◎教皇連続講話・聖パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」⑮最終回「聖霊の導きで歩むことは私たちを自由にする」

(2021.11.10 カトリック・あい)

 教皇フランシスコがこれまで14回にわたって続けて来られた水曜一般謁見での聖パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」をもとにした連続講話が10日、最終回を迎えた。以下、バチカン広報が発表した講話原稿の全文。

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 私の「ガラテヤの信徒への手紙」をもとにした連続講話は、今日で最後となりました。この聖パウロの手紙を通して、私たちは多くのことについて深く考えることができたのではないでしょうか。神の言葉は尽きることのない泉です。そして、パウロはこの手紙を通して、福音宣教者として、神学者として、そして司牧者として、私たちに語りかけてきました。

 アンティオキア司教の聖イグナチオ(70‐107A.D.)は、素晴らしい表現で次のように書いていますー「一人の師がいる。彼は語った、そして成し遂げられた。彼が沈黙のうちにしたことでさえも、御父にふさわしい。イエスの言葉を持つ者は、まことに、彼の深い静寂でさえも、聴くことができるのだ」。

 使徒パウロは、この神の沈黙に対して、声をかけることができた、と言うことができます。彼の最も独創的な直感は、イエス・キリストの啓示に含まれる衝撃的な新しさを発見するのに役立ちます。彼は真の神学者であり、キリストの謎を熟考し、創造的な知性でそれを伝えました。そしてまた、方向を見失い、混乱した教会共同体に対して司牧の使命を果たしました。

 皮肉、堅さ、優しさをもって、様々な方法を用い… 使徒としての自身の権威を明らかにしましたが、同時に自分の性格の弱点を隠すこともしませんでした。聖霊の力を受け、復活したキリストとの出会いが人生を変え、人生を完全に福音宣教に捧げました。それがパウロです。

 パウロは、厳しさを欠いた穏やかな言葉でキリスト教の信仰を受け止めたことは決してありませんでした。強い情熱をもって、キリストがもたらした自由を守りました。そのために彼が耐えた苦しみと孤独を考えると、私たちの心は動かされます。彼だけが応えられる呼びかけを受け、ガラテヤの信徒たちに、彼らもその自由ー古い約束の相続人、そしてキリストにおいて神の子とされたことで、奴隷状態から解放される自由ーに呼ばれていることを説明したいと望んだのです。

 また、この自由の概念がもたらすリスクも承知しており、自由が必然的にもたらす結果を過小評価することはありませんでした。キリスト教徒の自由がもたらすリスクを承知していましたが、その結果を最小限に抑えることはしませんでした。

 ”Parrhesia(パレーシア=包み隠さず話すこと)”、つまり勇気を持って、信徒たちに、自由は決して不節制と同等の行為ではなく、それが無遠慮な独行につながることもない、と繰り返し説きました。パウロは自由を愛の影の中に置き、その一貫した運動を慈善の奉仕の上に置きました。この全体的なビジョンは、神からイスラエルに与えられた律法を成就し、罪の奴隷に陥ることを防ぐ聖霊による、人生のパノラマの中に設定されました。

 しかし、いつも後戻りする誘惑がありますね?聖書にあるキリスト教徒の定義の1つは、「私たちキリスト教徒は、後戻りする、引き返すタイプの人々ではない」ということです。これは素晴らしい定義です。そして、誘惑は、もっと安全になるように引き返そうとすること、聖霊の導きによる新たな命を無視し、律法に逆行すること。パウロが私たちに教えているのは、真の律法の成就は、イエスによって私たちに与えられた聖霊に導かれた命に見出されます。そして、この聖霊に導かれた命は自由の中でのみ生きることができます。キリスト教の自由。これは最も素晴らしいものの1つなのです。

 聖パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」をもとにした講話の”旅”の終わりにあたって、私たちの中には二重の感情が生まれる可能性があるように、私には思えます。ひとつは、パウロの教えは私たちに熱意を起こします。「聖霊の導きに従って歩む」という自由の道を即座にたどることに惹かれているのを感じます。聖霊の導きに従って歩むことは、いつも私たちを自由にします。

 ですが、その一方で、私たちは限界を知っています。なぜなら、聖霊に素直に従うことが、その助けとなる働きに身を委ねることが、どれほど難しいかを日々感じているからです。そうして、倦怠感を覚え、熱意をさましてしまう。世俗的なライフスタイルを基準にして落胆し、脆弱になり、時には疎外されていると感じます。

