
(2025.11.5 Vatican News Isabella H. de Carvalho)
5日の水曜恒例一般謁見で、教皇レオ14世は聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」を再開され、「数多くの”十字架”に特徴づけられた現代でさえ、主の復活は、希望の夜明けを呼び起こします。私たちの日々の生活に方向性を与え、意味への渇望を満たし、世界に希望を伝えます」と強調された。
講話で教皇は、キリストの復活を「思想でも理論でもなく、信仰の礎となる出来事」と位置付けられ、「日々の生活において復活を真に信じることは、生き方を革命的に変えること。この変革こそが、キリスト教の希望の穏やかで勇気ある力によって、世界を変える助けとなるのです」と説かれた。
そして、「人類の歴史に光の見えない地においてさえも、私たちは主の証人となり得ます… 復活の希望は決して裏切りません」と言明された。
*混沌とした人生の羅針盤
教皇は、「特に不可解な状況に直面した時、キリストの復活に、私たちの(生きる)意味への渇きに対する答えを見出します… キリストにおいて、私たちは、確信します—たとえ自分の人生が混乱したもののように思えても、その人生を導く羅針盤を常に見出すことができる、と。その人生が、しばしば混乱し、受け入れがたく、理解不能な出来事―様々な形の悪、苦しみ、死、そして一人ひとりに降りかかる出来事―に刻まれていてもです」と語られた。
続けて、「私たちの脆い人間性に向き合う時、キリストの復活は、手当てと癒しとなり、個人レベルでも地球規模でも、日々人生が突きつける恐ろしい課題に直面する中で、希望を育むものとなるのです」とされ、「復活の視点から、十字架の道は、光の道へと変わる。苦しみ後の喜びを味わい、瞑想し、復活に先立つ全ての段階を新たな光の中でたどり直すように」と信者たちを促された。
ヨハネの黙示録(1章17節)で、イエスが自らを「生きる者」として示しておられることを指摘され、「主の復活が現在進行形の事実であり、あらゆる人の日々の生活に現れている」と語られた。
*復活は遠い過去の出来事ではない
さらに教皇は、キリストの復活が、「遠い過去に属する出来事ではなく、人類史の他の多くのエピソードのように伝統に埋もれたものでもありません」とされ、「教会は、主の復活を『生きた記憶』として心に刻む必要性を教えています… それは毎年、主の復活を祝い、毎日に聖体祭儀を行うことによって実現されるのです」と強調。「復活の神秘は、キリスト教生活の礎であり、他の全ての出来事は、この周りを回っています。ですから、いかなる和解でも、感傷でもなく、毎日が主の復活である、と言えるです」と述べられた。
「一時間ごとに、我々はさまざまな経験をする。痛み、苦しみ、悲しみは、喜び、驚き、安らぎと入り組んでいる。しかし、あらゆる状況を通して、人間の心は充実、深い幸福を切望している」と教皇は説明した。
また教皇は、このようなことを明確にするために、「人間の神秘を深く掘り下げ」た聖十字架のテレサ・ベネディクタの言葉を引用し、「ダイナミズムは、絶え間ない充実の追求から生まれる」とされた。彼女は、人間は「常に、その瞬間に与えられ、同時に奪われるものを引き出すことができるよう、新たに存在を与えられることを切望している」と書いている。「私たちは、限界に囲まれていますが、それを乗り越えようと努力もしているのです」と語られた。
*復活は最も美しい知らせ
続けて教皇は、人間の本性のこのような現実に直面して、「復活の宣言は、歴史上かつてないほど美しく、喜びに満ち、圧倒的な知らせなのです… それは究極の『福音』であり、罪に対する愛の勝利、死に対する命の勝利を証しします。だからこそ、私たちの心と魂を悩ませる意味への渇望を満たし得る唯一の要素なのです」と言明。
さらに「人間は、常に自らを引き寄せる彼方へと向かって努力しています… いかなる偶然にように見える現実も、私たちを満足させません。私たちには、無限と永遠へと向かう傾向があります… これは苦しみ、喪失、失敗によって予兆される死の経験と対照的です」と指摘。聖フランシスコが『太陽の賛歌』で「生きている者は誰も逃れられない」と述べた言葉を引用された。
講話の結論として教皇は、「主の復活が人類の歴史の流れを変えた」ことを強調された。
イエスが十字架上で亡くなられた後、女性たちが「主の遺体に香油を塗るため墓へ向かった」ところ、墓は空だった。その墓で彼女たちは「白い衣をまとった神秘的な若者」に出会い、こう告げられたのだ。「あなたがたは、十字架につけられたナザレのイエスを探している。彼はよみがえった。ここにはおられない」(マルコ福音書16章6節)と。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)