☩「平和は、神の賜物であると同時に人類共有の責任」-教皇、主の降誕メッセージ「Uber et Orbi(全世界に向けて)」

A member of the Syrian Arab-Kurdish forces placing a cross in the rubble ahead of a Christmas celebration, Raqa, Syria, 2017A member of the Syrian Arab-Kurdish forces placing a cross in the rubble ahead of a Christmas celebration, Raqa, Syria, 2017  (AFP or licensors)

(2025.12.25  Vatican News   Francesca Merlo)

 

 

*紛争、暴力、災害に苦しむ人々に速やかに平和が訪れるように

 

 「レバノン、パレスチナ、イスラエル、シリアにおける正義、平和、安定」を祈り、正義に根ざした平和の約束が新たにされるよう訴えられ、特にウクライナに関して「武器の轟音が止むこと」を願われ、「国際社会の支援のもと、関係する全ての人が、誠実で率直かつ互いを尊重する対話に取り組む勇気を見出すように」と呼びかけられた。

 また、忘れ去られかねない紛争-スーダン、南スーダン、マリ、ブルキナファソ、コンゴ民主共和国における戦火と暴力-の犠牲者、そして不正義、政治的不安定、宗教的迫害、テロリズムによって苦しむすべての人々への寄り添いを表明された。

 教皇はハイチのためにも祈りを捧げ、暴力の終結と平和・和解への道程における進展を呼びかけられ、ミャンマーの平和を祈念され、特に若い世代に向けて、同国が和解と希望へと導かれるよう願われた。

 ラテンアメリカについても、政治的責任を担う人々に対し、「イデオロギーや党派の対立を克服し、共通の利益のための対話の場を設けるように」と促された。 また、タイとカンボジアの「古くからの友好関係」が取り戻されるよう祈られ、最近の自然災害で深刻な被害を受けた南アジアとオセアニアの人々を神に委ね、苦しむ人々への支援を新たに誓うよう、呼びかけられた。

 

 

*主の降誕の真の意味は「平和」 

 

 こうした紛争の背景を考える中で、教皇は、主の降誕の意味に信者たちの注意を向けられ、「今日、真の平和が天より私たちに降りてきました」と述べ、聖レオ大教皇の言葉を引用する形で、「主の降誕は平和の誕生です」と言明。

 「イエスが、宿屋に居場所がなかったため馬小屋で生まれたこと」「万物を創造された神の御子が歓迎されなかったこと」を思い起こされ、「私たちへの愛ゆえに、キリストは『貧しさ』と『拒絶』を受け入れ、見捨てられ、排除された者たちと同じ立場に立たれたのです」と説かれた。

 そして、「イエスの降誕において、すでに、神の御子の生涯全体を導く根本的な決断の片鱗が見えます… それは、私たちを罪の重荷の下に置き去りにせず、自らその重荷を負う、という決断です」と指摘。しかし、「平和には、人間も責任を負う必要があります… 聖アウグスティヌスが語っているように、『私たち無しに、私たちを創造された神』が、『私たち無しに、私たちを救うこと』はありません。責任こそが、平和への確かな道なのです」と強調された。

 

 

*キリストが人類を罪から解放するゆえの「平和」

 

 教皇は続けて、「キリストが人類を罪から解放され、対人関係であれ、国際的であれ、あらゆる紛争を克服する道を示してくださるゆえに、キリストこそが平和なのです… 赦された心をもたずに、平和の人、平和の建設者となることは不可能です」と信者たちに注意された。

 そして、「イエスが人となられたことで、私たちの弱さを自ら引き受けられ、今日の苦しむ人々―ガザの住民、イエメンの人々、難民や移民、失業者、搾取される労働者、非人道的な環境で暮らす囚人たち―と一体となられたこと」に注意を向けられ、人々の無関心を戒め、「神は、私たちの苦しみに対して無関心ではありません」と世界に向けて言明された。

 

 

*常に開かれている扉 

 

 「希望の聖年」が終わりに近づき、聖なる扉が閉じられようとする中、教皇は希望に満ちた最後のメッセージを贈られた。「私たちの希望であるキリストは、常に私たちと共におられます… キリストこそが、『常に開かれている扉』であり、『裁くためでなく、救うために来られたのです」。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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和訳全文以下の通り(2025.12.25 バチカン放送)

