は、「現代の世界情勢は、残念ながら、戦争と暴力と不正と異常気象によって特徴づけられています。そのため何百万もの人々が故郷を離れ別の土地に避難することを余儀なくされています」と現状を指摘し、世にはびこる利己主義的価値観を踏まえて、「限られた共同体の利潤のみを求める一般的な傾向は、責任の共有、多国間の協力、共通善の実現、人類家族全体のための国際的な連帯に対して深刻な脅威となっています」と指摘しています。

 ルカ福音が記す金持ちとラザロの話には、まさしく世界が自分を中心にして回っているかのように考え振る舞う金持ちの姿が描かれています。利己主義に捕らえられた心には、助けを求めている人は存在する場所すらありません。自分の利益しか眼中に無い生き方の姿勢を捨てることができないからです。死後の苦しみの中で神の裁きに直面した時でさえも、金持ちの心は自分のことしか考えず、それを象徴するように、この期に及んでも、ラザロを自分の目的のために利用しようとします。

 教皇フランシスコは、私たちが心の扉を開いて、出向いていく教会であることが、「集団的利己主義から脱却する道だ」と繰り返し指摘され、そのためにこそ、教会はシノドスの道を歩みながら、互いに支え合い、隣人の叫びに耳を傾け、祈り合いながら、神に向かって歩み続けることこそが不可欠だ、と強調されました。

 希望の巡礼者として聖年の歩みを続けている私たちに、教皇レオ14世は、先ほどのメッセージの中で次のような指摘をされ、移住者と難民こそがそのような社会のただ中で、希望の宣教者となるのだ、と指摘しています。

 「カトリック信者の移住者と難民は、彼らを受け入れる国において、現代の希望の宣教者となることができます。彼らは、イエス・キリストのメッセージがまだ届いていないところに新たな信仰の歩みをもたらし、日常生活と共通の価値の探求による諸宗教対話を始めることができるからです。実際、彼らは、その霊的な熱意と活力によって、硬直化し、不活発になった教会共同体を活性化することに貢献できます」。

 私たちはこの現代社会の中で、希望を掲げながら旅を続ける宣教者です。アジア司教協議会連盟(FABC)50周年の文書には、「宣教は、教皇フランシスコが『自己中心の姿勢』と呼ぶものに向かう私たちの傾向の対極にあるものです。自己中心的になるのは、『私たちが自分自身のために存在するのではなく、世界のために存在するのだ』ということを忘れてしまう時です」という指摘があります。

 私たちが「心の扉を開いて、出向いていく教会」であり続けることができるように、イエスの呼びかけに耳を傾けて歩み続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年9月27日