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◎教皇連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」⑤「聖書を歴史的文脈で読むように」-教皇、”原理主義”回避を呼びかけ
(2026.2.4 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇レオ14世は4日の水曜恒例一般謁見で「第二バチカン公会議を学び直す」をテーマにした連続講話を続けられ、その中で、聖書を「原理主義的あるいは霊性主義的に解釈する」ことへの警戒を促されるとともに、「人間の心に響く言葉で神の言葉を宣べ伝える」教会の使命を強調された。
講話で教皇は、前週に続いて今回も「公会議が発出した最も素晴らしく、重要な文書の一つ」である教義憲章『神の言葉(Dei Verbum)』に焦点を当て、「この憲章は、聖書において信徒が『神があらゆる時代の男女に語りかけ続け、それを彼らが聴くことによって、神を知り愛することができる『特権的な出会いの場』を見出すことを示しています」と語られた。
*神は大きな愛ゆえに人が理解可能な言語を用い、聖書を記された
聖書について教皇は「天上の言語や超人的な言語で書かれたものではありません」とされ、「神は大きな愛ゆえに人間の言語を用いて語られることを選び、聖霊に導かれた様々な著者たちが聖書の本文を記したものです」と述べ、「教義憲章は、『神の言葉が、人間の言葉で表現され、人間の言葉のように形作られた。永遠の父なる神の言葉が、人間の弱さという肉体をまとったとき、あらゆる点で人間と同じようにされたのと同様である』と繰り返しています」と指摘。
したがって、聖書は内容だけでなく言語においても「神が人間に対して示された慈悲深い降臨と、人間に近づきたい、という御心を明らかにしています」と述べられた。
*人間の歴史に根ざした言語
教皇はまた、教会の歴史を通じて、聖書の神の作者と人間の作者との関係が研究されてきたことを認めたうえで、「聖書を正しく解釈するために、それが形成された歴史的環境や用いられた文学形式を無視することはできません。そして、神が用いた人間の言葉の研究を放棄することは、聖書の本質を裏切る”原理主義的”あるいは”霊性主義的”な解釈へと導く危険があります」と警告された。
そして、この原則は「神の言葉の宣教にも適用されます」とされ、「現実や人間の希望、苦しみとの接点を失い、理解不能な言語を用いたり、伝達力に欠け、時代錯誤的であれば、それは宣教にとって無力です… 教会は、あらゆる時代において、神の言葉を歴史に具現化され、心に届く言語で再提示するよう召されています。特に典礼の文脈で宣べ伝えられる時、聖書は今日の信者たちに語りかけ、彼らの問題を抱えた現実に触れ、踏み出すべき歩みや下すべき決断を、照らすためにあるのです」と強調された。
*神が与えた豊かな命の喜びに満ちた宣教
続けて教皇は、「聖書は、信者の命と愛を育むために役立ちます」と述べ、「聖書の神聖な起源は、洗礼を受けた人の証しに託された福音が人生と現実のあらゆる側面を包含しつつも、それらを超越していることを想起させます… 聖書は、単なる慈善的・社会的メッセージに還元されるものではなく、神がイエスにおいて、私たちに与えた完全で永遠の命の喜びに満ちた宣言なのです」と説かれた。
そして、講話の最後に、「主の慈しみによって、私たちの生活が御言葉という不可欠な糧に欠けることがないよう守ってくださることを感謝し、私たちの言葉、そしてさらに私たちの生活そのものが、聖書に記された神の愛を覆い隠すことのないように祈りましょう」と信者たち促された。
*講話の全文以下の通り。
この数週間、私たちが考察している公会議の教義憲章『神の言葉』は、教会の生きた伝統の中で読まれる聖書を、神があらゆる時代の人々に語りかけ続け、彼らが耳を傾けることによって神を知り、愛することができる特権的な出会いの場として示しています。
しかしながら、聖書のテキストは天上の言語や超人的な言語で書かれたものではありません。実際、日常生活が教えてくれるように、異なる言語を話す二人の人間は互いに理解し合うことができず、対話に入ることができず、関係を築くこともできません。場合によっては、他者に自分を理解してもらうことが、愛の最初の行為となるのです。これこそが、神が人間の言語を用いて語られることを選ばれた理由であり、こうして聖霊に導かれた様々な著者たちが聖書のテキストを記したのです。
公会議の文書が私たちに思い出させてくれるように、「神の言葉は、人間の言語で表現されることで、人間の言葉のように形作られました。それは、永遠の父なる神が、人間の弱さという肉体を御自身に受けられたとき、あらゆる点において人間と同じようにされたのと同じです」(DV, 13)。したがって、聖書は内容だけでなく、その言語においても、神が人間に対して示される憐れみ深いご降臨と、人間に近づきたいという御心を明らかにしています。
教会史を通じて、聖なるテキストの神の著者(著者)と人間の著者(著者)との関係は研究されてきました。数世紀にわたり、多くの神学者たちは聖書の神の霊感を守ることに注力し、人間の著者をほとんど聖霊の受動的な道具と見なすほどでした。
近年の考察では、聖なる書物の執筆における聖書記者の貢献が再評価され、公会議文書は神を聖書の主要な「著者」と述べつつも、聖書記者たちを聖なる書物の「真の著者」と呼んでいます(DV, 11参照)。前世紀の鋭い聖書解釈者が指摘したように、「人間の活動を単なる代筆者の役割に矮小化することは、神の活動を讃えることにはなりません」。[1] 神は決して人間とその可能性を軽んじられることはありません!
