(2026.2.15 Vatican News)
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☩「『隣人を傷つける言葉を控えること』も実践すべき”断食”の形」教皇、四旬節を前にメッセージ
教皇レオ14世は13日、18日からの四旬節のメッセージを発表され、全ての信者に対して、「傾聴と断食、そして共同体へ心を開くように、憎しみの言葉を控え、希望と平和の言葉のための空間を作るように」と促された。
メッセージで教皇は「四旬節は私たちキリスト教徒に、神の神秘を再び生活の中心に据える機会を与えてくれます」とされたうえで、「私たちの回心の旅は、神の言葉が心に触れることから始まる。そうすることで、私たちはキリストの救いの受難、死、復活という神秘に従う決意を新たにするのです」と語られた。
そして、「神の声と周囲の人々の声に耳を傾け、真の関係を築くこと」の重要性に焦点を当てられ、「個人の生活や社会に存在する多くの声の中で、聖書は、苦しみ悩む人々の叫びを認識し、それに応える助けとなります… 貧しい人々が教会だけでなく、私たちの生活や経済システムにも挑戦を突きつけているという自覚を深めることで、神のように傾聴する内面の開放性を育むことができるのです」と説かれた。
また教皇は、断食が正義への深い渇望を開く助けとなる点に言及。「断食は、身体に関わる行為だからこそ、私たちが何に飢えているのか、何が生計に必要だと考えるのかを、認識しやすくします。さらに、私たちの”食欲”を特定し、秩序づけ、正義への飢えと渇きを生き続けさせる助けとなります… 断食は欲望を浄化し、解放し、拡大することで、それを神と善行に向けさせるよう統制することを教えます」と語られた。
だが、「断食は、信仰と謙遜と主との交わりの中で行わねばならず、高慢につながる方法であってはなりません。断食以外の自己抑制の仕方も、より節度ある生活様式へと導くことができます」とも述べられ、過小評価されがちな禁欲の形態として「人を傷つける言葉を控えること」を挙げて、「皆さんに、非常に実践的で、しばしば見過ごされがちな断食の形をお勧めします。それは『隣人を傷つけ、傷つける言葉を控えること』です」と語られた。
そして、「まずは、言葉の”武装”を解きましょう。厳しい言葉や軽率な判断を避け、陰口や、その場におらず反論できない人への悪口を慎むこと。言葉に重みを持たせ、家族や友人、職場、ソーシャルメディア、政治討論、メディア、キリスト教共同体において、親切と敬意を育むよう努めましょう。そうすれば、憎しみの言葉は、『希望と平和の言葉』に道を譲るでしょう」と説かれた。
教皇はさらに、聴くことと断食の共同体的側面を強調。「これらは、教区、家族、宗教共同体で実践できます… 貧しい人たちの叫びに耳を傾け、キリストへの回心の道に心を向けることで、良心を鍛え、人生と人間関係の質を高めることができる。それは現実によって自らを問い直させ、教会共同体内部においても、人類の正義と和解への渇望に関しても、『真に導くものが何か』を、私たちに認識させることを意味するのです」と強調された。
メッセージの最後に教皇は、「キリスト教共同体が、苦しむ人々が受け入れられる場所となるように」と促され、「言葉の使い方にも及ぶ(広義の)断食から得られる力を求めましょう。そうすれば傷つける言葉が減り、他者の声のためのより大きな空間が生まれるでしょう」と締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「緊張を克服し、結束を再び見出すように」教皇、水曜恒例一般謁見で、欧州の人々に呼びかけ

(2026.2.11 Vatican News)
教皇レオ14世は11日の水曜恒例一般謁見で、欧州の人々に対して、緊張を克服し、結束を再び見出すように呼びかけられ、病者のために祈り、コロンビアの深刻な洪水被害に苦しむ人々を思い、四旬節の準備について助言された。
説教で教皇は、一般謁見に参加したポーランドからの巡礼者たちに挨拶され、「スラブ人の使徒であり欧州の守護聖人である聖キリルとメトディウスは、欧州大陸の精神的活力を再生させる助けとなり得ます」と語られ、2月14日に典礼記念日を迎えるこの二人の聖人が「スラヴ諸民族のキリスト教、言語、文化の父」であることを指摘された。
そして、謁見参加者全員に対して、「聖ヨハネ・パウロ二世教皇が奨励された使徒的活動に立ち返り、宗教的・政治的緊張や分裂、対立を乗り越える、新たな欧州の統一構築に貢献するように」と呼びかけられた。
*『世界病者の日』にあたって祈る
また教皇は、11日が『世界病者の日』であることから、病者とその家族を聖母の加護に委ねられた。謁見に先立ち、教皇は会場のパウロ6世ホールに入られると、この日がルルドの聖母の祭日であることを祈念してルルドの聖母像の前でロウソクに火を灯され、謁見後に、「世界病者の日に特別な思いで記憶する全ての病者のための祈りの印」として、バチカン庭園内のルルドの洞窟へ赴き、ロウソクに火を灯す、と述べられた。
スペイン語で語られた教皇は、今年の世界病者の日が特に思い入れのある場所、ペルーのチクラヨの平和の聖母聖堂で祝われていることに注意を向けられ、「私はその場所に霊的に共にいます」と述べ、バチカン人間総合開発省長官のミハエル・チェルニー枢機卿を現地に派遣したことを明かされた。
教皇はまた、コロンビアで発生した深刻な洪水で、犠牲になった人々や被災した全ての人々をマリアに託し、慈善と祈りを通じて被災家族を支援するよう呼びかけられた。
*四旬節は自らの省み、主の愛に再び目を向ける時
続けて教皇は、来週18日の「灰の水曜日」から四旬節の始まることを英語で確認され、「四旬節は、主への知識と愛を深め、自らの心と生活を省み、イエスと主の愛に再び目を向ける時。祈りと断食と施しの日々が、キリスト教徒が日々十字架を背負いキリストに従う努力をする上での力の源となることを願います」と信者たちに促して、説教を締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「聖母マリアは常に私たちと共におられ、多くのことを教えてくださる」-教皇、『世界病者の日』にルルドの洞窟前で共に祈る

(2026.1.11 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
11日の『世界病者の日』、ルルドの聖母の祭日にあたって、教皇レオ14世はバチカン庭園のルルドの洞窟前で病人たちのグループを迎え、聖母が苦しみの意味と愛を教えてくださることを思い起こさせられた。
教皇は、聖母マリアの前で祈りの時を共にしようと努力して集まった人々に対し、感謝の意を表され、「今日は非常に素晴らしい日です。マリアが傍におられることを思い起こさます。私たちの母であるマリアは常に私たちと共におられ、多くのことを教えてくださいます。苦しみの意味、愛の意味、そして人生を主の手に委ねる意味を、です」と語られた。
そして、彼らに使徒的祝福をお与えになる前に、「今日、そして常に病める方々、そして彼らを支える医師、看護師、その他全ての人々を主が祝福してくださるように」と祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
