☩「 ”善きサマリア人”であるキリストに倣おう」教皇、年間第15主日、カステル・ガンドルフォでのミサで

(2025.7.13 Vatican News   Deborah Castellano Lubov )

 教皇レオ14世は13日、年間第15主日のミサを休暇中の離宮、カステル・ガンドルフォで捧げられた。そしてミサ中の説教で、直前に読まれたルカ福音書でキリストが語られた「善きサマリア人」のたとえ話を取り上げ、「私たちは主、善きサマリア人に倣う必要があります」とされ、「神の愛と癒しを経験するとき、私たちが出会う他の人々にも、同じように慰めを与えることができるのです」と念を押された。

Pope Leo presides over Mass at the Parish of St. Thomas of Villanova in Castel Gandolfo

 続けて教皇は「このたとえ話は、憐れみに関するものであり、私たちが他者をどのように見るかが重要なのです… 見て、通り過ぎることもできるし、見て、憐れみの心で感動することもできます」とされた。

 そのうえで、このたとえ話は「私たちを見る神のなさり方について、私たちに語っている… 私たちが、愛と憐れみに満ちた神の目で状況や人々を見る方法を学ぶことができるように、 です」と語られた。

 そして、「善きサマリア人とは、イエスの姿であり、御父が私たちの歴史に遣わされた永遠の御子なのです… ルカ福音書のエルサレムからエリコへと下っていく男のように、人類は死の淵へと下っていく。現代の私たちも、悪、苦しみ、貧困、そして死の謎という暗闇に立ち向かわねばなりません」とされた。

 だが、「神は、そのような私たちと同じ道を歩み、私たちの間に降りてこようとされた。善きサマリア人であるイエスにおいて、神は私たちの傷を癒し、その愛と憐れみのバームを私たちに注ぐために来られたのです」と説かれた。

 教皇はまた、故教皇フランシスコが、神が憐れみと慈しみであることをしばしば指摘され、イエスを 「私たちに対する御父の憐れみ 」と呼ばれたことを思い起された。さらに、聖アウグスティヌスは「イエスが、私たちを助けに来た善きサマリア人として、私たちの隣人として知られることを望んだ 」とされ、「主イエス・キリストは、ご自身が、強盗に殴られ、道端に置き去りにされた半死半生の男を介抱された方であることを、私たちに悟らせてくださいます」と述べられた。

 そして、「このたとえ話がなぜ、私たち一人ひとりにとって、どれほど挑戦的なものか、お分かりになるでしょう… キリストが憐れみ深い神の顔を私たちに見せてくださるのであれば、キリストを信じ、キリストの弟子になることは、私たち自身が変わり、キリストと同じ感情を持てるようになる、ということなのです」と説かれた。

 このことは、「感動する心を持つこと、見る目を持ち、目をそらさないこと、人を助け、その傷を癒す手を持つこと、困っている人の重荷を担う肩を持つことを学ぶこと」を意味すると語られた。

 そして、「善きサマリア人であるキリストが私たちを愛され、気遣ってくださっていることを心の底から理解するなら、私たちも同じように愛するように心を動かされ、キリストのように憐れみ深くなるででしょう… ひとたびキリストによって癒され、愛されれば、私たちもまた、キリストの愛と慈しみの証人となることができるのです 」と強調。

 そのことを念頭に置いて、教皇は 「今日、私たちはこの『愛の革命』を必要としています 」とされ、「今日、エルサレムからエリコに下る道は、罪、苦しみ、貧しさに堕ちていくすべての人々が通る道。心に重くのしかかったり、人生によって傷ついたりするすべての人が通る道、転落し、方向感覚を失い、どん底に落ちるすべての人が通る道、身ぐるみを剥がされ、強奪され、略奪され、専制的な政治体制や貧困を強いる経済の犠牲となり、夢や人生そのものを奪う戦争の犠牲となるすべての民族が通る道、です」と述べた。

 そのうえで教皇は、「私たちは何をすればいいのでしょうか? 瀕死の状態で倒れている人を見て、通り過ぎるのか、それともサマリア人のように、その人に心を開くのか。自分の義務を果たすことだけに満足するのか、それとも、自分の集団の一員であり、自分と同じ考えを持ち、同じ国籍や宗教を持つ者だけを隣人と見なすのか」と問いかけられ、「イエスは、傷ついた人の隣人として行動するサマリア人、外国人、異端者を私たちに示すことによって、このような考え方を覆し、私たちにも同じようにするよう求めておられるのです 」と説かれた。また教皇は、ベネディクト16世が書著『ナザレのイエス』の、善きサマリア人のたとえ話に触れた箇所で、「もし『サマリア人は、私の隣人なのか』という問いが、当時の状況でなされたのなら、答えは明確に『ノー』であっただろう」と指摘した箇所を取り上げられた。

 そして、「外国人であるサマリア人は、自分自身を隣人とし、私が心の奥底で隣人となることを学ばなければならないこと、そして私自身の中にすでに答えがあることを示しています。『私たちは、愛にあふれた人のようにならなければならない、他人の必要によって心が揺さぶられることに心を開いている人のようにならなければならない』と」。

 「傷ついた人の横を通り過ぎることなく見つめ、私たちの生活のペースを止め、他者が誰であろうと、その必要や悩みを抱えていようと、その人の人生が私たちの心に触れるようにすること、それが私たちを互いに隣人とし、真の友愛を生み出し、壁や障壁を取り払うことなのです。最終的に、愛は勝利し、悪や死よりも強力であることを証明するのです」と強調された。

 そして説教の最後に、教皇は、 「善きサマリア人であるキリストに目を向けましょう。今日、キリストの声にもう一度耳を傾けましょう。キリストは私たち一人ひとりに、『行って、同じようにしなさい』と言われるからです」と信者たちに呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2025年7月13日