☩「自分は、キリストのように世俗的関心から自由か、それとも囚われているのか?」教皇、年間第十主日の正午の祈りで

(2024.6.9 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)

 教皇フランシスコは9日、年間第十主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれた福音(マルコ3章20-35節)を取り上げ、「イエスの自由」について考察され、信者たちに対して、「金銭、権力、外見から自由なイエスから学ぶように」と強く促された。

(バチカン放送)

 教皇の説教の要旨は次のとおり。

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 今日のミサで読まれた福音は、イエスが公生活を始めてから、二種類の人々の反応と直面することになった、と語っています。イエスが「気が変になっている」と心配しる身内の人たち、そして、イエスが悪霊に取りつかれて行動していると非難する律法学者たちです。

 実際には、イエスは聖霊の力によって説教し、病人を癒しておられました。まさに聖霊こそが、イエスに神的な自由、すなわち際限なく無条件で愛し奉仕しする力をもたらしていたのです。このイエスの自由について考察してみましょう。

 イエスは富の前で自由でした。貧しく不安定な生活を選び、故郷ナザレの安定した生活を捨てました( マタイ福音書6章25-34節参照)。そして、病者や助けを求める人皆を無償で癒し、報酬を求めませんでした(同10章8節参照)。

 イエスは権力の前で自由でした。多くの人にご自分についてくるように、と促しながら、誰にも強制することはされません。権力者の支援を求めることも決してなさいませんでした。イエスは常に貧しい人々の側に立ち、弟子たちにもそうするようにと教えられました( ルカ福音書22章25-27節)。

 そしてまた、イエスは名声や他人に認められようとする欲求からも自由でした。そのために理解されず、人気を失っても、十字架上の死に至るまで、真理を述べることを恐れたりせず( マルコ福音書3章21節)。臆病にならず、他者との間で買収したり、されたりすることもありませんでした(マタイ福音書10章28節)。

 イエスは自由な人でした。このことは、私たちにとっても大切です。私たちが享楽や、権力、お金、承認の追求に振り回されるなら、そのような物事の奴隷になってしまいます。反対に、神の無条件の愛に心を開き、自分の全存在をもって、恐れも計算もなく、他者のためにも愛をあふれさせることができるなら、私たちは自由の中に成長し、自由のよい香りを広げることができるでしょう。

 自問しましょう。「私は自由な人間だろうか。それとも、お金や、権力、成功の神話に囚われ、そのために自分や他者の平和を犠牲にしているだろうか」「自分が暮らし、働く場所に、自由で誠実で自然な、さわやかな空気を振りまいているだろうか」と。

 おとめマリアよ、イエスが教えられたように、私たちが神の子としての自由のうちに、生き、愛することができるよう、お助けください(ローマの信徒への手紙8章15節、20-23節)。

(編集「カトリック・あい」)

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2024年6月9日