したがって、聖書が人間の言葉による神の言葉であるなら、この二つの側面のいずれかを軽視したり否定したりするアプローチは、偏ったものとなります。つまり、聖なるテキストの正しい解釈は、それが形成された歴史的環境や用いられた文学形式を無視することはできません。逆に、神が用いられた人間の言葉の研究を放棄することは、聖書の根本主義的あるいは霊性主義的な解釈へと導き、その意味を裏切る危険性があります。
この原則は神の言葉の宣教にも適用されます。現実や人間の希望・苦しみとの接点を失い、理解不能な言葉や伝わりにくい時代錯誤の表現を用いるならば、それは効果を欠くことになります。あらゆる時代において、教会は神の言葉を、歴史に根ざし人々の心に届く言語で再提示するよう召されています。
教皇フランシスコが指摘されるように、「私たちが源流に立ち返り、福音の本来の鮮やかさを取り戻そうと努めるたび、新たな道が開け、創造性の新たな道筋が現れます。それは異なる表現形式、より雄弁な象徴、そして現代世界にとって新たな意味を持つ言葉によって示されるのです」。[2]
一方で、聖書の神的な起源を軽視し、単なる人間の教えとして、あるいは技術的な観点からの研究対象として、あるいは「過去だけのもの」として理解してしまうような聖書解釈も、同様に限定的です。[3] むしろ、特に典礼の文脈において宣教される聖書は、今日の信者たちに語りかけ、彼らの現在の生活と問題に触れ、踏み出すべき歩みや下すべき決断を照らすことを意図しています。これは、信者たちが聖なるテキストを、それを霊感したのと同じ聖霊の導きのもとで読み解釈するときにのみ可能となります(参照:DV, 12)。
この点において、聖書は信徒の生活と愛を育む役割を果たします。聖アウグスティヌスが想起するように:「聖書を理解していると思う者が…その解釈が神と隣人へのこの二重の愛を築くことに寄与しないならば、彼はまだ聖書を正しく理解しているとは言えません」。[4]
聖書の神的な起源はまた、洗礼を受けた者の証しに託された福音が「人生と現実のあらゆる側面を包含しつつも、それらを超越していること」を想起させます。福音は単なる人道主義的あるいは社会的メッセージに還元されることはなく、神がイエスにおいて私たちに与えてくださった完全で永遠の命の喜びに満ちた宣言なのです。
親愛なる兄弟姉妹の皆様、主の慈しみにより、私たちの生活が御言葉という不可欠な糧に欠けることがないよう守ってくださることを感謝しましょう。そして、私たちの言葉、さらに言えば私たちの生活そのものが、そこに語られている神の愛を曇らせることがないよう、祈りましょう。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「あなたが私に話したことが、他の被害者も声を上げるきっかけになれば…」教皇、アイルランドの性的虐待被害者の訴えを聴かれて
(2026.2.2 Vatican News )教皇レオ14世は、アイルランドのブラックロック・カレッジの元生徒であるデイヴィッド・ライアンと面会し、
教皇レオ14世は2日、アイルランドの性的虐待被害者、デイビッド・ライアン氏と面会され、彼と亡き兄マーク氏がカトリック系中等学校で受けた虐待の話をお聴きになった。
彼は2022年11月に放送されたアイルランドのRTÉラジオ1のドキュメンタリー番組に出演し、二人に対する性的虐待について訴えていた。彼らは12歳から17歳まで、ダブリン州のブラックロック・カレッジとその付属予備校ウィロー・パークに通っていた。
教皇との面会後、ライアン氏は記者団に対し、「教皇は、私の虐待被害の証言に真剣に耳を傾けてくださった」と言い、教皇が「今日、あなたが私に話したことが、他の被害者も声を上げるきっかけになれば」と語られたことを明らかにした。そして、「まさに私が望むのは、他の被害者が名乗り出ることであり、教皇はその思いを理解しておられました」と述べた。
また、彼は、「教皇が、被害者とその家族への深い同情と共感を示しておられる、感じました。私の苦しみ、家族の苦しみ、そしてまだ声を上げていない他の生存者たちのことをお聴きになり、教皇は深く悲しんでおられました。そのお気持ちは本物だと分かります…本当に、声を上げて良かった」と語った。
ライアン氏は、「虐待が自分の責任ではなく、加害者側の責任だ、と気づくまでに40年かかりました」とも述べた。
面会の際、ライアン氏は教皇にキルデアの聖ブリジッドの襟ピンを贈った。前日の2月1日はアイルランドの聖ブリジッドの祝日だった。教皇に、兄マーク氏の写真も見せた。マークもブラックロック・カレッジで虐待を受けていたが、2023年に62歳で急死していた。
ライアン氏は教皇との面会を振り返り、「素晴らしい体験でした。決して忘れません。絶対に忘れません。教皇の誠実さ、共感力。私の痛みを理解しておられました。ご自分が経験したわけではないが、私が、そして、私の家族が経験した苦痛を彼は知っておられたのです」と語った。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「武器が轟く地にあっても、あなたがたはイエスの証人だ」-『世界奉献生活の日』のミサで修道者たちへ