◎教皇連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」⑥神の言葉は、私たちの意味と真実への渇きに応える
講話で教皇は「神の言葉は、私たちの人生の意味や真実への渇望に応えるものです」とされ、「私たちは無数の言葉に囲まれて生きていますが、その多くは空虚です。時には賢明な言葉に耳を傾けることもありますが、究極的な運命に影響を与えません」と語られた。
そのうえで、第二バチカン公会議は「教会が主の御体を崇敬するのと同じように、常に聖書を崇敬してきたこと、そして教会が神の言葉の価値について絶えず省察を続けていることを、すべての人に思い起こさせます」と説かれた。
*聖書、キリスト、教会との関係
そして、「聖書の価値と力は、それがイエスと密接に結びついていることにあります… そして、私たちは、教会の中に生きることで、この結びつきを体験することができます」とされ、「キリストは父なる神の生きている言葉であり、人の子となった神の言葉… 聖書全体が、キリストという方と、私たち一人ひとり、そして全人類のための救いの臨在を告げ知らせているのです」と強調。
「それゆえ、聖書の、正当な居場所は教会なのです。なぜなら、聖書は、聖霊の導きのもとで神の民の中から生まれ、神の民のために存在しているからです」と述べられた教皇は、さらに、「キリスト教共同体において、聖書は、いわば”生息地″を持ちます… 教会の生活と信仰の中にこそ、その意味を明らかにし、力を示す場を見出すのです」と語られた。
この点に関して、教皇は「教会は、神の言葉がすべての成員に届き、信仰の歩みを育むことを切に願っています… 同時に聖書は、教会を自らを超えて前進させ、すべての人への使命へと絶えず開かせます」と述べられた。
*聖書を黙想することは、私たちを神との関係へと導く
教皇は続けて、「教会共同体において、聖書はその固有の任務を果たし、目的を達成する場を見出します… その目的とは『キリストを知らせる』ことと、『主との対話に入ること』です」とされ、聖ヒエロニムスが「聖書を知らないことは、キリストを知らないこと」語ってることを取り上げ、「神の言葉を読み、瞑想する究極の目的は、キリストを知り、キリストを通して神との関係に入ることであり、それは会話、対話として理解できる関係でです」と説かれた。
そして、教義憲章が、啓示を「神が友人のように人間に語りかける対話」として提示していることを指摘され、「聖書を祈りの心構えをもって読むときにこそ、その対話が実現するのです」強調された。
*司教、司祭、助祭、カテキスタにとって聖書への愛と親しみは特に重要
講話の最後に教皇は、聖書が「教会に託され、教会によって守られ、解釈される中で、積極的な役割を果たすこと」を改めて強調され、「例えばミサや秘跡の執行を通じて、聖書は、キリスト教共同体を支え、活気づけるのです」と語られた。この点に関して、「司教、司祭、助祭、カテキスタなど『言葉の奉仕を行う者』にとって、聖書への愛と親しみが特に重要であること」を強く説かれ、さらに、「聖書学者や聖書科学に携わる者の仕事には、計り知れない価値があり、聖書は、神学の中心的な位置を占めます。神学は神の言葉にその基礎と魂を見出すのです」と語られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
*講話の全文日本語訳は以下の通り*
第二バチカン公会議文書。第一部 教義憲章『神の言葉』(Dei Verbum)5. 教会の生活における神の言葉
本日の連続講話では、神の言葉と教会との間に存在する深遠かつ生命的な結びつきについて考察します。この絆は、公会議の教義憲章『Dei Verbum(神の言葉)』の第6章において表現されています。教会は聖書の正当な住まいです。聖霊の導きのもと、聖書は神の民の中から生まれ、神の民のために定められています。キリスト教共同体において、聖書はいわばその「生息地」を持つのです。実際、教会の生活と信仰の中にこそ、聖書はその意味を明らかにし、その力を示すことのできる場を見出すのです。
第二バチカン公会議は、次のように私たちに思い出させています。「教会は、聖なる典礼において、特に神の言葉とキリストの体の両方の食卓から、絶えず命のパンを信徒に授け、捧げているように、主の御体を崇敬するのと同じように、常に聖書を崇敬してきました」。さらに、「教会は、聖なる伝統とともに、聖書を信仰の最高規範として、常に守り続けてまいりました」(Dei Verbum, 21)。
教会は聖書の価値について、絶えず考察を続けています。公会議後、この点において極めて重要な機会となったのは、2008年10月に開催された「教会の生活と使命における神の言葉」をテーマとする世界代表司教会議(シノドス)通常総会でした。
教皇ベネディクト16世は、その成果を公会議後勧告『Verbum Domini(神の言葉)』(2010年9月30日)にまとめ、次のように断言されています: 「みことばと信仰との本質的な結びつきは、真の聖書解釈学が教会の信仰の内においてのみ可能であることを明らかにしています。その模範はマリアの『はい』にあります…聖書解釈の第一の舞台は教会の生活なのです」(29項)。
したがって、教会共同体においてこそ、聖書はその固有の使命を果たし、目的を達成する場を見出すのです。すなわち、キリストを知らせ、神との対話を開くことです。まさに「聖書を知らぬ者はキリストを知らぬ」[1]という聖ヒエロニムスの有名な言葉は、聖書を読み瞑想する究極の目的を私たちに思い出させます。
すなわち、キリストを知り、キリストを通して神との関係に入ることであり、その関係は対話、すなわち会話として理解できるものです。そして教義憲章『Dei Verbum 』は、啓示をまさに「対話」として提示しています。そこでは神が、友人のように人間に語りかけられるのです(参照:DV, 2)。これは、私たちが祈りの心構えをもって聖書を読むときに起こります。その時、神は私たちに近づき、私たちと会話を始められるのです。
教会に託され、教会によって守られ、解き明かされる聖書は、能動的な役割を果たします。その効力と力によって、キリスト教共同体を支え、活気づけるのです。すべての信徒は、まず何よりも聖体祭儀やその他の秘跡の祝典において、この泉から飲むよう招かれています。
聖書への愛と親しみが、御言葉の奉仕を担う方々―司教、司祭、助祭、カテキスタ―を導かねばなりません。聖書学者や聖書科学に携わる方々の働きは計り知れず、聖書は神学において中心的な位置を占めます。神学は神の御言葉にその基礎と魂を見出すのです。
教会は、神の言葉がすべての信徒に届き、信仰の歩みを育むことを切に願っています。しかし神の言葉は、教会を自己を超えて前進させ、すべての人への宣教へと絶えず開かせていくものでもあります。確かに私たちは多くの言葉に囲まれて生きていますが、その多くは空虚なものです。時には賢明な言葉に耳を傾けることもありますが、それらが私たちの究極の運命に影響を与えることは稀です。
それに対して、神の言葉は、私たちの意味への渇き、私たちの命についての真実への渇きに応えてくださいます。それは常に新しい唯一の言葉です。神の神秘を私たちに啓示し、尽きることなく、その豊かさを絶えず与え続けてくださいます。