 聖アウグスティヌスは、福音書のガリラヤ湖でイエスの弟子たちが乗った舟が嵐に遭う箇所を取り上げて、この状況の置かれたら、どのように対応すべきか述べています。「あなたの心の中にあるキリストの信仰は、舟に乗っておられるキリストのようだ。あなたは侮辱され、疲れ果て、動揺し、そしてキリストは眠っておられる。キリストを起こし、あなたの信仰を奮い立たせなさい!船が大揺れしている時でさえも、何か出来るはずです。あなたの信仰を呼び起こしなさい。キリストは目を覚まし、あなたに話しかけます…。だから、キリストを起こしなさい… あなたが言われたことを信じなさい。そうすれば、あなたの心は途方もなく穏やかになるでしょう」((Sermon 63)。

 ここで聖アウグスティヌスは、困難な時というのは、嵐の中で舟に乗っているようなものだ、と言っています。それで、弟子たちはどうしたでしょう?イエスを起こしました。眠っておられるイエスを起こしなさい。あなたは嵐の中にいますが、イエスがおられます。イエスを起こすことは、私たちが大変な状況にある時にできる唯一のことです。

 私たちの中におられ、舟の時のように眠っておられるイエスを起こしなさい。弟子たちがしたことと、全く同じでの心の中のおられるでキリストを起こさねばなりません、そうすることで、私たちは、”嵐”を超越したイエスの目で物事を見つめることができるのです。その落ちついた澄んだ眼差しを通して、私たち自身の力ではできないような広々とした眺めを見ることができるのです。

 この挑戦的でありながら魅惑的な「ガラテヤの信徒への手紙」の旅の中で、聖パウロは私たちに、善を行うことに倦むことはできない、ということを思い起こさせてくれますー「たゆまず善を行ないましょう」(6章9節)。

 聖霊がいつも弱い私たちを助け、必要な支えをくださることを信じねばなりません。ですから、もっと頻繁に聖霊を呼び覚ますことを学びましょう!

 「それで、父よ、聖霊はどのようにして呼び覚まされるのですか?私は、私たちの父と共に、父に対してどう祈ればいいか、知っています。聖母マリアと共に、マリアに対してどう祈ればいいか、知っています。聖痕への祈りと共に、イエスにどう祈ればいいか、知っています。では、聖霊に対して… 聖霊に対しての祈りはどうなのでしょうか?」

 聖霊への祈りは自然に出て来るものーあなたの心から出てくる必要があります。カギとなるのは、このような祈りですー「来て、来てください」。でも、あなたはそれを自分自身の言葉でで口に出さねばなりませんー来てください、困難に遭っているので、暗闇の中にいるので、来てください。どうしたらいいか分からないので、来てください。倒れそうなので、来てください。来て。来てーこれが聖霊の言葉、聖霊を呼び求める祈りです。

 聖霊を頻繁に呼び覚ますことを学びましょう。一日の生活のさまざまな瞬間に、簡単な言葉ですることができます。そして、おそらく私たちのポケットにある福音書の中で、教会で祈られる「聖霊の続唱」の美しい祈りを皆で唱えることができます。それは、「聖霊来てください。あなたの光の輝きで、私たちを照らしください / 貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方/ やさしい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ…来てください…」とさらに続く、とても美しい祈りです。

 しかし、あなたが祈りを知っていれば、あるいは祈りが見つからないとき、祈りのポイントは「来てください」です。聖母マリアと使徒たちがキリストが昇天された日々の間、祈ったように。彼らは、”上の部屋”で自分たちだけで願っていましたー来てください、つまり聖霊が来てくれるように、と。

 頻繁に祈るのがいいでしょう。「聖霊来てください」。そして、聖霊がおられることで、私たちは自分たちの自由を守ります。私たちは自由、自由なキリスト教徒であり、悪い意味で過去に縛られず、​​慣習に鎖でつながれていません。キリスト教徒の自由は、私たちを成長させます。「聖霊来てください」という祈りは、私たちが聖霊のうちに、喜びのうちに、歩むのを助けてくれるでしょう。なぜなら、聖霊が来るとき、喜び、真の喜びが来るからです。主があなたを祝福してくださいますように。ありがとうございました。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2021年11月10日