(評論)教皇レオ14世の教理省総会参加者への発言で、教理省は”初期設定”にリセットされた(CRUX)
(2026.2.1 Crux Christopher R. Altieri |Senior Editor for News and Affairs)
☩「神は、世が”絶望的”と見なす人々にも希望をお与えになる」教皇、年間第4主日の正午の祈りで
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「『オリンピック休戦』は古代ギリシャに遡る伝統、尊重を求める」教皇、冬季オリンピックを前に
2月6日に開幕する冬季オリンピックを前に、教皇レオ14世は1日の正午の祈りに続けて、ロシア・ウクライナなど紛争中の国々に、古くからの伝統である「オリンピック休戦」を尊重するよう訴えられた。
教皇は「オリンピックとパラリンピックは兄弟愛の重要なメッセージを体現し、平和な世界への希望を再燃させます。それが、『オリンピック休戦』の意義でもある。オリンピック開催に伴う非常に古い慣習です」と語られた。
オリンピック休戦は紀元前776年の古代ギリシャに遡る伝統で、当時諸国は大会前と開催期間中に武器を置く慣習があった。教皇は「人々の間の平和を深く願う人々、そして権威ある立場にある人々が、この機会を利用して緊張緩和と対話模索に向けた具体的な行動を取ることを望む」と述べられた。
冬季オリンピックは2月6日にイタリア北東部で開幕し、2月26日まで開催される。教皇はこれに先立つ、参加選手や関係者のためのコモ市でのミサなどにメッセージを送られ、「スポーツの真の価値-フェアプレー、尊重、チーム精神、犠牲、そして社会的包摂と出会いの喜び」と大切にするよう呼びかけれている。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「信仰の伝承の世代間”断絶”を、福音宣教の喜びを再発見する契機とすべきだ」教皇、バチカン教理省総会で出席者たちに
(2026.1.29 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇レオ14世は29日のバチカン教理省の総会での挨拶で、「『信仰の伝承』が、現代において極めて緊急の課題となっている」と指摘。カトリック信徒間の世代間伝承の「断絶」を、教会の命と使命の核心である「福音宣教の甘美で慰めとなる喜び」を再発見させる契機とすべきだ、と強調された。
挨拶で教皇はまず、「皆さんが果たしておられる貴重な奉仕をよく認識しています」と述べられた。そして、教皇フランシスコが出されたバチカン改革のための使徒憲章「Praedicate Evangelium(福音を宣べ伝えよ)」に記されているように、教理省の人々の使命は「信仰と道徳に関するカトリックの教義の完全性を促進し、保護することにより、教皇と司教たちが全世界に福音を宣べ伝えるのを助けること」であり、教理省は「信仰の宝庫に依拠し、新たな疑問に直面しながらその理解を深めることで、その使命を果たします」と説かれた。
さらに、「皆さんの任務は、しばしば極めて微妙な問題について司牧的・神学的指導を通して、教会の教義に関する明確な姿勢を提供することにあります」とされ、教理省が近年公表した文書に敬意を表しつつ、「こうした膨大な作業は、聖なる忠実な神の民の霊的成長に確かに大いに役立つことでしょう」と評価。
「私たちが生きるこの大きな変革の時代において、あなたがたの作業は、特に歴史の舞台に現れる数多くの新たな現象に関して、信徒に教会からの時宜を得た明確な言葉を提供するものであり、司教たちが司牧活動を行う上での貴重な指針となり、神学者たちが研究と福音宣教の奉仕を行う上でも役立っています」とされたうえで、今総会が「現代において極めて緊急を要する課題である『信仰の伝承』」をテーマに、実りある議論を開始したことを特に高く評価された。
続けて教皇は、「確かに、ここ数十年、カトリック信徒の間で、キリスト教信仰の世代間伝承に断絶が生じている事実は無視することができません。特に古くから福音化された地域では、福音をもはや自らの存在の根本的資源とは捉えない人々の数が増えており、特に若い世代においてそれが顕著になっています」と指摘。多くの若者が神や教会に関心をもたないまま人生を送っている現状を嘆きつつ、「これは私たち信徒に深い悲しみをもたらしていますが… キリストの花嫁である教会の生命と使命の核心にある『福音宣教の甘美で慰めとなる喜び』を再発見する契機とすべきです」と促された。
