・主の受難の典礼—「イエスは十字架の死を救いへと変えられた」

(2026.4.3  バチカン放送)
 教皇レオ14世は聖金曜日の3日午後、バチカンの聖ペトロ大聖堂で「主の受難の儀式」を行われた。The Liturgy of the Passion Liturgy in the Vatican

 静まり返った聖堂内に教皇は行列と共に入場、中央祭壇前の床に伏し、沈黙の祈りを捧げられた。参列者らもこうべを垂れ、その祈りに一致した。

 続く御言葉の典礼では、第一朗読『イザヤ書』の「主の僕の歌・第4歌」(52章13節-53章12節)で「主の僕の苦難と死」が、第二朗読『ヘブライ人への手紙』(4章14-16節、 5章7-9節)で「御子であるにもかかわらず、苦しみによって従順を学ばれ、永遠の救いの源となられたイエスの姿」が示された。

 福音朗読では『ヨハネ福音書』のイエス・キリストの受難(18章1節-19章42節)が三人の助祭により朗誦された。人々は、イエスの逮捕・連行から、尋問、死刑判決、十字架を背負ってのゴルゴダへの歩み、十字架につけられ、死に至るまでの出来事に思いをはせた。

 続く説教は、 教皇付説教師ロベルト・パソリーニ神父によって要旨以下のとおり行われた。

(Vatican News    Deborah Castellano Lubov)

  パゾリーニ神父はまず、この聖なる日に典礼が私たちに主の受難を黙想するよう招いていることに注意を向け、「キリストの十字架を孤立した事実、突発的で不可解な出来事として捉えるなら、それは理解不能なままになりかねないが、実際は、旅路の頂点… イエスが父の声を聞き入れ、受け入れ、自らを最大の愛へと導かれることを受け入れた生涯の成就なのです」と強調。

 聖週間の日々において、典礼が私たちを今読まれた『イザヤ書』の「主の僕の歌」に耳を傾けるように導いてきた、としたうえで、「それは預言者イザヤが、神が悪と罪から世界に救いをもたらすための神秘的なしもべの姿を描き出す詩的なテキストです。ここでは、僕を、「盲人の目を開き、囚人を牢獄から、暗闇に住む者を地下牢から連れ出す」ために主によって召された者として紹介されていますが、その行為は、暴力によってではなく、極めて優しい方法でなされるのです」と言明。

 そして、「僕は、悪の闇の中で命を求める者でなければならないが、そのような使命を受け入れることは容易ではありません」とも述べた。

 

*主の僕は、あらゆる努力が無駄であるという感覚を味わう

 

 「僕」は使命を果たそうと奮闘した後、善を行うためのあらゆる努力が無駄であったという苦い感覚を味わう。蒔かれた善が実を結んでいないように思えるからだ。それは「主に従うことを選んだ者なら誰にでも、遅かれ早かれ訪れる危機。堂々巡りしているような、どこにもたどり着けないような、目に見える結果をもたらさない何かに、忠実であり続けている、という感覚」であることを認めつつ、「実際には、それは単なる”印象”に過ぎないのです」と語った。

 僕は、助けようとした者たちが敵意や怒り、さらには暴力で応じていることに気づく。それでも、彼は逃げず、主が示された道を歩み続ける。

 だが、「僕に加えられる暴力は極めて激しく、その顔を歪め、誰であるかも判別できないほどにしてしまいます… しかし、まさにこの道程において、彼は受けた悪に報復しないことを学んだのです」。

*主は、父への完全な信頼をもって、十字架の死を救いの出来事へと変容された

 

 以上の考察の後、神父は「父なる神の御心への完全な信頼をもって、主は、ご自身の十字架の死を救いの出来事へと変容されました」と語った。

 「悪に直面した時、取ることのできる道は、悪に屈服するか、あるいは悪を返すかの二つしかない、ということを、私たちは絶えず目にします。戦争において、分裂において、そして私たちの関係を傷つける傷跡において、です」としたうえで、「しかし、イエスは、『より大きな力で自らを押し通す』ことによってではなく、受難の劇的な出来事を通じて、自分に起こったことを受け入れることによって、この連鎖を断ち切ったのです」と言明。