親愛なる友人の皆さん、教会に生きる中で、聖書が完全にイエス・キリストに帰属することを学び、その価値と力の深い理由がそこにあることを体験します。キリストは父なる神の生ける御言葉、人となられた神の御言葉です。すべての聖書は、私たち一人ひとりと全人類のために、キリストの人格と救いの臨在を宣言しています。どうか、教会の母マリア様の模範に従い、この賜物を受け入れるために、私たちの心と精神を開きましょう。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
・7月26日の『祖父母と高齢者のための世界祈願日』テーマは「私はあなたを決して忘れない」

(2026.2.10 バチカン放送)
7月26日の「祖父母と高齢者のための世界祈願日」のテーマが10日、バチカンいのち・信徒・家庭省から発表された。
教皇レオ14世がこの日のために選ばれたテーマは、「I will never forget you(私はあなたを決して忘れない」(イザヤ書49章15節)。
このテーマで教皇は、すべての人に対する神の愛は、老いの弱さの中でも、決して、欠けることがないことを強調され、すべての祖父母と高齢者、特に孤独のうちに暮らしている人や、「自分の存在が忘れ去られている」と感じる人への、慰めと希望のメッセージとなるように願っておられる。
同時に、このテーマは、家族や教会共同体に対して、お年寄りたちを忘れず、その中に尊い存在と祝福を見出すよう呼びかけるものでもある。
カトリック教会の「祖父母と高齢者のための世界祈願日」は、教皇フランシスコによって、2021年に創設された。7月の4番目の日曜日に記念されるこの祈願日は、高齢者に教会の寄り添いを伝え、家庭や共同体におけるお年寄りたちの貢献の重要性を認識する機会だ。
第6回目となる今年度の祈願日は、イエスの祖父母、聖ヨアキムと聖アンナの日、7月26日と重なる。教皇は、すべての教区のカテドラルで、この祈願日が記念されることを願っておられる。
(編集「カトリック・あい」)
☩2月11日『第34回世界病者の日』の教皇メッセージ「サマリア人の憐み―他者の苦しみを担うことで愛する」
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
第34回「世界病者の日」は2026年2月11日にペルーのチクラヨで荘厳に祝われます。私はこの機会に、病者をはじめとした困窮する人々、苦しむ人々に注意を向けるために、よいサマリア人の姿を改めて示すことを望みました。それは、愛の素晴らしさと憐みの社会的次元を再発見することにおいて、常に現代的意味をもち、必要とされるからです。
私たちは皆、聖ルカによる感動的な箇所を、耳にするか、読んだことがあります(ルカ10・25-37参照)。私たちが愛さねばならない隣人とは誰か、と質問したある律法学者に対して、イエスは一つの物語を語ることによって答えます。エルサレムからエリコに向かって旅をしていた人が追いはぎに襲われ、瀕死の状態にされました。祭司とレビ人は道の向こう側を通って行きましたが、あるサマリア人は彼を哀れに思い、傷に包帯をして、宿屋に連れて行き、治療費を払いました。
私は、敬愛すべき前任者である教皇フランシスコの回勅『兄弟の皆さん』を解釈の鍵として、この聖書箇所について考察したいと思います。この回勅の中で、困窮する人に対する思いやりと憐みは、単なる個人的な努力にとどまらず、さまざまな関係の中で実現されます。すなわち、困窮する兄弟との関係、彼らを世話する人々との関係、私たちにご自身の愛を与えてくださる神との関係です。
1.出会いのたまもの――近しさと寄り添いを与える喜び
私たちはスピードと即時性と性急さの文化の中に浸されていますが、同時に、使い捨てと無関心の文化の中にも浸されています。そのため、周囲にある必要と苦しみに目を向けるために近づき、途中で立ち止まることができません。このたとえ話は、サマリア人が傷ついた人を見たとき、「道の向こう側を通る」ことなく、その人に対して開かれた注意深い眼差しを、すなわちイエスの眼差しを向けたと語ります。この眼差しが、サマリア人を、人間的な連帯をもって寄り添わせました。サマリア人は「足を止め近づいて、自ら手当てをし、懐を痛めて世話しました。この人は何よりも… 自分の時間を差し出したのです」(1)。
イエスは、隣人とは誰なのかを教えるのではなく、どのように隣人になるのか、すなわち、どのように私たち自身が寄り添うのかを教えます(2)。私たちはこのことに関して、聖アウグスティヌスとともに次のようにいうことができます。主が教えたかったのは、だれがこの人の隣人であるかではなく、人が誰の隣人にならなければならないか、ということでした。実際、進んで人に近づかなければ、誰も隣人にはなれません。だから、憐みを示した人が隣人となったのです(3)。
愛は受け身のものではありません。愛は他者へと向かいます。隣人であることは、身体的・社会的に近づくことによるのではなく、愛する決断によります。ですから、キリスト者は、傷ついた人類に近づいてくださった神なるまことのサマリア人、キリストの模範に従って、苦しむ人々の隣人となるのです。それは単なる博愛的な行為ではなく、他者の苦しみに個人的に与ることは自分自身を与えることだ、ということを、そこから感じ取らせてくれるしるしです。
それは、私たちの人格がたまものの一部となるために、必要を満たす以上のことをすることです(4)。この愛は、必然的に、愛するためにわたしたちにご自身を与えてくださったキリストとの出会いによって育まれます。聖フランシスコはハンセン病患者との出会いについて語りながら、次のように述べて、このことを極めて素晴らしい形で説明しました。「主ご自身が私を彼らの中に導き給うた」(5)。なぜなら、聖フランシスコは彼らを通して愛することの甘美な喜びを見い出したからです。
出会いの賜物はイエス・キリストとの絆から生まれます。私たちはこの方を、私たちに永遠の救いをもたらし、私たちが傷ついた兄弟に身をかがめるときに仰ぎ見る、よいサマリア人と考えます。聖アンブロジオは次のように述べます。「それゆえ、私たちの傷を癒してくださった方以上に、私たちの隣人である方はいないのだから、この方を主、また隣人として愛そうではないか。実際、頭よりも体の部分に近いものはない。キリストに倣う者をも愛そうではないか。体の一致のゆえに、他者の苦しみのために苦しむ者をも愛そうではないか」(6)。寄り添われ、共にいていただき、愛を与えられ、分かち与えられることによって、一なる方のうちに一つであることが、聖フランシスコと同じように、キリストと出会う甘美さを味わうことです。
2.病める人をケアする共通の使命
聖ルカは続けて、サマリア人が「憐れんだ」と述べています。「憐れむ」とは、行動を促す深い情動を表します。それは内面から湧き起こり、他者の苦しみに関わらせる感情です。このたとえ話の中で、憐みは行動的な愛の際立った特徴です。それは理論でも感傷でもなく、具体的な行動につながります。サマリア人は近寄り、傷を治療し、傷ついた人を引き受け、ケアします。しかし注意しなければならないのは、サマリア人がこれを一人で個人的にしたのではない、ということです。「サマリア人は、あの男の人の面倒を見てくれる宿屋の主人を求めました。私たちも広く呼びかけて、小さな個の集合よりも強力な『私たち』に巡り合うよう招かれています」(7)。