そして、1月7日から8日にかけて開かれた臨時枢機卿会議で、枢機卿たちが「自己にのみ目を向けるのではなく、他者と向き合い、宣教的な教会を求める」ことを表明したことを取り上げ、また、前任者のベネディクト16世とフランシスコの両教皇が繰り返し強調されたように、何よりも「『魅力の力』によって福音を宣べ伝える教会」の必要性を改めて訴えられた。
教皇はまた、キリストの体の生活の基盤は「御子において人間となられた父の愛であり、聖霊の賜物によって私たちの中に現存し働きかけている」と指摘しつつ、「それゆえ。人を惹きつけるのは教会ではなくキリストなのです… もしキリスト者や教会共同体が人を惹きつけるなら、それはその『導管』を通して、救い主の御心から湧き出る愛の生命の樹液が流れているからです」とされ、「教会は、自己主張や偏狭さを排して、キリストを宣べ伝え、各人は教会の中で常に自らを『主のぶどう畑における単純で謙虚な労働者』と認識せねばなりません」と諭された。
挨拶の最後に教皇は、「もう一つの奉仕」について言及された。それは、「バチカンの各省が管轄する犯罪事件に対処するよう召された司教や総長たちを、あらゆる厚意と判断をもって迎え入れ、伴走するという、私が感謝をもってあなたがたの配慮に委ねる奉仕」であり、「これは、司牧活動の中でも極めて繊細な領域であり、正義と真実と慈愛の要求が常に尊重され守られることが不可欠です」と強調された。
そして、前任者たちが教理省および教会全体に「特に謙虚で控えめな形で」貢献したことに改めて感謝を表明し、使徒的祝福を授けられた。
◎教皇連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」④「神の啓示に関する教義憲章」-神の言葉は私たちの存在の指針
(2026.1.28 Vatican News Isabella H. de Carvalho)
教皇レオ14世は28日のすよう恒例一般謁見で「第二バチカン公会議を学び直す」をテーマにした連続講話をお続けになり、前回に続いて公会議の「神の啓示に関する教義憲章『神の言葉』」を取り上げ、「『神の言葉』という『預託物』は、今も教会の手に委ねられており、私たち一人ひとりがそれぞれの教会における職務において、その完全性を守り続けなければなりません。それは複雑な歴史と存在の旅路における私たちの羅針盤なのです」と指摘。聖書と教会の伝統、「聖霊による福音の生きた伝承との密接な関係」を強調された。
そして、「神の言葉は、”化石化”したものではなく、伝統の中で発展し成長する生きた有機的な現実。聖霊の助けをもって伝統は神の言葉の真理の豊かさを理解し、歴史という移り変わる座標の中でそれを体現するのです」と述べられた。
*伝統と聖書は同じ源泉から湧き出る
そのうえで教皇は「キリストが発した言葉と、それが何世紀にもわたって伝えられてきたこととの密接な結びつき」を説明するため、福音書の二つの場面を引用された。一つ目は、イエスが死の直前に最後の晩餐の場で弟子たちに語りかけ、「あなたがたは主から聖霊を受け、その聖霊があなたがたを『すべての真理へと導く』」と告げた場面。二つ目は、復活したキリストが弟子たちに御自身を示し、「すべての民を弟子としなさい…私があなたがたに命じたすべてのことを守るように教えなさい」と命じた場面だ。
教皇は教義憲章の第9項を引用、第二バチカン公会議が聖書と伝統の密接な関係を「両者は同じ神の泉から流れ出て、ある意味で一つの統一へと融合し、同じ目的へ向かう」と説明している点に注目して、「教会の伝統は、神の言葉を保存し、解釈し、体現する教会を通じて歴史の中で枝分かれしていくのです」と語られ、「聖書は、文書や記録というよりも、主に教会の心の中に記されています」とされて、「カトリック教会のカテキズム」113項を引き合いに出された。
*教会はすべての世代に信仰を継承する
さらに教皇は、「使徒たちから受け継がれた伝統が、聖霊の助けによって教会の中で発展していくこと」に注意を向けられた、「これは『信者たちによる黙想と研究』を通じ、『彼らが経験する霊的現実の深い理解』によって、そして何よりも『確かな真理の賜物』を受けた使徒たちの後継者たちによる宣教によって、完全な理解をもって実現されるのです」と説かれ、再び教義憲章を引用する形で、「要するに、『教会は、その教え、生活、礼拝において、教会そのものの存在、教会が信じるすべてを、あらゆる世代に永続させ、引き継いでいく』のです」と述べられた。
「神の言葉」の生ける次元と伝統との関係を説明するため、教皇は教会博士である聖ジョン・ヘンリー・ニューマンの言葉を引用された―「キリスト教は、共同体の経験としても、教義としても、イエスご自身が種子のたとえで示されたように、内なる生命力によって発展する生ける現実である」と。
*神の言葉の聖なる預託
教皇はさらに、教義憲章が、「聖伝と聖書は、教会に託された神の言葉の聖なる預託を成すものであり、その解釈は、イエス・キリストの名において権威を行使する教会の生ける教導職によってなされる」と指摘している点を強調。「『預託』という言葉は、預託を受けた者がその内容、すなわち信仰を守り、そのままの形で伝えるべきであることを意味します」として、教会とそのすべての成員に、そうするよう呼びかけられた。
