「愛は愛を呼ぶ。憎しみが死を呼ぶよりも強い」

教皇フランシスコ、6月14日、バチカンでの一般謁見

(2017.6.14 バチカン放送)教皇フランシスコは6月14日、バチカンでの水曜恒例の一般謁見における「キリスト教的希望」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)で、「希望の源となる、神から愛されているという確信」について講話された。

 講話を「私たちは誰でも愛なしでは生きられません。私たちが陥る罠は、『愛されるためには自分に価値がなくてはならない』と思い込むことです」と始められた教皇は、多くの人たちが自分の虚しい内面を埋めるために、外面的なものを追求するが、「それは彼らが永久に他人から認められたいためです」と指摘し、「誰もが他人の関心を引くことを切望し、一方で、『誰一人、無償で他人を愛することができない世界』があるとしたら、それは人間の社会ではなく、地獄です」と言い切られた。

 そして「幼い時に自分が愛されたと感じられなかった場合、そこに暴力が生まれることがありますが、憎悪や反社会的行為の裏には『認めてもらえなかった心』があることが多い。完全に悪い子どもや若者がいるのではなく、『幸せでない人がいる』ということ」とし、「愛し愛された経験ほど、人を幸せにするものはありません。人生とは『眼差しの交換』です。誰か私たちに最初に微笑みかけてくれる人がいれば、私たちもまた無償で微笑み、悲しみに暮れている人に力を与えることができるのです」と話された。

 さらに、「神が私たちに最初にしてくださること、それは私たちを最初から無条件で愛してくださること」と強調したうえで、「神が私たちを愛してくださるのは、神ご自身が愛だからであり、愛は本性として広がり、与えられるものなのです」と述べられた。

 また教皇は、聖パウロのローマの信徒への手紙、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(5章8節)を引用し、特に「私たちがまだ罪人であったとき」という言葉を取り上げて、「罪人である、すなわち神から遠い状態である時から私たちを愛してくださった神は、『まだ遠くに離れていたのに、息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した』(ルカ福音書15章20節)放蕩息子の父親と同じです」と語られた。

 さらに、父や母の愛情の大きさを示すために、「大司教時代に刑務所で見た母親たち」を例に挙げ、「母たちは刑務所にいる自分の息子の面会に来たことを恥じず、『私の子ですから』と胸を張っていました」と振り返られ、このような母や父の愛だけが「神の愛がどのようなものであるかを教えてくれるのです」と話された。

 幸福でない人たちの心を変えるには、第一にその人を抱擁し、「その人は愛され、大切に思われており、悲しむ必要はない」ことを伝える必要がある、とされ、「愛は愛を呼びます。それは憎しみが死を呼ぶよりも強いものです」「イエスはご自分のために復活されたのではありません。私たちの罪が赦されるために復活されたのです」と強調。「今は皆にとって復活の時です。私たちの顔に解放の風が吹いています。ここに希望の賜物が生まれるのです」と締めくくられた。

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2017年6月16日