◎教皇連続講話「祈りについて」⑨神の祝福に、私たちは賛美と感謝の祈りをもって返す」

Pope Francis at the General Audience of December 2, 2020. Pope Francis at the General Audience of December 2, 2020.   (Vatican Media)

 教皇フランシスコは2日、水曜恒例の一般謁見で「祈りについて」の講話を続けられ、祝福してくださる神に対して、私たちも祝福で対応すべきであり、それは、賛美と崇敬、感謝の祈りによって行われるもの、と指摘された。

  講話の内容は以下の通り(バチカン放送)

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日は、祈りの一つの本質的な面について考えたいと思います。それは祝福についてです。創造の物語(創世記1-2章参照)の中で、神は命を祝福し続けます。神は生き物を祝福され(同1章22節)、男と女を祝福されました(28節)。そして、最後に、神は第七の日を、安息し、すべての創造を味わうための日として祝福されました(2章3節)。

 聖書の冒頭の部分は「祝福の連続」と言えます。神は祝福し、人もまた祝福します。そして、人は、祝福は特別な力を持ち、それを受けた人の全生涯に及び、心を神に変えていただくのを可能とすることに、気づきました。このように、世界の始まりを、神は祝福されました。神は、御手によってお造りになったすべてのものを、良い、美しいものとしてご覧になりました。そして、人を造られたことで創造は完成し、神はお造りになったすべてのものを「極めて良い」と認められました(1章31節)。

 しかし、間もなく、神の創造の御業において刻印された美しさが、損なわれることになります。人間は、世界に悪と破壊を広げかねない、悪い変化をもたらす存在となるのです。それでも、神が最初に刻まれた愛のしるしは、何を持っても決して消すことができないでしょう。神は創造で失敗したのでも、人を創造したことを誤ったわけでもありません。

 世界の希望は、完全に神の祝福の中にあるのです。神は御自ら最初に私たちを愛され、詩人シャルル・ペギーの言葉にあるように、私たちのためを思い続けられます。神の偉大な祝福とは、イエス・キリストです。キリストは永遠の御言葉です。「私たちがまだ罪人であったとき」(ローマの信徒への手紙5章8節)、神は、肉となった御言葉、私たちのために十字架上でご自身を捧げられた、キリストをもって祝福されました。

 聖パウロは、感動に満ちて、神の愛の御計画を高らかに宣べ伝えます。

 「私たちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。それは、神がその愛する御子によって与えてくださった恵みの栄光を、私たちがほめたたえるためです」(エフェソの信徒への手紙1章3-6節)。

 私たち一人ひとりの中におられるキリストの姿を完全に消すことのできる罪は、ありません。私たちの中にあるキリストの姿を歪めることはあっても、神の慈しみからそれを取り去ることはできません。罪人がその過ちの中に長い間留まることがあっても、神は最後まで辛抱強く待たれ、心を開き、回心することを望まれます。神は良い父親、良い母親のように、ご自分の子を、その子の過ちにもかかわらず、愛することを、決しておやめになりません。

 これらの聖書の祝福に関する記述を、刑務所の中、あるいは矯正施設で読むことは、強い印象を与えるでしょう。自分たちの重大な過ちにもかかわらず、天の御父が彼らを祝福し続け、彼らのためを思い続けておられる、と感じることで、初めて善に向き直すことができるかもしれません。たとえ最も近い家族・親族から、彼らの立ち直りは不可能だ、と見捨てられても、神にとっては、彼らは常にご自分の子らなのです。時に奇跡が起きることがあります。人は生まれ変わるのです。それは、神の恵みが人生を変えるからです。神は、私たちをありのままで捉えられますが、私たちをそのままにされておくことは、決してないからです。

 イエスがザアカイになさったことを考えてみましょう(ルカ福音書19章1-10節参照)。皆が、ザアカイの中に、悪を見ていました。それに対し、イエスはそこに善の連鎖を起こされます。そこから、すなわち、「イエスを見たい」という好奇心から、彼を救う慈しみへと、ザアカイを動かされるのです。こうして、まずザアカイの心が変わり、続いて人生が変わりました。見捨てられ、拒絶された人々の中に、イエスは、消すことのできない御父の祝福をご覧になっていました。それだけでなく、イエスは、すべての貧しい人々にご自身を同化されるまでになりました(マタイ25章31-46節参照)。

 「祝福の祈りは、神の恵みに対する人間の応答です。神が祝福してくださるので、それに応えることで、人間の心は、『すべての祝福の源である方』を祝福することができるのです」(「カトリック教会のカテキズム」 2626項)。祈りは喜びであり。感謝です。神は、私たちが回心するのを待たれず、ずっと以前から、私たちがまだ罪の状態にあった時から、私たちを愛してくださいました。

 私たちは、自分を祝福してくださる神に対し、ただ、讃えることしかできません。御父は私たちを愛してくださいます。私たちにできることは、喜んで神を賛美し、感謝すること、そして、人を呪うことなく、祝福することを、神から学ぶことです。

 (編集「カトリック・あい」、聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使用)

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2020年12月2日