私自身も、ペルーでの宣教者また司教としての経験の中で、多くの人がサマリア人と宿屋の主人が示したような憐みと思いやりを共有しているのを目の当たりにしました。家族、隣人、医療従事者、医療司牧に携わる人々や他の多くの人々が、立ち止まり、近寄り、ケアし、担い、同伴し、自分が持っているものを与えながら、憐みに社会的な次元を与えます。人間関係のネットワークの中でのこの経験は、単なる個人的な取り組みを超えるものです。
そのため私は使徒的勧告『私はあなたを愛している―貧しい人々への愛について』(Dilexi te)の中で、病者のケアが教会の使命の「重要な部分」であるだけでなく「教会的な行為」(同49)であることを示しました。私は同書の中で、このような次元が私たちの社会の健全さをどのように証明することができるかを示すために、聖チプリアノの言葉を引用しました。「この疫病は恐ろしくて致命的なものと見えはするが、各々の正義や心を吟味するために、これほど適切で、これほど必要なことがあろうか。健康な者が病気の者を世話したかどうか、近親者がその親族を愛情込めて愛したかどうか。主人たる者が使用人の疲労や衰弱に同情したかどうか、医師は懇願する患者を見捨てたりしなかったかどうか」(8)。
一なるかたのうちに一つであることは、私たちが一つのからだの真の部分であると感じることを意味します。私たちはこのからだの中で、自らの召命に応じて、すべての人の苦しみに対する主の憐みをもたらすのです(9)。さらに、私たちの心を動かす苦しみは、見知らぬ人の苦しみではなく、私たちの同じからだの部分の苦しみです。この体の頭であるかたは、私たちがすべての人の善のためにケアを行うように命じます。この意味で、私たちのケアはキリストの苦しみと一致します。そしてそれは、キリスト教的な精神をもって行われるとき、すべての人が一つになることを願う救い主の祈りの実現を早めます(10)。
3.自分と兄弟とに出会うために、神への愛につねに突き動かされる
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10・27)。私たちはこの二つの掟のうちに、神への愛を第一に優先すべきことと、その帰結としての、あらゆる次元における愛し方、人との関わり方を見い出すことができます。「隣人への愛は、神への愛が真実なものであることの具体的な証拠です。使徒ヨハネが証しする通りです。『いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの内に留まってくださり、神の愛が私たちの内で全うされているのです。〔……〕神は愛です。愛に留まる人は、神の内に留まり、神もその人の内に留まってくださいます』(一ヨハネ4・12、16)」(11)。
たとえこの愛の対象が異なり―神、隣人、自分自身―、その意味でそれぞれ別の愛と理解することができるとしても、それらは常に切り離すことができないものです(12)。神への愛を第一に優先すべきことは、人間の行為が、個人的な利益や報酬なしに、儀式の枠に留まることなく真の礼拝となる、愛の現れとして行われねばならないことを意味します。隣人に仕えることは、それによって神を愛することです(13)。
このような次元は、私たちが自分を愛することの意味を理解することをも可能にします。それは、自尊心や自己評価を成功やキャリアや地位や家柄といった固定観念に基づかせようとする思いから離れ(14)、神と兄弟の前での自分の位置を再発見することを意味します。教皇ベネディクト十六世は次のように述べます。「霊的な存在として、人間は人間関係を通して自らを実現していきます。人間がこの関係を真正に生きれば生きるほど、自らの個人としてのアイデンティティは成長していきます。人間が自分の尊厳を確立するのは、孤立によってではなく、他者および神との関係に自分を置くことによってです」(15)。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。「人類の傷をいやす真の薬は、神への愛に根ざした兄弟愛に基づく生き方です」(16)。私たちのキリスト者としての生き方が、このような兄弟愛の次元を欠くことがないよう、私は願います。それは、神との一致とイエス・キリストへの信仰に深く根ざした、「サマリア人の」、すべての人に開かれた、勇気ある、参加的で、連帯的な次元です。私たちは、この神への愛によって燃え立たせられるとき、すべての苦しむ人、とくに病者、高齢者、苦難のうちにある兄弟の善のために真に自分を捧げることができるのです。
病者の救いである聖なるおとめマリアに私たちの祈りをささげたいと思います。すべての苦しむ人、あわれみと傾聴と慰めを必要とする人のためにマリアの助けを求めます。そして、病気や苦しみのうちにある人々のために家庭の中で唱えられてきた次の古くからの祈りをもって、マリアの執り成しを願います。
甘美なるみ母よ、私から離れず、御目を私からそらさないでください。
いつも私と共にいて、私を一人にしないでください。
あなたは常に私の守り 私の誠の母。
父と子と聖霊が私を祝福してくださるようにお祈りください。
すべての病者とそのご家族、介助者、医療従事者、医療司牧に携わる人々、特にこの「世界病者の日」に参加する人々に、心から私の使徒的祝福を送ります。
バチカンにて、2026年1月13日
注
- ^ 教皇フランシスコ回勅『兄弟の皆さん(2020年10月3日)』63(Fratelli tutti)。
- ^ 同80-82参照。
- ^ 聖アウグスティヌス『説教』(Sermones, 171, 2; 179 A, 7)参照。
- ^ 教皇ベネディクト十六世回勅『神は愛(2005年12月25日)』34(Deus charitas est)、教皇聖ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『サルヴィフィチ・ドローリス――苦しみのキリスト教的意味(1984年2月11日)』28(Salvifici doloris)参照。
- ^ アッシジの聖フランシスコ『遺言』(Testamentum, 2: Fonti Francescane, 110〔坂口昻吉訳、『中世思想原典集成12 フランシスコ会学派』平凡社、2001年、85頁〕)。
- ^ 聖アンブロジオ『ルカ福音書注解』(Expositio Evangelii secundum Lucam, VII, 84)。
- ^ 教皇フランシスコ回勅『兄弟の皆さん(2020年10月3日)』78(Fratelli tutti)。
- ^ 聖チプリアノ『死を免れないことについて』(De mortalitate, 16〔吉田聖訳、『中世思想原典集成4 初期ラテン教父』平凡社、1999年、294頁〕)。
- ^ 教皇聖ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『サルヴィフィチ・ドローリス――苦しみのキリスト教的意味(1984年2月11日)』24(Salvifici doloris)参照。
- ^ 同31参照。
