(2025.2.9 カトリック・あい)
カトリック教会は、2月11日、33回目の「世界病者の日」を祝う。教皇フランシスコはそれに向けたメッセージを以下のように出されている。
(翻訳・カトリック中央協議会、編集・「カトリック・あい」=聖書の引用の翻訳は「聖書協会・共同訳」による)
2025年「第33回世界病者の日」教皇メッセージ
「希望が失望に終わることはない」(ローマの信徒への手紙5章5節) 試練のときに私たちを強めてくれる
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
私たちは2025年の聖年に第33回「世界病者の日」を祝います。この聖年に教会は、私たちに「希望の巡礼者」となるよう促しています。この旅路には、神の言葉が聖パウロを通して伴ってくださいます。大きな励ましとなるメッセージを与えてくださっているのです。「希望が失望に終わることはありません」(ローマの信徒への手紙5章5節)。まさに、希望は試練の時に、私たちを強めてくれます。
この言葉には慰められます。ただ、とくに苦しんでいる人々にとっては、難しい問いかけにもなるのです。たとえば、身体が重い病気で弱っている時、そして、その治療に払えそうもない高額な費用がかかる時に、私たちは強くあり続けることができるでしょうか。私たち自身の苦しみに加えて、自分を支えてくれている愛する人たちも助けることに無力感を覚えている時に、「まだ力がある」ことを示せるでしょうか。そうした状況にある時、私たちは「自分よりも強い力による支え」が必要と感じます。神の助けが必要になるのです。神の恵み、神のみ摂理、神の霊の賜物である力です(『カトリック教会のカテキズム』1808項参照)。
ここで、神がどれほど苦しんでいる人の近くに寄り添ってくださるかについて、考えてみましょう。とくに、その寄り添いが表れる三つの様相があります。出会いと賜物、分かち合いです。
1.まず、「出会い」です。イエスは、72人の弟子たちを宣教に派遣した時(ルカ福音書10章1-9節参照)、病者たちにこう言うようお命じになります―「神の国はあなたがたに近づいた」(同9節)。こうして、たとえ苦痛を伴い、理解に苦しむような病にあっても、主との出会いの機会を得られるように助けなさい、と求めておられるのです。
実際、病に見舞われた時、私たちは、人間としての弱さを、身体的、心理的、そして精神的な弱さを感じます。それでも、神の寄り添いと共感を体験することもできます。イエスは、私たちと苦しみを共にしてくださったのです。神は、私たちを見捨てることがなく、時として、私たちが思いもせず、決して見い出すこともなかった力を授かっていたことに、気づかせ、驚かせてくださいます。
そうして病は、私たちを変える出会いの機会になります。人生の嵐に遭った時にも、しっかりとつかまることのできる堅固な岩を見い出すのです。その体験は、たとえ大きな犠牲を伴っても、私たちをより強くしてくれます。私たちが独りぼっちではないことを分からせてくれるからです。このことから、「苦しみそのものが救いの神秘をもたらす」と言うこともできます。神の慰めに満ちた現存の寄り添いを実際に体験させてくれるからです。こうして私たちは、「その約束と命のすべてを通して福音の豊かな完全さを知る」(聖ヨハネ・パウロ二世教皇「米国司牧訪問時の若者たちへの講話」ニューオーリンズ、1987年9月12日)のです。
2.このようにして、私たちは二つ目の様相である「賜物」に思い至ります。確かに、苦しみほど、あらゆる希望が主から来ることに気づかせてくれるものはありません。それは、何より第一に、受け取り、育むための恵みなのです。尊者マドレーヌ・デルブレルの美しい表現を借りれば、「神の忠実さに忠実」であり続けることです(『希望は暗闇の中の光』序文[La speranza è una luce nella notte, Vatican City 2024]参照)。
それでも、キリストの復活のうちにだけ、私たちの人生は永遠の限りない地平の中に、その行き先を見い出すのです。主イエスの復活のうちにだけ、私たちは確信するに至ります。「死も、命も、天使も、支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も… 神の愛から私たちを引き離すことはできないのです」(ローマの信徒への手紙8章38-39節)。
この「偉大な希望」は、私たちが人生の試練や障害を乗り越える助けとなる、何か他のかすかな光を生み出します(ベネディクト十六世回勅『希望による救い』27、31項参照)。それだけでなく、復活された主は、私たちと共に歩み、私たちの旅に同伴してくださるのです。エマオに向かう弟子たちのために、そうされたとおりです(ルカ福音書24章13-53節参照)。
その弟子たちと同じように、私たちも迷いや心配事、失望を主と分かち合うこと、また私たちを照らし、心を燃え立たせてくださる主の御言葉を聞くことができます。そして、パンを裂くことで、私たちも主の現存に気づくことができます。主が私たちと共におられることを通して、現在という制約の中にあっても、その「向こう側」が近づいてくることで、勇気と自信を取り戻すことができるのです。
3.そして、三つ目の様相に行き着きます。「分かち合い」です。苦しみのあるところは、しばしば分かち合いの場でもあります。そこでは、互いを豊かにし合うことができます。私たちは何度となく、病者の床に寄り添うことによって、希望を抱くすべを学ぶことでしょう。何度となく、苦しむ人に寄り添うことで、信じることを学ぶことでしょう。何度となく、困窮している人の世話をすることで、愛を見い出すことでしょう。私たちは、互いに、希望の「天使」のように、神の使者のようになっていることに気づくのです。私たちは皆、一緒です。患者も医師も、看護師も家族も、友人も司祭も、修道者も。どこにいようと、家庭にいようと、救急病院にいようと、養護施設にいようと、病院にいようと、診療所にいようと。
そして大切なのは、このような恵みに満ちた出会いに、美しさと価値を見い出し、忘れることのないよう、心に刻むすべを学ぶことです。大切に心の内にしまうのです。看護師の優しい微笑を、患者の信頼と感謝にあふれる眼差しを、医師やボランティアの思いやりと気配りに満ちた顔を、伴侶や子どもたち、孫たち、親友たちの期待と不安に満ちた顔を。こうしたすべては、大切な宝になる光で、試練の暗い夜のただ中にあってさえも、私たちに力を与えてくれるだけでなく、命と愛と寄り添うことの真の意味を示してくれるのです(ルカ福音書10章25-37節参照)。
親愛なる病者の皆さん、苦しむ人を支えている兄弟姉妹の皆さん。この聖年に、皆さんは、いまだかつてないほどの特別な役割を果たしています。皆さんが共に歩む旅路は、実にすべての人にとってのしるしなのです。「人間の尊厳への賛歌であり… 望の歌です」(大勅書『希望は欺かない』11)。その歌声は皆さんがおられる医療施設の病室や病床の外にまで響き、愛のうちに「社会全体の調和ある行動」(同)を促し、励まします。そのハーモニーの実現は時に難しいのですが、まさにそのために、とても甘美で力強く、それが最も必要とされる所に光と温もりを届けることができるのです。
こうしたことから、全教会は皆さんに感謝しています。私も同じように感謝し、いつも皆さんのことを祈りのうちに思っています。私は皆さんを、多くの兄弟姉妹が困難な時にマリアにささげる祈りをもって、病者の救いであるマリアにゆだねます。
神の御母よ、私たちはご保護を仰ぎます。いつ、どこでも私たちの祈りを聴き入れ、御助けをもってすべての危険から守ってください。(カルメロ神父編『カトリック祈祷書 祈りの友』[発売・カルメル会宇治修道院、サンパウロ]より)