(2026.2.11 Vatican News Isabella H. de Carvalho)
講話で教皇は「神の言葉は、私たちの人生の意味や真実への渇望に応えるものです」とされ、「私たちは無数の言葉に囲まれて生きていますが、その多くは空虚です。時には賢明な言葉に耳を傾けることもありますが、究極的な運命に影響を与えません」と語られた。
そのうえで、第二バチカン公会議は「教会が主の御体を崇敬するのと同じように、常に聖書を崇敬してきたこと、そして教会が神の言葉の価値について絶えず省察を続けていることを、すべての人に思い起こさせます」と説かれた。
*聖書、キリスト、教会との関係
そして、「聖書の価値と力は、それがイエスと密接に結びついていることにあります… そして、私たちは、教会の中に生きることで、この結びつきを体験することができます」とされ、「キリストは父なる神の生きている言葉であり、人の子となった神の言葉… 聖書全体が、キリストという方と、私たち一人ひとり、そして全人類のための救いの臨在を告げ知らせているのです」と強調。
「それゆえ、聖書の、正当な居場所は教会なのです。なぜなら、聖書は、聖霊の導きのもとで神の民の中から生まれ、神の民のために存在しているからです」と述べられた教皇は、さらに、「キリスト教共同体において、聖書は、いわば”生息地″を持ちます… 教会の生活と信仰の中にこそ、その意味を明らかにし、力を示す場を見出すのです」と語られた。
この点に関して、教皇は「教会は、神の言葉がすべての成員に届き、信仰の歩みを育むことを切に願っています… 同時に聖書は、教会を自らを超えて前進させ、すべての人への使命へと絶えず開かせます」と述べられた。
*聖書を黙想することは、私たちを神との関係へと導く
教皇は続けて、「教会共同体において、聖書はその固有の任務を果たし、目的を達成する場を見出します… その目的とは『キリストを知らせる』ことと、『主との対話に入ること』です」とされ、聖ヒエロニムスが「聖書を知らないことは、キリストを知らないこと」語ってることを取り上げ、「神の言葉を読み、瞑想する究極の目的は、キリストを知り、キリストを通して神との関係に入ることであり、それは会話、対話として理解できる関係でです」と説かれた。
そして、教義憲章が、啓示を「神が友人のように人間に語りかける対話」として提示していることを指摘され、「聖書を祈りの心構えをもって読むときにこそ、その対話が実現するのです」強調された。
*司教、司祭、助祭、カテキスタにとって聖書への愛と親しみは特に重要