(2013.11.22 バチカン放送)
教皇フランシスコは22日の水曜恒例一般謁見で、「使徒的熱意について」をテーマとする連続講話を続けられ、今回は、イエスの福音は「皆のため」にある、という視点から語られた。
講話の要旨は以下の通り。
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前回は、キリスト教的告知とは「喜び」だ、ということを考察しました。今日は福音宣教の二つ目の特徴、福音は「皆のため」にある、という点を考得たいと思います。
主イエスと真に出会う時、その出会いの驚きは、私たちの人生を満たし、自分たちの外にそれをもたらしたくなります。イエスの福音は「皆のために」-これがイエスが望まれることです。キリストは「皆のために」生まれ、死に、復活されたがゆえに、イエスの福音はすべての人に向けられた、人生を完成させる力を持っているのです。
私は使徒的勧告「福音の喜び」で、こう申し上げました-「すべての人に福音を受け取る権利があります。キリスト者は誰も除外することなく、それを告げる義務があります」(14項)。兄弟姉妹たち、すべての人に向けられた福音への奉仕を感じ、自分自身から抜け出し、あらゆる境界を超える力を見いだしましょう。キリスト者は、聖堂の香部屋よりも、教会の前庭にいて、「町の広場や路地に出ていく」(ルカ福音書14章21節)のです。キリスト者は開かれ、外に向かう性質を持っているはずです。この性質は、すべての人と出会うために、時にはある種の出会いから学びつつ、歩み続けたイエスから来るものです。
このような意味で、福音は、イエスと異邦人であるカナンの女との驚くべき出会いを伝えています。カナンの女は病気の娘を癒して欲しい、とイエスに嘆願しました(マタイ福音書15章21-28節参照)。イエスは「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」、「子どもたちのパンを取って小犬たち投げてやるのはよくない」と答えられましたが、カナンの女は、「でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」と言いました。その言葉に胸を打たれたイエスは、「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」とお答えになりました。
イエスとカナンの女のこの出会いは、特別な意味を持っています。イエスの考えを変えさせただけではありません。イエスの対話の相手は、一人の女性、異邦人、異教徒です。主はここで、ご自分の説教は、ご自身が属する民だけでなく、すべての人に開かれたものでなくてはならない、と確信されるのです。
聖書で、神が誰かを召される時や、神がある人々と契約を結ぶ時、常に、ある決まりがあります。それは「他の人々に伝えるために、誰かを選ぶ」こと。主の友だちは、素晴らしい体験を得ると同時に、主から選ばれたことに対する責任と重荷を感じます。誰もが自分の弱さのために、あるいは安定を失うことに落胆を感じますが、最も大きな誘惑は、自分が受けた「召し出し」を一つの特権のように考えることです。召し出しは特権ではなく、奉仕のためのものです。神は皆を愛され、すべての人にそれを届けるために、誰かを選びます。
また、キリスト教を、ある文化、民族、制度と、同一視する誘惑を避ける必要があります。誘惑に負けることで、真のカトリック性、すなわち普遍性を失ってしまうからです。皆を愛するために、神が誰かを選ばれることを忘れてはなりません。この普遍的な視野を持ちましょう。福音は、私だけのものではなく、「皆のもの」だ、ということを忘れないようにしましょう。
(編集「カトリック・あい」=聖書の翻訳は「聖書協会・共同訳」を使用)