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 「主を喜び祝おう。私たちの救い主がこの世にお生まれになった。今日、真の平和が天から私たちのところに降りて来られた」(主の降誕の夜半のミサの入祭唱)。主の降誕の夜、典礼はこのように歌い、ベツレヘムの知らせが教会に響き渡ります。おとめマリアから生まれた御子は、罪と死から私たちを救うために御父から遣わされた主キリストです。御子は私たちの平和です。御子は神の慈しみの愛をもって、憎しみと敵意に打ち勝ったお方です。それゆえに「主の降誕とは、平和の降誕」(大聖レオ、説教26項)なのです。

 イエスは馬小屋でお生まれになりました。宿屋にはイエスのための場所がなかったからでした。生まれたばかりのイエスを、母マリアは「布でくるんで飼い葉桶に寝かせ」ました(ルカ福音書2章7節参照)。万物を創造された神の御子は受け入れてさえもらえず、その揺りかごは動物たちのための貧しい飼い葉桶でした。

 天も収めきれない、父なる神の永遠の御言葉は、このようにこの世に来ることを選ばれました。愛のために、女性から生まれ、私たちの人間性を分かち合うことを望まれました。愛ゆえに、貧しさと拒絶を受け入れられ、見捨てられ疎外された人々と同じ立場をとられました。

 イエスの降誕には、その十字架上の死に至るまで、神の御子の全生涯を貫く、根本的な選択がすでに浮かび上がっています。それは、「私たちに罪の重荷を負わせず、私たちのためにご自身がその重荷を負い、引き受けられる」という選択です。これは、御子だけが成し得ることでした。しかし同時に、イエスはこれに対し、私たちだけができることして、それぞれが自らの責任を担うということを示されました。

 そうです。私たちを、私たちなしで創造された神は、私たちなしでは、私たちを救うことができません( 聖アウグスティヌス、説教169、11.13参照)。すなわち、「愛する」という私たちの自由な意志がなければ、私たちを救うことができないのです。愛さない者は救われず、失われます。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません(ヨハネの手紙1‣4章20節)。

 姉妹、兄弟の皆さん、これが平和への道です。それはすなわち、「責任」です。私たち一人ひとりが、あらゆる面において、他者を非難する代わりに、まず自分の欠点を認め、神に赦しを願うと同時に、苦しむ人の立場に立ち、より弱い、抑圧された人々と連帯するなら、世界は変わることでしょう。

 イエス・キリストは、私たちの平和です。それは、まず何よりも、私たちを罪から解放してくださるからです。そして、個人間から国際間に至るまでの、あらゆる紛争を克服するために、進むべき道を示してくださるからです。罪から解放された心、赦された心なしには、平和の人、平和の構築者になることはできません。そのために、イエスはベツレヘムでお生まれになり、十字架上で死なれたのです。それは、私たちを罪から解放するためでした。イエスは救い主です。その恵みによって、私たちそれぞれが、憎しみや、暴力、対立を退け、対話と、平和、和解を実践するために、各自の役割を果たすことができ、また果たさねばなりません。

 この祭日、すべてのキリスト者の方々、特に中東で暮らす方々に、温かい、父としてのご挨拶を贈りたいと思います。私は初めての司牧訪問で中東の方々にお会いすることを望んでいました。私はこれらの人々の不安に耳を傾け、自らを超える権力の動向を前にした彼らの無力感をよく知っています。今日、ベツレヘムで生まれた幼子は、「私によって平和を得なさい。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(ヨハネ福音書16章33節)と言われるイエス、そのお方です。

 レバノン、パレスチナ、イスラエル、シリアのために、正義と平和と安定をイエスに祈りましょう。そして、「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である」(イザヤ書32章17節)という、神のこの御言葉に信頼しましょう。

