◎教皇連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」②『神の啓示に関する教義憲章』は「キリストとの友情」を呼びかけている

Pope Leo XIV at General AudiencePope Leo XIV at General Audience  (@Vatican Media)

 

*講話の全文以下の通り。

第二バチカン公会議文書集。第一巻 教義憲章『神の言葉』(Dei Verbum)。第一章 神は友として人々に語られる(朗読箇所:ヨハネによる福音書 15章15節)

 

 第二バチカン公会議に関するカテケージスのシリーズを開始しました。本日は、神の啓示に関する教義憲章『神の言葉』(Dei Verbum)について、より詳しく見ていくことから始めましょう。これは公会議において最も美しく重要な文書の一つであり、その導入として、イエスの次の言葉を思い起こすことが役立つでしょう。

 「私はもはやあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。しかし、わたしはあなたがたを友と呼ぶ。わたしが父から聞いたことはすべて、あなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15:15)。これはキリスト教信仰の根本的な点であり、『神の言葉』が私たちに思い出させてくれることです。すなわち、イエス・キリストは人間と神との関係を根本的に変革し、それ以降、その関係は友情の関係となったのです。したがって、新しい契約の唯一の条件は愛です。

 聖アウグスティヌスは、第四福音書のこの箇所を解説する中で、恵みの視点に強く焦点を当てています。この恵みによってのみ、私たちは御子における神の友となれるのです(『ヨハネ福音書講解』第86講)。実際、古代の格言にこうあります。「Amicitia aut pares invenit, aut facit」、すなわち「友情は対等な者同士に生まれるか、あるいは対等な者同士を作り出す」。私たちは神と対等ではありませんが、神ご自身が御子において私たちを御自身に似た者となさってくださるのです。

 このため、聖書全体に見られるように、契約にはまず距離の瞬間があり、そこでは神と人類との契約は常に非対称のままです。神は神であり、私たちは被造物です。しかし、御子が人間の肉体をまとって来られたことで、契約は最終目的へと開かれます。イエスにおいて、神は私たちを御子・御娘とし、たとえ脆い人間性の中にあっても、御子に似た者となるよう招いておられるのです。したがって、私たちが神に似ることは、蛇がエバに示唆したように(創世記3:5参照)、背きや罪によって達成されるのではなく、人となられた御子との関係において達成されるのです。

 私たちが思い起こした主イエスの言葉「わたしはあなたがたを友と呼んだ」は、教令『神の言葉』(Dei Verbum)において繰り返され、次のように断言されています: 「かくして、この啓示によって、見えない神(コロサイ1:15、テモテへの手紙一1:17参照)は、その豊かな愛から、友として(出エジプト記33:11、ヨハネによる福音書15:14-15参照)人々に語りかけ、人々の間に住まわれ(バルク書3:38参照)、ご自身との交わりへと招き入れられるのです」(第2項)。

 『創世記』の神は、すでに私たちの最初の両親と対話し、彼らと対話しておられました(『神の言葉』3参照)。そして、この対話が罪によって中断されたとき、創造主は被造物との出会いを求め、彼らとの契約を結ぶことをやめませんでした。キリスト教の啓示において、すなわち神が御子において人となられ、私たちを探し求めてくださったとき、中断されていた対話は決定的に回復されました。契約は新しく永遠のものであり、何ものも私たちを神の愛から引き離すことはできません。したがって、神の啓示は友情の対話的な性質を持ち、人間の友情の経験と同様に、沈黙を許容せず、真実の言葉の交わりによって育まれるのです。

 教義憲章『神の言葉』もまた、このことを私たちに思い出させます。神は私たちに語りかけられます。言葉とおしゃべりの違いを認識することが重要です。後者は表面的なものに留まり、人々の間の交わりをもたらしません。一方、真の関係において、言葉は情報や知らせを交換するだけでなく、私たちが何者であるかを明らかにするために用いられます。言葉には啓示的な次元があり、他者との関係を創り出します。このように、私たちに語りかけることで、神はご自身を、私たちを御自身との友情へと招く「味方」として示してくださるのです。

 この観点から、まず養うべき姿勢は「聴く」ことです。そうすることで神の言葉が私たちの心と魂に浸透します。同時に、私たちは神と語り合うことが求められています。それは神が既に知っておられることを伝えるためではなく、私たち自身が自分自身に打ち明けるためなのです。

 ゆえに祈りの必要性が生じます。そこにおいて私たちは主との友情を生き、育むよう招かれているのです。これはまず第一に、典礼的・共同体の祈りにおいて実現されます。そこでは私たちが神の言葉から何を聞くかを決めるのではなく、教会を通して御自身が私たちに語られるのです。そしてそれは、心と精神の内面性において行われる個人的な祈りにおいても実現されます。祈り、黙想、内省に捧げる時間は、キリスト者の日々の生活や週の過ごし方において欠かすことはできません。神と共に語り合うときこそ、初めて神について語ることができるのです。

 私たちの経験が示すように、友情は劇的な決別の行為によって終わることもあれば、日々の軽視の積み重ねによって関係が蝕まれ、失われることもあります。もしイエスが私たちに友となるよう招いておられるなら、この招きを無視してはなりません。この招きを受け入れ、この関係を大切にしましょう。そうすれば、神との友情こそが私たちの救いであることに気づくでしょう。

 

 

 

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用の翻訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

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2026年1月14日