そして、教皇は、再び教義憲章を引用して講話を締めくくられた―聖書と伝統は「互いに結びつき、一体となっているため、一方が他方なしには存在し得ず、…聖霊の働きのもとで、共にまたそれぞれ独自の方法で、魂の救いに効果的に貢献する」と。
*講話の全文以下の通り。
第二バチカン公会議文書。第一部 教義憲章『神の言葉』。3. 唯一の聖なる預言。聖書と伝統の関係について。
神の啓示に関する公会議憲章『神の言葉(Dei Verbum)』の朗読を続けまして、本日は聖書と伝統の関係について考察いたします。背景として二つの福音書の場面を取り上げましょう。最初の場面は、最後の晩餐の部屋で起こります。
イエスは弟子たちに向けた偉大な遺言の説教の中で、こう宣言されました。
「これらのことは、私がまだあなたがたと共にいる間に、あなたがたに話しておいたのです。しかし、父が私の名によってお遣わしになる助け主、すなわち聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、また、私があなたがたに話したすべてのことを思い出させてくださいます。…真理の御霊が来られるとき、その方があなたがたをすべての真理に導いてくださいます」(ヨハネ14:25-26; 16:13)。
第二の場面は、ガリラヤの丘へと私たちを導きます。復活されたイエスは、驚きと疑いを抱く弟子たちの前に現れ、こう告げられます。「だから、行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい…私があなたがたに命じたすべてのことを守るように教えなさい」(マタイ28:19-20)。これらの二つの場面において、キリストが語られた言葉と、それが世紀を超えて伝えられてきたこととの密接な結びつきが明らかです。
これは第二バチカン公会議が象徴的な表現を用いて確認したことです。「聖伝と聖書の間には密接な結びつきと相互関係がある。両者は同じ神の泉から流れ出て、ある意味で一つの統一へと融合し、同じ目的へと向かうのである」(神の言葉、9)。教会の伝統は、神の言葉を保存し、解釈し、体現する教会を通じて歴史の中で広がっていきます。
この点に関して、カトリック教会のカテキズム(113項参照)は、教父たちのモットーを引用しています。「聖書は、文書や記録というよりも、主に教会の心の中に記されている」。すなわち、聖なるテキストの中に記されているのです。
上記のキリストの御言葉に照らして、公会議は「この使徒たちから受け継がれた伝統は、聖霊の助けによって教会の中で発展する」と断言しています(Dei Verbum, 8)。これは、「信者たちによる黙想と研究」を通じ、「彼らが経験する霊的現実に対する深い理解」によって、そして何よりも、「確かな真理の賜物」を受けた使徒たちの後継者たちによる宣教によって、完全に理解されることで実現します。要するに、「教会は、その教え、生活、礼拝において、教会そのもののあり方、教会が信じるすべてを、すべての世代に永続させ、伝えている」のです(同上)。
この点に関して、聖グレゴリウス大教皇の次の表現は有名です。「聖書は、それを読む者とともに成長する」。[1] また聖アウグスティヌスは既にこう指摘していました。「聖書を通して展開される神の言葉はただ一つであり、多くの聖人の口を通して響く御言葉もただ一つである」と。[2] したがって神の御言葉は化石化されたものではなく、むしろ伝統の中で発展し成長する、生き生きとした有機的な現実なのです。聖霊の働きにより、伝統はその真理の豊かさを理解し、歴史の移り変わる座標の中でそれを体現するのです。
また、教会の聖なる博士であるジョン・ヘンリー・ニューマンが『キリスト教教義の発展』と題する著作で示した提案は、非常に示唆に富んでいます。彼は、キリスト教は共同体の経験としても、教義としても、イエスご自身が種子のたとえ(マルコによる福音書4:26-29参照)で示されたように、内なる生命力によって発展する動的な現実であると断言しました。[3]
使徒パウロは弟子であり協力者であるテモテに対し、繰り返しこう勧めています。「テモテよ、あなたに託されたものを守りなさい」(1テモテ6:20;参照 2テモテ1:12-14)。
教義憲章『神の言葉』はこのパウロの言葉を反映し、次のように述べています。「聖伝と聖書は、教会に託された神の言葉の聖なる預託物(デポジット)を成すものであり、それは『イエス・キリストの名において権威を行使する、教会の生ける教導職』によって解釈される」(10項)。
「預託」という言葉は、本来の意味において法的な性質を持ち、預託者に対して内容(この場合は信仰)を保存し、そのままの形で伝達する義務を課すものです。
