
- (2025.8.13 Vaican News Deborah Castellano Lubov)
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教皇レオ14世は13日の水曜恒例の一般謁見で、「イエス・キリスト、私たちの希望」をテーマにした聖年連続講話をお続けになり、信者たちに、「私たちが、神の愛に包まれた子供たちであることを思い起こす」よう促され、「真摯に回心することが、私たちの弱さにもかかわらず救いへの道を歩む手助けとなる」と説かれた。
ローマは猛暑が続いており、水曜恒例の一般謁見も聖ペトロ広場からバチカンのパウロ6世ホールに移して行われたが、ホールに入れない人々が続出した。
ローマの猛暑のため、聴衆はバチカンのパウロ6世ホール内で開催されました。それでも、聖父はホールに入れない信者たちや、極端な暑さを避けるため近隣の場所にいた信者たちにも挨拶するために立ち寄られました。
- *非難するためではなく、考えさせ、愛を表現するために
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教皇はこの日の連続講話で、イエスが最後の晩餐の場で弟子の一人がご自分を裏切ることを明かす場面を取り上げ、イエスの受難、死、復活に焦点を当てて語られた。
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まず、晩餐の場でイエスが語られた言葉― 「よく言っておく。あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」(マルコ福音書14章18節)—について、「イエスは、非難するためにこの言葉を述べたのではありません。『真の愛が、真実なしには成り立たないこと』を示すために述べられたのです」と指摘。
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これからご自分に起きることについての、イエスの語り方に注意を向けられ、「イエスは、声を荒げることも、その者を指さすことも、ユダという名前を口にすることもなかった。主は、弟子の一人ひとりが自分を振り返るように話されたのです。そして、弟子たちは不安になって、『主よ、まさか私のことでは』と代わる代わる言い始めます(同14章19節」と語られた。
- *救いへの旅は回心の機会から始まる
- そして、教皇は、「『まさが私のことでは』という、弟子たちのイエスへの問いかけは、おそらく私たちが自分自身にすべき最も真摯な問いかけでもあります… これは、何の罪もない者の問いかけではなく、自分自身の脆さを知った弟子たちの問いかけ。『罪人の叫び』ではなく、『愛したい』と願いながら、自分が害を及ぼす可能性のある存在であることに気づいている者のつぶやきです」とされた。 しかし、「このように気づくことで、悲観することはありません。この気づき、自覚こそが、救いの旅の始まりだからです… イエスは弟子たちや私たちに恥をかかせるために真実をお告げになるのではありません。『救いたい』を強く望んでおられるから、真実をお告げになるのです」と強調。
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*回心の場
続けて「救われるためには、『自分も関わっている』と感じること、それにもかかわらず『愛されている』と感じること、『悪は現実だが、それが最後の言葉ではない』と感じることが必要。深い愛の真実を知った者だけが、裏切りの傷を受け入れることができます」と述べられ、「イエスの言葉に対する弟子たちの反応は『怒り』ではなく、『悲しみ』。彼らは憤慨していない。悲しんでいるのです。それは、自分自身が巻き込まれる可能性が現実にあることから生じる痛み。まさにこの痛み、悲しみを、真摯に受け止めることができれば、それが回心の場となるのです」と説かれた。
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*再生の痛ましい機会
さらに教皇は、「福音は、悪を否定することを教えているのではなく、それを再生の痛ましい機会として認識することを教えています… イエスは、この言葉の後に、さらに私たちを悩ませ、考えさせる言葉を加えられます—『人の子を裏切る者に災いあれ。その人は、生まれなかった方が、その者のためによかった』(マルコ福音書14章21節)と… これは厳しい言葉ですが、その意味をよく理解しなければなりません。これは『呪い』ではなく、『痛みの叫び』です。ギリシャ語で『ああ』という言葉は、嘆き、悲嘆、真摯で深い同情の叫びのように聞こえます。神は苦しみを受け入れられます」と語られた。
*「救い」から自分を除外しないように
また教皇は、「主は悪を見ても、それに報復するのではなく、悲しむのです… そしてイエスの言われた『生まれてこなければよかった』という言葉は、a priori(先験的に)課せられた非難ではなく、私たち誰もが認める真実—もし私たちが私たちを生んだ方の愛—を否定し、裏切ることで自分自身に不忠実になるなら、私たちは本当にこの世に生まれた意味を失い、救いから自らを排除することになります」と警告。
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*暗闇に光が差し込む
続けて、「しかし、最も暗い瞬間でも、光は消えるのではなく、さし始めるのです… もし私たちが自分の限界を認め、キリストの痛みに触れようとするなら、私たちは再び生まれ変わることができる。なぜなら、信仰は私たちを罪の可能性から免除するのではなく、常にそこから脱出する道—すなわち慈悲—を提示するからです」とされ、「イエスは私たちの脆さに驚かれません。私たちのことをよく知っておられ、友情は裏切りのリスクから免れないことも知っておられます」と指摘。
「しかし、主は、それでも弟子たちを信頼し続け、共に食卓に着き、自分を裏切る者たちに対してもパンを裂くことをやめない… これが、『神の静かな力」です。神は、愛の食卓を離れることはありません。たとえ、最後に一人残されることを知っておられてもです」と語られた。
*神を裏切っても、神の子供たちへの愛によって改心できる
そして教皇は、信者たちにこう呼びかけられた。「親愛な兄弟姉妹の皆さん。私たちも今日、正直にこのように自問することができます―『主よ、まさか私のことでは?』。 これは非難を受けたと感じる意味ではなく、私たちの心に『真実の空間を』開く意味。これが救いの始まりです。私たちは神への信頼を裏切る者かもしれないが、その信頼を回復し、守り、再生する者にもなれるのだ、という自覚から始まるのです」と説かれた。