- ^ 教皇レオ十四世使徒的勧告『わたしはあなたを愛している――貧しい人々への愛について(2025年10月4日)』26(Dilexi te)。
- ^ 同参照。
- ^ 教皇フランシスコ回勅『兄弟の皆さん(2020年10月3日)』79(Fratelli tutti)参照。
- ^ 同101参照。
- ^ 教皇ベネディクト十六世回勅『真理に根ざした愛(2009年6月29日)』53(Caritas in veritate)。
- ^ 教皇フランシスコ「第33回国際ユースフェスティバル(MLADIFEST)(メジュゴリエ、2022年8月1日-6日)参加者へのメッセージ(2022年7月16日)」。
(カトリック中央協議会訳・「カトリック・あい」編集)
☩「スポーツは、人類の善、特に平和の促進に重要な役割を果たせる」教皇、冬季五輪を機会にスポーツの価値についての書簡
☩教皇、ナイジェリアでの武装集団による大殺戮を非難、市民の安全確保を強く求める

(2026.2.8 Vatican News Olivier Bonnel and Valerio Palombaro)
教皇レオ14世は8日の正午の祈りに続けて、ナイジェリアで数十人の命を奪った一連の致命的な襲撃を取り上げ、悲しみと懸念を表明。信者たちに犠牲者と家族のために祈るよう求められるとともに、同国の治安当局に「全ての市民の安全と生命の確保に断固として取り組み続けること」を求められた。
2月3日夜、同国中西部のウォロ村で少なくとも160人が殺害されているが、さらに、カドゥナ州の4つの村で過去3日間に発生した襲撃では、少なくとも51人が拉致され、6人が殺害された。AFP通信が引用したナイジェリア治安当局の情報によれば、襲撃はカドゥナ州南部、キリスト教徒が多数を占める地域で発生した。同地域では1月に180人以上が拉致されたが、ここ数日で解放されていた。
武装集団がカジュル地方政府管轄区域で、司祭を含む11人を拉致し、さらに3人を殺害した。カファンチャン大司教区は、カジュル地区カルクにある聖三位一体教会の主任司祭ナサニエル・アスウェイ神父が拉致された事実を確認した。大司教区の声明によれば、襲撃は土曜未明3時頃に司祭宅で発生し、3名の死亡者も出た。目撃者はこれを「テロリスト集団による襲撃」と表現している。
ボコ・ハラムなどのジハード主義組織による襲撃から武装集団による襲撃まで、暴力の急増を受けて、連邦政府はボラ・ティヌブ大統領の命令によりカイアマ地区に陸軍大隊を派遣した。
教皇は、この正午の祈りで、ナイジェリアに加え、人身売買の被害者、そしてスペイン、モロッコ、ポルトガル、シチリアで洪水や土砂崩れの影響を受けた人々のためにも祈りを捧げた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「神は決して、私たちをお見捨てにならない」教皇、年間第五主日の正午の祈りで

(2026.2.8 Vatican News Kielce Gussie)
教皇レオ14世は年間第五主日の8日、正午の祈りに先立つ説教で、前の主日で読まれた「八つの幸せ」に続くイエスの言葉について考察。
「イエスとの出会いが、私たちの日常生活に真の喜び、味わい、光をもたらす」とされ、「たとえ落ち込んでいる時でさえ、父なる神は、私たちの名前と唯一無二の存在を大切にされているのです」と強調された。
説教で教皇は、「真の喜びが、人生の暗い部分に味わいと光を与えます… この喜びは、望み、選び取らねばならない生き方、すなわち地に住み、共に生きる方法から湧き出るものです」と指摘。
そして、「この新たな生き方は、イエスとその言葉と行いの中に輝いています… 謙虚で、柔和で、心清く、正義を渇望するイエスに出会った人は、味気なく退屈な生活には戻れません。この出会いによって、変革と和解の力としての慈悲と平和が解き放たれるのです」と説かれた。
続けて教皇は、預言者イザヤの書の朗読箇所を引用する形で、不正を克服する具体的な方法を列挙され、「飢えた人とパンを分かち合い、貧しい者と宿のない人をわが家に迎え入れ、裸の人に衣を着せ、隣人やわが家の人を見捨てないことです… これらの行いを成し遂げた時、預言者はこう告げます。『そうすれば、あなたの光は夜明けのように輝き、あなたの癒しは速やかに現れる』(58章8節)と」。
そのうえで、この言葉の二面的な深みを指摘され、「一方では、太陽のように闇を追い払う隠すことのできない光があり、他方では、かつて燃えさかっていた傷が癒やされつつあるのです」と述べられた。
さらに教皇は、「味わいを失い、喜びを放棄することは、痛ましいことですが、心にこのような傷を負うことはあり得ます」とされる一方、「福音書の箇所では、イエスは聴衆に対し、諦めないよう警告されているように見えます。『味わいを失った塩は、もはや何の役にも立たず、捨てられて人の足で踏みにじられる』と語られます。そして、多くの人々、おそらく私たち自身も、『自分には価値がない』、あるいは『壊れている』と感じているでしょう。まるで自らの光が隠されてしまったかのようです」と語られた。
「しかし」と教皇は続けられた。「イエスは希望の宣言をなさいます。神は決して私たちを捨てたりはなさらない。神は、私たちの名前をご存じで、一人ひとりの独自性を大切にされているのです。どんなに深い傷を負っていても、主の祝福の言葉を受け入れ、福音の道へと立ち返ることで癒されるのです」と強調された。
そして、「他者への開かれた姿勢と配慮という具体的な行動が、人生における喜びを再び燃え上がらせる助けとなります。しかし、そうした行為の単純さゆえに、私たちは世の中と対立する立場に立たされることもあるでしょう」とされたうえで、「イエスは、荒野で誘惑に遭われ、異なる道を選び、ご自身の正体を明かすよう迫られましたが、『真の味を失う道』を拒まれた。その真の味とは、毎週日曜日に裂かれるパンの中に私たちが発見するものであり、それは捧げられた命であり、静かな愛なのです」と説かれた。
最後に、教皇は「イエスとの交わりによって養われ、照らされるように」と信者たちに勧められ、「そうすれば、私たちは、丘の上に築かれた町のように、単に目に見えるだけでなく、他者を招き入れ、歓迎する存在となるでしょう。その町は『神の都』であり、誰もが心の奥底で、そこに住み、平安を見出したい、と願う場所なのです」と語られた。
そして、聖ペトロ広場に集うすべての人々に、天の門であるマリアに祈りを託し、「御子の弟子となり、そのままでいられるよう助けていただくことを強く願われた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「人身売買は人類に対する重大な犯罪、終結させる決意を」教皇、8日の「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」を前に呼びかけ

(2026.2.6 Vatican News Devin Watkins)
2月8日のカトリック教会の「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」を前に、教皇レオ14世は6日、メッセージを発表、この「人類に対する重大な犯罪」に立ち向かい、終結させる決意を表明された。
