
*スポーツは「与えること」を必要とする
続けて教皇は、「スポーツの試合で観客が選手を応援するときに使うイタリア語は ”dai ”です。このことについて考えてみましょう。スポーツは単に肉体的な達成のためだけのものではなく、個人的な向上のため、競技の支援者のため、愛する人のため、コーチや同僚のため、より多くの人々のため、そして対戦相手のためですらあるのです」と強調。
さらに、聖ヨハネ・パウロ二世はご自分もスポーツ選手だったが、スポーツは、「その純粋な感謝の気持ち、友情の絆を築き、他者との対話と開放を促す能力によって、育まれなければなりません」と述べられた。
*孤独、デジタル、競争社会の中で
教皇はまた、スポーツが人間的、キリスト教的価値観を育む良い方法であることを、「孤独」「デジタル社会」「競争社会」という3つの観点から考察された。
第一に、「私たち 」から 「私 」へと重点が移った現代社会では、「孤独」が圧倒的に目立つ。そのため、他者への関心が薄れている。「しかし、スポーツは、この欠乏に対する解決策を提供するかもしれません」とされた教皇は、スポーツがいかに「協力し、分かち合うことの大切さ」を教えているかを強調され、その結果、スポーツは 「民族間、地域社会、学校、職場、家族内における和解と出会いの重要な手段となり得るのです」と語られた。
第二に、私たちが日々直面し、拡大し続ける「デジタル社会」について、「スポーツは、人々を分断しかねない、このような技術革新の負の影響に対抗するのに役立つ。仮想現実の世界に代わるものを提供し、本物の愛が体験できる自然や実生活との健全な接触を保つ」助けとなります」と指摘された。
そして第三に、現代の「競争社会」と取り上げ、「強い者だけに味方しているように見えますが、スポーツは私たちに”負け方”を教えてくれます。人間の状態の最も深い真実のひとつである『もろさ』『限界』『不完全さ』に私たちを向き合わせます… そして、このような経験を通じて、私たちの心は希望へと開かれていくのです」と説かれた。
さらに、教皇は、「負けたり、ミスを犯したりしないアスリートが存在するということはあり得ません… チャンピオンとは、”完璧に機能する機械”ではなく、転んでも立ち上がる勇気のある、本物の男女です」と語られた。
*生まれながらのチャンピオン人はいない
教皇ヨハネ・パウロ二世だけがスポーツ選手だったわけではない。スポーツは、「個人的な鍛錬として、また福音化の手段として、数多くの現代の聖人の人生において重要な役割を果たしてきた。
教皇は、今年9月7日に列聖されるスポーツ選手の守護聖人、福者ピエル・ジョルジョ・フラッサーティに思いを馳せ、「フラッサーティの生涯は、誰も生まれながらにしてチャンピオンにはなれないし、誰も生まれながらにして聖人にはなれない」ことを示しています」と指摘。「求められるのは、日々の訓練であり、それが最終的なチャンピオンに一歩近づくためのものなのです」と説かれた。
説教の最後に、教皇は、ミサに出席した選手たちに次のような使命を課された— 「自分自身のため、そして兄弟姉妹のために、三位一体の神の愛をすべての活動に反映させること。そして、永遠の命という最高の勝利」に向かって選手たちを導いてくださるマリアに、自分自身を委ねること」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)