
講話で教皇は、キリストの復活を「深く考え尽くすことのできない出来事… この神秘を探求すれば探求するほど、人は圧倒的でありながら魅惑的な光に引き込まれます… イエスの復活は、現代世界の課題の一つである『悲しみ』を癒す力を持ちます」と言明。
だが、「押し寄せては去る悲しみは、多くの人々にとって日々感じるもの。不安定な感覚として内面に浸透し、喜びを阻むように見えます… 悲しみは人生の意味と活力を奪い、人生を方向性もなく無意味な旅へと変えてしまいます」と語られた。
そして、この極めて現代的な体験は、ルカによる福音書に記されたエマオへの道を行く二人の弟子たちの物語にも見られる、とされた。
「弟子たちはイエスの死に落胆していました… 人間の悲しみを示しています。多くのエネルギーを注いだ目標の終焉、彼らの人生の核心と思われたものの破壊… 二人がすべてを失ったかに思えた時、イエスは見知らぬ人として登場されます。福音書は、二人が立ち止まり、『悲しげな表情』をしていた述べていますが、ここで用いられたギリシャ語の形容詞が包括的な悲しみを示し、それが彼らの顔に明白に表れていたのです」と指摘。
「そこでイエスが弟子たちにかけられた言葉は、彼らの心の『愚かさ』を指摘しますが、そのイエスの率直さが、彼らをさらに悲しみに沈めるどころか、希望の感覚を再び呼び覚ましました。物語の頂点は、3人が宿で夕食を取った際、イエスがパンを裂かれる瞬間に訪れます。二人の弟子の『心の目」が開かれ、『絶望に曇らされていた視界』が回復された… その瞬間、弟子たちの内に喜びが燃え、自らの体験を他者と分かち合う勇気が与えられたのです」と説かれた。
さらに教皇は、キリスト教徒が復活祭の挨拶として用いる「主はまことに復活された」という言葉について、「命の勝利は空虚な言葉ではなく、現実的で触れることのできる事実です… イエスは言葉だけでなく、十字架の傷跡が刻まれた肉体をもって、具体的な行動をもって復活されたのです」と強調された。
最後に教皇は、エマオへの道で弟子たちが感じた喜びが、私たちが困難な時を生きる際の指針となることを願われ、「復活されたイエスは、私たちの視点を根本から変え、悲しみを追い払う希望を与えてくださいます… イエスの復活を見つめることは、私たちの世界観を変え、私たちを救い、今も救い続ける真理を私たちに悟らせます。世界の歴史には、まだ多くの善が期待されているのです」と述べて、講話を締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)