「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」は女子修道会の国際総長会議(UISG)が、聖バキータの祝日である2月8日と定めたのが始まり。人身取引についてよく知り、人身取引をなくすために、また被害者たちのために祈るのが狙いで、今回で12目を迎える。
メッセージで、教皇は、「現代の奴隷制」が招いている惨状を非難、オンライン社会においてさらに不気味な形態を呈していることを指摘したうえで、「この重大な人類に対する犯罪に立ち向かい、終結させるための緊急の呼びかけ」をされた。
そして、復活されたキリストの「平和があるように」という呼びかけを取り上げ、「この言葉は、新たな人類への道を示しています… 真の平和は、あらゆる人の神から与えられた尊厳を認め保護することから始まります」とされた。
そのうえで、「しかし、暴力が増大するこの時代において、多くの人々は、自らの支配を確立する条件として、武器による平和を求める誘惑に駆られている… 人間は戦争において、政治的・経済的利益のために犠牲にされる単なる巻き添え被害者と見なされることが多くなっています… そして、同じ人命軽視の風潮が、人身売買を助長している… 武力紛争や地政学的な不安定が、避難中の人々を搾取する機会を人身売買業者に与えるからです」と指摘。
教皇は、「この壊れたパラダイムの中で、女性と子どもが忌まわしい取引によって最も深刻な影響を受けています」とされ、さらに現在顕著になっている「サイバー奴隷制」の増加に言及。「これは人々が、オンライン詐欺や麻薬密輸、詐欺などの犯罪活動に誘い込まれる現象の一環。被害者は、加害者の役割を強制され、精神的な傷をさらに深めることになっています。こうした暴力は、個別に起きている事件ではなく、『キリストの愛を忘れた文化』がもたらす症状なのです」と語られた。
そして、こうした苦痛と社会的課題に対して、「キリスト教徒は、『祈り』と『自覚』に向かわねばなりません。『祈り』は不正と無関心に抵抗する力を与える『小さな炎』であり、『自覚』は地域社会やデジタル空間における搾取システムを特定し、克服する助けとなります」と述べ、信者たちに『祈り』と『自覚』を促され、「人身取引の暴力は、あらゆる個人を神の愛する子として見る、新たな視点によってのみ克服することができるのです」と強調された。
メッセージの最後に教皇は、人身売買の被害者を支援する、自身も被害者である人も含む多くの人々やネットワークに感謝の意を表された。そして8日の「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」を聖バキータの取り次ぎに委ね、「聖バキータの生涯は、最後まで彼女を愛した主への希望の力強い証し」とされたうえで、「平和は、単に戦争の不在ではなく、『武装せず、武装解除する』もの。すべての人の尊厳を完全に尊重することに根ざした世界に向かう旅へ参加しよう」と世界の信者たちに呼びかけられた。
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バチカン発表のメッセージ全文の「カトリック・あい」日本語訳は以下の通り。
教皇レオ14世のメッセージ 第12回「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」に当たって
尊厳から始まる平和:人身取引撲滅への世界的な呼びかけ
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
第12回「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」に当たって、この重大な人道に対する犯罪に立ち向かい、終結させるよう、教会が緊急に呼びかけていることを改めて強く表明いたします。
特に本年は、復活された主の挨拶「平安あれ」(ヨハネ福音書20章19節)を取り上げたいと思います。この言葉は単なる挨拶ではなく、新たな人類への道を示しています。真の平和は、すべての人に神から与えられた尊厳を認め、守ることに始まります。しかし、暴力が増大するこの時代において、多くの人々は「自らの支配を確立するための条件として武器によって」平和を求める誘惑に駆られています(聖座駐在外交団への演説、2026年1月9日)。さらに、紛争状況においては、人命の喪失が戦争推進者たちによって「付随的損害」として軽視され、政治的・経済的利益追求の犠牲となることがあまりにも頻繁に起こっています。
悲しいことに、この支配欲と人命軽視の論理は、人身取引という惨劇をも助長しています。地政学的不安定と武力紛争は、人身取引業者が最も脆弱な立場にある人々、特に避難民、移民、難民を搾取するための肥沃な土壌を生み出しています。この壊れたパラダイムの中で、女性と子どもたちはこの凶悪な取引によって最も深刻な影響を受けています。さらに、富裕層と貧困層の格差の拡大は多くの人々を不安定な状況に追い込み、勧誘者の欺瞞的な約束に弱くさせます。
この現象は、いわゆる「サイバー奴隷制」の台頭において特に憂慮すべきものです。これは、個人がオンライン詐欺や麻薬密輸などの詐欺的計画や犯罪活動に誘い込まれるものです。このような場合、被害者は加害者の役割を強要され、精神的傷がさらに深まります。こうした暴力は孤立した事件ではなく、キリストの愛を忘れた文化の症状なのです。
こうした深刻な課題に直面する中、私たちは祈りと認識に向かいます。祈りは嵐の中で守らねばならない「小さな炎」であり、不正義への無関心に抵抗する力を与えてくれます。認識は、私たちの地域社会やデジタル空間に潜む搾取の仕組みを見抜く力を与えます。結局のところ、人身取引の暴力は、あらゆる個人を神様の愛する子として見つめる新たな視点によってのみ克服できるのです。
国際的なネットワークや組織を含め、人身取引の被害者に手を差し伸べるキリストの手として奉仕してくださる全ての方々に、心より感謝申し上げます。また、他の被害者を支援する擁護者となられた生存者の皆様にも敬意を表します。彼らの勇気、忠実さ、そしてたゆまぬ献身に、主の祝福がありますように。
このような思いをもって、本日を記念される皆様を、聖ヨゼフィーヌ・バキタの取り次ぎに託します。彼女の生涯は、最後まで彼女を愛された主(参照:ヨハネ13:1)への希望の力強い証しです。平和が単に戦争の不在ではなく、「武装せず、武装解除する」ものであり、すべての人々の尊厳への完全な尊重に根ざした世界へ向けた歩みを、私たち皆で共に歩みましょう。
バチカンより 2026年1月29日 レオ14世
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「世界の子供たちを危険から守る取り組みは依然として進んでいない」-教皇、『子供の権利に関する国際サミット』の参加者たちと会見

(2026.2.5 Vatican News)
☩教皇、ロシアの攻撃に苦しむ極寒のウクライナ国民への祈りを求め、米露の新START失効へ強い懸念と新たな取り組み訴え
(2026.2.4 Vatican News)
教皇レオ14世は4日、水曜恒例一般謁見で、信者たちに、極寒の気温によって悪化した戦争の被害に苦しむウクライナ国民への祈りを求めるとともに、5日に米露の新新戦略兵器削減条約(START)が期限切れを迎えるにあたって、核兵器拡散防止に向けた新STARTの更新など新たな取り組みを米露両国当事者と他の核保有国、世界各国に訴えた。
