「どんな時でも主は私たちを忘れない。偶像に頼るな」

(2017.1.11  バチカン放送) 教皇フランシスコは1月11日、水曜恒例の一般謁見での講話で、キリスト教的希望をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)として、「偶像における偽りの希望」をテーマに取り上げられた。

 まず、教皇は、昨年末から年初めにかけて、教会暦は「待降節」と「降誕節」を記念したが「この期間は神の民に希望を再び呼び覚ます時期です」とされたうえで「未来への望み、人生への信頼、前向きな考えなど、希望は人間に不可欠なものですが、希望の基礎は、真にわたしたちの人生を助け、意味を与えるものの中に置かれるべきです」と語られた。

 こうした中で、聖書は世が示す「偽りの希望」に注意させ、その不毛さを暴くと共に、特に偶像への信頼に陥らないように警告している、と指摘。「信仰とは神に信頼することだが、人間はいったん人生の困難に出会うと、神への信頼にもろさを感じ、違う種類の確信や目に見える安全を、お金や、権力者との関係、虚飾、偽のイデオロギーなどの中に求めるようになるのです」と述べられた。

 旧約聖書の「詩編」は、世がわたしたちに与え、どの時代の人間もそれに信用しようとした、様々な偶像の偽りを叡智をもって描き出している、としながら、詩編115番の数節を引用された。 「彼らの偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる。イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。アロンの家よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。」(詩編115,4-5.8-11)

 「ここで詩編作者は偶像のもろい現実を多少の皮肉をもって表現していますが、私たちは、神がくださる確かな希望よりも、偽の偶像が差し出すはかない希望の方を好むことがしばしばあるのではないでしょうか」と問いかけられた。そして、御言葉をもって世界を創造され、私たちを導かれる命の主に置く希望と、口があっても話せない偶像に置く希望を対比され、「絶対性や豊かさを自称するイデオロギーや、権力、成功、虚栄が与える不滅や万能の幻想、肉体の美しさや健康など、これらのものが偶像となり、そのためにすべての犠牲を要求する時、精神と肉体は混乱し、それらは人生のためになるどころか、死をもたらすことになるのです」と警告された。

 教皇はこの詩編のメッセージについて「希望を偶像に託すならば、その偶像と同様になる、すなわち手で何も触れず、歩むこともせず、話すこともない虚像のようになり、意見もできず、助けることも知らず、物事も変えられず、微笑むことも、与えることも、愛することもできなくなる、ということを言っているのです」と説明され、詩編が「主を畏れる人よ、主に依り頼め…主よ、私たちを御心に留め、祝福してください」(115,11.12)と言うように、主に希望を置くことが必要であり、こうすることで、主は私たちに祝福を与えてくださいます」と話された。

 さらに、「どのように大変な時でも、主は私たちをお忘れになりません。これが私たちの希望です。決して失望させることのない希望です。偶像は失望させます。それは幻想だからです」と念を押された。

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2017年1月13日