
教皇の説教の要旨は以下のとおり。
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今日の福音では、イエスがご自分の弟子たちに「主の祈り」を教える場面が語られます。「主の祈り」は全てのキリスト者を一つにする祈りです。この祈りを通して、主は私たちに、御父に向かって子どものように、単純さ、子としての信頼、大胆さ、「愛されている」確信を持って、「アッバ(お父さん)」と呼びかけるように勧められます(『カトリック教会のカテキズム』2778項参照)。
『カトリック教会のカテキズム』は、これについて、「主の祈りを通して、御父が私たちに示されると同時に、私たち自身が何者であるかも明らかにされるのです」と述べています(2783項)。天の御父に信頼をもって祈れば祈るほど、私たちは、自分が愛されている子どもであることを発見し、神の愛の偉大さをよりいっそう知ることができるのです(ローマの信徒への手紙8章14-17節参照)。
また、今日の福音は、神の父性の特徴を、いくつかの印象的なイメージを通して表現しています。それは、真夜中に突然やってきて友人のためにパンを求める人のために、ベッドから起き出して来る人、あるいは、子どもの欲しがる魚、卵を与える父親の姿です。
これらのイメージは、私たちが神に向かって願う時、神は決して背を向けることがない、ことを思い起させます。それは、私たちが過ちや、機会の喪失、失敗の後で、夜遅くに神の家の扉を叩き、家で眠っている子どもたちを起こすようなことがあったとしても、です( ルカ11章7節参照)。御父は、教会という大きな家族の中で、ご自身のあふれるような慈愛に、私たち一人ひとりを寛大に与らせてくださるのです。
私たちが主に祈る時、主はいつも耳を傾けてくださいます。時に、主が理解し難いタイミングと方法で応えてくださることがあるとすれば、それは主が私たちの理解を超えた、より偉大な叡智と摂理をもって働かれるためです。ですから、今この時も、信頼をもって祈り続けましょう。そうすれば、主の中に光と力を常に見出すことができるでしょう。
「主の祈り」を唱えることで、私たちは神の子としての恵みを思い起こすだけでなく、キリストにおける兄弟として互いに愛し合いながら、その賜物にふさわしい者となる努力を表明します。教会のある教父は、それについてこのように記しています。「神を『私たちの父』と呼ぶ時、私たちは子として振る舞う義務を思い起さねばなりません」(カルタゴの聖キプリアヌス、De dominica Oratione, 11)。
また、別の教父は、このように付け加えています。「冷酷で非人間的な心を持ち続けるなら、あなたがたの御父を、あらゆる善の神と呼ぶことはできません。天の御父の善の刻印はもはや、あなたがたにはないからです」(聖ヨハネ・クリゾストモ、De angusta porta et in Orationem dominicam, 3)。「父よ」と神に祈る一方で、他者に厳しく無関心になることはできません。むしろ、神の御顔を、私たちの顔に鏡のように映し出すために、神の善良さ、忍耐深さ、憐れみによって、自分自身が変えられることが大切です。
親愛なる兄妹姉妹の皆さん、今日の典礼は、祈りと愛の業を通して、神から愛されていると感じると同時に、神が私たちを愛されるように、私たちもまた、快く応じる態度と、慎重さ、相互の思いやりを持って、損得なしに愛するようにと招いています。御父の御顔の優しさを示すために、この呼びかけに答えることができるよう、聖母マリアに願いましょう。
(編集「カトリック・あい」)