 平和の君に、全ヨーロッパ大陸を委ねましょう。キリスト教のルーツと歴史に忠実に、助けを必要とする人々に連帯と受容を示す、共同体的・協力的精神を、これからもヨーロッパに醸し続けてくださいますように。特に苦しむウクライナの人々のために祈りましょう。武器の轟音が止み、当事者らが国際社会の支援のもとに、誠実で率直な、尊重ある対話のための勇気を見出すことができますように。

 世界で進行中のあらゆる戦争、特に忘れられた戦争の被害者たちのために、また、不正や、政情不安、宗教的迫害、テロリズムに苦しむすべての人々のために、ベツレヘムの幼子に平和となぐさめを祈りましょう。特にスーダン、南スーダン、マリ、ブルキナファソ、コンゴ民主共和国の兄弟姉妹たちを思い起こしたいと思います。

 希望の聖年の最後のこの数日間、人となられた神に、愛するハイチの人々のために祈りましょう。同国であらゆる形の暴力が収まり、平和と和解の道を進むことができますように。

 幼子イエスが、ラテンアメリカで政治責任を担う人々に霊的な促しを与えてくださいますように。そして、多くの課題を前に、イデオロギーや党派的な偏見ではなく、共通善のための対話の場がもたらされますように。

 平和の君に、ミャンマーに和解の未来を光で照らし出してくださるようにと願いましょう。若い世代に希望を再び与え、ビルマのすべての人々を平和の道へと導き、家も安全も明日の信頼もない人々を見守ってくださいますように。

 タイとカンボジアの間に古くからの友好が回復され、当事者同士が和解と平和の努力を続けるよう、主に祈りましょう。

 また、猛威を振るった最近の自然災害により深刻な被害を受けた南アジアとオセアニアの人々を主に託しましょう。これらの試練を前に、苦しむ人々の救済におけるわたしたちの共通の努力を確信と共に新たにするよう、皆さんに呼びかけたいと思います。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、夜の闇の中で、「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ福音書1章9節)がこの世にやって来られました。しかしこのお方をご自分の「民は受け入れなかった」のです(同11節)。苦しむ人々に対して、無関心に負けてはいけません。なぜなら、神は私たちの悲惨さに無関心ではないからです。 

 人となられたイエスは、私たちの弱さを自らに引き受けられ、私たち一人ひとりと一つになられます。ガザの住民のように、何も持たず、すべてを失った人々と。イエメンの人々のように、飢餓と貧困の犠牲者たちと。故郷から逃れ、未来を他の場所に求めて、地中海を渡る、あるいはアメリカ大陸を横切る、多くの難民や移民たちと。就職のために苦労する多くの若者たちのように、失業中の人々や求職中の人々と。低賃金で働くあまりにも多くの労働者のように、搾取された人々と、刑務所にいて、しばしば非人道的な状況下で生きる人々と。

 神の御心には、あらゆる地から上る平和への祈りが届きます。そうした祈りを、ある詩人はこう書いています。

「停戦の平和ではない、
 狼と子羊のようなビジョンでもない、
 むしろ
 昂りがおさまり
 深い疲労だけが残った時の心の中のような平和。
 […]
 野の花のように
 不意に、訪れよ。
 野がそれを求めるから、
 野生の平和を」。
 (イェフダ・アミハイ)

 この聖なる日、困窮し、苦しむ兄弟姉妹たちに心を開きましょう。そうすることで、私たちは、両手を広げて私たちを迎えられ、その神性を私たちに開いてくださる幼子イエスに心を開くのです。「言(ことば)は、自分を受け入れた人々に神の子となる資格を与えた」( ヨハネ福音書1章12節)。

 あと数日で、聖年が終了します。聖なる扉は閉じられても、私たちの希望であるキリストは、いつも私たちと共におられます。キリストは、私たちを神のいのちに導く、常に開かれた扉です。今日、喜びの知らせが告げられました。お生まれになった御子は、人となられた神です。御子は裁くためではなく、救うために来られます。イエスがおいでになるのは、つかの間のためではありません。イエスは、留まり、自らを捧げるために来られます。主において、あらゆる傷はいやされ、あらゆる心は安息と平和を見出します。「主の降誕は、平和の降誕です」。

 皆さんに、平安な聖なる降誕祭を心よりお祈り申し上げます。

(編集「カトリック・あい」)

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2025年12月25日