神の言葉の「預託」は、今日もなお教会の手に委ねられており、私たち一人ひとりは、それぞれの教会内的職務において、歴史と存在の複雑さを巡る旅路の指針として、その完全性を守り続けなければなりません。
最後に、親愛なる皆様、聖書と伝統の相互関係を高らかに謳う『神の言葉』の言葉を改めて心に刻みましょう。そこでは「聖書と伝統は、互いに深く結びつき、切り離すことのできない関係にあり、聖霊の働きのもとで、それぞれ独自の方法で、魂の救いに効果的に貢献している」と述べられています(10項参照)。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「いかなる民族にも、二度とジェノサイドの恐怖が降りかからないように」教皇、27日のホロコースト追悼の日を受けて

(2026.1.28 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇レオ14世は28日の水曜恒例一般謁見の締めくくりに前日の27日に記念された国際ホロコースト追悼の日を取り上げ、「相互尊重と公益」に基づく、偏見・抑圧・迫害のない「反ユダヤ主義のない世界」の実現を祈念された。
ホロコーストが「数百万のユダヤ人とその他多くの人々に死をもたらした」とされた教皇は、「この痛ましい追悼の年次行事にあたって、私は全能の神に、反ユダヤ主義によって、ユダヤの人々、またいかなる人々に対する偏見、抑圧、迫害によっても刻印されない世界の賜物を求めます」と訴えられた。
さらに国際社会への訴えを新たにされ、全ての人々に、「いかなる民族に対しても、虐殺という恐怖が再び解き放たれることがないように」と警戒を促し、「相互尊重と共通善に基づく社会が築かれるように」と呼びかけられた。
前日27日のホロコースト追悼の日に当たって、教皇はご自身の@Pontifexアカウントで、「教会は、あらゆる形態の反ユダヤ主義に対する『Nostra Aetate ノストラ・アエターテ』宣言(1965年に第二バチカン公会議で公布された「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」)の揺るぎない立場に忠実であり続けます。教会は、民族、言語、国籍、宗教に基づくあらゆる差別や迫害を拒絶します」と言明されている。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「平和のために声を上げよう、暴力でなく対話によって問題を解決すべきだ」教皇、中東情勢の緊張の中で記者団に

☩「私たちは一つ。全世界に福音を伝える共通の使命を果たし続けよう!」教皇、キリスト教一致週間締めくくりのキリスト教諸宗派の夕の祈りで
(2026.1.25 Vatican News Isabella H. de Carvalho)

キリスト教一致祈祷週間の締めくくりとなる聖パウロの回心の祝日の25日、教皇レオ14世はローマの聖パウロ大聖堂で、聖公会、ギリシャ正教会、アルメニア使徒教会などキリスト教各派の代表と祈祷集会を持たれ、共に一致のための夕の祈りを捧げられた。
教皇は挨拶で「私たちは一つ。すでに一つなのです」とキリスト教諸派が同じ信仰を共有していることを強調され、世界中に福音を伝える使命を共に継続するよう促された。
このキリスト教一致祈祷週間は「キリスト教徒に福音宣教の使命への献身を思い起こさせる機会となるもの」と指摘された教皇は、「私たちの間の分裂は、キリストの光が輝くことを妨げることはないが、世界にその光を映すべき顔が輝きを失う原因となります」と述べられた。
集会にはギリシャ正教のコンスタンティノープル総主教庁を代表してポリカルポス首都主教、アルメニア使徒教会のハジャグ・バルサミアン大主教、英国国教会のアンソニー・ボール司教など、様々なキリスト教教会の代表者が出席。バチカンのキリスト教一致推進省長官のクルト・コッホ枢機卿をはじめ、他のエキュメニカル団体や巡礼者も同席した。
*聖パウロは、すべてのキリスト教徒の使命における模範
挨拶で教皇はまず、今年のキリスト教一致祈祷週間のテーマである聖パウロのエフェソの信徒への手紙の一節を取り上げ、「ここには、『一つ』という形容詞が繰り返し現れます。一つの体、一つの霊、一つの希望、一つの主、一つの信仰、一つの洗礼、一つの神です」とされ、「愛する兄弟姉妹の皆さん、この霊感に満ちた言葉が、私たちを深く感動させないことがあるでしょうか。これを聞くとき、私たちの心が燃え上がらないことがあるでしょうか」と問いかけ、「この言葉は、私たち神、イエス・キリスト、聖霊への同じ信仰を共有していることを強調するものです」と語られた。
そして、キリスト教徒を迫害する者から、イエスの「燃えるような熱意をもって愛を宣べ伝える者」へと変えられた聖パウロの回心を取り上げ、今、夕の祈りを捧げているこの聖パウロ大聖堂が「自分自身の使命が全てのキリスト教徒と同じであることを思い起させる場。キリストを宣べ伝え、全ての人に彼への信頼を置くよう招かれる場になっている」と述べられた。
