◎新教皇連続講話「聖霊と花嫁」②「聖霊は私たちを真に自由にする」

  (2024.6.5 バチカン放送)

 教皇の講話の要旨次の通り。

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 今日の講話では、聖霊が聖書の中で呼ばれている名前について考えてみたいと思います。

 私たちがある人物について最初に知ること、それは名前です。それによってその人を呼び、認識し、記憶します。聖三位一体の三番目のペルソナも名前を持っています―聖霊です。しかし、聖霊を指す「スピリトゥス」という呼び方はラテン語化されたものです。最初に聖霊を啓示された人々が知った名前、預言者や、詩編作者、マリア、イエス、使徒たちが呼び祈った名前、それは風や息を意味する「ルーアハ」という名でした。

 聖書において、名前はその人物と同化されるほど重要なものでした。神の名を聖なるものとすることは、神ご自身を聖なるものとし、敬うことでした。名前は単に一般的な呼称ではなく、常に個人的な何か、その起源や、使命を物語っています。「ルーアハ」も同様に、聖霊のペルソナの本質を啓示し、その役割を示しているのです。

 聖書を記した人々が神に導かれ「風」の様々な性質を発見したのは、まさに風とその現象を観察することによってであった。聖霊降臨の際、聖霊が「激しい風が吹いてくるような音」を伴い、使徒たちの上に降りてきたのは偶然ではなかった。あたかも聖霊がそこで起きていることに、ご自分の名を記すかのようでした。

 ところで、聖霊の「ルーアハ」という名の意味するものは何でしょう。風のイメージは、何よりも神の霊の力を表現するのに用いられています。「聖霊と力」、あるいは「聖霊の力」という表現にあるように、聖霊と力は、聖書全体を通して対になっています。風は圧倒的で抑えがたい力であり、それは海をも揺さぶる力なのです。

 しかし、この場合も、聖書的な完全な意味を知るためには、旧約聖書にとどまらず、イエスにまで到達しなくてはなりません。イエスは風について「力」の他に、もう一つの性質を付け加えておられます。それは、風の「自由」という性質である。イエスは夜訪ねて来たニコデモに、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3章8節)と語られました。

 風は、捕まえて瓶や箱に詰め込むことができません。聖霊も、概念や定義の中に閉じ込めることは、それを失うか、人的な霊に縮小してしまうことになります。教会の中にも、聖霊を教会法や制度や定義の中に閉じ込めようとする誘惑があります。聖霊は組織を作り、活気づけますが、聖霊自体を組織化することはできません。風は「思いのままに」吹くように、聖霊はご自分の賜物を「望むままに」分け与えられるのです(コリントの信徒への手紙1・12章11節参照)。

 聖パウロは、キリスト者の行動の本質的な掟のために全力を尽くしました。聖パウロは言います―「主の霊のあるところには自由があります」(コリントの信徒への手紙2・3章17節)。

 ここでパウロが言っている「自由」とは、一般に考えられている自由とはまったく異なる、特別な自由です。「自分の望むままに振舞う自由」ではなく、「神が望まれることを自由に行うための自由」です。「善か悪かを行う自由」ではなく、「善を行う自由」、「善を強制ではなく、魅力によって自由に行うための自由」です。別の言い方をすれば、それは「奴隷ではなく、子の自由」なのです。

 パウロはこの自由が悪用されたり、誤解される危険をよく自覚していました。彼はガラテヤの信徒への手紙にこう記しています―「兄弟たち、あなたがたは、自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい」(5章13節)。

 エゴイズムの自由さではなく、聖霊の自由さを、どこから汲み取ったらよいのでしょうか。その答えはイエスの言葉の中にあります―「もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる」(ヨハネ福音書 8章36節)。イエスに、聖霊を通して真に自由な者にしていただけるよう祈りましょう。愛と喜びのうちに奉仕するための自由を祈り求めましょう。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用は「聖書協会・共同訳」による)

(以下翻訳中)

The freedom of the Holy Spirit

But “to discover the full meaning of the realities of the Bible,” the Pope continued, it is necessary to go beyond the Old Testament “and come to Jesus,” who emphasizes the freedom of the Spirit: “The wind blows where it wishes, and you hear its sound, but you do not know where it comes from or where it goes. So it is with everyone who is born of the Spirit.”

Like the wind, that cannot “be bridled, ‘bottled up,’ or put in a box, the Holy Spirit cannot be reduced to “concepts, definitions, theses, or treatises,” nor enclosed within “canons, institutions, or definitions.” The Spirit “creates and animates institutions, but cannot be ‘institutionalized’,” the Pope said.

Freedom to serve

At the same time, Pope Francis said, the freedom of the Spirit is not “a freedom to do what one wants, but the freedom to freely do what God wants!” This, he explained, “is a freedom that expresses itself in service, which appears to be the opposite, but is

Following St Paul, who exhorts Christians not to allow their freedom to become a pretext for the flesh, Pope Francis denounced the false freedom “that allows the rich to exploit the poor, the strong to exploit the weak, and everyone to exploit the environment with impunity.”

Pope Francis concluded his address by pointing out that the true freedom of the Spirit must come from Jesus, and inviting everyone to pray that, Jesus might make us “through His Holy Spirit, truly free men and women.”

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2024年6月5日