(2026.1.6 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇レオ14世は6日、「主の公現」の祭日の正午の祈りに先立つ説教で、幼子キリストにひれ伏す三賢者を思い巡らせながら、信者たちを「希望を紡ぐ者」となるよう招かれ、「不平等が公平に変わり…戦争の業が平和の技に取って代わられますように」と願われた。
「三賢者の贈り物には、私たち一人ひとりが分かち合えるもの、もはや自分だけのものとして留めておくのではなく、他者に与えるべきものが示されています。そうすることで、イエスの御存在が私たちの間に広がっていくのです」と語られた教皇は、「三賢者の旅立ちと、幼子イエスへの貴重な贈り物は、私たちが、計り知れない宝であるイエスに、自分自身と持っているものすべてを捧げねばならない、という力強い戒めです」と説かれた。
そして、「ベツレヘムの幼子の前に三賢者たちのようにひざまずくことは、私たちもそうすることで、『神の栄光が輝き出る真の人間性を見出した』と告白することを意味します。イエスにおいて、真の命が現れます。生ける人間、すなわち自己のために存在されるのではなく、開かれ、交わりの中におられる方。その方が私たちに『天におけるように地の上にも』(マタイ福音書6章10節)と祈ることを教えてくださるのです」と指摘。
「このように、神の命は私たちの手の届くところにあり、それが明瞭に示されるのは、私たちがその力強い自由の中に招き入れられるためです。その自由は恐怖の束縛を解き放ち、私たちが平和に出会うことを可能にするのです。これは”可能性”であると同時に”招き”でもある。交わりは制限されるものではありません。これ以上に私たちが望むべきものは何でしょうか?」と信者たちに問いかけられた。
マタイ福音書の記述と、主の降誕の場面に見られる光景を思い浮かべながら、教皇は三賢者が幼子イエスに捧げた貴重な贈り物、すなわち金、乳香、没薬に注意を向けられ、「乳児には役に立たないように思えるかもしれませんが、『大いなる贈り物』とは、自分の持ち物をすべてを与えること、という、聖年が終わろうとする今、深く考えさせられる願いを表しているのです」とされ、別の視点から同じ点を示すため、教皇は「イエスに認められた貧しい未亡人」を取り上げ、「彼女は、神殿の献金箱に、持っていた最後の二枚の銅貨、つまり、”すべて”を捧げたのです」と語られた。
また、東方から来た三賢者の所有物については何も分からないことを認めつつ、「彼らの旅立ち、危険を冒す覚悟、そして贈り物そのものが、私たち自身と所有する全て、まさに全てを、私たちの計り知れない宝であるイエスに捧げる必要があることを示唆しています」と述べられた。
続いて教皇は、この日、聖ペトロ大聖堂の聖なる扉を閉じることで閉幕した「希望の聖年」に言及され、「この聖年は、無償の恵みに根ざした正義、すなわち平和的な生活の統合、土地とその資源の再分配、そして『人が持つもの』と『人があるもの』を、私たちのものよりも偉大な神の計画に回復することを求める、本来の聖年の規定を私たちに思い出させてくれました」と語られた。
そして、「私たちが宣べ伝える希望は、現実に根ざさねばなりません。なぜなら、イエスは天から降りてこられ、この地上で新たな物語を創り出すためであったからです… したがって、三賢者の贈り物を思い起こすにあたって、私たちもまた、キリストの臨在を顕すために、他者と分かち合えるものは何か、を自問する必要があります。そうすることで御国は広がり、御言葉は私たちの中で成就し、見知らぬ者や敵は兄弟姉妹となるのです」と強調。
「不平等が存在する場所に公平が訪れ、平和の技が戦争の業に取って代わように。『希望を紡ぐ者』としてと結ばれ、『別の道』を通って共に未来へと歩みを進めましょう」と信者たちに呼びかけられた。
宣教児童の日を祝う
教皇は信者たちに使徒的祝福を授けた後、聖ペトロ広場に集まった全ての人々にあいさつされ、「復活されたキリストの光のもとでの新年への祝福」をなさった。
また、6日の「主の公現」の祭日が、「宣教児童の日」でもあることを取り上げ、世界中で活動する宣教師のために祈り、恵まれない仲間を助けることに尽力する子供たちと若者たちにあいさつと感謝を述べられた。
最後に教皇は、ユリウス暦に基づき1月7日にクリスマスを祝う東方教会共同体にも言及され、「主イエスが、東方教会の皆さんに安らぎと平和をお与えくださるように」と祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)