教皇の「聖母の被昇天」の祭日の正午の祈りの集いでの説教は次のとおり。
**********
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
人が月面に初めて立った時の有名な言葉がありますー「これは一人の人間にとって小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」。
実際に人類は、一つの歴史的な目標に到達しました。しかし、今日、聖母の被昇天において、私たちは、限りなく、より大きい到達を祝います。聖母が天国に発たれたのです。霊魂だけでなく、肉体も、聖母ご自身のすべてをもって天国に入られました。このナザレの乙女の小さな一歩は、続く人類の偉大な飛躍となりました。
月に行っても、私たちがこの地上で、皆兄弟として生きられないとしたら、残念なことです。しかし、私たちの一人が天国で体ごと暮らしているということ、それは私たちに希望をもたらします。私たちは貴重な存在であり、復活するように定められている、ということが分かります。
神は、私たちの肉体を虚しく消えるままにはされません。神と一緒ならば、何も失われません。マリアは目的地に到達されました。私たちは歩む理由をマリアから示されています。つかの間の地上の事柄を手に入れるためではなく、永遠の天の祖国を目指すため、です。そして、マリアは、私たちを導く星です。マリアが最初に天国に上げられたからです。第二バチカン公会議が教えるように、マリアは「歩む神の民のための、確かな希望と慰めのしるしとして輝いています」(「教会憲章」68項)
私たちの母であるマリアは、私たちに何を勧めているでしょうか。今日の福音で、マリアの最初の言葉は「私の魂は主をあがめます」(ルカ福音書1章46節参照)でした。この言葉を聞き慣れている私たちは、恐らく、それ以上の意味を考えないかもしれません。
「Magnificare(称える、の意)」とは、文字どおり「大きくする」という意味です。マリアは主を「大きくする」のです。当時も様々な問題には事欠かなかったでしょう、しかし、マリアは、こうした問題ではなく、主を「大きく」します。
マリアに比べて、私したちは、何度問題に押しつぶされ、怖れに心を占められていたことでしょうか。聖母はそうではありません。神を人生の最も大きなものに位置付けている、からです。このようなところから「マグニフィカト」は、ほとばしります。ここから喜びが生まれます。
問題がないわけではありません。問題はいずれあっても、私たちのそばにおられ、私たちを助けられる「神の現存」から喜びは生まれます。神は偉大な方であり、小さき者たちを顧みる方です。私たちは、神の愛の「弱み」なのです。神は小さき者たちをご覧になり、愛されます。
マリアは自分の小ささを知り、主がマリアになさった「偉大なこと」(ルカ福音書1章 49節参照)を称えています。その偉大なこととは何でしょうか。
それは、まず「予期せず命を授かったこと」です。乙女マリアは胎内に子を宿し、親類のエリザベトも、高齢でしたが、身ごもっていました。主は小さき者や、自分の小ささを知る者に、素晴らしいことを行われ、人生の中に神のための大きな場所を与えられます。主は、ご自分に信頼する者に慈しみを与えられ、謙遜な者たちを高く上げられます。マリアが神を称えるのは、このためです。
ここで問いましょう。私たちは、「神を賛美すること」を忘れていないでしょうか。神が私たちのためにされた偉大なことに、感謝しているでしょうか。神が与えてくださる毎日に、神が私たちを愛し、赦してくださることに、神の優しさに対して、感謝しているでしょうか。
まだあります。神が、私たちに聖母を与えてくださったことに、私たちの人生の途上で出会わせてくださる兄弟姉妹たちのために、私たちに天国を開いてくださったことに、感謝していますか。私たちは、これらのことのために、神に感謝し、神を賛美しているでしょうか。
もし、私たちがこれらの善を忘れるなら、心は縮んでしまいます。しかし、マリアのように、主がなさった偉大なことを思い出すなら、そして、一日に少なくとも一回は神を賛美するなら、私たちは大きな一歩をしるした、と言ってよいでしょう。
一日一回、「主を賛美します」、「主は讃えられますように」という、小さな賛美の祈りを唱えましょう。これは神を称えることです。この小さな祈りによって、心は広がり、喜びは豊かになるでしょう。眼差しを天に、神に向かって上げ、「ありがとうございます」と感謝することで、毎日を始める恵みを、天国の扉である聖母に願いましょう。
(編集「カトリック・あい」)