 「このように十字架の道を歩むことによって。キリストは最も困難な『従順』、すなわち、たとえ相手が敵として現れたとしても、他者を愛するいう従順を学ばれたのです」と述べつつも、「かつてのように神の声が人類の共通の道を導くことがなくなった世界に私たち生きていること」を嘆き、「戦争は止まず、不正は増え続け、最も弱い立場にある者たちがその代償を背負わされている」とも語った。

*流れに逆らい、主の模範に従う、という選択

 

 そして、「人類をより公正で兄弟愛に満ちた世界へと導くことのできる、人々を一つにする言葉や歌が欠けているかのようです… しかし、まさにこの状況においてこそ、驚くべきことが見られる。それは、別の声に耳を傾けることを選ぶ”沈黙の群衆”です。ある人々はそれをはっきりと神の御心として認識し、またある人々はそれを深く、逃れようのない良心の呼び声として感じ取っている」と指摘。

 「時には彼らは、自覚することさえなく、主のしもべと同じ道を歩む、ごく普通の男女です… 並外れた行いをするわけではない。ただ毎日起き上がり、自分の人生を、自分自身だけでなく他者のためにも役立つものになろうと努めているのです… 悪が最終的な勝利を収めることなく、歴史が暴力の中で終わらないのは、彼らのおかげです」と述べた。

 そして、「神が喜ばれるその僕の歌が、今もなお人間の心に響き渡り、それが十字架を背負うことを意味するとしても、自らの生涯という具体的な『楽譜』へと書き換える意志を持つ者をただ待っていることを、これらの人々は証ししているのです」と強調した。

 

*世界は救われる必要があるが、”上”から降りてくるものではない

 「昨日も今日も、世界は悪の暴力から、人を殺す不正から、人を辱める分裂から救われる必要がありますが、救いは上から降りてくるものではなく、政治的、経済的、あるいは軍事的な決定によって保証されるものでもない。主の僕の歌を自らの生き方として受け入れることをいとわない人々によって、世界は絶えず救われています」。

 「主イエスは、父の御心を真剣に受け止め、それを最後まで遂行すべき『楽譜』として抱きしめたとき、まさにこれをなされたのでした。大声と涙をもって。そして、十字架という『楽譜』は、私たちにも託されているのです」。

*主は私たちを御自身の道具として必要とされている

 

  「直面できない困難な状況などないこと、指を差すべき罪人などいないこと、私たちが愛し奉仕することを妨げる敵などいないことを受け入れれば、私たちはそれを自由に受け取ることができる… その代わりに、私たちは悟らねばなりません。『悪に悪で報いないことを選び、試練の中で忍耐し、闇がすべてを飲み込みそうに見えても善を信じ続けることによって、私たちは、世界に救いをもたらすために主が用いたいと願う僕となることができるのだ』と」。

 「憎しみと暴力に引き裂かれ、戦争や死の決断を正当化するために神の名さえも引き合いに出される、このような時代において、私たちキリスト教徒は、主の十字架に近づくよう招かれているのです。私たちは恐れず、完全な確信を持って、それに応えるべきです。。統治することを学ぶ『玉座』が他者のために自らの命を捧げる場所であることを知っているからです」。

 パゾリーニ神父はこう述べた。「私たちが『信仰の告白』をしっかりと握りしめるなら、私たちの日々は喜びと苦しみの歌を響かせるでしょう。それは十字架の神秘的な『楽譜』であり、そこには最大の愛の音色が奏でられるのです」。

・・・・・・・

 説教の後、全教会とすべての人々のために盛式共同祈願が唱えられ、儀式の後半に「十字架の崇敬」が行われた。十字架を持った助祭が大聖堂内を祭壇に向かって歩みながら、三度立ち止まるごとに、十字架を高く掲げた。教皇と会衆はひざまずき、イエスの受難を心に深く留めながら十字架を崇敬した。

 この後、中央祭壇前に立てられた十字架の前に教皇は進み出て、その前にひざまずき祈った。そして、立ち上がった教皇は磔刑のイエスに接吻された。教皇に続いて、枢機卿らをはじめ、聖職者、修道者、信徒の代表が、それぞれ十字架を崇敬。 教皇はこの終わりに自ら十字架を掲げて会衆に示しながら、皆を再び十字架の崇敬へと招かれた。

 最後に、聖体拝領が行われ、教皇が沈黙する聖堂内から退場された後、参加者らも静かに解散した。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2026年4月4日