☩「私たちは、『最も小さい』人たちに思いやりと慈しみを示すよう求められている」ー「王であるイエス」の祝日に

(2023.11.26  Vatican News)

 教皇フランシスコは26日の「王であるキリスト」の祝日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれた福音(マタイ25章31‐46節)を取り上げ、主に裁かれる基準である「同情心、憐れみ、優しさ」を示すよう、私たちが求められていることを強調された。

 前日の「インフルエンザのような症状」から回復された教皇は大事を取られ、聖ペトロ広場を見下ろす使徒宮殿の窓かれではなく、自宅にされているサンタ・マルタの館から、広場に設置された大型ビデオスクリーンを通じて、正午の祈りと説教をなさった。

 説教で教皇はまず、26日が「宇宙の王、私たちの主イエス・キリストの祝日、典礼年の最後の日曜日」であることに注意を向けられ、この日のミサで読まれた福音が、私たちの最後の審判について語り、私たちが慈善と慈悲を通して互いをいたわり合ったかどうか、によって、判定されることを告げている、と語られた。

 そして、福音書でイエスが語られた、大広間で玉座に就かれたイエスの前に、世界中の人々が集まっている場面を思い起こしつつ、「イエスの言われる『父に祝福された人たち』が王の友人であることが示されています。 彼らは飢えた人々に食事を与え、病人や貧しい人々の世話をし、捕虜を訪問しました。これは、王の権力、富、名声を増大させ、恐れられ、羨望されることで個人的な利益を求める人々を評価する空虚な『世俗の基準』とは、全く対照的です」と指摘。

 他人に手を差し伸べる 「イエスの基準」では、困難にある人、最も弱い人、助けを必要としている人に仕える人たちが重視されるが、「それは、人の子が(世俗の権力者とは)全く異なる王であり、貧しい人々を『兄弟たち』と呼び、飢えた人、渇いた人、部外者、病人、投獄されている人たちとご自分を同一視し、こう言われるからです-『あなたが、この最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたのです』と。 私たちの王である主は、飢えている人、ホームレスの人、病人、投獄されている人たちのことを気にかけておられるのです」と説かれた。

 そして、今の世界では、余りにも多くの、助けを求める人たちがおり、 「福音は、『幸いな人』とは、助けや仲間を必要としている人々に背を向けず、食べ物、飲み物、衣服、住居、付き添いを提供し、奉仕を通じて愛ある憐れみを示す人々であることを強調しています。 彼らは『思いやり、慈悲、優しさ』を通じて王の模範に従うことで自らを際立たせていることから、王の友人なのです」。そして、「それは、ご自分を『人の子』と呼ばれる、私たちの王イエスが、最も弱い女性や男性の中に、ご自分のお気に入りの姉妹や兄弟を見出すからです。 イエスの『王の法廷』は、苦しみ、助けを求める人たちがいる場所で開かれます」と述べられた。

 最後に教皇は、「私たち自身の人生を振り返り、慈しみを中心に置いた愛の力、慈善の奉仕が信者にとって大切だということを、どれほど認識し、信じているか、そして私たちが『王の友人』であるかどうかを、自身に問い掛けるように」と勧められ、聖母マリアに「私たちが最も小さな兄弟たちを通して、私たちの王であるイエスを愛することができるように」と助けを祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2023年11月27日