「年の初め、『神の母』から再出発しよう」

2018年1月1日、教皇フランシスコによる「神の母聖マリア」の大祝日のミサ、バチカン・聖ペトロ大聖堂 – AFP

(2018 .1.1 バチカン放送)教皇フランシスコは1月1日、「神の母聖マリア」の大祝日を迎え、バチカンの聖ペトロ大聖堂でミサを捧げられた。

 カトリック教会の暦は、1年の最初の日を「神の母聖マリア」に捧げると共に、「世界平和の日」を記念する日としているが、51回目となる今年のテーマは、「移住者と難民、それは平和を探し求める人々」。

 教皇はミサの中で、聖母の「神の母」という呼び名と、その意味について考察した説教を行われた。

 2018年度「神の母聖マリア」大祝日のミサにおける、教皇フランシスコの説教は次のとおり。

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 一年は「神の母」の名のもとに始まります。「神の母」は、聖母に与えられた呼び名の中でも最も重要なものです。ここで一つの疑問が持ち上がります。なぜ私たちは「神の母」と言い、「イエスの母」とは言わないのでしょうか。

 過去にある人々は「イエスの母」で十分であると主張しました。しかし、教会は「マリアは神の母である」とはっきりと宣言しました。私たちはそれに感謝すべきです。なぜなら、この言葉には神と私たちについての輝ける真理が詰まっているからです。主は、マリアを通して受肉された時以来、永遠に私たちの人性を背負っておられます。イエスが母から受けた肉は、今も、そして永久に彼のものです。神はもう人間抜きではあり得ません。つまり、「神の母」が私たちに思い起こさせるのは、胎内の子どもが母のすぐそばにいるように、神は人間の近くにおられるということです。

 「母(マーテル)」という言葉は、「実体(マテリア)」という言葉をも思い起こさせます。母において、天の神、無限の神は、小さくなられ、人となられました。それは私たちと共にいるためであり、私たちと同じになるためでした。ここに奇跡と、新しさがあります。人間はもう一人ではありません。決してみなし子ではなく、永遠に子となりました。新年はこの知らせで始まります。

 そして、私たちは、マリアを「神の母」と宣言します。「私たちの孤独が終わった」と知ることは喜びです。「自分たちは愛された子であり、その状態は決して取り去られない」と知るのは素晴らしいことです。それは、母の腕に抱かれたか弱い幼子となられた神に自分たちの姿を投影し、「人間が主にとって愛する、聖なるものだ」ということをを見ることです。それゆえに、人間の命に奉仕することは、神に奉仕することです。そして、母親の胎内の命から、お年寄り、苦しむ人、病気の人、さらには迷惑な人、不愉快な人に至るまで、すべての人の命は愛され、支えられるべきなのです。

 今日の福音の朗読箇所を観想しましょう。ここでは、神の母について、ただ一言で述べています。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ福音書2章19節)。心に納めていた・・マリアはただ、心に納めていました。マリアは話しません。福音書は主の降誕の語りにおいても、マリアの言葉を一言も記していません。ここでも母は、御子と一致しているのです。

 イエスは言葉を話さない幼子です。神、言(ことば)、神のみことばは「昔、預言者たちを通して、いろいろな時に、いろいろな方法で語られ」(ヘブライ人への手紙1章1節)ましたが、「時が満ちた」(ガラテヤの人々への手紙4章4節)今、神はお話しになりません。言葉を話さない幼子として、神は言葉を発せられません。神の荘厳は「沈黙」の中に、神の神秘は「小ささ」の中に現れます。この沈黙に満ちた小ささが、神の王たる表現です。母は御子と一致し、沈黙のうちに心に納めるのです。

 私たちが心に納め、沈黙を要するなら、この沈黙は私たちにも語りかけます。私たちはプレゼピオ(イエスの誕生の場面をかたどった模型)を見つめながら、沈黙する必要があります。なぜなら、プレゼピオの前で、私たちは自分たちが愛されていることを改めて知り、人生の真の意味を味わうからです。

