◎教皇連続講話「主の祈り」⑦「地上の愛が粉々に砕けても、『天におられる父の愛』がある」

(2019.2.20 バチカン放送)

 教皇フランシスコは20日、バチカンのパウロ6世ホールでの水曜恒例の一般謁見で、先週に続いて「主の祈り」をテーマにした教会の教えの解説をされた。

 今回は、『天におられる父』の不変の唯一の愛について。まず、「キリスト教的祈りの最初の一歩は、父である神の神秘の中に入ることです」とされた教皇は「神を『父』として語る時、私たちが思い浮かべるのは「特に、『自分を愛してくれた両親』ですが、私たちはそれを超えて行かねばなりません」と話された。

 そして、神の愛は「まさに『天におられる父』の愛であり、その完全な愛を私たちは人生の中で不完全な方法でしか知ることができません」と、その大きさを強調され、「人間は『永遠に愛を乞い求める存在』ですが、『完全に自分が愛される場所を求めても見つけられず、失意に陥った友情や愛』がどれほど多く世の中にあることでしょう」として、人間の愛の矛盾や変わりやすさ、弱さや限界を指摘。 「使徒ペトロでさえ、イエスの愛に忠実ではいられず、その弱さと恐れのために逃げ出すことになったのです」とイエスに対するペトロの言動を思い起こされた。

 このような「弱く変わりやすい人間の愛」と「天におられる父の愛」と対比され、「天の御父は、地上の誰もできない愛し方で、すべての人を例外なく愛してくださいます」と力を込められた。

 さらに、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、私があなたを忘れることは決してない。見よ、私はあなたを、私の手のひらに刻み付ける」という「イザヤ書」の言葉(49章15-16節)を引用されて、「私たちの地上の愛が粉々になり、手の中に塵しか残さなくても、私たち皆には、常に熱く燃える、神の唯一の愛があります」と説かれた。

 そして「主の祈り」の「天におられる」という表現は、遠さを表すのではなく、根本的に異なる愛、別の次元の愛を表すもの、と説明された。

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2019年2月21日