◎教皇連続講話「使徒的熱意について」㉘聖霊は私たちの活動の源泉

 (2023.12.6  バチカン放送)

 教皇フランシスコは6日の水曜恒例の一般謁見で、「使徒的熱意について」をテーマとする連続講話を続けられ、今回は、「聖霊が使徒的熱意の源」であることを中心にお話しになった。このテーマの連続講話は今回で終了となる。

 謁見の冒頭で、教皇は参加者に挨拶された後、ご自身の呼吸器の炎症について、「ずいぶん良くなりましたが、まだ長く話すと疲れるので、講話の内容については国務省のフィリッポ・チャンパネッリ師の代読にお任せします」と説明された。

 講話の要旨は次の通り。

 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

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 「使徒的熱意について」をテーマに続けて来た連続講話で私たちは、福音の告知とは「喜び」、「皆のため」「今日のためのもの」であることを学びました。今日はもう一つの本質的要素「福音宣教は聖霊を通して行われる」という点に注目しながら、このシリーズの考察を終えましょう。

 事実、「神を伝える」には、喜びにあふれた信頼することのできる証しと、福音の告知の普遍性、メッセージの今日性だけでは十分でありません。聖霊なしでは、あらゆる情熱も無駄であり、また使徒的とは言えません。つまり、福音宣教が自分たちだけのものに終わり、真の実りをもたらすことがないのです。

 使徒的勧告『福音の喜び』の中で、私は「イエスは最初の、最も偉大な福音宣教者である」こと、「あらゆる形の福音宣教において、第一人者は常に神である」こと、そして神は「ご自身に協力するようわたしたちを呼ばれ、聖霊の力をもってわたしたちを励まされた」ことを強調しました。聖霊の重要性がお分かりになるでしょう。聖霊は福音宣教の主役であり、常に宣教者に先立ち、実りのために芽吹かせる。教会はその使徒的熱意において、自分自身ではなく、恵みを告げるのであり、聖霊こそがまさに「神の賜物」であることを思い出しましょう。

 聖霊の主役だからといって、私たちが怠けることがあってはならない。種が自分で成長するからといって、畑の世話が要らない、というわけではありません。イエスは昇天される前に、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、[…]地の果てに至るまで、私の証人となる」(使徒言行録1章8節)と言われました。聖霊がもたらす大胆な行動力は、聖霊の持つ二つの性質、「創造性」と「単純さ」というスタイルを私たちに取らせます。

 イエスを、「喜び」をもって、「すべての人」に、「今日の世界」で伝えるための、「創造性」について考えましょう。人生を宗教的な眼差しで見つめるための助けがなく、様々な場所で福音宣教が困難になったこの時代、司牧をあきらめようとする誘惑も生まれかねません。

 これに対し、司牧的な創造性、聖霊における大胆さ、燃える宣教精神は、神に対する忠実のしるしです。それゆえ、私は以前、このように記しました-「イエス・キリストは、私たちがそこにイエスを閉じ込めようとするつまらない枠を打ち壊し、その絶え間ない神なる創造性をもって、私たちを驚嘆させます。私たちが源泉に立ち返り、福音本来の新鮮さを取り戻そうとするたびに、今日の世界のための、新しい道、創造的な方法、別の表現の形、雄弁なしるし、新しい意味に満ちたことばが現れてくるのです」(「福音の喜び」11項)。

 次に、聖霊の持つもう一つに性質、「単純さ」について考えたいと思います。それは、まさに聖霊が私たちを「最初の告知」へと送り出すからです。実際、「聖霊の火が、私たちにイエス・キリストを信じさせ、イエスの死と復活を通して、御父の限りないいつくしみを啓示する」のです(同164項)。

 これが「福音宣教の活動と教会のあらゆる刷新の意志の中心を占めるべき」、「最初の告知」です。「イエス・キリストはあなたを愛している。イエスはあなたを救うためにご自分の命を差し出された。今、イエスは生きておられ、あなたを照らし、強め、自由にするために、毎日あなたのそばにおられる」(同164項)。

 聖霊に引き寄せられるがままに、聖霊を毎日祈り求めましょう-「聖霊が私たちの生活と活動の源泉、出発点であるように」と。聖霊は教会を生き生きとさせ、若返らせる。聖霊と共にあるなら、恐れることはありません。聖霊は「調和」であり、創造性と単純さを共に保ち、交わりを生み出し、宣教に送り出し、多様性に開かせ、一致に再び導くからです。聖霊は私たちの力、われわれの福音宣教の息吹き、使徒的熱心の源です。聖霊、来てください!

(編集「カトリック・あい」)

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2023年12月6日