 プレゼピオを沈黙のうちに見つめながら、イエスが私たちの心に語りかけるままにしましょう。イエスの小ささが私たちの傲慢を取り去り、その貧しさが私たちの贅沢さを考えさせ、その優しさが私たちの鈍感な心を揺り動かすようにと。毎日、神との沈黙の時間を確保することは、私たちの魂を守ることです。それは、消費や、広告で聞こえなくなった耳や、氾濫する虚しい言葉や、人を巻き込むおしゃべりや騒音の波など、心を蝕む月並みさから、私たちの自由を守ることです。

 マリアは心に納めていました。福音書は記します、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と。「これらの出来事」とは何でしょうか。それは喜びや苦しみです。一方には、イエスの誕生や、ヨセフの愛、羊飼いの訪問、光に照らされた夜がありました。しかし、また一方では、不確かな未来や、「彼らの泊まる場所が無かった」(ルカ福音書2章7節)とあるように、家が無いこと、拒絶されたことの淋しさ、イエスを馬小屋で生まなければならなかったことの失望がありました。

 希望と苦悩、光と闇、これらの出来事すべてが、マリアの心を去来していました。そこでマリアはどうしたでしょうか。マリアは「思い巡らしていた」のです。つまり、神と共に、それらを心の中で一つひとつ考えていたのです。マリアは自分のために何も得ず、孤独の中に閉じこもることも、苦渋に浸ることもせず、すべてを神に差し出しました。マリアはこうして心に納めました。神に託しながら、心に納めるのです。人生を恐れや、失望や、迷信の犠牲にせず、自分に閉じこもろうとも、忘れようともせず、すべてを神との対話にしていたのです。私たちを心に留められる神は、私たちの人生に住まわれるためにやって来られます。

 神の母の秘訣は、沈黙のうちに心に納め、神に差し出すことです。福音書はこう記します。「すべて『心に』納めて、思い巡らしていた」と。「心」は、人や、愛情、人生の中心を見つめるように招きます。

 私たちもまた、一年の始めに、中心から再出発し、過去の重荷を後にし、大切なことから再び取り組みたいと感じます。「神の母」、これが、私たちの前にある出発点です。なぜならマリアは、神が私たちや教会に望まれる姿だからです。マリアは、優しい母であり、謙遜で、物質的に貧しいが、愛に豊かです。罪から自由で、イエスと一致しています。神を心の中で守り、生活の中で隣人を守ります。再出発のために、御母を見つめましょう。マリアの心には教会の心が脈打っています。今日の祭日は、前進するためには、後ろに戻ることが必要だ、と教えます。プレゼピオから始めること、神を腕に抱いた御母から始めることです。

 マリアへの崇敬は、霊的な作法ではなく、キリスト教生活が要求するものです。私たちは、御母を見つめながら、つまらない無用なことを置き去り、大切なことを再発見するように励まされます。御母の恵みは、すべての母の、すべての女性の恵みであり、教会にとって、非常に重要な恵みです。男性がしばしば抽象的に考え、それを主張し、押し付けるのに対し、女性、母は、守り、心に結びつけ、生かすことを知っています。信仰が単なる概念や、教えに矮小化されることがないよう、私たちすべてに、神の優しさを守り、人の心の動きに耳を傾ける、母の心が必要です。御母は、神の人類における傑作です。

 御母がこの一年を見守り、御子の平和を私たちの心と世界にもたらしてくださいますように。

 かつてエフェソのキリスト教徒が司教の前でしたように、今日、私たちも子として、聖母に挨拶しましょう。「聖なる神の母」と。皆で一緒に3回、心の中で聖母を見つめながら言いましょう、「聖なる神の母」と。

(バチカン放送日本語訳をもとに「カトリック・あい」が編集)

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2018年1月2日