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(2024.5.15 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコは15日、水曜恒例の一般謁見で「悪徳と美徳」をテーマとする連続講話を続けられた。今回は「神的美徳」の中で「慈愛」を取り上げ、神的美徳は「神から来て神に向けられ、私たちが神を愛すること…そして神が隣人を愛するように隣人を愛することを可能にします」と語られた。
この日の講話を、教皇は、新約聖書のコリントの信徒への手紙1・13章13節「信仰、希望、愛の中で最も大いなるものは、愛です」という聖パウロの言葉から考察を始められた。
「この言葉は、聖体祭儀においても分裂と争いに苦しんでいたコリントのキリスト教徒に向けられたものでした」とされ、「今となっては誰にも分かりませんが、おそらく当時のコリントの教会共同体では、誰も『自分が罪を犯している」とは思っていなかったでしょう。 そうだとしたら、彼らは自分たちの争いに対するパウロの非難を『理解できない』と思ったかもしれません」と述べられた。
そして、「彼らは『自分たちは、善良で愛情深い人間だ』と思っていたかもしれませんが、パウロは、神から来る真の慈愛を取り上げました。パウロは、現在の私たちと同じように、コリントの信徒たちの間でも混乱が生じており、神的美徳、神から私たちにもたらされる美徳のしるしが実際には存在しないのではないか、という疑念がありました」と述べた。
続けて教皇は、「キリスト教徒にも、あらゆる人たちと同じように、ロマンチックな愛、友人への愛、国への愛、人類への愛など、世界のあらゆる形の愛を持つことができます。しかし、もっと大きな愛は、神から来て神に向けられ、それによって私たちが神を愛し、神のように隣人を愛することができるようになるのです」とされ、「これが、『慈愛』の美徳であり、それによって私たちは友人や家族を愛するだけでなく、愛するのが難しい人々さえも愛することができるようになります。それは神から来るものであり、私たちの内にある聖霊の働きだからです」と説かれた。
さらに、教皇は山上の説教を思い起されて、イエスが「慈愛」の名を借りた神的愛を明らかにされた、と述べたうえで、「 それは実践が難しい美徳であり、私たちが神のうちに生きていなければ不可能なことですらあります。しかし、人間の心の通常の愛や愛情を超えて、キリスト教の愛は、愛せないものを受け入れ、赦しを与え、呪う人々を祝福します… それはほとんど不可能に思えるほど熱烈な愛ですが、それでも私たちに残る唯一のものなのです」と強調。
説教の最後に、「私たちは最後の瞬間に、一般的な愛によって裁かれるのではなく、まさに慈愛によって裁かれることになります」と語られ、イエスの言葉を引用して次のように締めくくられた― 「よく言っておく、この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」(マタイ福音書25章40節)。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」による)