「ウクライナの兄弟姉妹が、エネルギーインフラをも標的とする爆撃の余波に厳しく試されている今、祈りをもって彼らを支えるように、皆さんに強くお願いします」と述べられた教皇はまた、「厳しい寒さの中、人々が耐えられるよう支援に取り組む」ポーランドや他国のカトリック教会に謝意を表明された。
教皇はまた、5日に期限切れとなる米露の新STARTに言及され、「この条約が核兵器拡散制限における重要な一歩になってきた」ことを強調され、「この枠組みが、具体的かつ効果的な後継措置を模索せずに失効することを許してはなりません」と強く訴えられた。
そして、現在の世界をめぐる状況は、「国家間の平和を一段と脅かす新たな軍拡競争を回避するため、あらゆる可能な手段を講じることを求めています」と述べ、恐怖と不信に基づく論理を超越する緊急性を強調。「共通の利益に向けた意思決定を導く共有の倫理をもって、平和が全ての者によって守られる責任と遺産となるように」と強く願われた。
教皇の核拡散制限への新たな取り組みの訴えは、世界の多くの専門家が新STARTの終了が米露、そして中国など核保有国間の危険かつ高コストな軍拡競争につながる恐れがあると懸念を示す中でなされた。
新STARTは、米国とロシアが配備する戦略核兵器の数を制限し、その為の現地相互査察などを決めたもので、2010年に最初に合意され、2021年に5年間延長された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
◎教皇連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」⑤「聖書を歴史的文脈で読むように」-教皇、”原理主義”回避を呼びかけ
(2026.2.4 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇レオ14世は4日の水曜恒例一般謁見で「第二バチカン公会議を学び直す」をテーマにした連続講話を続けられ、その中で、聖書を「原理主義的あるいは霊性主義的に解釈する」ことへの警戒を促されるとともに、「人間の心に響く言葉で神の言葉を宣べ伝える」教会の使命を強調された。
講話で教皇は、前週に続いて今回も「公会議が発出した最も素晴らしく、重要な文書の一つ」である教義憲章『神の言葉(Dei Verbum)』に焦点を当て、「この憲章は、聖書において信徒が『神があらゆる時代の男女に語りかけ続け、それを彼らが聴くことによって、神を知り愛することができる『特権的な出会いの場』を見出すことを示しています」と語られた。
*神は大きな愛ゆえに人が理解可能な言語を用い、聖書を記された
聖書について教皇は「天上の言語や超人的な言語で書かれたものではありません」とされ、「神は大きな愛ゆえに人間の言語を用いて語られることを選び、聖霊に導かれた様々な著者たちが聖書の本文を記したものです」と述べ、「教義憲章は、『神の言葉が、人間の言葉で表現され、人間の言葉のように形作られた。永遠の父なる神の言葉が、人間の弱さという肉体をまとったとき、あらゆる点で人間と同じようにされたのと同様である』と繰り返しています」と指摘。
したがって、聖書は内容だけでなく言語においても「神が人間に対して示された慈悲深い降臨と、人間に近づきたい、という御心を明らかにしています」と述べられた。
*人間の歴史に根ざした言語
教皇はまた、教会の歴史を通じて、聖書の神の作者と人間の作者との関係が研究されてきたことを認めたうえで、「聖書を正しく解釈するために、それが形成された歴史的環境や用いられた文学形式を無視することはできません。そして、神が用いた人間の言葉の研究を放棄することは、聖書の本質を裏切る”原理主義的”あるいは”霊性主義的”な解釈へと導く危険があります」と警告された。
そして、この原則は「神の言葉の宣教にも適用されます」とされ、「現実や人間の希望、苦しみとの接点を失い、理解不能な言語を用いたり、伝達力に欠け、時代錯誤的であれば、それは宣教にとって無力です… 教会は、あらゆる時代において、神の言葉を歴史に具現化され、心に届く言語で再提示するよう召されています。特に典礼の文脈で宣べ伝えられる時、聖書は今日の信者たちに語りかけ、彼らの問題を抱えた現実に触れ、踏み出すべき歩みや下すべき決断を、照らすためにあるのです」と強調された。
*神が与えた豊かな命の喜びに満ちた宣教
続けて教皇は、「聖書は、信者の命と愛を育むために役立ちます」と述べ、「聖書の神聖な起源は、洗礼を受けた人の証しに託された福音が人生と現実のあらゆる側面を包含しつつも、それらを超越していることを想起させます… 聖書は、単なる慈善的・社会的メッセージに還元されるものではなく、神がイエスにおいて、私たちに与えた完全で永遠の命の喜びに満ちた宣言なのです」と説かれた。
そして、講話の最後に、「主の慈しみによって、私たちの生活が御言葉という不可欠な糧に欠けることがないよう守ってくださることを感謝し、私たちの言葉、そしてさらに私たちの生活そのものが、聖書に記された神の愛を覆い隠すことのないように祈りましょう」と信者たち促された。
*講話の全文以下の通り。
この数週間、私たちが考察している公会議の教義憲章『神の言葉』は、教会の生きた伝統の中で読まれる聖書を、神があらゆる時代の人々に語りかけ続け、彼らが耳を傾けることによって神を知り、愛することができる特権的な出会いの場として示しています。
しかしながら、聖書のテキストは天上の言語や超人的な言語で書かれたものではありません。実際、日常生活が教えてくれるように、異なる言語を話す二人の人間は互いに理解し合うことができず、対話に入ることができず、関係を築くこともできません。場合によっては、他者に自分を理解してもらうことが、愛の最初の行為となるのです。これこそが、神が人間の言語を用いて語られることを選ばれた理由であり、こうして聖霊に導かれた様々な著者たちが聖書のテキストを記したのです。
公会議の文書が私たちに思い出させてくれるように、「神の言葉は、人間の言語で表現されることで、人間の言葉のように形作られました。それは、永遠の父なる神が、人間の弱さという肉体を御自身に受けられたとき、あらゆる点において人間と同じようにされたのと同じです」(DV, 13)。したがって、聖書は内容だけでなく、その言語においても、神が人間に対して示される憐れみ深いご降臨と、人間に近づきたいという御心を明らかにしています。
教会史を通じて、聖なるテキストの神の著者(著者)と人間の著者(著者)との関係は研究されてきました。数世紀にわたり、多くの神学者たちは聖書の神の霊感を守ることに注力し、人間の著者をほとんど聖霊の受動的な道具と見なすほどでした。
近年の考察では、聖なる書物の執筆における聖書記者の貢献が再評価され、公会議文書は神を聖書の主要な「著者」と述べつつも、聖書記者たちを聖なる書物の「真の著者」と呼んでいます(DV, 11参照)。前世紀の鋭い聖書解釈者が指摘したように、「人間の活動を単なる代筆者の役割に矮小化することは、神の活動を讃えることにはなりません」。[1] 神は決して人間とその可能性を軽んじられることはありません!
