書簡の中で教皇は、特に「スポーツと平和構築」の関係を強調され、「先代の教皇たちも繰り返してきたように、スポーツは人類の善、特に平和の促進に重要な役割を果たすことができる」と明言。
そして、「古代ギリシャで行われていた『オリンピック休戦』は、オリンピック競技の前と、最中、後に、敵対行為を停止する協定であり、それは選手や観客が自由に移動し、競技が中断なく行われることを目的とするものでした… スポーツがこうした精神と条件の下に実践される時、それは共同体の結束と共通善の成熟を促進することになるのです」と述べられた。
これに対して、戦争は、「意見の相違のエスカレートによって互いの協力を拒否することから生じ、そうした中で、相手は『共存不可能な敵』と見なされ、孤立させ、排除すべき存在にされてしまいます」と指摘。「この死の文化の悲劇的な証拠として、断ち切られた人生、打ち砕かれた夢、生き残った者のトラウマ、破壊された都市などを、私たちは目のあたりにしていますが、攻撃性、暴力、戦争は、常に『人類の敗北』であることを忘れてはなりません」と説かれた。
また教皇は、「スポーツの育成的な価値」「人生の学び舎としてのスポーツ」「スポーツと人間の発展」などを取り上げる一方で、スポーツの価値を危険にさらすリスクにも触れてられ、「それは主に、誰の目にも明らかな『腐敗』という形をとって生じます… 多くの社会で、スポーツは、経済や金融と密接に結びついています。スポーツ活動支援のために資金が必要なのはもちろんですが、ビジネスが主な、あるいは唯一の動機になった時に問題が生まれ、金銭と成功への過度な追求が優先される時、スポーツがもっているはずの『調和』が崩れるのです」と警告された。
さらに、「スポーツは、参加するすべての人々が共有できる価値観を持ち、たとえ困難な状況においても人生を人間味あるものにすることができる活動ですが、金銭への過度なこだわりによって、自分自身だけに単純化した形で関心を向けさせることになってしまいます… 『誰も、二人の主人に仕えることはできない』(マタイ福音書6章24節)とイエスが言われるとおりです」と述べられた。
続けて教皇は、スポーツ競技が人々の団結を促進する上で果たす重要な役割に言及。「競技においては、それぞれの選手あるいはチームが、相手の選手・チームと共に卓越性を追求し合いますが、相手は『憎悪すべき敵』ではありません。競技の前後には、互いに出会い、知り合う機会を持つもの」とされ、「スポーツ競技は、それが真に公正であるならば、共通の倫理的合意を前提とし、ルールを誠実に受け入れ、競技上の真実を尊重すべきものです」と説かれた。
教皇は関連して、スポーツにおいて、ドーピングやあらゆる形の不正行為を拒む必要を示しつつ、「真のスポーツとは、限界や規範との冷静な関係を育むもの」と強調された。
「公正な競争と交流の文化が、選手や、観客、サポーターに与える影響」にも言及され、「自分たちのチームへの帰属意識は、多くのサポーターたちのアイデンティティーにとって大変重要な要素となりうるもの。人々はヒーローたちの喜びや失望を共有しながら、他のサポーターたちとの一体感を見出していきます」とされた。
だがその一方で、「問題が生じるのは、それが言葉や身体的な暴力につながるような分極化の形を帯びる時であり、その時、応援や参加の表現であった熱狂は、狂信に変貌し、競技場は出会いの場ではなく、衝突の場となる可能性があります」と注意。「こうした状況の中では、スポーツは人々を一致させるのではなく、過激化させ、教育ではなく、非教育をもたらすことになります。それは個人のアイデンティティーを盲目的で対立的な帰属意識へと矮小化してしまうためです」とされた。
そして、特に応援が「政治的、社会的、宗教的な差別と結びつき、より深い怨恨や憎悪を間接的に表現するために利用されること」に危惧を示された。
このような注意を関係する人々に与えられてうえで、教皇は書簡の最後に、「国際的な競技大会は、多様性に満ちた共通の人間性を体験する絶好の機会です。オリンピックの開会式や閉会式で、選手たちがそれぞれの国の国旗を掲げ、民族衣装を身にまとって行進する姿は、見る者に深い感動を与えます」とされ、「こうした体験は、私たちが一つの人類家族を形作るように求められていることを思い出させてくれます」と述べ、誠実さ、分かち合い、受容、対話、他者への信頼など、スポーツが推進する価値観を「民族、文化、宗教的信条に関わらず、すべての人に共通するもの」と強調された。
(編集「カトリック・あい」)