◎教皇連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」⑥神の言葉は、私たちの意味と真実への渇きに応える

(2026.2.11 Vatican News   Isabella H. de Carvalho)
 Pope Leo XIV during the Wednesday General Audience教皇レオ14世は11日の水曜恒例一般謁見で「第二バチカン公会議を学び直す」をテーマにした連続講話をお続けになり、公会議の教義憲章『Dei Verbum(神の言葉)』に再び焦点を当て、神の言葉と教会との「深く本質的な結びつき」を考察、聖書を黙想することが私たちが神との対話に入る助けとなることを強調された。

 講話で教皇は「神の言葉は、私たちの人生の意味や真実への渇望に応えるものです」とされ、「私たちは無数の言葉に囲まれて生きていますが、その多くは空虚です。時には賢明な言葉に耳を傾けることもありますが、究極的な運命に影響を与えません」と語られた。

 そのうえで、第二バチカン公会議は「教会が主の御体を崇敬するのと同じように、常に聖書を崇敬してきたこと、そして教会が神の言葉の価値について絶えず省察を続けていることを、すべての人に思い起こさせます」と説かれた。

 

 

*聖書、キリスト、教会との関係

 そして、「聖書の価値と力は、それがイエスと密接に結びついていることにあります… そして、私たちは、教会の中に生きることで、この結びつきを体験することができます」とされ、「キリストは父なる神の生きている言葉であり、人の子となった神の言葉… 聖書全体が、キリストという方と、私たち一人ひとり、そして全人類のための救いの臨在を告げ知らせているのです」と強調。

 「それゆえ、聖書の、正当な居場所は教会なのです。なぜなら、聖書は、聖霊の導きのもとで神の民の中から生まれ、神の民のために存在しているからです」と述べられた教皇は、さらに、「キリスト教共同体において、聖書は、いわば”生息地″を持ちます… 教会の生活と信仰の中にこそ、その意味を明らかにし、力を示す場を見出すのです」と語られた。

 この点に関して、教皇は「教会は、神の言葉がすべての成員に届き、信仰の歩みを育むことを切に願っています… 同時に聖書は、教会を自らを超えて前進させ、すべての人への使命へと絶えず開かせます」と述べられた。

*聖書を黙想することは、私たちを神との関係へと導く

 教皇は続けて、「教会共同体において、聖書はその固有の任務を果たし、目的を達成する場を見出します… その目的とは『キリストを知らせる』ことと、『主との対話に入ること』です」とされ、聖ヒエロニムスが「聖書を知らないことは、キリストを知らないこと」語ってることを取り上げ、「神の言葉を読み、瞑想する究極の目的は、キリストを知り、キリストを通して神との関係に入ることであり、それは会話、対話として理解できる関係でです」と説かれた。

 そして、教義憲章が、啓示を「神が友人のように人間に語りかける対話」として提示していることを指摘され、「聖書を祈りの心構えをもって読むときにこそ、その対話が実現するのです」強調された。

*司教、司祭、助祭、カテキスタにとって聖書への愛と親しみは特に重要

 

 講話の最後に教皇は、聖書が「教会に託され、教会によって守られ、解釈される中で、積極的な役割を果たすこと」を改めて強調され、「例えばミサや秘跡の執行を通じて、聖書は、キリスト教共同体を支え、活気づけるのです」と語られた。この点に関して、「司教、司祭、助祭、カテキスタなど『言葉の奉仕を行う者』にとって、聖書への愛と親しみが特に重要であること」を強く説かれ、さらに、「聖書学者や聖書科学に携わる者の仕事には、計り知れない価値があり、聖書は、神学の中心的な位置を占めます。神学は神の言葉にその基礎と魂を見出すのです」と語られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

*講話の全文日本語訳は以下の通り*

 

