教皇はまた、「悲痛がもつ強力さは、喪失感と関連しています。喪失感には落胆、気弱、憂鬱、苦悩が伴うことが多い」とされ、 「私たちは皆、心の中に悲しみが生み出される試練に遭います。人生において夢が打ち砕かれることを思い起こさせるからです。そうした試練に遭って、憂鬱や悲しみを乗り越えられない人もいれば、立ち直ることのできる人もいるのです」と指摘。
悲痛の中にある人々に対して、イエスの復活から慰めを受けるように勧められ、 「悲しみを長引かせることは、もういない人への虚しさを膨らませ続けるものであり、聖霊における生活にふさわしくありません… 健康的ではなく、私たちのキリスト教徒としての在り方にもふさわしくない」と強調された。
さらに教皇は、誰の過去にも癒す必要があるものがあり、悲しみは自然なものであることを認めながらも、それが「邪悪で危険なものに変わる可能性があります」と警告される一方、「キリストの復活の思いを心に留めておけば、そうした邪悪な者に容易に対抗できます… 悲しみは容易に克服できます」 と語られた。
そして、「人生で、逆境に遭い、欲望が挫折し、夢が果たせず、友情が失われたとしても、イエスが復活されたことで、私たちは皆救われると信じることができるのです」とされ、「イエスはご自身のためだけでなく、私たちの人生で満たされなかったすべての幸福を“請け出し”てくださるために、よみがえられたのです」と強調された。
最後に、 「信仰は恐れを追い出し、キリストの復活は墓を塞ぐ石を取り除くように、私たちの悲しみを取り除いてくれます」とされた教皇は、「キリスト教徒の日々は、『復活の訓練』です」と語られ、「復活したイエスの霊が、私たちが神聖さをもって悲しみに打ち勝つのを助けてくださるように」との祈りで講話を締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)d in our lives.”