☩「私たちが共に希望の巡礼者であり続けることは、素晴らしい」-教皇、「主の公現」ミサで「聖なる扉」を閉じ、「希望の聖年」を閉幕

(2026.1.6 Vatican News)

 6日の「主の公現」の祭日、教皇レオ14世は聖ペトロ大聖堂で約5800人の信者を前に聖なるミサを司式され、「聖なる扉」を閉じられた。これにより、2025年「希望の聖年」が正式に終了した。

 ミサの冒頭、教皇は聖ペトロ大聖堂の「聖なる扉」を閉じられた。これで聖年のために世界の主要聖堂で開かれてた「聖なる扉」はすべて閉じられた。そして、数えきれないほどの男女、希望の巡礼者たちが聖堂の敷居を越え、教皇が「門が常に開かれている新しいエルサレム」とされた場所へと向かう歩みは、終わりを告げた。

 ミサ中の説教で教皇は、マタイ福音書から採られたこの日の福音を取り上げ、三賢者の喜びとヘロデ王の恐怖に焦点を当て、「聖書が、神の公現に伴う緊張を決して隠さないこと』に注意を向けられ、「聖書は、神の公現について語るとき、喜びと動揺、抵抗と服従、恐怖と憧れという対照的な反応を隠しません。そして、主の公現の祭りは、神の臨在が、現状をそのままに放置しないことを示しています… 今日、主の公現を祝うこの時、私たちは、主の臨在の前では、何も変わらないままではいられないことを自覚します」と語られた。

 教皇は続けて、「この神の公現は、希望の始まりを告げるものでもあります。神の臨在は『太陽の下に新しいものはない』と人々が延々と繰り返すような、憂鬱な自己満足に終止符を打ちます。現在と未来を決定づける新たな何かが始まります。預言の約束-『起きよ、光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に昇った』(イザヤ書60章1節)が成就されるのです」と説かれた。

 だが、「啓示に慣れ親しんだ都エルサレムこそが、三賢者の探求に動揺しています。聖書を知り『答えは全て持っている』と考える人々は、疑問を投げかけ、憧れを育む能力を失っているように見えます… 希望に動かされて訪れる者たちに、この都は動揺し、喜びの源であるべきものに脅威を感じます。このような反応は、教会としての私たちにも問いを投げかけています」と注意された。

 そのうえで、教皇は、この聖年の一年を振り返りつつ、信者たちに、「現代の人々の霊的な探求について考えるように」と求めるとともに、「三賢者たちは、はいったい誰であり、何に駆り立てられたのでしょうか?何を見つけたのでしょうか?心には何があり、どんな疑問や感情を抱いていたのでしょうか? 三賢者と同じように、今もなお多くの人が”旅立つ”ことを強いられています」と語られた。

 そして、「三賢者は今も存在します。彼らは、『旅に伴う危険を受け入れつつ、外に出て探求する必要性を感じる人々』。たとえ世界がしばしば”不快で危険”であっても、そうしようとする人々です」とされ、「福音は、教会に対し、このように探求する人々の動きを恐れるのではなく、評価し、私たちを支える神へと導くように、と呼びかけているのです。神は、金や銀の偶像のように私たちの手にしっかりと留まる方でなく、私たちを不安にさせる方。マリアが腕に抱き、賢者たちが拝んだ幼子のように、生きておられ、命を与える方なのです」と説かれた。

 「ですから、聖地は、命を伝えるものでなければならない。聖年の巡礼地は、命の香りを放ち、新たな世界が始まったという忘れがたい実感をもたらさねばなりません」と強調された。

 そして、信者たちに「私たちの教会には『命』がありますか? 新たなものが生まれる余地がありますか? 私たちを旅へと導く神を愛し、宣べ伝えていますか?」と問いかけられたうえで、「ヘロデ王は権力喪失への恐怖から、神の御業への応答を歪めてしまった。彼は王座が奪われるのを危惧し、自らの支配を超えた、と感じる事柄に動揺しました… 恐怖は、確かに私たちの目を曇らせます」と警告。

 このような恐怖に対して、「福音の喜びは、私たちを解放し、慎重でありながら、大胆で、注意深く、創造的な者とし、これまで歩んできた道とは異なる道を開くのです」と述べられた。

 教皇は説教の締めくくりに、「主の公現の祭の核心には、金で買えず、支配することもできない贈り物が存在します。三賢者が拝む幼子は、計り知れぬ尊き善そのもの。その啓示は、華やかな場所ではなく、ひっそりとした場所でなされます。それでもベツレヘムは『あなたは決して最も小さい者ではない』とされました」とされた。

 そして、「希望の巡礼者となることができるのは、素晴らしいことです。私たちが共に巡礼者であり続けることは、素晴らしいことです」と巡礼者たちを称えられ、「教会が”記念碑”となることに抵抗し、”家”であり続けるなら、教会は『新たな夜明けの世代』となり得ます。常に『明けの明星』のマリアに導かれ、全能者の幻想によってではなく、愛ゆえに肉となった神によって変容された、非凡なる人間性へと向かうのです」と強調された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2026年1月6日