第二バチカン公会議文書。第一部 教義憲章『神の言葉』(Dei Verbum)5. 教会の生活における神の言葉

 本日の連続講話では、神の言葉と教会との間に存在する深遠かつ生命的な結びつきについて考察します。この絆は、公会議の教義憲章『Dei Verbum(神の言葉)』の第6章において表現されています。教会は聖書の正当な住まいです。聖霊の導きのもと、聖書は神の民の中から生まれ、神の民のために定められています。キリスト教共同体において、聖書はいわばその「生息地」を持つのです。実際、教会の生活と信仰の中にこそ、聖書はその意味を明らかにし、その力を示すことのできる場を見出すのです。

 第二バチカン公会議は、次のように私たちに思い出させています。「教会は、聖なる典礼において、特に神の言葉とキリストの体の両方の食卓から、絶えず命のパンを信徒に授け、捧げているように、主の御体を崇敬するのと同じように、常に聖書を崇敬してきました」。さらに、「教会は、聖なる伝統とともに、聖書を信仰の最高規範として、常に守り続けてまいりました」(Dei Verbum, 21)。

 教会は聖書の価値について、絶えず考察を続けています。公会議後、この点において極めて重要な機会となったのは、2008年10月に開催された「教会の生活と使命における神の言葉」をテーマとする世界代表司教会議(シノドス)通常総会でした。

 教皇ベネディクト16世は、その成果を公会議後勧告『Verbum Domini(神の言葉)(2010年9月30日)にまとめ、次のように断言されています: 「みことばと信仰との本質的な結びつきは、真の聖書解釈学が教会の信仰の内においてのみ可能であることを明らかにしています。その模範はマリアの『はい』にあります…聖書解釈の第一の舞台は教会の生活なのです」(29項)。

 したがって、教会共同体においてこそ、聖書はその固有の使命を果たし、目的を達成する場を見出すのです。すなわち、キリストを知らせ、神との対話を開くことです。まさに「聖書を知らぬ者はキリストを知らぬ」[1]という聖ヒエロニムスの有名な言葉は、聖書を読み瞑想する究極の目的を私たちに思い出させます。

 すなわち、キリストを知り、キリストを通して神との関係に入ることであり、その関係は対話、すなわち会話として理解できるものです。そして教義憲章『Dei Verbum 』は、啓示をまさに「対話」として提示しています。そこでは神が、友人のように人間に語りかけられるのです(参照:DV, 2)。これは、私たちが祈りの心構えをもって聖書を読むときに起こります。その時、神は私たちに近づき、私たちと会話を始められるのです。

 教会に託され、教会によって守られ、解き明かされる聖書は、能動的な役割を果たします。その効力と力によって、キリスト教共同体を支え、活気づけるのです。すべての信徒は、まず何よりも聖体祭儀やその他の秘跡の祝典において、この泉から飲むよう招かれています。

 聖書への愛と親しみが、御言葉の奉仕を担う方々―司教、司祭、助祭、カテキスタ―を導かねばなりません。聖書学者や聖書科学に携わる方々の働きは計り知れず、聖書は神学において中心的な位置を占めます。神学は神の御言葉にその基礎と魂を見出すのです。

 教会は、神の言葉がすべての信徒に届き、信仰の歩みを育むことを切に願っています。しかし神の言葉は、教会を自己を超えて前進させ、すべての人への宣教へと絶えず開かせていくものでもあります。確かに私たちは多くの言葉に囲まれて生きていますが、その多くは空虚なものです。時には賢明な言葉に耳を傾けることもありますが、それらが私たちの究極の運命に影響を与えることは稀です。

 それに対して、神の言葉は、私たちの意味への渇き、私たちの命についての真実への渇きに応えてくださいます。それは常に新しい唯一の言葉です。神の神秘を私たちに啓示し、尽きることなく、その豊かさを絶えず与え続けてくださいます。

 親愛なる友人の皆さん、教会に生きる中で、聖書が完全にイエス・キリストに帰属することを学び、その価値と力の深い理由がそこにあることを体験します。キリストは父なる神の生ける御言葉、人となられた神の御言葉です。すべての聖書は、私たち一人ひとりと全人類のために、キリストの人格と救いの臨在を宣言しています。どうか、教会の母マリア様の模範に従い、この賜物を受け入れるために、私たちの心と精神を開きましょう。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2026年2月11日