
(2025.12.10 Vatican News Isabella H. de Carvalho)
10日の水曜恒例一般謁見で、教皇レオ14世は聖年連続講話『私たちの希望、イエス・キリスト』の一環として、『キリストの復活と現代世界の課題』をテーマに話され、その中で「死について考えること」の重要性を強調、「特に現代社会では、『死』を避けがちです。だが、死について考えることで、キリストの復活の力を発見し、人生に新たな意味を見出せるのです」と説かれた。
教皇は講話でまず、「死の存在を知り、死について考えることは、私たちが『自分の存在』について、どうあるべきか』の選び方について教えてくれるます」とされ、「真に生きる秘訣は、祈ること。そうすることで、何が真に天国をもたらすかを理解し、不要なものや一時的に縛られるものを手放すことができます。私たちは地上での時が永遠への準備であることを忘れてはなりません」と語られた。
*死者を崇拝し来世への旅立ちの儀式をした過去と比べ、現代人は墓を訪れるのも避けている
そして、過去を振り返り、「死の神秘は、常に人間に深い疑問を投げかけてきました… それは最も自然でありながら、同時に最も不自然な出来事だからです… 私たち自身や、愛する者たちへの生命と永遠への渇望が、死を『矛盾』とも言うべき判決として見せるのです」とされたうえで、「『死者の崇拝や来世への旅路に結びついた儀式を発展させた数多くの文化』が存在した過去と比べ、現代では逆の傾向が見られます… 死は一種のタブーとなり、距離を置くべき出来事となりました。私たちの感性や平穏を乱さないよう、ひそひそ話で語られる対象になり、多くの人が墓地を訪れるのを避けるようになっています」と指摘された。
*科学は、死なない人生の幸福を保証できるのか?
教皇は続けて、「現代の人類学の多くの見解が内在的な不死を約束している」ことや「技術による地上での生命の延長を理論化している」ことにも言及。「これが”トランスヒューマン(新しい科学技術を駆使して人間の身体と認知能力を進化させ、不死を含め人間の状況を前例の無い形で向上させようとする人々)”のシナリオであり、現代の課題の地平線に現れつつあります」と警告。「死は本当に科学によって打ち負かせるのか? しかし、それでは科学そのものが、死なない人生が同時に幸福な人生でもあると保証できるのでしょうか?」と聖ペトロ広場に集まった人々に問いかけられた。
*人間は死の前では無力だ
さらに教皇は、「では死とは何でしょう?それは本当に、私たちの人生の最終的な言葉でしょうか?」と重ねて問いかけられた。
そして、「人が『いつかは命が終わる』と自覚することは、ある意味で、他の生き物と比べて彼らを『重荷』にさせます。例えば動物は、人生の意味や目的、結果を疑問に思わない… この点を考慮すると、私たちは、逆説的で『不幸な存在だ』と考えられるかもしれません。死が定められているだけでなく、たとえ方法や時期がわからなくても、『その出来事が必ず訪れる』と確信しているからです」と指摘。「私たちは自覚しつつも、無力です。おそらく死の問題から頻繁に抑圧や実存的逃避が生じるのは、この点に起因するのでしょう」と語られた。
*存在論的疑問への答えは
こう語られたうえで、教皇は、「キリストの復活こそが、これらの考察すべてへの答えなのです… 復活は『死が生命と対立するものではなく、むしろ永遠の生命への通過点として生命を構成する一部だ』ということを明らかにしています。同時に、苦しみと試練に満ちたこの世において、死後の完全なるものを前もって味合わせてくれるのです」とされ、「復活のみが、死の神秘を完全に照らし出すことができる。この光のもとで、そしてこの光によってのみ、私たちの心が願い望むことが真実となるのです。すなわち、死は終わりではなく、完全なる光へ、幸福な永遠へと至る通過点なのです」と強調された。
さらに、「復活された方は、死という大いなる試練において私たちの先を行かれ、神の愛の力によって勝利を得られた。そうして、私たちのための永遠の安息の地、我々が待ち望まれる住まいを備え、もはや影も矛盾もない命の充満を授けてくださったのです」と言明された。
講話の最後に教皇は、「聖フランシスコがそうしたように、死を『姉妹』と呼べるのは、キリストの復活の光のもとでのみ可能となります。イエスの復活への希望をもって死を待つことが、永遠に消え去る恐怖から私たちを守り、終わりのない命の喜びへと備えさせるのです」と結論づけられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)