♰「ナザレの乙女の小さな一歩は、人類の偉大な飛躍となった」聖母被昇天の祭日の正午の祈り

Pope greeting people in St. Peter's Square at the Angelus prayer on the feast of the Assumption, August 15, 2020. Pope greeting people in St. Peter’s Square at the Angelus prayer on the feast of the Assumption, August 15, 2020.   (Vatican Media)

 (2020.8.15 バチカン放送)

 カトリックの教会暦は15日、「聖母の被昇天」の祭日を迎え、教皇フランシスコは正午の祈りに先立つ説教で、マリアのように、主がなさった偉大なことを思い出し、感謝と賛美を捧げるように、信者らに勧められた。

 教皇の「聖母の被昇天」の祭日の正午の祈りの集いでの説教は次のとおり。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 人が月面に初めて立った時の有名な言葉がありますー「これは一人の人間にとって小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」。

 実際に人類は、一つの歴史的な目標に到達しました。しかし、今日、聖母の被昇天において、私たちは、限りなく、より大きい到達を祝います。聖母が天国に発たれたのです。霊魂だけでなく、肉体も、聖母ご自身のすべてをもって天国に入られました。このナザレの乙女の小さな一歩は、続く人類の偉大な飛躍となりました。

 月に行っても、私たちがこの地上で、皆兄弟として生きられないとしたら、残念なことです。しかし、私たちの一人が天国で体ごと暮らしているということ、それは私たちに希望をもたらします。私たちは貴重な存在であり、復活するように定められている、ということが分かります。

 神は、私たちの肉体を虚しく消えるままにはされません。神と一緒ならば、何も失われません。マリアは目的地に到達されました。私たちは歩む理由をマリアから示されています。つかの間の地上の事柄を手に入れるためではなく、永遠の天の祖国を目指すため、です。そして、マリアは、私たちを導く星です。マリアが最初に天国に上げられたからです。第二バチカン公会議が教えるように、マリアは「歩む神の民のための、確かな希望と慰めのしるしとして輝いています」(「教会憲章」68項)

 私たちの母であるマリアは、私たちに何を勧めているでしょうか。今日の福音で、マリアの最初の言葉は「私の魂は主をあがめます」(ルカ福音書1章46節参照)でした。この言葉を聞き慣れている私たちは、恐らく、それ以上の意味を考えないかもしれません。

 「Magnificare(称える、の意)」とは、文字どおり「大きくする」という意味です。マリアは主を「大きくする」のです。当時も様々な問題には事欠かなかったでしょう、しかし、マリアは、こうした問題ではなく、主を「大きく」します。

 マリアに比べて、私したちは、何度問題に押しつぶされ、怖れに心を占められていたことでしょうか。聖母はそうではありません。神を人生の最も大きなものに位置付けている、からです。このようなところから「マグニフィカト」は、ほとばしります。ここから喜びが生まれます。

 問題がないわけではありません。問題はいずれあっても、私たちのそばにおられ、私たちを助けられる「神の現存」から喜びは生まれます。神は偉大な方であり、小さき者たちを顧みる方です。私たちは、神の愛の「弱み」なのです。神は小さき者たちをご覧になり、愛されます。

 マリアは自分の小ささを知り、主がマリアになさった「偉大なこと」(ルカ福音書1章 49節参照)を称えています。その偉大なこととは何でしょうか。

 それは、まず「予期せず命を授かったこと」です。乙女マリアは胎内に子を宿し、親類のエリザベトも、高齢でしたが、身ごもっていました。主は小さき者や、自分の小ささを知る者に、素晴らしいことを行われ、人生の中に神のための大きな場所を与えられます。主は、ご自分に信頼する者に慈しみを与えられ、謙遜な者たちを高く上げられます。マリアが神を称えるのは、このためです。

 ここで問いましょう。私たちは、「神を賛美すること」を忘れていないでしょうか。神が私たちのためにされた偉大なことに、感謝しているでしょうか。神が与えてくださる毎日に、神が私たちを愛し、赦してくださることに、神の優しさに対して、感謝しているでしょうか。

 まだあります。神が、私たちに聖母を与えてくださったことに、私たちの人生の途上で出会わせてくださる兄弟姉妹たちのために、私たちに天国を開いてくださったことに、感謝していますか。私たちは、これらのことのために、神に感謝し、神を賛美しているでしょうか。

 もし、私たちがこれらの善を忘れるなら、心は縮んでしまいます。しかし、マリアのように、主がなさった偉大なことを思い出すなら、そして、一日に少なくとも一回は神を賛美するなら、私たちは大きな一歩をしるした、と言ってよいでしょう。

 一日一回、「主を賛美します」、「主は讃えられますように」という、小さな賛美の祈りを唱えましょう。これは神を称えることです。この小さな祈りによって、心は広がり、喜びは豊かになるでしょう。眼差しを天に、神に向かって上げ、「ありがとうございます」と感謝することで、毎日を始める恵みを、天国の扉である聖母に願いましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2020年8月15日