☩「主は、祈りと実践を通して信仰を生きるよう私たちに求めておられる」教皇、年間第22主日に

(2024.9.1  Vatican News)

 教皇フランシスコは1日、年間第22主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書のイエスとファリサイ派、律法学者たちとの問答の箇所を取り上げ、神は私たちに、外面的な行為でなく、慈愛、愛、優しさなど内面的な態度を培うように求めておられる、と説かれた。

 教皇は、この福音書の箇所で、弟子たちに手を洗う清めの儀式を行わずに食物を食べさせた、として律法学者やパリサイ派の人々が非難し、イエスがそれにお答えになった場面について、「主は清めの重要性について語られましたが、それは外面的な儀式ではなく、何よりも内面的な性質についてでした」とされ、「貪欲、嫉妬、傲慢、欺瞞、窃盗、中傷などの邪悪な考えを心に残しながら、手を何度も洗うという行為の矛盾を、イエスは指摘しておられます」と語られた。

 さらに、 「イエスは、善良さを育むことのない”儀式主義”に注意するよう呼びかけておられます。この”儀式主義”は、自分自身や他人に対して、慈愛に反する選択や態度を無視したり、正当化したりすることさえあり、魂を傷つけ、心を閉ざすことになります」と注意された。

 そして、外見でなく、内面の清さという概念が、私たち皆にとっていかに重要であるかを強調され、「ミサに出席しながら、他人の噂話や慈愛の欠如にふけることはできません。噂話は心と魂を台無しにするので、そのような行為を許してはなりません」、さらに、「祈りの中で信心深さを示しながら、帰宅した後で家族に対して冷たく接したり、無関心であったり、あるいは、助けや寄り添いを必要としている年老いた両親を無視したりすることもあってはなりません」と強調。

 「こうした振る舞いは『二重生活』であり、許してはならない。他者に対する、善良さや慈しみ深さを欠いた”外面的な清さ”は偽物です。なぜなら、それは、神との関係を外面的なジェスチャーに限定し、内面では神の恵みの浄化作用が浸透しないままであり、思考、言葉、行為に『愛』が欠けているからです」と説かれた。

 そのうえで教皇は、「自身の生活と、教会内外の場で、一貫して同じ心をもって信仰を生きているか」に目を向けるよう勧められ、「自分が考え、言うこと、行うことには、同じ心が反映されているでしょうか?」「祈りの中で語ることを、兄弟姉妹への寄り添いと尊敬の気持ちをもって、具体的な行為にしようと努めようとしているでしょうか」と信者たちに問いかけられた。

 教皇は説教の最後に、「私たちの日々の生活の中で、心からの実践的な愛をもって、神がお喜びになる祈りを捧げることができるよう、助けてくださいますように」と聖母マリアに願われた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2024年9月1日