
教皇フランシスコ、5月10日、バチカンでの一般謁見 – AFP
(2017.5.10 バチカン放送)教皇フランシスコは、バチカンで5月10日に行われた水曜恒例の一般謁見で、「キリスト教的希望」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)で「希望の母」としてのマリアを取り上げられた。
まず教皇は「マリアは生涯の歩みで何度も闇を通り抜けました」とし、「まだ若いおとめだったマリアが、天使から『神の子を受胎した』と知らされ、『私は主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』と答えたのは、決して容易なことではなく、マリアの神への従順の長い行程の始まりだったのです」と語られた。
「マリアはその身に起こることを完全には理解できない時も、すべての言葉、すべての出来事を心に留めて思いをめぐらせる、静かな女性でした」と、福音書に記されたマリアの生き方に注目され、「マリアは人生の不安を前にしてもくじけることなく、一方で、人生の宿命に対して強引に抵抗することのない、『静かに耳を傾ける女性』『幸せも苦しみも、人生をそのままに受け入れられる女性』でした」と指摘された。
そして、「福音書で様々な出来事が進行する中にあって、マリアの存在は次第に隠れていくように見えますが、御子が十字架につけられた、まさにその究極の時に、マリアは再び姿を表します」とし、「イエスの受難を前にほとんどの友が怖さのあまり消え去ったその時、母たちが決して子を裏切らないように、マリアは十字架の足元で御子の最期を見守っていたのです」と強調された。
さらに、イエスの十字架の傍にいたマリアについて、福音書は非常に簡潔で控えめに「立っていた」(ヨハネ19,25)とだけ記しているが、「マリアの反応はもとより、その苦しみも一切記されていないために、その後、多くの詩人や芸術家たちが、十字架の下のマリアの姿をめぐり、創造力をかき立てることになりました」と話された。「マリアは『立っていた』。ここに、人生の神秘の闇に包まれながらも、神を一途に信頼する、ナザレのおとめの姿を、再び見出すことができます」と述べられた。そして、「霧の中で灯され続けるろうそくのように、マリアは忠実にそこにおられたが、それはマリアがその召命の最初の日に『わたしは主のはしためです』と答えた、神に対して忠実であると同時に、『子の受難を前にして苦しむ母』としての本能でもあったのです」と語られた。
続けて教皇は「主の復活の光に包まれて、教会が誕生した日、私たちはイエスの弟子たちの共同体の中に『希望の母』としてのマリアを再び見ることができますが、その時もマリアは、ただ、そこに『居て』、ごく自然な形で皆の間に存在しておられます」と指摘され、「マリアは私たちに、虚無的状況においても待つことを教え、世の悪の前に神が隠されたように見える時でも、神の神秘に常に信頼することを教えてくれます」として、「イエスが私たちに与えてくださった御母、マリアは、私たちが困難にある時、いつも歩みを支えてくださいます」と締めくくられた。