教皇はまた、第二バチカン公会議の『教会憲章(Lumen Gentium)』で、「『すべての被造物に福音を宣べ伝えたい』という熱烈な願い」が表明され、福音宣教によって「教会の顔に輝いているキリストの光を、すべての人類にもたらす」と述べられていることを指摘され、「謙虚に、そして喜びをもって福音を世界に告げることは、すべてのキリスト教徒の共有の任務。『キリストを見よ!彼に近づけ!啓発し慰める彼の言葉を受け入れよ!』です」と強調された。
*ニカイア公会議と共同体の重要性を記念して
続けて教皇は、昨年11月にトルコのイズニクで、ニカイア公会議1700周年を記念して他のキリスト教指導者たちと共に行ったキリスト教一致の祈りの集いを回想。「ニカイア信条が制定された、まさにその場所で共に唱和したことは、キリストにおける私たちの結束に対する深く忘れがたい証しでした」とされ、「聖が今日もなお、私たちの中に従順な心を発見し、現代の人々に一つの声で信仰を宣言できること』を願われた。
さらに未来を見据える形で、2033年にキリストの受難・死・復活の2000周年を迎えることに言及され、「キリスト教一致へのシノダル(共働的)な実践をさらに発展させ、私たちが誰であり、何をなし、何を教えるかを互いに分かち合うことに尽力しましょう」とキリスト教各派に呼びかけられた。
そして、教皇フランシスコの言葉を引用しつつ、「カトリック教会のシノダル(共働的)な歩みがキリスト教一致につながるものであり、その逆もまた然りです」と説かれ、2023年と2024年にバチカンで開催された「シノダリティ(共働性)』をテーマとした世界代表司教会議総会に、複数の兄弟であるキリスト教宗派の代表が参加したことを思い起しつつ、「このようなことが、互いのシノダル(共働的)な構造と伝統を相互に理解し合いながら共に成長するための道だ、と確信しています」と強調された。
*アルメニアの人々の勇気ある証し
挨拶の最後に教皇は、今年のキリスト教一致祈願週間で使われた資料がアルメニア使徒教会と国内の地方教会によって作成されたことに言及。「深い感謝をもって、私たちは歴史を通じて示されたアルメニアの人々の勇気あるキリスト教的証しを記憶しています。その歴史において殉教は常に特徴的なものでした」と讃えた。
そして、その証しの模範として、聖ネルセス・シュノルハリ(慈悲深き者)を取り上げ、「この聖なるカトリコスは、12世紀に教会の統一のために尽力され、そのエキュメニカルな献身において時代を先取りしていました… 私の尊い先任者である聖ヨハネ・パウロ二世が指摘されたように、聖ネルセスはまた、私たちがエキュメニカルな旅路において取るべき姿勢を教えています。『キリスト教徒は、戦略的優位性や政治的利益のためではなく、福音宣教のために、一致が不可欠であるという深い内面的確信を持たねばならない』ということです」と説かれた。
さらに、「伝統によればアルメニアが最初のキリスト教国家でした。西暦301年に啓蒙者・聖グレゴリオスによってティリダテス王が洗礼を受けた後、救いの言葉を伝える勇敢な使徒たちが、イエス・キリストへの信仰を東欧と西欧に広めたのです」とその功績を称え、「福音の種がこの欧州大陸で、一致と正義と聖性という実を結び続け、全世界の諸国民と諸国家の平和のために役立つよう祈ります」と願われた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「戦闘継続は、公正で永続的な平和の機会をさらに遠ざけている」教皇、ロシアの対ウクライナ戦争の終結努力を改めて訴え
(2026.1.26 カトリック・あい)
教皇レオ14世は、年間第3主日の正午の祈りの後で、間もなく5年目に入るロシアによるウクライナ侵略で、極寒の中で苦しみを味合わされ続けている現状を取り上げ、 「民間人への被害が深刻化する中での戦闘継続は、公正で永続的な平和の機会をさらに遠ざけている」と強く非難、戦争終結のための努力をさらに強めるよう関係国指導者たちに訴えられた。
バチカン広報による発言の全文は以下の通り。
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ウクライナでは今なお、絶え間ない攻撃が続き、多くの人々が冬の寒さにさらされています。私はこの状況を悲しみをもって注視し、苦しむ方々に寄り添い、祈りを捧げています。民間人への被害が深刻化する中での戦闘継続は、人々の間の溝を広げ、公正で永続的な平和の機会をさらに遠ざけています。皆様に、この戦争を終結させるための努力を一層強化されるよう呼びかけます。
(この正午の祈りに参加している)ローマのカトリック・アクションの若者たちと共に、平和のために祈りましょう。ウクライナで、中東で、そして残念ながら人々の利益ではない利害のために戦いが続いているあらゆる地域の平和のために。平和は、人々への敬意の上に築かれるのです!