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講話の最後に教皇は、「これが私たちに大きな希望を与えます。結局のところ、これが希望なのです。たとえ失敗しても、神は決して私たちを裏切られないことを、私たちは知っている。たとえ私たちが主を裏切っても、主は決して私たちを愛することをおやめにならない。そして、この愛に触れれば、謙虚で傷つきながらも、常に忠実であれば、私たちは真に生まれ変わることができるのです… そして、私たちに『裏切り者』としてではなく、『常に愛される子供』として生きることを可能にするのです」と締めくくられた。
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(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳}を使用)
- バチカン放送による教皇の連続講話の要旨は次のとおり(編集「カトリック・あい」)。**********親愛なる兄弟姉妹の皆さん
イエスの最後の日々の歩みを追いながら、福音を学び舎とする私たちの旅を続けましょう。今日は、親密かつ緊張感のみなぎる、深い真理に満ちた場面を考察したいと思います。過越の食事の時、イエスは十二人の使徒のうちの一人が自分を裏切ろうとしていると明らかにされました。「よく言っておく。あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」(マルコ福音書14章18節)。
これは強い言葉です。イエスがそれを言われたのは、非難のためではなく、愛が真実のものであるからには、真実なしではありえないことを示すためでした。少し前、食事のために入念に整えられた高間は、突然、沈黙の悲しみに包まれました。それは、問いや、疑い、脆さからなる悲しみでした。それは、私たちにも経験のある悲しみです。最も大切にしている絆に裏切りの影が差す時の悲しみです。
それにもまして、これから起きるであろうことを語るイエスの口調は驚くべきものでした。イエスは声を荒げたり、指差したり、ユダの名前を口にすることもありませんでした。それは、誰をも自問に招く話し方でした。そして、まさにその通りになりました。聖マルコはこう記しています。「弟子たちは心を痛めて、『主よ、まさか私のことでは』と代わる代わる言い始めた」(マルコ福音書14章19節)。
親愛なる友人の皆さん、「主よ、まさか私のことでは」という問いは、おそらく私たちが自分自身に向けることができる、最も誠実な問いの一つでしょう。これは素朴な者の問いではなく、自らの脆さを知った弟子が発する問いです。それは、罪を犯した者の叫びではなく、愛したいと望みながらも、傷つけることもできると知る者のつぶやきです。そして、この自覚のもとに、救いの道は始まるのです。
イエスは、辱めのために告発するのではありません。イエスが真実を言われるのは、救うことを望まれるからです。救われるためには、感じなければなりません。自分も関係していること、すべてにもかかわらず愛されていること、悪は現実にあっても、それが勝利することはないことを感じなくてはなりません。深い愛の真理を知った者だけが、裏切りによる傷も受け入れることができるのです。
弟子たちの反応は、怒りではなく、悲しみでした。憤るのではなく、悲しみを感じていました。それは、自分も関係あるかもしれないという、実際の可能性から生じる悲しみです。まさにこの悲しみを真摯に受け止めるならば、それは回心の場となるのです。福音は、悪を否定することを教えず、生まれ変わるための痛みを伴う機会としてそれを認識するように教えます。
そして、イエスはわたしたちを不安にさせ、考えさせるような言葉を加えます。「人の子を裏切る者に災いあれ。その人は、生まれなかった方が、その者のためによかった」(マルコ14,21)。これは厳しい言葉です。しかし、その意味をよく理解する必要があります。これらの言葉は呪いではなく、むしろ悲しみの叫びなのです。それは、ギリシャ語においては、嘆きや、率直で深い憐みの叫びとしての響きを持っています。
私たちは人を裁くことに慣れています。しかし、神は苦しむことを受け入れられるのです。悪を見ても、復讐されず、悲しまれるのです。「生まれなかった方が、よかった」という言葉は、超越論的な否認ではなく、私たちそれぞれが認めることのできる真理です。もし自分たちを創造した愛を否定し、その裏切りによって自分自身に対し不誠実になるなら、私たちはこの世に生まれた意味を本当に見失い、救いから自らを除外してしまうのです。
しかし、まさに最も闇が深いところで、光は消えることなく、むしろ、輝き始めます。なぜなら、自分たちの限界を認めてこそ、そして、キリストの苦しみに触れてこそ、私たちはようやく生まれ変わることができるからです。信仰はわたしたちを罪の可能性から免れさせはしませんが、そこから抜け出すための道をいつも与えてくれます。その道とは慈しみの道です。
イエスは私たちの弱さを前に驚かれることはありません。いかなる友情も裏切りの危険から逃れられないことをよくご存知です。それでも、イエスは信頼し続けます。ご自分の弟子たちと食卓を囲み続けられます。自分を裏切る者に対しても、パンを裂くことを諦めません。これが神の沈黙の力です。たとえご自分がただ一人残されることをご存知でも、神が愛の食卓を離れることはありません。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、今日、私たちも真摯に自問しようではありませんか、「主よ、まさか私のことでは」と。自分に対するとがめを感じるためではなく、真理のための場所を心にあけるためです。救いはここから、神における信頼を裏切るのは自分自身かもしれない、という自覚から、また同時に、その信頼を受け入れ、守り、新たにするのも自分自身である、という自覚から始まるのです。
つまるところ、これこそが希望なのです。それは、たとえ私たちが過ちを犯しても、神は決して裏切られない、と知ることです。たとえ私たちが裏切ることがあっても、神は私たちを愛し続けられます。謙遜で、傷つき、常に誠実なこの神の愛にたどり着くことができるならば、そこで私たちは真に生まれ変わることができるのです。そして、もう裏切り者としてでなく、常に愛された子として生き始めるのです。