◎聖年特別講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑳「復活された主は、互いに『兄弟・姉妹』だと感じ、共に歩むべき道を、私たちに示された」

教皇レオ14世 2025年11月12日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場教皇レオ14世 2025年11月12日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場  (@Vatican Media)

(2025.11.12  バチカン放送)

 教皇レオ14世は12日、バチカンの聖ペトロ広場で水曜恒例の一般謁見を行われ、「イエス・キリスト、私たちの希望」をテーマとする聖年連続講話をお続けになった。今回は、「イエスの復活と今日の世界の挑戦-兄弟愛を促進する復活の霊性、“私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい”( ヨハネ福音書15章12節)」を取り上げられた。

 講話の要旨、以下のとおり。

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  キリストの死と復活を信じ、復活の霊性を生きることは、生活の中に希望を呼び覚まし、善において励むように促します。それは私たちに、特に愛すること、教皇フランシスコが語られたように、間違いなく、今日の人類の大きな課題の一つである兄弟愛を育むのを助けてくれます。

 兄弟愛は、深く人間的な賜物から生まれます。私たちは関係を結ぶことができ、もし望むなら、互いに真の絆を築くことができます。人生の初めから私たちを支え、豊かにしてくれる関係性がなければ、私たちは生き延び、成長し、学ぶことができません。

 人の関係は多様であり、そのあり方や深さも異なります。しかし、確かなことは、私たちの人間性は、共にいて、一緒に生きる時、つまり、私たちの身近な人々との、形式的ではない、真の絆を体験できる時に、最もよく実現する、ということです。

 私たちが自己に閉じこもるなら、孤独を病んだり、利害のためだけに他者に関心を持つ、自己中心的な生き方に陥る危険があります。このようになると、他人は何かを得るための対象に過ぎなくなり、真に与えること、自分を捧げることができなくなってしまいます。

 兄弟愛は当たり前のものではなく、その実現は容易ではないことを、私たちはよく知っています。世界各地に見られる多くの紛争や戦争、社会的緊張、憎悪の感情は、むしろその反対であることを示しているかのようです。

 兄弟愛は、不可能な美しい夢でも、幻想を抱く一部の人たちの願望でも、ありません。兄弟愛を脅かす闇を越えるためには、源泉に立ち返り、何よりも、「敵意」という毒から、私たちを解放してくださる唯一の方から、光と力をいただく必要があります。

 「兄弟」という言葉は、「世話をする、大切に思う、支える、養う」という意味を持った大変古い語源を持っています。こうした意味をすべての人との関係に当てはめるなら、それは「呼びかけ、招き」となるものです。

 私たちは、兄弟、姉妹という肩書を、親類や、血縁、同じ家族の一員のことだ、と考えがちです。しかし、実際には、意見の相違や、亀裂、時には憎悪が、他人との関係だけでなく、親族間の関係さえも破壊しうることを、私たちは知っています。これは、アッシジの聖フランシスコが、地理的・文化的、宗教的・教義的な出身・所属に関係なく、すべての人に向けた挨拶を今日、再考すべきだ、という、緊急性を示すものです。

 「兄弟の皆さん」という、皆を抱擁するその挨拶を通して、聖フランシスコはすべての人間を同等に扱いました。なぜなら、聖フランシスコは、尊厳、対話、受容、救いといった、人々の共有の運命を認識していたからです。教皇フランシスコは、回勅『兄弟の皆さん』の中で、「アッシジの貧しき聖者」のこのアプローチを再び取り上げ、800年経過した今日、その価値を改めて示されました。

 この「皆さん」という言葉は、聖フランシスコにとって、普遍的な兄弟愛の温かな受容性の象徴です。それは、キリスト教の本質的な態度を表すものです。キリスト教はその初まりから、決して排他的な方法や、私的な形を持つことなく、すべての人の救いのために福音を宣べ伝えるものでした。

 この兄弟愛は、イエスの教えに基づくものです。その教えはイエスご自身が実現された新しいものであり、御父の御旨を豊かに成就するものでした。私たちを愛し、私たちのためにご自身を捧げてくださったイエスのおかげで、私たちもまた、唯一の御父の子として、そしてイエス・キリストにおける真の兄弟として、互いに愛し合い、他者のために命を捧げることができるのです。

 ヨハネ福音書は、イエスが最後まで私たちを「この上なく愛し抜かれた」( ヨハネ福音書13章1節)と記しています。受難が近づいた時、師イエスは自らの歴史上の時間が終わろうとしていることをよくご存じでした。

 イエスは、これから起きようとしていることを思い、最も恐ろしい苦悩と孤独を体験されました。三日目に起きたイエスの復活は、新たな歴史の始まりをしるされました。弟子たちは、長い間生活を共にし、イエスの死の悲しみを経験した時だけでなく、何よりも復活されたイエスを認め、聖霊の賜物を受け、それを証しする者となった時に、完全に兄弟となりました。

 兄弟姉妹は、試練の中で互いに支え合い、助けを必要とする人に背を向けることはありません。「一致、信用、相互信頼」という展望の中で、共に泣き、共に喜びます。その活力は、イエスご自身が与えてくださった言葉にあります。

 「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」( ヨハネ福音書15章12節)。死に、復活されたキリストによって与えられた兄弟愛は、エゴイズム、分裂、横暴の否定的な論理から私たちを解放し、日々新たにされる愛と希望の名のもとに、私たちの本来の召命へと立ち帰らせてくれるのです。復活された主は、皆が互いに「兄弟」であると感じることができるように、ご自身と共に歩むべき道を私たちに示してくださったのです。

(編集「カトリック・あい」)

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2025年11月13日