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「イエスの最初の弟子たちのように、私たちも主の招きを喜びをもって受け入れよう」教皇、年間第三主日の正午の祈りで
(2026.1.25 カトリック・あい)
教皇レオ14世は25日、年間第四主日の正午の祈りに先立ち、以下の説教をされた。バチカン広報発表の全文次の通り。
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兄弟姉妹の皆さん、幸せな日曜日を過ごされますように。
イエスは洗礼を受けた後、説教を始め、ペトロと呼ばれるシモン、その兄弟アンドレ、そしてヤコブとヨハネを、最初のでき師として招かれました(マタイ福音書 4章12-22節 参照)。今日の福音書に記された場面についてより深く考察すると、私たちは二つの問いを頭に浮かべます。一つは、イエスの使命の時期について、もう一つは、イエスが説教と使徒たちの召命のために選んだ場所についてです。いつ始められたのか?どこで始められたのか?
まず、福音書は、イエスが「ヨハネが捕らえられたと聞いた時」(同4節12節)に説教を始めた、と伝えています。つまり、イエスは、一見、不適切な時期に始めたことになります。洗礼者ヨハネが投獄されたばかりで、民の指導者たちはメシアの新たな使命を受け入れることに消極的でした。明らかに慎重さが求められる時でした。しかし、まさにこの暗闇の中で、イエスは福音の光をもたらし始められたのです。「天の国は近づいた」(同17節)と。
私たちの人生においても、個人としても教会としても、内面の葛藤や不利と思われる状況が「福音を宣べ伝える時ではない」「決断を下す時ではない」「選択をする時ではない」「状況を変える時ではない」と思わせてしまうことがあります。そのようにして私たちは、決断できずに麻痺したり、過度の慎重さに囚われたりする危険にさらされます。ですが福音は、あえて「信頼する」ことを私たちに求めているのです。神は常に働いておられます。私たちが「準備ができていない」と感じる時や、状況が不利に見える時でさえ、あらゆる瞬間が「神の時」なのです。
福音書はまた、イエスが公の使命を始めた具体的な場所についての洞察も与えてくれます。イエスは、「ナザレを出て、カファルナウムに住まわれた」(同13節)と記されています。そしてイエスは、ガリラヤに留まりました。ガリラヤは主に異教徒の地域でしたが、交易によって交差点と出会いの場へと変貌していました。多様な出自や宗教的背景を持つ人々が往来する、多文化地域と表現できるでしょう。
この意味で福音書は、メシアがイスラエルで宣教を始められたにもかかわらず、国の境界を超え、すべての人に近づく神を宣べ伝えられたこと、を明らかにしています。その神は誰をも排除せず、「清い者」のためだけでなく、人間の状況や関係の複雑さの中に、完全に踏み込まれる方です。ですから、私たちキリスト者もまた、孤立への誘惑を克服しなければなりません。福音はあらゆる環境において宣べ伝えられ、実践されなければなりません。それはあらゆる個人、文化、宗教、民族の間における兄弟愛と平和の酵母として機能するのです。
兄弟姉妹の皆さん、最初の弟子たちのように、私たちは主の招きを喜びをもって受け入れるよう招かれています。私たちの生活のあらゆる時と場所が、主の臨在と愛に満たされていることを知りながら。聖母マリアに祈りましょう。この内なる信頼を私たちに授け、私たちの旅路に同行してくださいますように。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)