Pope Leo blesses a small child as he arrives at the weekly General Audience (@Vatican Media)
(2025.9.3 Vatican News Devin Watkins)
教皇レオ14世は3日の水曜恒例一般謁見で「イエス・キリスト、私たちの希望」を主題とする聖年連続講話をお続けになり、今回はは十字架上のイエスの最期の言葉、「私は渇く」を考察され、「人間の弱さは、天国への架け橋」と語られた。
この講話で教皇は、ヨハネ福音書に記された、十字架上のイエスの最後の言葉「私は渇く」(19章28節)と「すべては成し遂げられた」(同30節)に焦点を当てられた。
そして、十字架に架けられ、「人類が最も輝かしくも、最も暗い瞬間」を迎えた時、「イエスは、生涯のすべてを込めた、この二つの言葉を語られ、それによって神の子の全存在が明らかにされました」と指摘。
「十字架上のイエスは、『勝利の英雄』ではなく、『愛を乞う者』としてお現れになります。自らに与えられないもの、ただ一人、自らに与えられないものを、謙虚にお求めになるのです」とされ、「イエスの十字架上の『渇き』は、拷問された身体の生理的欲求だけでなく、深い渇望の表れ。愛と関係と交わりの渇望なのです」と説かれた。
教皇は続けて、「これは、『人間のあらゆる条件を分かち合うこと』をお望みになった神が、この『渇き』にも打ち負かされるという、沈黙の叫び。私たちの神は一口の水を乞うことを恥じない。その行為こそが、愛が真実であるためには、『与えるだけでなく、求めることも学ばねばならない』と教えてくれるからです」と強調。
さらに、「『渇き』を訴えられるイエスの姿は、私たちが自力で自らを救うことができない、ということを示しています。それは、『渇く』に続く、『成し遂げられた』という言葉が、酢を浸した海綿を受け入れられた後に発せられたからです」とされ、「愛は、自らを貧しくされた。「それゆえにこそ、愛はその業を成し遂げたのです」と語られた。
そして、「キリスト教の逆説は、『神が自ら為すことによってではなく、自ら為されることによって、救うこと。力によって、悪を打ち負かすのではなく、愛の弱さを最後まで受け入れることによって救うのです… 救いは自律性の中にあるのではなく、自らの必要を謙虚に認め、それを自由に表現できることの中にあります」と説かれた。
続けて、「人類は、信頼によって満たされる。それは私たちに、真の希望を開きます。なぜなら神の御子でさえ、愛と意味と正義を渇望し、自給自足ではいられなかったからです」とされた教皇は、「イエスは、『求めることが、卑しいことではなく、解放だということを示され、私たちを救ってくださる。それは罪の隠れた状態から抜け出し、交わりの場へ再び入る道。創世の初めから、罪は恥を生み出してきましたが、赦し、真の赦しは、自らの必要に直面し、拒絶を恐れなくなった時に生まれるのです」と指摘。
「十字架上で渇きを訴えられたイエスは、傷ついた人類全体の『生ける水』への叫びを体現しています。それが、私たちを神へと導き、神と結ばせる方法なのです」と強調された。
教皇は講話の最後に、信者たちに対して、「兄弟愛、質素な生活、恥じることなく求める術、そして下心なくできることを捧げることに喜びと真の充足を見出すように」と呼びかけられ、「特に自分には値しない、と思える時こそ、求めることを恐れてはなりません。(救いを求めて)手を差し出すことを恥じてはなりません。救いはまさにそこに、その謙虚な仕草の中に隠されているのです」と語られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)