*待つことに障害となるもの
教皇は続けて、「待つ」ことの障害となるものを2つ挙げられた。
1つ目は「内なる生活の軽視」であり、それによって「疲労」が「驚き」に取って代わり、「苦い思い」が「感謝」の影を覆い隠してしまう、と指摘。 2 つ目は、「スピード、行動主義、目先の満足の追求を特徴とする世俗的なライフスタイルに適応すること」とされた。
そして、「このような今の世界の状況、”異教の時代”において、『待つ』ことは、スピードを緩める強い意志が必要になる。『沈黙』が失われたところで『待つ』ことは容易ではありません。なぜなら、それには健全な受動的な姿勢、自分のペースを緩める勇気、活動に圧倒されない勇気、神の行動のために自分の中に余地を作る勇気が求められるからです」と説かれた。
また「待つ」ためには、「失われた恩寵を取り戻すこと、つまり、熱烈な『内なる生活』を通じて、礼拝と祈りと聖霊によって養われる、喜びに満ちた謙虚さ、沈黙の感謝の精神に戻ることが必要です。神への憧れが再び目覚めるように」と語られた。
教皇は続けて、「世俗の精神が、私たちの教会共同体、教会生活、そして私たちの個人的な歩みに入ってこないようにしなければ、私たちが実を結ぶことはありません」と注意され、「待つ」精神を養うよう呼びかけ、 「祈りと日々の(主に対する)忠実さによって成熟することで、『待つ』ことは、私たちを『効率性の神話』『人目に付く行為への強迫観念』、そして何よりも『神を pigeonholing(棚上げする)』振る舞いから解放します。なぜなら神は常に予測できない方法で、私たちが選ぶか、選ばないかに関係なく、お現われになるからです」と説かれた。
最後に教皇は、「 シメオンに倣い、私たちも、新しさと驚きの神である御子を迎えに行きましょう。 主を迎えることで、過去は未来に開かれ、私たちの中にある古いものが、主が目覚めさせた新しいものに向かって開かれるのです」とされ、 「私たちも休むことなく、シメオンとアンナのように、聖霊によって動かされましょう。 彼らのように、未来に期待を持って生き、内面の生活を守り、福音に従って生きるなら、私たちは人生の光であり希望であるイエスを抱くことができるでしょう」と語られて説教を締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)