教皇フランシスコ 2024年8月11日のお告げの祈り (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2024.8.11 バチカン放送)
教皇フランシスコは11日、年間第19主日の正午の祈りに先立って、この日のミサで読まれた福音(ヨハネ福音書6章41~51節)、イエスが「私は天から降ってきた」と言われたのに対して、人々が「これはヨセフの息子のイエスではないか」とつぶやき合う場面を取り上げて説教をなさった。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
**********
今日の典礼の福音は、「私は天から降ってきた」とイエスがはっきりとおっしゃったことへの、ユダヤ人たちの反応を語っています。
彼らは「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『私は天から降って来た』などと言うのか」とつぶやき合いました。
彼らの言葉に、よく耳を傾けてみましょう。彼らは、「イエスが天から降って来られるはずがない」と確信していました。なぜなら、イエスは大工の息子であり、彼の母や兄弟たちも、他の多くの人のように、普通の人として知られていたからです。どうして神がこれほど普通の形で現れることができるだろうか…。彼らは、自分たちの信仰の中に、イエスの質素な生い立ちをめぐる先入観にとらわれてしまった。それゆえに、イエスから何も学ぶことができなかったのです。彼らは、凝り固まった考えを持ち、「自分たちの安定」という”埃をかぶった棚”に置けないもの、保存できないものを、心に受け入れる余裕がありませんでした。
彼らは掟を守り、喜捨をし、断食や祈りの時間を尊重する人たちでした。キリストは、すでに多くの奇跡を行なっていた(ヨハネ福音書2章1-11節、4章43-54節、5章1-9節、 6章1-25節参照)のに、どうして、ご自分がメシアであることを、彼らに認めさせることができなかったでしょう。それは、彼らの宗教的実践は、主の言葉に耳を傾けはしたものの、自分が考えていることを確認することにあったからです。
そのことは、彼らがイエスに説明さえ求めないことで分かります。彼らは、イエスの言葉を聞いてつぶやき始め、それは、自分たちの確信を互いに確認し合い、誰も侵入できない砦に閉じこもるかのようでした。それで、彼らは信じることができなかったのです。
彼らのこうした態度に注意を向けましょう。それは、しばしば同じことが私たちの信仰生活や祈りの中で起きかねないからです。たとえば、主の言葉に耳を傾け、主の真意を受け取ろうとする代わりに、自分の考えや確信、判断を確認するだけのことがあります。このような神との向き合い方では、神と本当に出会うことができず、善のもとに成長し、御旨を果たし、閉じた困難な状態を克服し、その光と恵みの賜物に自分を開くことができません。真の信仰と祈りは、精神と心を開くものであり、閉じるものではありません。
自分に問いかけてみましょう。「信仰生活で、私は本当に自分を沈黙させ、神の言葉に耳を傾けることができるだろうか?」「自分の決まり切った考えを超え、神の助けをもって恐れに打ち勝ち、み言葉を受け入れることができるだろうか?」。
マリアよ、信仰のもとに主の声に耳を傾け、勇気をもってその御旨を果たせるように、私たちをお助けください。
(編集「カトリック・あい」)