「暗い時代だからこそ『希望』を持ち続ける必要がある」

  教皇フランシスコは、バチカンで12月7日、水曜恒例の一般謁見をされ、謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で「キリスト教的希望」をテーマに新たなシリーズを始められた。

まず、「希望はとても大切なもの」と述べた教皇は、「楽観には失望が訪れるかもしれませんが、キリスト教的希望は失望することがない」。「私たちを取り囲む悪と暴力、多くの人々の苦しみを前に動揺し、無力に感じるこの暗い時代に、希望は大いに必要とされています」と話された。

そして、「希望を捨ててはいけません。神はその愛をもって、私たちと一緒に歩いておられます」「だから、すべての人が『私は希望を持っています。なぜなら神がそばについておられるから』と言うことができるのです」と強調された。そして、降誕祭を準備する「待降節」の今、神の御子の受肉の慰めに満ちた神秘を受け入れ、「希望を持つ」とはどういうことかを主に教えていただくように招かれた。

教皇は「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」(イザヤ40,1)と、神の慰めを告げるイザヤ福音書の一節を引用され、御父は、「苦しみの時は終わり、罪は償われた」と民を励ますよう、預言者イザヤに願われた。そのためイザヤは、神の救いの賜物を受け入れるために、「主の道を整えるよう」、すなわち、「救いと解放の歩みに備えて、あらゆるつまづきとなるものを取り除き、道をまっすぐにするよう呼びかけているのです」と説明された。

さらに、「イスラエルの民にとって流浪は、その歴史における悲劇的な時代であり、民は祖国も、自由、尊厳、そして神への信頼をも失なっていました。だが、イザヤの呼びかけは、人々の心を再び信仰に開き、荒れ野は今や祖国のみならず、神のもとに帰るために歩む地となりました」としたうえで、「私たちの人生も、時には荒れ野のようであり、歩むことは難しいが、私たちが神に信頼するなら、その道は広く素晴らしいものとなります。希望を失わず、すべてに関わらず、信じ続けるだけで十分なのです」と話された。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」(マタイ 3,3)と洗礼者ヨハネの言葉を引用され、「ヨハネは、まさにイザヤの言葉をもって、人々に回心を呼びかけました。その声は信仰の危機に見舞われた荒れ野の中で、誰も聞くことのない叫びのようでした」と教皇は観想。しかし、「真の歴史は、権力者たちではなく、神と、神と共にいる小さき人々によって作られたのであり、その小さき人々とは、降誕するイエスの周りにいた人々、子どもに恵まれないザカリヤとエリザベトの老夫婦、おとめマリアと若い浄配ヨセフ、卑しい存在であると思われていた羊飼いたちのような、小さくても大きな信仰を抱き、希望を持ち続けることのできる人たちだったのです」と話された。

そして教皇は、カテケーシスの終わりに、希望に学びながら、主の訪れを信頼をもって待ち、「私たちの生きる荒れ野がどのようなものであろうとも、それが花園となることを望み続けましょう」と呼びかけられた。

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2016年12月8日