したがって、聖書が人間の言葉による神の言葉であるなら、この二つの側面のいずれかを軽視したり否定したりするアプローチは、偏ったものとなります。つまり、聖なるテキストの正しい解釈は、それが形成された歴史的環境や用いられた文学形式を無視することはできません。逆に、神が用いられた人間の言葉の研究を放棄することは、聖書の根本主義的あるいは霊性主義的な解釈へと導き、その意味を裏切る危険性があります。
この原則は神の言葉の宣教にも適用されます。現実や人間の希望・苦しみとの接点を失い、理解不能な言葉や伝わりにくい時代錯誤の表現を用いるならば、それは効果を欠くことになります。あらゆる時代において、教会は神の言葉を、歴史に根ざし人々の心に届く言語で再提示するよう召されています。
教皇フランシスコが指摘されるように、「私たちが源流に立ち返り、福音の本来の鮮やかさを取り戻そうと努めるたび、新たな道が開け、創造性の新たな道筋が現れます。それは異なる表現形式、より雄弁な象徴、そして現代世界にとって新たな意味を持つ言葉によって示されるのです」。[2]
一方で、聖書の神的な起源を軽視し、単なる人間の教えとして、あるいは技術的な観点からの研究対象として、あるいは「過去だけのもの」として理解してしまうような聖書解釈も、同様に限定的です。[3] むしろ、特に典礼の文脈において宣教される聖書は、今日の信者たちに語りかけ、彼らの現在の生活と問題に触れ、踏み出すべき歩みや下すべき決断を照らすことを意図しています。これは、信者たちが聖なるテキストを、それを霊感したのと同じ聖霊の導きのもとで読み解釈するときにのみ可能となります(参照:DV, 12)。
この点において、聖書は信徒の生活と愛を育む役割を果たします。聖アウグスティヌスが想起するように:「聖書を理解していると思う者が…その解釈が神と隣人へのこの二重の愛を築くことに寄与しないならば、彼はまだ聖書を正しく理解しているとは言えません」。[4]
聖書の神的な起源はまた、洗礼を受けた者の証しに託された福音が「人生と現実のあらゆる側面を包含しつつも、それらを超越していること」を想起させます。福音は単なる人道主義的あるいは社会的メッセージに還元されることはなく、神がイエスにおいて私たちに与えてくださった完全で永遠の命の喜びに満ちた宣言なのです。
親愛なる兄弟姉妹の皆様、主の慈しみにより、私たちの生活が御言葉という不可欠な糧に欠けることがないよう守ってくださることを感謝しましょう。そして、私たちの言葉、さらに言えば私たちの生活そのものが、そこに語られている神の愛を曇らせることがないよう、祈りましょう。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「あなたが私に話したことが、他の被害者も声を上げるきっかけになれば…」教皇、アイルランドの性的虐待被害者の訴えを聴かれて
(2026.2.2 Vatican News )教皇レオ14世は、アイルランドのブラックロック・カレッジの元生徒であるデイヴィッド・ライアンと面会し、
教皇レオ14世は2日、アイルランドの性的虐待被害者、デイビッド・ライアン氏と面会され、彼と亡き兄マーク氏がカトリック系中等学校で受けた虐待の話をお聴きになった。
彼は2022年11月に放送されたアイルランドのRTÉラジオ1のドキュメンタリー番組に出演し、二人に対する性的虐待について訴えていた。彼らは12歳から17歳まで、ダブリン州のブラックロック・カレッジとその付属予備校ウィロー・パークに通っていた。
教皇との面会後、ライアン氏は記者団に対し、「教皇は、私の虐待被害の証言に真剣に耳を傾けてくださった」と言い、教皇が「今日、あなたが私に話したことが、他の被害者も声を上げるきっかけになれば」と語られたことを明らかにした。そして、「まさに私が望むのは、他の被害者が名乗り出ることであり、教皇はその思いを理解しておられました」と述べた。
また、彼は、「教皇が、被害者とその家族への深い同情と共感を示しておられる、感じました。私の苦しみ、家族の苦しみ、そしてまだ声を上げていない他の生存者たちのことをお聴きになり、教皇は深く悲しんでおられました。そのお気持ちは本物だと分かります…本当に、声を上げて良かった」と語った。
ライアン氏は、「虐待が自分の責任ではなく、加害者側の責任だ、と気づくまでに40年かかりました」とも述べた。
面会の際、ライアン氏は教皇にキルデアの聖ブリジッドの襟ピンを贈った。前日の2月1日はアイルランドの聖ブリジッドの祝日だった。教皇に、兄マーク氏の写真も見せた。マークもブラックロック・カレッジで虐待を受けていたが、2023年に62歳で急死していた。
ライアン氏は教皇との面会を振り返り、「素晴らしい体験でした。決して忘れません。絶対に忘れません。教皇の誠実さ、共感力。私の痛みを理解しておられました。ご自分が経験したわけではないが、私が、そして、私の家族が経験した苦痛を彼は知っておられたのです」と語った。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)